渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

刀を曲げてしまうということ(2015年10月15日記事 再掲)

2018年10月28日 | open

例え高段者であろうとも、あまりにも
日本刀を曲げてしまう人が多いため、
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刀を曲げてしまうということ(2015年10月15日記事 再掲)

日本刀を使用しての試斬で刀を曲げて
しまう人がいる。

空気切り刀術の高段者でも、真剣試斬
でたった畳表一枚が
切断できずに刀を
曲げることがある。

これは刀術が「下手(げて)」だから
である。その一言に尽きる。

では刀術が、「下手(へた)」とは
異なる「下手(げて)」とはどういう
ことか。

それは「解析する」力をもっていない
ということだ。

よく物事を考えずに人からの受け売り
を鵜呑みにしたり、工夫して
自得した
りすることをしない人間のことだ。
それを下手(げて)という。

総じて下手(げて)は下手(へた)が
多い。


畳表、竹などの試斬で刀を曲げる場合
は大抵は右からの左袈裟
での運刀の際
に刀を曲げることが多い。

(敵の左を袈裟掛けに斬るのが左袈裟。
これさえ取り違えている
場合、刀法以
前に論外)

それはなぜか。
理由はいくつかあるが、右から刀を
振る場合と左からの場合で右手の

きが人体の仕組み上異なるのだが、
まずこれがどうしてどうやったら

うなるかについて自己分析できてい
ない者も論外。
試斬はやめたほうが
いい。刀を壊す
か体を壊すか人を刀で傷つけたりす
るのがおちだからだ。


右からの運刀で刀が曲がりやすい理由
は何点かあれど、最大の理由は
「旧来
の教えはいつ発生したか」ということ
と「それが果たして真剣刀法と
して
正しいのか」ということへの検証の
希薄さが挙げられる。

よく云われる。「斬る瞬間に茶巾に
絞れ」と。

これは果たして真剣刀法のことである
のか。竹刀撃剣や剣道が登場して
から
のことではないのか。

こうした歴史性が曖昧模糊としたまま
現代まで「正しい」として伝えられて

何も考えずにただ墨守している刀法の
一つに「柄握り」がある。

右手と左手の柄は指2本分ほど離せ、
というのがそれだ。

では、江戸期の絵図や兵法の秘伝書
や皆伝書等を見ると、そこでは
柄が
両手がくっつくように握られている
のばかりなのは何故なのか。
(古流流派によっては広く離す流派
もあり。これはそれなりの剣理が
ある)

これについて現代剣士で明確に説明
できる人はほぼいない。

正直申しあげると、真剣刀法は「失
伝」したのだといえる。


そして、刀法の教えの一つに「茶きん
絞り」というものがある。

これは果たして正しいのか。とりわ
け内側に絞り込むようによく
教えら
れたり伝えられたりしている。
「雑巾絞りではない。茶きん絞りだ」
とも云われる。だが、指を締めこんで
行くということは空気切りや竹刀打
ちの場合はよいが、縦横無尽に自在
に緩急交えて日本刀を剣戟で振りま
わす場合はどうであるのか。本当に
「徐々に絞り込む」ということが中
心幹に来るのか。
一対一の御座敷試合ではなく、野戦で
ある戦場働きにおいてもそうした刀法
がまともであるのか。
山田流据え物斬りでは「強く握る」と
ある。また新陰流の柄手は「動かす
な」とある。
だが、一般的に現代刀法では「締め
込んで行く」とされる。

実は私の師匠はこの茶巾絞りを一切
否定する。私の師匠の師匠も否定し
ていた。

理由は「刃筋が狂うから」である。
私が習った直伝では、
師匠と師匠の
師匠の教えは、「切り手にしたら
一切動かすな」というものだ。

真っ向からの場合も、師匠の教え方
としては、「真上から丸太が落ちて
くる。
それを両手で受け止めろ。
それが切り手だ。そこから一切動か
すな。内側へ
絞りもするな」という
ものだった。
(これは柄を握り締めて動かさない
ということではない。手の内で柄は
動くが指は動かさない。いわゆる
「ひなたぐそ」と呼ばれるもので、
甲を硬く内を柔らかくして柄との
接点は可変させる。
しかし緩みもせず握り締め込みも
しない。
これの説明はかなりの分量を割か
ないと記述説明できないので、こ
こでは割愛する)

また、抜きつけの場合は可変の手
の内でないと腕振りとなり、抜刀
と同時斬撃が不能なので、このひ
なたぐそは該当しない。

真っすぐ真下の真っ向でさえこれが
あるので、まして左右の袈裟におい
て両手の指を絞り込む=握り込むな
どと
いうことをしたら刃筋はとんで
もないことになる。
物理的に現実問題としてそうなる。

