海外グランプリで初の表彰台独占!
前年1993年、世界グランプリ
250クラスでは史上初の日本
人チャンピオンが誕生した。
ヤマハの原田哲也選手だ。
そして、1990年代は日本人が
世界戦に多数のライダーが参
戦し、華々しく活躍した時代
だった。
もう30年以上も前の事になっ
てしまった。
だが、日本人の活躍は2000年
代の初頭まで続いた。
ちなみに世界選手権での最後
の250クラスチャンピオンは
2009年、日本人の青山博一選
手(ホンダ)だ。
翌年から250クラスは廃止さ
れ、600cc4stマシンが代替カ
テゴリーとなった。
ロードレースの歴史的流れと
しては、1950~60年代は英独
伊仏の選手が強く、1970年代
から日本車が世界を席巻し、
日本人もワークスとして活躍
した。日本からのエントリー
で片山敬済選手は1977年に
350クラスでプライベート参
加で世界チャンピオンになっ
ている(韓国籍だったのでエ
ントリーのみ日本から)。
そして、1970年代~1990年代
はアメリカ人が圧倒的に強か
った。
日本人の小中排気量クラスで
の活躍も1980年代から開始さ
れ、ヤマハの平忠彦選手も86
年にサンマリノで250でGP初
優勝を飾った。
たとえ1勝でも優勝という事は
世界一という事であり、それ
がどんなに困難な偉業である
事か。
1990年代は日本人が世界GP
で大活躍した。
現在はアメリカ人も日本人も
ロードレース世界選手権では
戦績を残せていない。
世界耐久選手権で昨年2024年
にルマンでフランスのヤマハ
から参戦した綿貫マイクが
クラス3位表彰台に上がった
のは特筆的な事だった。
現在スプリントのGPレースは
スペイン人とイタリア人の独
占状態になっている。
そして、世界耐久選手権の
一戦である鈴鹿8時間耐久レ
ースがことしも日本で開催
される。
過去には多くの世界グラン
プリライダーもこの真夏の
祭典に参加した。スプリン
ト世界選手権ではないGP
タイトルとは無縁のレース
であるのに。
そうしたスプリンターたち
が鈴鹿の世界耐久選手権に
スポット参戦するには多く
の意味がある。
かつて1980年代には鈴鹿に
は18万人の観客で溢れかえ
ったが、現在は多くても7万
人程しか観客がいない。
日本のプロ野球の野球場の
満員プラス2万人程。
それでも多いといえば多い
のだが、ヨーロッパ程の観
客動員数は無い。
鈴鹿8時間耐久レースは、
日本人も大勢参加するので
楽しみだ。
レーシングライダー綿貫
舞空(マイク)。
剣士でもある。抜刀斬術
も巧者だ。愛刀は戦場刀
の同田貫上野介(正真)。