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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

原付2種の黄色ナンバー

2024年11月22日 | open
 

現在、新車では取得不能な
原付2種の黄色ナンバーと
いうのは、本当に貴重だ。
不確かな記憶だが、1975年
秋あたりに黄色ナンバーが
導入されたよう
な記憶があ
る。

そして、その法改正以前の
登録は同じ1975年以内の
90ccだろうと、先行的に誕
生させた125ccピンクナンバ
ーと
同じピンクナンバーだっ
た、という記憶がある。90
だろうとピンクナンバーの

時代。
私が初めて公道で1976年に
乗ったカワサキMS90は当時
は形が四角が一般的なのに珍
い台形型でかつ桁数の多い
ナンバーだったが、1学年上
の4月生まれの
イトコから譲
り受けた90バイク
のナンバー
は八王
子市ナンバーだった。
そのプ
レートはピンクだった
と記憶
している。
その後、友人が新車で原付2
種を購
入登録したら黄色ナン
バーだった
ので、「これ何?」
と尋ねた
記憶がある。
記憶なので不確かであるから
確定事項としては断言できな
いのだが、原付2種ナンバー
の黄色プレートは1975年から
後の時代にピンク制定のあと
から誕生した
のではなかった
ろうか。


新原付として低出力の125を
現行原付1種と同じ扱いにす
る新法が2025年からスタート
する。
排気量区分けが従前の概念と
は異なるので、法改正をして

新原付125(実質原付1種)は
白ナンバーのままかも知れな
い。今警察は法改正の調整
協議の大詰め段階あたりだ

ろう。新原付のナンバーの色
についてはまだ未発表だ。
たぶん、新原付は原付1種に

編入する、という趣旨で法が
まとまるのではなかろうか。
内実がそれであるので、原付
免許で125に乗れる、などと
色めき立ってぬか喜びするの
は事実誤認も甚だしい。
低出力新原付125は今の原付
1種50が排ガス規制により製
造できなくなるために便宜上
作る新制度でしかない。
中味は道交法上も全く今の
原付1種50と運行規則も性能
も変わらないのだから、新
原付125は現行原付1種の50
同一なのだ。

現行法も、原付といっても、
51cc以上の90や125は道交法
上は小型自動二輪扱いなのだ
が、運送法では原付と呼称す
るやっかいな扱い。
ただ、原付1種と2種の登録管
轄は東京特別区や政令指定都
市の区役所、地方自治体の市
町村役場となり、扱いに1種
も2種も無い。
どうにもすっきりしない錯綜
しているのが50~125までの
二輪をめぐる法律構造となっ
ている。
道路の通行についても「原付
通行禁止」場所がどの原付を
指すのか、事前に調べないと
ならない。
都内に多くある「原付通行禁
止」の陸橋やアンダーパスは
50の原付1種のみの通行を禁止
している場所が多く、51~125
で通行するのは違反ではない。
だが、場所によっては同じ「原
付通行禁止」であっても、125
までの車両の通行を禁止して
いる場所もある。
事前によく調べないと大変だ。
中には神奈川県の道路のよう
に高架部分の本線は原付1種は
通行OKだが、その本線への
進入路は原付1種は通行禁止
という摩訶不思議な道路が
ある。結果として原付1種を
締め出しているような。

乗って走る時には、「原付」
と呼ばれる黄色ナンバー、ピ
ンクナンバーの原付2種であ
っても、軽車両=自動二輪と
同じ扱いとなる。当然免許も
自動二輪免許が無いと原付の

51~125バイクには乗れない。
だが、登録上は原付という枠
に入れている、という複雑な
ダブルスタンダードの法律。
日本における戦後の新法治国
家設立
生成の過渡期の混乱が
生んだ
二本立ての別解釈法律
が並立
している、という法治
国家の
未成熟で不完全な部分
を露出
させているのが原付バ
イクを
取り巻く日本の現実だ。

走る時には道路交通法。
車両の登録等については道路
運送車両法。
その両者において排気量によ
る区分けの概念規定と呼称が
異なっているのだ。
未完成で不整合な日本の法律。
いかに民主主義法治国家とし
て未完成で未開の国であるか
がよくわかる。

