渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

現在の大学に自治は無い

2024年06月23日 | open
 



私が大学に入学した1970年代
末期は、都内の大学は国公立
私立を問わずタテカンだらけ
だった。
学習院にさえあった。
右翼大学である国士舘には無
かったが。あと創価大。

それら以外の大学には学生自
治権があった
から、当然学内
問題を訴えるタテカン、政治
問題を喚起するタテカンが大
学正門前や路上に面した壁や
学内には存在していた。
大学には学生による自治があ
ったからだ。
そして、大学構内は本来根源
的には国家権力不可侵の場所
であった。

これは全国大学自治会連合=
全学連によってかつては保全
されていた。
だが、全学連が共産党系と反
日共系のセクトの主導権争い
の場となった1950年代中期以
降、全学連は社会運動への学
生の動員機関のようになった。
そして1960年の安保闘争前に
新左翼の共産主義者同盟が日
本共産党が握る全学連執行部
を「選挙」により掌握した。
新左翼(のちに過激派と呼ば
れるラディカルな学生たちの
属する党派)の共産同=BUND
(ドイツ語読みでブント)が
「全学連主流派」となり、安
保闘争を牽引した。
安保闘争敗北後、ブントは分
裂解散。
また、新左翼セクトが各大学
自治会(学部自治会、全学自
治会)を掌握するようになり、
「全学連」を名乗るセクト機関
が登場した。
それは、中核派全学連、革マル
派全学連、社青同解放派全学連、
社学同全学連(=ブント全学連。
社青同と合同で反帝全学連と呼
ばれた)、日共系全学連に「全
学連」が形式上分裂した。
そして、形骸化したセクトの
漁場となった全学連および学生
自治会は、本来大学の存在や
機能とは密接不可分で体制側と
しての大学の存在を脅かさない
という決定的欠陥に気づいた学
生たちは、学内問題を追及する
中から、無党派の共闘連合であ
る「共闘会議」を発足させ、そ
れは全国的な高揚をみせた。
それが1960年代末期だ。
その学部共闘は個別大学全体
としてのまとまりを見せ、全学
共闘会議=全共闘として1960年
代末期の学生運動の主力となっ
た。
それゆえ、左翼党派(社共と新
左翼)の各学生組織と、全学連
と全共闘は三者でまるで異なる
氏素性を持っていた。
そして、新左翼は全共闘を支持
して積極的に支援や介入をする
ようになる。
一方、日共は、新左翼系全学連
や全共闘は「米国のスパイ」と
して、全共闘および新左翼に暴
力で武装襲撃を繰り返していた。
新左翼が武装を開始するまでは

日本共産党とその青年組織の
民青が圧倒的に暴力戦闘が強く、
新左翼はたじたじだった。
67年10.8羽田以降、新左翼は
初めてヘルメットを被り自己
防衛し、対立セクトからの攻撃
に備えて角材で武装するように
なった。
共産党は角材などという折れ
やすい物ではなく、樫の棒に
五寸釘を何本も打貫いた物を
武器として使用していた。
対権力ではなく新左翼に対し
て。殺しはしないが非武装の
新左翼に対しては半殺しの重
傷を負わせる事など屁とも思
っていないのが日本共産党だ
った。

日本の無党派のノンセクトラ
ディカル=全共闘運動は、国
家権力
との全面対峙が不可避
となった
時、新左翼と結合した。
同時期、新左翼も日共による

武装襲撃から自己防衛の為に
武装を開始していた。
武装といっても、まだ爆弾も
銃も保持しない、折れやすい
杉の角材や竹竿程度の武装だ。
全共闘自体は当初はノンポリで
政治感覚には疎かった。
日大全共闘などは、あまりに学
内で右翼暴力団(本物)の暴虐
が激しいため、日大当局が学内
に機動隊を導入した際、右翼か
ら全共闘を守ってくれるのかと
勘違いして機動隊に拍手を送っ
た。
そうしたら警察機動隊は圧倒的
暴力で共闘会議学生に暴行を加
えて逮捕し始めた。
この時、初めて日大生は警察は
学生を守る為ではなく検挙する
為の暴力装置であると気づくの
だった。
間抜けな話だが実話。

無党派層である全共闘運動の盛
り上がりに対し、新左翼は支援
と同時に介入も進めた。
特に、中核派、解放派、ブント
の御三家は全学連にやったのと
同じく指導権掌握のために全共
闘のリーダーたちを積極的に
オルグ(組織加盟勧誘)した。
革マル派のみが全共闘とは一線
を画した。革マル派は「革マル
派が革命をする」という組織だ
からだ。人民が革命をするので
はなく、自己が唯一絶対の党
という日共と同じ体質を持つ
セクトが革マルだった。なので
自党以外のあらゆる左翼は敵と
みなして攻撃をかけていたのが
革マルだった。

