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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

西部劇に出てくるビリヤード ~ビリヤードの歴史~

2023年05月12日 | open
 


これは映画『ワイアット・アープ』
(1994)の中で若き日のワイアッ
ト・アープ(1848-1929)がプール
のボールを投げつけて酒場で人を
殺害したシーンだ。
コルトがパーカッションの時代だ。
殺したならず者のパーカッション
銃を誇らしげに掲げるシーンである。

だが、この表現描写は間違って
いる。
なぜならば、パーカッション銃の
時代に的玉15個玉のアメリカン・
プールというビリヤードの種目
はこの世に誕生していないから
だ。

では当時のビリヤードはどの
ような競技だったかというと、
紅白玉4個で穴入れをするこの
ようなものがアメリカをはじめ
とする世界のビリヤードだった。


このテーブルの四隅と中央レール
に2個穴のある今に続くポケット・
ビリヤードのテーブルは、さらに
少し前はこのような形だった。


さらに少し前は、台上にゲート
があり、そこを通して、岸壁=
バンクに設けた穴に玉を通す
競技がビリヤードだった。
使う器具はメイスと呼ばれる
ボートのオールのような木製
器具だった。

アメリカにおける1870年代まで
の主流のビリヤードはアメリカン・
フォーボールと呼ばれるビリヤ
ードで、後の16個玉を使うプー
ルは存在しなかった。
アメリカン・フォーボールとは
紅白玉2個ずつを使う競技だった。
台はポケット台で11フィートも
しくは12フィート台を使用した。
初期には四隅の4個のポケットだ
った。
英国式と同類系としてアメリカ
では紅白四つ玉のポケットが
主流となっていた。
玉をポケットインさせたり、2個
乃至3個の的玉に手玉を当てる事
で得点とした。
手玉を的玉に当てる事は「キャ
ロムを作る」と専門用語で呼称
する事にした。キャロムとはワン
ストロークのショットで手玉を
的玉に当てる行為の事をいう。
アメリカン・フォーボールでは
最大3個当てるために点数が増加
する計算方式だった。
やがてポケットの穴を排して、
難易度の高い「玉と玉を当てる」
競技が独立分離して「ストレート
レール競技」となった。キャロム
ビリヤードの登場だ。
そして、時期を同じくして、キャ
ロムがアメリカン・フォーボール
=ポケット台の紅白四つ玉競技=
から分離独立してストレート・レ
ール台で成立した頃、手玉を含め
て16個の玉を使うアメリカン・
ポケットが登場した。
その1個の手玉と15個の的玉を使
う種目は通称アメリカンフィフ
ティーンボールと呼ばれていた。
プールの誕生である。

フィフティーンボールプールは、
1から15までの番号が的玉につけ
られていた。
的玉は番号の数が点数とされ、
ラック内の総合計が120点だった。
なので対戦者は一方が61点以上
になると勝利となった。別名61
プールとも呼ばれていた。
その61プールは、1878年に第1回
全米選手権大会で採用された。
第1回全米ビリヤード大会は
1861年に開催されたが、それは
アメリカンフォーボールの紅白
四つ玉のポケット競技だった。
当時の新聞によると、まだメイス
が6割ほどで、キューを使用する
人が5割に迫る勢いで、最近は
棒のキューが人気のようだ、と
記載されている。
日本に残る1860年以前の幕末の
絵画でも、メイスとキューの
両方が出て来る。1860年あたり
が端境期の混在期といえる。

