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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

三原の旧街道に見る社会学

2022年03月15日 | open


備後国三原城から北に向かう旧道。
(現在もこの姿)

いや、凄い所だ。
三原の地は戦国時代末期に城が
作られるまでは海に切り立つ山林
部からなる海岸だった。
東西北の三方を山に囲まれた場所
であるので、水軍の舟入の城とし
て築城された軍事都市だった。
明治時代に鉄道が開通するまでは
三原は「陸の孤島」だった。
海沿いに国道が開通したのは昭和
30年代の1950年代。
そして、1960年代末期まで、国道
以外は三原は上と下の画像のよう
な道しか外への通路は無かった。
明治期の鉄道敷設により、ようやく
外へ出る事ができる場所だった。
これは江戸幕府成立前後に登場し
た「新興都市」ではすべてそうだ
った事だろう。

城から北へ向かう谷合いの旧道。
かつて昭和40年代までサンショウ
ウオが生息したと戦後生まれの
地元の人から聞く。
北へも東へも西へも、こうした道
しか三原城下から外に行くには
存在しなかった。つい最近まで。


ちなみに、国道以外に東の隣り町
の尾道方面への道路が複線化の
新道開通で整備されたのは1998年
頃の事である。
それまでは尾道市まで出るのは、
海沿いの国道と1970年代登場の
バイパス以外ではこの道しか
無かった。これは戦国期からの
道。
ここを乗り合い路線バスが通って
いた。つい最近まで。


戦国末期に日本国内の統治形態
は一挙に変化した。
それは武士によって為された。
城の周辺に町を作り、人々を
集住させる。物流を促すと同時
に、人々の往来の自由は制限し、
「隔離政策」を行なう。
極端な例は徳川幕府の「入り鉄砲
に出女」だが、そうした新日本の
都市と人民統制の図は織田信長が
設計図を引いた。
隔離政策は功を奏し、人民は閉鎖
的な感性に縛られる事となった。
この人民統制統治作戦は大成功
だったが、幕府が消滅して明治
が来て、昭和、平成、令和の21
世紀となっても、地方都市人民
の人的感覚の閉鎖性、自己論理
の正当化という悪弊を残存させる
に至った。
閉じ込められた人々は、外界との
接触により目を開いて開明的に
なる事を拒み、自分たちの狭い
エリアの価値観や因習や感覚を
正義として時として横暴に振る
舞う。
日本各地の田舎の都市部にみら
れる人間的閉鎖性は、すべて
武家政権時代の人民統制政策
の残滓であると断定できる。
そして、今なお、地方人の心は
閉ざされている。
己が唯一、俺様大将である。

さらに、歪んだ「郷土愛」の
扇動が、健全な地元隆盛の道筋
とはならず、さらなる閉塞性を
排外主義を伴って謳歌されるに
至っている。
とりわけ、スポーツを利用して
そうした人の心を閉塞的で閉鎖
的な内へ向かわせようとする
潮流が厳然と存在する。
健全ではない。
そうした不健全さは、政治の場面
でも賄賂で手なずける事で中央の
言う事をきかせようと、中央政治
家に舐められて侮辱される結果
も生んでいる。金を握らせれば
黙るだろう、と踏まれた訳だ。
双方に金の授受の悪い議員が
たまたまいた、というのではなく、
その精神的土壌の根は深い。
すべては「作られた地方の意識
の閉鎖性」に依拠している。

自覚して意識的に目覚めないと、
そうした地域的な閉鎖性が呼ぶ
悪習は今後未来も何ら変わらない。





 


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