渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

メリケン波止場 〜横浜〜

2023年07月07日 | open



「メリケン波止場ってメリケン
粉を積み下ろしてたんか?」
と友人が言う。
「ま、そんなもんだろ」
と答えておいた。
違うけど、さしたる問題では
ない(笑
「センの字がわかんなきゃ、
戦車の戦とか書いとけ」(by
傷天オサム)というやつだ。

現在のメリケン波止場。




たなばた

2023年07月07日 | open


星に願いを。
って雨だよ。

七夕は端午の節句と同じでキリ
スト教圏には無い日本在来の
祭り。
中国大陸発祥みたい。
切ない物語で、綺麗なお祭りか
と私は思う。

天気予報

2023年07月07日 | open


東京。雨の中のミーヨ。
コオのアパート前にて。

本日午後から雨となり、来週
月曜日明けまで雨の模様。
変動が激しい。ことしの梅雨
は長い気もする。



古い包丁

2023年07月07日 | open


ゴルフクラブのように使い分け
よう、ということで少し研いだ。
これは菜切である。
1979年、大学入学の時に高田
馬場の金物屋で購入した。時計
屋さんの近所の。
この包丁は学生の時によく使っ
たが、主として野菜のザク切り
や千切り用だ。

薄刃。
これも1979年の同時期に買った。
主として大根の桂剥きや細工など
に使っていた。
こちらはかなり研ぎ減った。


たあいのない安い包丁だが、44年
を過ぎた今でも使っている。
笑える事だが、1960年代末期〜
1970年代初期の小学生時代に
よくキャンプに持って行ってい
た包丁も今でも使っている。
小学校の家庭科の授業で、自分
包丁持参OKの時に授業に持
って行ってた文化包丁(東京型)
だ。

包丁は鋼が無くなるまで使える。
金額の大小で物の良し悪しは決
らない。値段が安くとも良い
物は多ある。
何が良い物かというと、それは
作った職人の真面目さが作に出
ている物だ。
そうした物は間違いがない。
そして、使い倒して身が細ろう
とも、持ち主が研ぎという手を
加える事で生命を宿し続ける。

うちが普段一番使うのは洋式
包丁の牛刀だ。それの短い昭和
生まれの三徳のような長さの物。


上は2011年に新潟県内で購入。
かなり研ぎ減って小さくなった。
下は1984年に東京大森駅そばの
西勘で購入。柄が朽ちたので、
私が黒檀削り出しでリペアした。
目釘はナイフメイキングのボルト
を使用した。

包丁は長く使える。
手を加えながら。
ビリヤードのキューも日本刀も
同じだ。
どうせ持つならば、良い物を。
それは金額で決定づけられない。
包丁、キュー、日本刀。
良い物とは何か。
それは作り手の顔が見える真面
目な作の事だ。
見つめていると、真面目な作か
たわけたたばかり物かは見えて
る。
良い物には作り手の良い心が
投射されている。
たとえ量産品であろうと、一品
物の手作り品であろうとも。


武士の情け

2023年07月07日 | open



ブシノナサケについては、残心
というものと共に外国人には
理解されにくい。
だが、外国人どころか、当の
日本人でもよく理解できてい
ない傾向がある。
武士の情けとは、温情をかけた
り救済したり助力したり人助け
をしたりする事ではない。
切腹の際に介錯をするのが武士
の情けだ。その在り方。
自殺幇助とも違う。
例えば、凛として死地に臨む時、
己の一刀を差し出す。
それは物理的に刀剣を差し渡す
のではなく、その者との心の
繋がりとして己が主体となって
その者に関与して行く。
それを選択する。
その互いの心の糸の繋がり、それ
が武士の情けの本質であり根幹だ。
ただの一般的な手助けや赦しや
助勢や合力や情状酌量などが
士の情けではない。
武士の情けは武士に対してのみ
発生した。
ゆえに武士の情けの中身、真
の内実は武士にしか理解でき
かった。
現代は武士というものは存在
しない。
ゆえに武士の情けの中身たるや
何たるかも、一切公共教育機関
では教育されない。
半世紀以上前あたりまで家庭教
育でごく一部の家庭で子女たち
に躾られたのみだ。

武士の情けと一言で言葉で言う
のは簡単だ。
だが、それを口にする者は、ど
こまで武士の情けは何であるの
かを理解しているのか。
武士なき時代、上辺のみ武士の
格好をしても、武士とは何だっ
たのかへの理解を深める事が
欠損していては、中身が無い。
かたちばかりの表層を追う事は
完璧なる虚構であるからだ。