1878年の第1回全米61プール
選手権大会は、カナダ人の
シリル・ディオンが優勝した。
人類史上初のプールの大会の
優勝者はカナダ人だった。

アメリカン・プールは大人気と
なり、それまでのフォーボール
ポケットビリヤードは衰退した。
そして、1888年後半にプールに
大転換が起きる。
ごく当たり前の事でもあるのだ
が、ボールが番号によって点数
が異なるのはおかしくないか?
という声が増えて、ルールが
変更されたのだ。
的玉はどの玉でも1個が同じ点数
1点となった。
そして、持ち点に達するまで、
次のラックのブレイク権はノー
ミスで撞いている側が連続して
ラックを撞く権利とした。
後年登場するストレートプール
=フォーティーンワンラック
の原型が1888年後半に誕生した
のである。
アメリカンプールのルールは
西部開拓時代最末期頃に徐々
に完成されつつあった。
そして、1900年初頭にエイト
ボールという新種目が考案さ
れた。
1888年に新設ルールとなった
1個1点の連続撞きの種目は1910
年になってストレートプール
=14.1ラックとしてルールが
新設された。
そして、1920年代にナインボー
ルという種目が登場した。
ただ、14.1ラックはルールが
完成されているが、ナインボー
ルは1980年代末期から21世紀
の現代に至るまでめぐるまし
く詳細ルールが改変されている。
現在のナインボールはブレイク
ナインさえ無くすつまらぬゲー
ムと成り下がってしまっている。
公式戦では交代ブレイク制を
導入したため、ラックを跨いで
の何ラックもの連続取り切りと
いうシーンが存在しなくなった。
見せかけの公平性とテレビ中継
用のスポンサーの圧力によって
スポーツのルールが捻じ曲げら
れたのが今のナインボール競技
だ。
一方ストレートプール14.1ラック
は一切ルール変更はない。100年
以上同じルールで通されている。
まさにストレートだ。

現代のキャロム競技は、元々は
ポケット穴のあるテーブルで
競技されていて、それが分離
独立した。
ヨーロッパでは1930年代から
キャロムが大流行したが、
アジアの新興資本主義国であ
った日本では、文明開化の直後
からの急激な西欧化により、
ビリヤードが撞球と呼ばれて
大流行した。
それは明治の貴族や富裕層だけ
でなく庶民にまでビリヤードが
浸透し、ヨーロッパ先進国に
並ぶビリヤード大国に日本は
変身していた。種目はキャロム
だ。
日本人の世界チャンピオンは
1920年代に誕生している。
スリークッションが1930年代
にはヨーロッパでは人気を博し
たが、日本ではアメリカンフォ
ーボールの流れのキャロムの
「四ツ球」が主流となって大
流行した。獲得点数は当てた
玉により可変式で、これは
当てて入れれば最高13ポイント
を得点できるアメリカンフォー
ボールと同じ類型の点数計算
方法だった。これは1980年代
にどの玉に何個当てても1点に
ルールが変更されるまで100
年間同じ点数計算方法だった。

ヨーロッパでスリークッション
が1930年代に大人気となると、
その波はアメリカ合衆国にも
押し寄せて来た。
意外な事に、アメリカではプー
ルの人気が衰え、スリークッ
ションが大隆盛を見せる。
プールはレクリエーション的な
要素が強いために、軍隊の娯楽
としても常設されるようには
なっていたが、本格的競技と
なるとキャロムが重要視される
ような歴史の流れになっていた。

1878年から1956年まではキャロム
とプールの全米選手権大会が毎年
開催されていた。
南北戦争中(アメリカンフォー
ボール)を含めて戦争の結果よ
りもビリヤードの報道が広くな
される事も多かった。
しかし、戦後のアメリカでは
帰還兵たちの生活再建によって
ビリヤード人気が一気に衰退し
ていった。
信じがたい話だが、1950年代に
はキャロムビリヤードだけでな
く、アメリカの国技のようなプー
ルでさえも消滅しかけそうな
状況だった。
だが、1961年に『ウエストサイド
物語』とアカデミー賞を争った
映画『ハスラー』によって、全米
でのビリヤード人気が一気に復活
した。
アメリカにおいて玉撞きの歴史は
閉じかけていたのを一作の映画が
救ったのである。
その後、1960年代には全米選手権
も復活し、USオープンも開かれる
ようになった。
アメリカで生まれたアメリカの
スポーツであるプールは消滅の
危機を脱したのだった。

なお、プールとは、ポケットに
玉が溜まる事を意味するが、元々
は競馬場でレースの待合い時間
にハウスで楽しむゲームがプール
と呼ばれていた。溜まり場の
ゲームだ。ネットに溜まる玉と
溜まり場のプールが合体して、
そこで遊ぶボールゲームをプール
と呼ぶようになった。
そして、プールという米語には
「賭け事師」という意味もあった。

1870年代後半以前を時代設定
としたパーカッション時代を
描いた西部劇に15個玉のプール
が出て来るとしたら、それは
時代考証が誤っている。
プールはまだ存在しない。
アメリカンフォーボールの
紅白四つ玉のポケットが当時
のビリヤードだったからだ。
1880年代設定なら間違いは
ない。


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