それはなぜか。

図解で説明しよう。


これは私の目釘抜き用の自作小槌で
ある。

小さい物だとわずかな指の動きで
大きなアクションを示すので
判り
やすいためにこれを使用する。



まず、刃筋が通っている状態。
ふわりと柄を握り込まないように

支えるだけで「握って」いる。


腕は振らずに、その状態から小指
から徐々に締めこんでいく。


ヘッドはこれほど回る。
つまり、平の形状にある刀身の場合
刃筋が
寝てくることになる。
この状態を作りながら切り込むと
いわゆる「平打ち」
という状態に
なる。手の内を締めるだけでこれ程
刃筋は大きく動く。



では、今の状態を腕を振りながら
右からの左袈裟で実験してみる。



すでに凄く寝て来た。


袈裟に打ちこんでいく。刃筋など
もう大きく狂ってしまっている。



このまま切り込めば、完全に「平打ち」
になる。真剣日本刀の場合、
本人はこの
状態になっていることを感知できない
未熟な者が多い。



これではいくら畳表に斬りつけても
叩いているだけなので切断などでき
ず、
せいぜいいくらか切り込んで
刀身が途中で止まるだけだ。
そして、力任せにこの状態で叩き
つけると刀身は曲がる。
故に下手は身幅広く青龍刀のような
日本刀に非ざる刃物を使ってごまか
したがる。

このように刃筋が曲がり込んでいた
ならば、刃先から棟の頂点に抜ける
切り込む時の反力の抜けの逃げ場が
なく、焼き刃という硬い部分ではな
い平地の一点に衝撃が集中し、まず
右からの左袈裟の場合、棟から見て
「くの字」に曲がることだろう。

刃筋が通っていれば、片手でも畳表
1枚(巻き物のような真巻き)でも
軽く
切断できるし、小学生の女の子
でも切断できる。
切開力が刀身断面に対し表裏(=左右)
均等に分散され、衝撃は刃先から刀身
の中心線を抜けて棟の頂点に達し、
さらに反りによる分散と拡散が促され
て、身によるクサビ作用で切り割かれ
る力が補助して、切り込んだ刃先は
どんどん前に進む。
この際に人間の人力は殆ど要らない。
ただ刃筋を通して正しい刀線と刃波
で刀を振るだけである。
意図的に刀を引いたり押したりせず
とも、反りの原理で自然と引き切り
になり、平衡分力の発生と共にスラ
イス効果でさらに刀の切れ味は増す。


なぜ切れないのか。
それは、刀が切れる原理をわきまえ
て、その上での正しい運刀を実現で
きていないからだ。
「刃が付いているのだからどう振っ
てもどうにでも切れる」ということ
に日本刀はなっていない。だからこそ
扱う術がある。

ではなぜ正しい運刀を実現できない
のか。

それは、「自分が正しくない」と認
知できていないからだ。

誤ったことを何百回とやっても、絶
対に正しい答えは出てこない。

結果は雄弁に真実を物語る。
宮本武蔵は『五輪書』において、
「能々吟味すべし」、「能々分別す
べし」、
「能々工夫すべし」、「鍛
錬すべし」という言葉で節を閉める
ことが多かった。

これは「よく吟味し、分別し、考え
工夫して、そして鍛練せよ」という
事だ。

自己啓発こそが肝要なりということ
を剣豪武蔵は何度もしつこく説いて
いる。

剣法はいにしえも現代も、師からヒント
は教えてもらえても、術の要諦を理解

して掴み取る、体得して行くのは自分
自身の力以外にはあり得ない。

そして、武蔵が説くように、「よくよく
吟味」して「よくよく分別」すること、

つまりまず頭で道理を理解することこそ
が大切なのである。

刀を曲げる者や、何度も何度も切りつけ
ても同じ結果である者は、自己解析

能力が欠如しているとしかいいようが
ない。

「なぜだろう、どうして?どうやったら
そうなるのか」ということを、こと刀術、
刀法、
剣法について真剣に真摯に向かい
合って実行しているならば、自ずと自然
結果は出てくるものだ。
つまり、真剣刀法に真剣に接しよう、
真っ向から
対峙しようという気が皆無
だから刀を曲げたり切れなかったりす
るのである。物理的結果は自分の不明
が招いているだけのことだ。

特に空気斬り刀振りを武道としてやっ
ている者が真剣を振って畳表一枚を
切断できないなどと
いうのはあり得
ないのである。

万が一あったとしたら、それは普段
やっている事が「もどき」でしかな
く、
「真剣を使用する刀法」にはな
っておらず、切りつけなどどうでも
いい健康
体操になっていただけのこ
とである。

そして、真剣刀法による試斬は、「刀
を傷めながら斬り覚えて行く」などと
いう
道を外れたアプローチは寸毫たり
とも存在しない。言ってる者がいると
したら、
それは完全なる嘘っぱちだ。

