
斯界の道の後輩の娘さんの差料の拵が
仕上がって来たとのことだ。
金具は全て時代物だ。シトドメは時代物
の金無垢。
元から着せられていた時代物拵は保存用
にして、同じ鞘塗り、似た方向性の柄前
で新たに製作した。
まだ初段の女の子だ。
しかし、自分の差料であるので絶対に妥協
はしたくはない、との事で、無銘古刀に
着せる拵には全て時代物の本物の金具を
用いて、きちんとした刀屋さんを通して
外装を製作して貰ったらしい。
年若く大学を出たばかりだが、自活して
いる。
己の意志で、この拵の構想を練り、刀屋
さんとも直に会って相談し、金具を揃え、
拵製作に臨んだ。
先達たちの助言を踏まえながら、すべて、
自分で決している。
これ、即ち武士の心なりけり。
武士には男子も女子も老いも若きもない。
武士は、魂の在りかが根っから武士であ
る。
武用刀であるので、工具の如く道具として
扱う人も多い中、ある信念を感じる。
それで居相抜刀術の稽古をするのである
から、金具についてはアラモノのレプリカ
の似せ物でもよいとする意見も現代では
存在する。
しかし、たばさむは真剣時代刀の差料だ。
私の場合は、試斬武用刀も刀術用も鑑賞
専用も、すべて金具は時代物を使って拵
を作ってもらっている。
理由は、使う金具はそれが本物であり、
「本歌」と呼ばれる実物であるからだ。
本物の刀に既製品量産レプリカを着せる
つもりは、私は無い。
鞘、柄巻き、鎺(はばき)のみは実用的見地
から現代新作あつらえ一品物だ。
下緒は長曾祢虎徹の時代から江戸にある
上野池之端の組紐屋道明の下緒を愛する。
そして、金具合わせには、そこに一つの
物語を設定して、ちぐはぐにならないよう
にしている。
鍔、縁、頭、目貫、切羽、しとどめ。
それらが一体となってまるで能の演目の
ような物語になるように金具をこつこつ
と自分で勉強しながら揃えて行く。
元来、常時触れるのは鍔の固定部分のみ
の刀法を私は使う。縁に指が触れるような
刀の握り方は私がやる流派では用いない。
装着金具はほぼ傷まない。
鍔についても、私は鯉口を切る抜刀時には
「内切り」を用いるので親指掛け法では
鯉口を切らない。指掛けは歩行時のみだ。
私もまた、使う刀は己の「差料」である
ので、金具は時代物本歌を着けている。
見栄やはったりなどではない。
刀身に対する一つの礼儀のような感覚で
それを成している。
そして演武の際には、いにしえの刀身を
鍛えし刀鍛冶、研いでくれた研師、金具を
作った金工師、鍔師、鞘師、塗師(ぬし)、
柄巻き師、組紐師、そして刀身を現世まで
残してくれた過去の幾多の見知らぬ持ち
主たち、それらの人々をすべて背負って
刀を抜くように心掛けている。それら、
見知らぬ時空を超えたこの一刀に関わって
来た人たち全てに対して恥ずかしくない
業を抜こうと、ただの一刀でさえ、私は
思って刀を抜く。
刀は人を現す、とは武士の時代である江戸
時代から巷間よく言われて来た事だ。
刀身を抜刀せずとも、刀の外装を見れば、
その人となりが人には看破されて来た。
刀は士(さむらい)の分身であり、魂だから
だ。
刀は確かに一理としては道具ではある。
しかし、武門にある武士の表道具なのだ。
士であるならば、どうして疎かになどでき
ようものか。