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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

海部刀のふるさと

2021年02月09日 | open

阿波の海部(かいふ)てとこはここだよ。

仕事で四国を一周廻る時、土佐高知から
海岸線を徳島市内まで抜けるルートは、
かなり「時間かかる」という印象がある。
なーんもないので、道を延々と行くだけ、
という雰囲気なのだ。陸地であるのに何か
どこかの絶海の孤島のような。

一度、訪問先のお客さんに教えられて、
打ち上げられた死んだ鯨を見に行った事
がある。室戸岬だ。
あの大きな鯨をどうやって除去するのだろ
うかと思ったら、そのままもう何週間も
放置のままだという。かなり強烈な腐臭
だった。

ただ、戦国末期、三好氏も海部刀を所持し
て愛用したと伝わるが、三好は領した地の
うち瀬戸内海側と土佐との国境の山間部に
重点を置いた。
阿波を制したとはいえ、何故太平洋側の
刀工の作を?
備中や三原(尾道)の刀のほうが入手し易い
のでは?
さらに大阪に渡り、三好長慶などは朝廷
を実質押さえていたのだから、いくらでも
京や備前の名刀工作を入手できたのでは。
とは思うが、そこらには何らかの事情が
あったのだろう。

海部刀はよく切れるので知られるが、脇差
が多く、太刀は案外と少ない。
海部刀の脇差には背にノコギリ刃がつい
ていたり、武骨一点張りの拵だったりし
た物も多い。
造作も変わっていて、まるで上古の刀の
ような片切り刃だったりする。あたかも
海賊か山賊が持っていそうな刀剣だ。
ランボーナイフのような。
而して、太刀は古風な大和伝調で秀作が
多い。しかし、数は極端に少ない。
刀身の区(まち)より上に銘があり、その
銘も切るのではなく彫るという奇作も多
く、それはまるで古墳出土の古代鉄刀の
ようだ。
片切刃や刀身銘など、どこか海部には
上古以前の日本の鉄刀鉄剣時代の何らか
の流れの命脈を感じる。
もしかすると、日本の歴史の中で物凄く
古い種族と集団が海部刀工群の実体なの
かも知れない。俘囚の剣との関連性を
研究すれば、何かしら東北の舞草の一族
と線で繋がるかも知れない。

大和伝とは、日本刀の各伝系の中で、最も
古い流れの一つで、古代の奈良に始まる。
多分、最初は「官製」の直刀を鍛えていた
グループだったことだろう。
やがて、他の刀工がそうであったように
時代と共に各地に転じた。
これは、各地の仏教寺院の建立とも関係
がある事だろう。
同じく国内最古級の京都の刀工群も、流の
技法が各地に転じている。
有名な肥後国菊池に住して加藤清正が重用
した同田貫(どうだぬき)の一派も元は延寿
鍛冶であり、さらに祖は京都粟田口派と
なる。

なお、劇画『子連れ狼』で主人公拝一刀が
使用する斬鉄剣は同田貫ではない。胴太貫
(ドウタヌキ)という架空の刀であり、作者
は尾張の清水甚之進藤原信高と劇中に出て
くる。肥後の同田貫(どうだぬき)は一切
関係ないのだが、数十年後のキテレツな
続編では肥後の同田貫になってしまった。
また、続編はめちゃくちゃ破茶滅茶な設定
であり、まるで五味康祐か横山光輝の忍者
活劇のような時代設定丸無視の作となっ
た。「赤影!参上!」みたいな。
やはり、『子連れ狼』は、柳生烈堂と拝
一刀が死んだ時点で終わったのだ。
大五郎も、その後、流行病で死んでしまっ
た、程度に思わないと続編などは読めな
い。これは、別人の別物語なのだ、と。
他人による改変続編ではなく、原作者本人
によるぶち壊しなのだから、救いようが
ないのが続編だ。
戦国末期柳生石舟斎の時代の若き東郷重位
元禄時代の大五郎を助けるところから
続編が始まる。やめてくれ。
そして、続編では間宮林蔵まで出てくる。
もはやこれまで。読む価値もない。
当然、物珍しさで一部には読まれたが、
第一シーズンのような爆発的大ヒットとは
ならなかった。
理由は明白。
第一シーズン作は、社会現象になった程の
名作であるのだが、続編は史上まれに見る
原作者本人による超絶ウルトラ駄作だから
だ。しかも、金字塔たる第一シーズンの
設定をすべてぶち壊している。
あれ、あかんやつ。

戦国末期、頑丈で大切れする戦場刀は全国
各地で多く作られた。
前述の肥後同田貫だけでなく、豊後刀も
頑丈大切れ物だし、備後三原や備中、備前
も夥しい数の実戦刀を生産した。
また忘れてならないのは、現代の刀剣界で
は低い位置に見下されている美濃の刀で、
もう戦国戦場刀といえば美濃物、という程
に膨大な実用刀剣を生産したのが美濃国の
刀工で、とりわけ関は一大軍需産業地と
なっていた。備前と並ぶ国内最大級の武器
製造地帯。
そして、美濃の刀工も各地の有力大名に
招聘されて全国に散る。特に日本海側に
多く転じた。
さらに、美濃の刀工が慶長以降の日本の
刀鍛冶の基盤を作った。

海部刀は、そうした戦国末期の流れとは
一線を画し、独立した技法様式を地方で
伝えた。
しかし、作域を見る限り、古代の大和の
景色が作には見える。
類推だが、もしや、大和伝とのちに呼ばれ
大和国の古刀期の刀工群は、いにしえの
ヤマトとのイクサに破れ東北から連行され
た刀工集団、日本刀剣の始祖たる「俘囚の
剣」を作る一族の末裔なのでは。
いわゆる大和、山城、備前、相州、美濃と
いう日本刀五箇伝の中では、大和伝が一番
古い。古墳時代の鉄剣鉄刀製造も朝廷成立
後の上古刀もその大和伝鍛冶集団の先祖だ
ろうが、湾刀との結合は俘囚の剣の存在抜
きには考えられないので、ある時から東北
の湾刀技術が革命的技術として流入させら
れた事になる。これは意図的に、お上に
より最先端技術を導入投入された。
海部の刀工の一族は、そのあたりの頃に
大和伝系が阿波の南端にたどりついたの
ではなかろうか。
古墳出土刀剣のように刀身に銘を彫った
り、古墳時代の鉄刀のように片切刃の湾刀
の日本刀は日本全国海部刀だけである。
なぜそうしたか。
何かの矜持をそこに感じる。刀剣により
訴え、伝えたいいにしえの何か。
それは「血」ではなかったろうか。
超古代の己らの血脈の息吹を刀剣によって
伝えたかったのが海部の刀ではないだろう
か。




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