1967 4th nippon GP FSW
FISCOの30度バンクの外側の
観客席でレースを観戦して
みたかったなぁ。
私が富士に通い始めたのは
バンクが廃止された翌々年
から。
当然、まだコースはしっかり
と残っていて、後に筑波の
オフィシャル長になった人
に連れられて見学に行った。
コースに入ってみると、もろ
に壁なので驚いた。
当時、おない年の小沼賀代子
がよく富士でスポーツ走行時
に練習していたが、滅茶苦茶
速かった。
気の強い女だったが、乗り方
は極めてしなやかで的確だっ
た。
一度、「男に負けた」と言っ
て泣いていた事があった。
転倒で足の小指に大きな負傷
を負ったのが痛々しかった。
その時の様子を平尾昌晃の
ラジオ番組に出た時、平尾
さんが「落車したんだって?」
と「落車」呼んでいた。
オートレースじゃないんだか
らさ~、とか聴いてて思った。
小沼は「そうなんです。転倒
してしまって」と言い直して
いたのが印象的だった。
ハスキーキャンディボイス。
後年の松田聖子の声に似ていた。
その後、彼女が何をどこでどう
なったかレコードを出したのは
何かの迷いだろうか(笑
はたまたスポンサーへの忖度か。
光る人だったので走りでコー
スレコードを出してほしかっ
た。
GP125ノービスクラスが筑波
で6秒台で全日本予選通過時代
に、国際A級小沼は1分4秒台で
走っていた。ちなみにノービス
250は予選2秒台、決勝で1秒台。
250で4秒5秒などは話にならな
かった。その数年後には同レイ
アウトのコースでA級250は0分
58秒台に突入していたのが筑波。
レースはタイム差が3秒あったら
全く勝負にならない。
国際A級125でこのゼッケン。
どれ程参加者が多かったかが
判るだろう。
1クラス500台エントリーなど
がごく普通の年度もあった。
0.5秒の間に数百台以上とかが
普通の時代。決勝は30台のみ。
少なく見積もって各クラス150
台エントリーとして、125,250
でノービス、国際B(ジュニア)、
国際Aとクラスがあるので、
125/450+250/450で900台。
どういう台数エントリーなのか、
と。
それが1980年代だった。
予選通過は難関大学合格より
難しかったよ(笑
コースレコードではなく歌で
レコード出したけど、走りは
まじで速かった。笑うとGペン
一本線の目になって可愛かっ
た。日本初の女性国際A級
ライダー。