トラディショナル

2023年07月07日 | open

(家伝)

伝統というのは何だろう。
残し伝えるというのは何だろう。
と考える時、やはりこれだろう
と思う。
刀という物体ではなく、それを
持つ者としての心の在処。

濁った魂など残し伝える必要は
ない。
驕慢や傲慢、自画自賛の自己優
越意識の塊のような、人間にと
っての最も不要な暗黒面がもし
仮に自己内部に発生したとした
ら、それは個人で自覚的に消滅
させるべきであり、その気風を
外に振り撒いたり、子に残し伝
えるものではない。それは汚れ
た心根だからだ。
心に清廉さを欠く高慢な者は、
確実に必ず人に対して虜外な
言動を働く。世の慣いとして。
表面上の言葉は一見丁寧でも
慇懃無礼を無自覚に発する。
そして、それを人様が指摘して
くれても自省などはしない。
返って逆ギレなどして更に心
を暗黒面に自分で落として行
く。
つまり、自分に刃は一切向か
ない。清廉さが欠落している
からだ。
それは人として最低なのだ。
そうしたものは、もし自分の中
に微塵たりとも発生ないし存在
するならば、それは己の段階で
自覚的に完全捨象すべきなので
ある。
無礼な虜外者にだけはなっては
ならない。

その象徴が、それを持つべき者
の「残し伝えるもの」としての
これなのだと確信している。


刀は刀を持つのではない。
もっと別なものを己が持てる
人間か否かこそが、刀という
存在ととの結節点の中身な
のだ。
昔は己に己の意志で刃を向け
られる事が当たり前の特定種
族だけが持つ事を許された。
そして、その種族の象徴とし
て刀はあった。
今は誰でも持てる。
だからこそ、その持つ中身内実
は旧世界の時以上に厳格に自分
につきつけられるのだ。
そうした包括的な大切な事こそ
己の中心幹に据えるべきだし、
残し伝えるものとして世にある。
ただし、どんなに出来が良くと
も、物体は物体であり物体に罪
は無くとも、虜外者が作った物
は虜外の作だ。濁っている。
そして、心を澄まして観るとそ
の至らなさが作の中に見えて来
る。
一見、出来がよさそうに見える
の作も、実はとんでもの心根
あちこち作中に現出している
事が見えて来る。
超えられないのだ。
自己優越感に満たされた人間が
作る物は、正しく高みに向かう
姿が作に欠落し、至高に真っ直
ぐに進む姿が抜け落ちている。
それの内実は作にも如実に反映
されるのである。
超えなければならないハードル
を超えられていない事が作に
現出する。
現実は嘘をつかない。
作は人を表す。人が現れる。
そして、それを人は見逃さない。
だが、人として人を見下してい
る人間にはその自分の至らなさ
が見えない。
作の至らなさや誤った方向性は
作が勝手に歩いたのではなく、
己の心の過ちが招いているのを
自覚できない。
そうした、人的な未達、不具を
発生させるので、驕慢、傲慢は
最悪の性根として存在している
のである。

ただし、そうした心根の悪は
宗教では解決できない。
己の自覚しかないのである。
宗教では人間変革などはでき
ない。宗教は救済しか与えな
いが、返って救われない所に
心が行ってしまっている人間
が多くいる。それは宗教が逆
に人としての清廉潔白さを得る
事の阻害要因となっている。
自己内部の「理知」こそが物
を見極める。
自分の力で何とかするのだ。
宗教に頼ると、心根がクリーン
になるどころか、逆に更にえ
げつなくいやらしい性根の人
間になっている例は日本だけ
でなく世界にはごまんとある。
それは一つの定理を体現して
いる。
人として大切な事は、素直な心、
自省せむとする勇気ある心根で
あり、「己に刃が向く人間で
あるか否か」という事なのだ。
「花は桜木、人は武士」の根幹
はそれである。

武家政権が日本に残した最大
のコア部分は、武家政権の消
滅と共に本当に日本から消滅
した。
今の時代、800年以上日本人
の一つの手本となり、代表的
な精神性となったものの土台
については、血脈的家庭教育
でさえも残されない。躾もさ
れない。そういう時代だ。
自覚できるか否かは諸個人の
の力しかない。
真に厳しい時代である。