新左翼が全共闘に本格介入した
1960年代最末期は、すでに全共
闘運動が敗北の連続で斜陽化し
始めた頃だった。
それを立て直そうと新左翼は
大連合となって「全国全共闘」
を結成しようとした。
だが、これは全学連を私物化し
た事の二匹目の泥鰌狙いだった
事は明白だった。
その全国全共闘結成大会に、
全国全共闘結成粉砕を主張して
突撃したのは出来たばかりの
共産同赤軍派(赤ヘル)と60
年安保全学連の主流派の中枢
の流れにあった旧共産同マル
前衛派(銀ヘル。66年にブント
はようやく再建されたが、68
年3月に共産同マルクス主義戦
線派は総括無きブントに見切り
をつけ共産同を脱退、共産主義
者同盟とは袂を別ち独立党派と
なった。直後にマル戦は前衛派、
怒涛派等の三派に分裂
)のみだっ
た。

多勢に無勢で赤軍派と前衛派の
両派は現場ゲバル
トで苦戦した
が、それまで内ゲ
バでは対中核
戦、対解放派戦で無敗だった前
衛派(常に
手斧を各自保持)が
その時に限って非武装肉弾戦で
突撃し、1分で中核派に負けた。
粉砕された前衛派は
修羅場の
中でベ平連に救出され
た。
一方、赤軍派は最初から竹槍
部隊でブントらに突撃し、阻
止戦を突破して大会会場に強
硬的に入場し、全共闘学生た
ちから圧倒的拍手を受けた。
会場を埋め尽くす全共闘から
は拍手を受け、新左翼からは
阻止戦とゲバルト対峙で態度
を示された赤軍派と前衛派。
「全国全共闘」なるものが、
実は新左翼が思うようにする
目的で作出されようとしてい
る器である事を如実に物語っ
ていた。
赤軍派と前衛派以外の新左翼
のこうした行動形態の背景に
は、1960年ブント共産同の
「先駆性論」が支柱にあった。
それは、「労働者階級を覚醒
させるために、先駆的である
我々学生が常に警鐘を乱打せ
ねばならない」というブント
特有の思想だった。
これはここでは詳細は割愛する
が、この思想は旧軍の特攻精神
に通じるものがあり、非常に
左翼思想としては問題がある
のだが、日本人的心情の琴線
に触れる思想であり、全学連
に圧倒的に支持された。
「自分たちが日本を救うのだ」

というヒロイズムだ。それに
徹底的に心酔して行動したの
が1960年安保闘争の全学連の
学生たちだった。労働者階級
を含めて一千万人以上が反安
保の運動に参加した。国会周
辺は100万人の安保条約継続
に反対する人々が埋め尽く
した。まさに国論を二分する
社会運動が1960年安保闘争
だった。実質は国民の8割が
安保に反対していたといわ
れる。
反対する理由は、戦後まだ
15年であり、日本を再び戦禍
にみまわせるな、米国の前哨
基地に日本をするな、という
一点だった。思想信条ではな
く、生活権、家族含めた国民
の生命の問題として多くの国
民が新安保条約に反対する
行動に決起した。学生や労働
者だけでなく主婦や看護婦た
ちまでもが反対デモに参加し
た。
空前絶後とはまさに日本の
1960年の反安保の運動の事
だった。
共産主義者のみが運動をやっ
たのではない。大多数は国民
が国民運動としてやったのだ。
自分たちと未来の子どもたち
の命の問題として。
東大生の樺美智子さんは1960
年6月15日の国会包囲デモで、
警官隊に警棒で頭部を攻撃さ
れて頭部から夥しい血を流し
てその場に昏倒して死亡した。
警官に国民が殺害されたのだ。
そうした状況の中で、段々と

人々は反権力に目覚め、主義
者に覚醒して行った。

だが、革命の主体である労働
者階級に学生が警鐘を乱打す
るというブントの思想は、
「革命は前衛
党が労働者を牽
引する」という
レーニン以来
の思い上がった
左翼エリート
思想の裏返しで
しかない。
日本社会党などは
日共以上に
その体質で、徹底
的に実は労
働者階級を格下や
目下や下々
と見るようなえげ
つない体質
を有していた。

新左翼も、元々は日共と社会
党から分派した流れが殆どだ
ったので、似たり寄ったりの
体質を有していた。全共闘の
間抜けで大らかな体質とはま
るで違った。左翼は社共既成
左翼も新左翼も、極めて狡猾

だ。
なお、60年安保組として全学連

主流派=共産主義者同盟だった
者で、闘争敗北後に右派に転じ
た者も多くいた。
保守思想家の西部邁や元防衛庁
長官であり後に自民党内
で加藤
の乱を起こした加藤紘一
は元東
大社学同=共産同ブント
だった。