私はこれまで万余の太刀数で斬って
来たが、ただの一度も刀を曲げた事
がない。これは事実だ。

なぜそうであるのかを考えるに、師匠
の教えが正しかったことと、その師匠
の言が正しいかどうか、自分で
樋の
ある刀の素振りで十二分に物理的現象
と刀法の道理を確認したからである。
また、たった一度だけだが大師匠の
試斬も川崎の道場で見た。私の康宏で
大師匠は一太刀のみ短い置き畳表1枚
真巻きを切った。刀法は目に焼き付け
た。なるほどと掴んだ。一般的な
これまでの概念とは大きく異なった。
切った後、刀身はビタリと止まって
いる。力で振り切らず、「刀術」で
切っていた。あの一太刀だけでも最
大級の学習になった。
大師匠は「この刀はよう切れる」と
眺めながら仰ったが、刀ではなく刀
法で切ったのを私は見逃さなかった。
右からの左袈裟だった。
大師匠の本職はかつては旅館の板長で、
漫画『包丁人味平』の味平の父親の
モデルとなった人だった。さばいた
鯛が頭と骨と尾だけで泳いだ。あれは
実話なのである。大師匠は日浦眞蔵と
いう佐賀の範士で、塩見味平の父親の
松蔵の名も包丁人日浦眞蔵からとった
ものだと思われる。私の大師匠の日浦
範士は、無双直伝英信流皆伝者山本
晴介師の直門だった。

さて、
樋のある刀での試斬は避けた
ほうが無難だが、樋は風切り音が出る
ので、真っ向
左右袈裟がまったく同じ
音になるように、あるいは運刀の種別
によってその種別に
見合った音が適正
位置で適正な音質で鳴るように徹底的
に稽古したからこそ
私は刀を曲げない
のだと思う。たまたまだ。たまたまの
出だしが正しく導いてくれた方がいた
からそれを得た。
つまり、具体的には切り込みにおいて
は常に刃筋がビシッと立っている。

以前川崎の道場で全日本準優勝の選手
の先生に「なぜそんなに音がするの?」
訊かれたことがある。「なぜだか
わかりますか?」と逆に問うと「いや、
俺は解るけど、
他の人たちにあんた
から聞かせてやってほしいから」と
言っていた。向こうが上手(笑)。
もうその先生も大師匠も鬼籍に入って
しまった。

私の切りはなぜ鋭く適正位置で音が
するのか。

それは「音を出そうとして振らない」
からだ。とりわけ「ブーン」という
長い間隔での音は出さない。これは
「切り」をやればそのような音は刀か
らは出ようがない。敵の斬切部位の
直前で短く鋭く音が「勝手に」鳴る
だけだ。
「ぶーん」と長い音が鳴るような刀
の振り方では、実際に真っ向や土壇
や袈裟などでは「ぽこん」と当たる
だけの振りになってしまう。
刀は「切り下ろし」とあるように、
上から下に重力を利用して地面まで
切り下げるつもりで(だが実際には
切先は下まで下げない。対敵行動だ
からだ)、真下に切り下げるのであ
る。遠心力を利用した真円運動で運
刀はさせないのだ(土壇は体は使う)。
特に上から下への切り下げの場合は、
真っ向であろうが袈裟であろうが、
真円運動にはならない。面ならば敵の
面の上に運刀させそこから真下に地面
までギロチンの如く切り下げるような
イメージの軌跡で運刀させる。
真下にギロチンのように切り下げる
心もちで運刀しても、刀身には反りが
あるため自然と引き切り効果が発生
する。ゆえにあえて刀身を引いては
ならない。刀は真下に切り下ろす。
当然、刀線は円軌道ではなく楕円軌道
となる。ただの円運動の遠心力まかせ
だと「ぶーん」という長い音が出て、
そして実際には「ポコン」だけで終わ
る。
それでは真っ向で振っても敵の頭蓋
を叩き割ることはできない。ポコン
かナデ切りで多少傷をつけるだけだ。
大抵は頭がい骨で刀身が跳ね返る
(これは経験者から直に聴取)。


切るために切り下ろす。この一点しか
ない。
見た目がよく見えるとかそういうこと
制定教科書にさえも書いていない。
切るために切り下ろせば、
適正位置で
樋が掻いてある刀は音が適正にする。
これは真っ向左右逆袈裟横切り
でも
すべて同じ定理だ。

刃筋が立っていれば静止物体などは
切れる。ゆっくり振っても早く振って
も畳表あたりは切断できる(ある程度
の刀速は必要)。

本当は敵は人であり、人は地蔵のよう
に止まってはいないので、敵の動きに
合わせる
というさらに高度な技術が
必要なのが剣法なのだが、静止物体
切りは己の刀法の
状態が如実に自己
観察できるという結果が明白に残る。

ただただ先師からの教えを何も深く
考えずに表面だけを墨守するのみ
でも話にならない
のだが、己自身が
「どうしてだ、どうやったら」と常に
踏み込んで考えないというのは
剣術
だけでなくどの世界でも技術系では
物にならない。

まず、人の言うことやることを凝視し、
掴み、咀嚼し、そして理解し、吟味し、
工夫して
自らの力で体得して行く。
これしかない。


刀を曲げる人は、「刀を曲げること」
をやっているから曲げるのだ。

刀を曲げない人は、「刀を曲げない
こと」をやっているから曲げないの
である。

このことに一秒でも早く気付こう。

よくよく吟味されたし。

 


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