渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

昔の写真に映っていたお店を探してみる

2021年09月07日 | open

昔の写真に映っていたお店を探してみる


このシリーズすごくいい。
YouTubeならではの映像だ。
こういうのがYouTubeの
本来の健全な動画投稿方法
だと感じる。



こちらも良い感じです。
古写真が撮られた“場所”を探してみる


お店探しのパート2の動画。
これ69年ではなく68年6.21の神田
カルチェラタン闘争じゃないかなぁ。
69年は1.18バリケード封鎖の東大
闘争支援神田カルチェラタンだ。
1968.6.21はブント社学同が牽引
したが、69年の時には中大明大
日大等のノンセクト
の全共闘も
神田闘争に呼応した。
なぜこの投石群衆はノーヘルなの
か。
それは、「敷石を剥がせばそこは
解放区」に集う「大衆」だった
からだ。俗にいう見学連。
セクトの人間はメットを被り、
部隊行動をする。これは「一般
大衆」の若者たちだ。



服装からして1月とは考えにくい。
また、機動隊は防戦に徹している。
それは68年夏まで。
夏以降は徹底的な攻撃的「警備」
に転じた。学生に対抗し、ガス銃
を水平撃ちし、また捕らえた学生
を盾にして投石に曝した。
逮捕時には学生だろうと市民だろ
うと半殺しだ。

この方法は20年後の1980年代末期
までずっと続いた。
ただ、こうした「街頭戦」は70年

安保以降は消滅し、千葉県三里塚
の森林台地での局地戦に移った。


センチメンタルな昔風景
ばかりじゃないのよね。
現実の東京の歴史は。
これらを私はタイムリーに
見ていた。10年遅れの子ども
だったが。10年遅れの子ども
ではあったが、大学は70年代
を2年経験している。3年次から
が80年代だ。大学関連では筑波
大支援と首都圏各大学での熾烈
な勝共原理研との闘争があった。
産学協同粉砕路線と国内の帝国
主義的体制強化に抗する闘いと
して設定していた。
大学外では主たる肉弾戦の試合
会場は三里塚だった。
68年から69年の神田のこれが
なぜカルチェラタンというかと

いうと、パリの68年の五月革命
(ソルボンヌ大学ナンテール
分校からフランス全土に拡大
した反政府闘争)の激戦区が
パリのカルチェラタンだった
から。
東京でいうなら神田駿河台
神保町あたりの文教地区が
それに該当したので、フランス
に倣っての命名。大衆による
投石戦も
フランスと一緒。
神田カルチェ・ラタン闘争
1969年1月18日


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