将来的には法律の大改革をし
て、せめて呼称だけでも統一
したほうがいい。整合性を
得るためにも。
元々、この関係の法律は警察
が勝手に決めて立法化してい
たからこうなった。
東大卒業の官僚の縄張り意識
にがんじがらめの連中が作っ
た法律だ。
つまり、現状の現実のように
たかが知れている。精度と程
度が低い。
自己縄張り意識だけで作られ
た法に法的整合性や現実社会
の社会的適合性は存在しない。
現代交通社会の現実として、
二輪車の30km/h制限という
危険な状態を発生させている
のは時代に不適合な法律に
固執している警察の縄張り意
識が危険を増大させている。
社会通念として、それは善で
はないのだ。
法治国家としては未開の地が
日本というのがよくわかる。
日本は警察組織が統括支配し
ている警察国家だからだ。
民主主義の国ではない。
道交法や車両法は国会で内容
まで実質的に審議されるので
はない。全部警察が勝手に
作って勝手に法案通している
だけなのだ。無論国民全体の
意見を聞いたり、審議したり
はしない。御用学者たちを
学識経験者として多少忖度
意見を出させるだけだ。
そうしたやり方では、当然
にして出来た物の結果は、主
権在民の法治国家ではなく、
未開未発達の独裁者の国家と
同じになる。日本はそれ。
欧米に比較すると、やはり
とてつもなく交通社会構造
と意識が遅れているのが日
本の交通法規システムと社
会構造と国民性だ。

やはり、極東アジアの辺鄙
な田舎の島国の未開国なの
だろう。

一部の者にしか乗馬を許さ
ないため、馬車さえもあえ
て登場させなかった日本。
それどころか走る事も泳ぐ
事も禁じた。なので濠や川
に身投げしたらすぐに土座
衛門だ。江戸市中で荷車な
どで交通事故を起こしたら
死罪だった。日本はそういう
交通を一部の人間が牛耳っ
て人民を支配した国だった。
何百年も。
それゆえ交通が千数百年も
発達しなかった国の末路が
今だ。人民に対しては支配
者は「お前らは歩いていろ」
だった。

いくら明治以降近代西欧国
家の仲間入りをしようと軍
備だけ進めて多少2度ほど
戦争に勝ったからと、完全
にのぼせ上った。

内実は日本は戦前も戦後も
未開国だ。
その端的な例が、交通に関
する法律体系に戦後ずっと
現れている。
原付1種が実質性能としても

交通の流れの安全確保の面
からも、実は普通四輪と同
じ速度、同じ右折で走行する
のが実質的な現代の安全で
あるのに、あえてそれをさせ
ないのは、「お前らは歩いて
いろ」と同じく「原付などが
車と同じ速度や右折などは
おこがましい。控えおろう」
という警察の役人意識が色濃
く反映されたものであると
断じる事ができる。
全く現実の交通事情には則し
ていない70年前の法規に今
でも警察が固執するのは、
オイコラ警官根性が今でも
法の中でわずかに生きてい
る残滓があるので、それに
拘泥しているのだろう。
非現実的で、実際には非常
に運行上危険。
だが、警察は一切現実的な
交通の良化を図ろうとはし
ない。
大切なのはメンツと体面と
権威でしかないからだ。
「お巡りさんは人を助ける
人」?
真実、そうあってほしいが、
現実はそうなってはいない。
構造的に、現実的に。
末端の真面目な警察官には

何一つ罪は無い。すべては
東大卒の警察官僚がやって
いる事だ。
結局、道交法等の立法骨子
の思
想背景には、東大ヒエ
ラル
ヒーによる支配意識が
色濃く反映された法律=社
会の発展とは乖離した=を
国民に強いている、という
構造が頑強に存在している
のだ。

こうした根幹部分の指弾は

現在の自称二輪モータージ
ャーナ
リストたちは一切し
ない。

全員忖度野郎のおべっか提
灯持ちになり果てたからだ。
オール忖度メン。
だが、それはジャーナリスト
ではない。御用学者と同じ
ただの顔色伺いの太鼓持ち
でしかない。
メーカーと警察への忖度お

べっかヨイショ記事のみを
書いて売文
し糊口をしのぐ
事しかしない。

とてつもなくダサくてカッコ
悪い。








 
 
 


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