だが、社会運動の一翼として
学生運動を担おうとした全共
闘には歴史的に決定的な欠陥
があった。
それは、自由連合体であり、
党派ではないので、やるも
やめるも自由である、という
現場共闘でしかなかったという
根幹に規定される。
つまり、全共闘運動は各大学
連携連帯は日大-東大以外は
見られず、個別独立運動とし
て展開していたので、そこを
見抜いた国家権力と体制側大
学当局によって「個別撃破」
で一掃できると読まれたのだ。
そして、事実、各大学は権力
機動隊を学内に導入する事で
全共闘による学内占拠を暴力
によって壊滅させる作戦に出
た。大衆団交という話し合い
ではなく。
日大などは古田会頭が断交で
10万人の日大生と確約したも
のをすべて反故にして機動隊
導入で実力で全共闘を排除
する事を実行した。
自大学の学生を権力に売り渡
し、検挙拘束して刑務所に送
る事を大学がやったのだ。
これは東大でも同様の事が実
行され、全国250大学の全共闘
が存在する大学全てで実行され
た。

そして、前述した全共闘の性質
から、来るべき時が来た。
全共闘だった学生闘志たちは、
大学卒業前に運動をやめ、企業
に就職しはじめたのだった。
やめるときにはまるで自分は
無関係な者であるかのような
顔をして。
無責任極まりない。
セクトの看板持ちはそうはいか
ない。
全共闘の無党派という自由を
求める学生たちの最期はその
姿だった。
そして、全共闘世代は企業入社
や公職に就き、民間にあっては
「モーレツ社員」として育ち、
現在の
ネオコングローバル化支
持層を形成するに
至るのだ。
まさに反革命的であり
日本の経
済ファシズムを領導
する世代層
が戦後団塊の全共闘
世代層とな
ったのだった。


全共闘運動は1960年代末期に
フランスや全世界の若者の反
権力運動と連帯連携し、地球
上に一つの可能性を見せたが、
最後は暴力的弾圧と自身らの
延命希望により運動からの一
挙的撤退によって消滅した。
全共闘運動壊滅以降、大学の
自治権は消滅した。
だが、それは全共闘のように
一挙的消滅ではなく、今度は
大学に残存した新左翼が自治
権確保として機能した。
セクトの目論む動員プールと
して残していた自治会が、今
度は全共闘運動に代わって大
学の自治権を保全する機能を
持ち始めたのだった。
それゆえ、新左翼が複数いる
都内の大学では、1980年代中
期あたりまでは学内にタテカン
があるのはごく当たり前で普通
の光景だった。
地方の大学は、かつて熾烈な
学生運動があった大学であっ
ても、早々にタテカンは消滅
したようだ。
都内の大学は国内最後まで残っ
ていた。
それと京都大学。

こうした話は、大学と無縁の
人たちには無関係と思える話
だろう。
だが、真のところは、日本と
いう船の中では無関係ではな
い話なのだ。
ただ、人類史においては、太
古から国の構造変革や社会運
動は高学歴知識層から発生し
ているという歴史がある。
これは良否問題ではなく否定
ができない。
大学の問題も本当は学識経験
者でない者も無関係ではない
のに無関係と感じる事が、既
に知と無知の乖離を代弁して
しまっている。そこに学識経
験の不在の致命的負荷素因が
存している。
尤も、現代では、大学といって
も、分数計算もできず、goの
過去形も理解できずとも学士
となれる大学も多いようなの
で、学識経験者という区分け
では概念化などできない。
学歴も学識も実質的には崩れ
ているからだ。
「何それ?おいしいん?」と
いう事でしか判断できない学
生の多くは難関大学ではなく
ボーダーフリー大学にその
存在の殆どを占めるが、難関
とされる大学だろうが、学生
は政治問題や人権問題や社会
問題には殆どが興味ない。
大事なのは自分の事だけ、と
いう連中ばかりを大量に排出
する機関が大学となっている
のが現状だ。

東大では、安田講堂前でデモ
した学生を取り締まる為に学
内に最近官憲が導入された。
大学内に警察官を入れるなど
というのは、大使館に侵入さ
せるようなものだ。
だが、東大生に抗議の声は上
がらない。
東大からしてこれ。
学識も学歴も社会問題解決に
は何の役にも立たない事の
証明でもある。
だからこそ、学歴も学識も
関係なく「同じ船」として
同一問題として主体的に国民
が捉えなければならないのに、
そうはなっていない。
この国も国民も、民度などは
その程度だろう。
てめえの事だけ大事に思う。
結局は日本人はそういった
種族なのだろう。
お上の言う事やる事に何でも

尻尾を振って媚び売って、自
分の安寧だけを確保できれば
それでいい、という。
そういう人種が日本人。

かといって、選挙などは無意
味。
都知事選の出鱈目さ見てみな
よ(笑
あらゆる面で日本は終わって

る。いや、まじで。
たぶん、民度だけでなく経済
的にももうすぐアジア底辺に
なるのではなかろうか。

東大安田講堂前。一昨夜。
武装警官隊を東大当局は大学
構内に導入。
こうした事が「良い事」とか

思ってる連中が日本を破壊する。




 

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