渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

トラディショナル

2023年07月07日 | open

(家伝)

伝統というのは何だろう。
残し伝えるというのは何だろう。
と考える時、やはりこれだろう
と思う。
刀という物体ではなく、それを
持つ者としての心の在処。

濁った魂など残し伝える必要は
ない。
驕慢や傲慢、自画自賛の自己優
越意識の塊のような、人間にと
っての最も不要な暗黒面がもし
仮に自己内部に発生したとした
ら、それは個人で自覚的に消滅
させるべきであり、その気風を
外に振り撒いたり、子に残し伝
えるものではない。それは汚れ
た心根だからだ。
心に清廉さを欠く高慢な者は、
確実に必ず人に対して虜外な
言動を働く。世の慣いとして。
表面上の言葉は一見丁寧でも
慇懃無礼を無自覚に発する。
そして、それを人様が指摘して
くれても自省などはしない。
返って逆ギレなどして更に心
を暗黒面に自分で落として行
く。
つまり、自分に刃は一切向か
ない。清廉さが欠落している
からだ。
それは人として最低なのだ。
そうしたものは、もし自分の中
に微塵たりとも発生ないし存在
するならば、それは己の段階で
自覚的に完全捨象すべきなので
ある。
無礼な虜外者にだけはなっては
ならない。

その象徴が、それを持つべき者
の「残し伝えるもの」としての
これなのだと確信している。


刀は刀を持つのではない。
もっと別なものを己が持てる
人間か否かこそが、刀という
存在ととの結節点の中身な
のだ。
昔は己に己の意志で刃を向け
られる事が当たり前の特定種
族だけが持つ事を許された。
そして、その種族の象徴とし
て刀はあった。
今は誰でも持てる。
だからこそ、その持つ中身内実
は旧世界の時以上に厳格に自分
につきつけられるのだ。
そうした包括的な大切な事こそ
己の中心幹に据えるべきだし、
残し伝えるものとして世にある。
ただし、どんなに出来が良くと
も、物体は物体であり物体に罪
は無くとも、虜外者が作った物
は虜外の作だ。濁っている。
そして、心を澄まして観るとそ
の至らなさが作の中に見えて来
る。
一見、出来がよさそうに見える
の作も、実はとんでもの心根
あちこち作中に現出している
事が見えて来る。
超えられないのだ。
自己優越感に満たされた人間が
作る物は、正しく高みに向かう
姿が作に欠落し、至高に真っ直
ぐに進む姿が抜け落ちている。
それの内実は作にも如実に反映
されるのである。
超えなければならないハードル
を超えられていない事が作に
現出する。
現実は嘘をつかない。
作は人を表す。人が現れる。
そして、それを人は見逃さない。
だが、人として人を見下してい
る人間にはその自分の至らなさ
が見えない。
作の至らなさや誤った方向性は
作が勝手に歩いたのではなく、
己の心の過ちが招いているのを
自覚できない。
そうした、人的な未達、不具を
発生させるので、驕慢、傲慢は
最悪の性根として存在している
のである。

ただし、そうした心根の悪は
宗教では解決できない。
己の自覚しかないのである。
宗教では人間変革などはでき
ない。宗教は救済しか与えな
いが、返って救われない所に
心が行ってしまっている人間
が多くいる。それは宗教が逆
に人としての清廉潔白さを得る
事の阻害要因となっている。
自己内部の「理知」こそが物
を見極める。
自分の力で何とかするのだ。
宗教に頼ると、心根がクリーン
になるどころか、逆に更にえ
げつなくいやらしい性根の人
間になっている例は日本だけ
でなく世界にはごまんとある。
それは一つの定理を体現して
いる。
人として大切な事は、素直な心、
自省せむとする勇気ある心根で
あり、「己に刃が向く人間で
あるか否か」という事なのだ。
「花は桜木、人は武士」の根幹
はそれである。

武家政権が日本に残した最大
のコア部分は、武家政権の消
滅と共に本当に日本から消滅
した。
今の時代、800年以上日本人
の一つの手本となり、代表的
な精神性となったものの土台
については、血脈的家庭教育
でさえも残されない。躾もさ
れない。そういう時代だ。
自覚できるか否かは諸個人の
の力しかない。
真に厳しい時代である。

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