渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

映画『空軍大戦略』(1969年)

2021年08月02日 | open

『空軍大戦略』(1969年)

知り合いに「そんなの面白くないよ」と
言う人もいるが、私はとても面白い。
映画としてもよく出来ているし、プロット
にも齟齬はない。楽しめる。
物語の中での英独の軍人役の俳優の演技
も良いが、何しろ本物をバンバン飛ばし
ての撮影が圧巻だ。撮影時の1968年には
まだ現役飛行出来る機がいくつも残って
いたという事だ。戦後23年目。メッサー
もスピットも機体はまだ元気な個体が
つかあったのだろう。

この映画、何度観たか分からない。
『遠過ぎた橋』(1977)と共に何度も観た
くなる映画だ。
『遠過ぎた橋』は、高2の時の高校の映画
鑑賞会で観た。学年全員が見に行く。
昔の映画館は数百人収容の巨大劇場、超
特大スクリーンだったからだ。今の映画館
とは比べ物にならないような、まるでオ
ペラの劇場のような映画館だった。
毎年映画鑑賞会は高校の文化教育として
励行されていたが、私はその面は学校に
感謝している。
そして、後日、社会科や現代国語の教師
がマーケットガーデン作戦について、生徒
とディスカッションをする。授業中に。
そうした面は本当にユニークな学校だっ
た。
2年次の3年生送別謝恩会では校長が全校
生徒の前でハーモニカを吹いた。
それが、もうプロとしか思えない程で、
何年か前に動画サイトで話題になった
外国人のハーモニカのおっちゃんの演奏
を視聴しても何ら驚かなかった。高校の
時のあの校長の超絶技法に腰抜かした経験
があったからだ。あれは凄かった。ハー
モニカから流れる音はまるでオーケストラ
のようだった。
生徒同士顔を見合わせ、「あの人、なに
もん?」と囁き合った。
その時、仁科明子さんのお父さんの歌舞伎
俳優もOBとして来ていた。
昔の卒業生は文化人も多く、映画監督の
黒澤明も卒業生だ。
だから、映画観せるのかな?
知らんけど。

映画鑑賞は生徒に推奨されていた。
映画好きたちは、一般封切り劇場だけで
なく、文芸座や300人劇場やフィルムセン
ターで映画を観まくっていた。
DVDはおろか、ビデオも無い時代だ。
教師は映画好きに「年間200本以上は観
ろ」と言う。
そして、それを実行している連中が何人
もいた。
また、教師は言う。
「僕の講義などここで聴いているよりも、
学校来ないでふらっと鎌倉にでも海を見
に行ったほうがずっと自分の為になる事
もあるかもよ」と。
翌日、私は実行した。
私の実行以降、何人も実行者が出た。
そして、学校をエスケープした理由を
教師に問われたら、「自分を見つめに鎌倉
の海に行ってました」と皆が答える。
ちょいと問題になり、言った教師は狼狽
した。
そして、撤回宣言。
「すまん。日曜日に行ってくれ」と。

今までの人生では、高校時代が一番楽し
かったのは確かだった。
教師も生徒もおもしれえ奴ら大集合だっ
たからだ。
ネチネチとしたチンケな野郎は一人もいな
かった。
尤も、そんな奴が万一いたとしても、すっ
こんでいた。
図々しく勘違いして出て来れるのは今の
ネット時代のみだ。カスみたいなのが
ネットで他者を揶揄嘲笑するのを唯一の
精神の拠り所にするような心が歪んで病ん
だ奴らにも生存を許す寛容な社会が現代
だ。
ただし、行為は社会的には一切許されな
い。
合法的に法の行使により、社会的制裁を
以って討伐されるべきだ。
犯罪者であり、社会的害悪なのだから。

自業自得で文壇から筆を折られ、行き場
が無くなり、匿名裏ネットや自己ブログ
犯罪(立件可能)行為を構成する名誉毀
損の刑事犯罪作文を続ける書き込みしか
できない。
哀れには思うが、自分のせいであり、
寒い限りだ。みじめ。

映画でも観て、豊かな人生と寄り添う事
をおすすめする。

コロナワクチンは万全ではない、みたい

2021年08月02日 | open











ワクチンを全面的に過信してはいけないと
いうことなんだろうなあ。

NGK DX

2021年08月02日 | open


エアガンでプラグ穴周りを入念に吹く。
かなり小石みたいな粉塵が飛ぶ。
タンク外してプラグ全部交換して、試走。

結論。
DXプラグ、効果絶大。
下からも中域も上も、まるで違う。
グイグイ押される感じ。
直線ガバ開けでなくじんわり開けでも、
フロントフォークがスワッと伸びるのが
よく判る。
特に中域で良い。
そして一気にレッドまでタコメーターは
駆け上がる。
加速とシフトアップを続けて最大トルク
出力領域でタコの針をダンスさせる。
タコ踊り(笑
しかし、これがハイウェイダンサー。
面白い。
ダンサーとして生まれ変わったみたいだ。
NGKに乾杯。

では私たちはどうしたか

2021年08月02日 | open
 
で、「お願い運動」ではなく実際に何を
やったか。
過激な社会変革運動は控えて、モーター
リゼーション健全化を目指す領域で、
効力ある行動をムーブメントの全国
展開
で私たちは組織した。
現実には、四輪車と二輪車高速料金が同一
だった
不公平な社会を実際に変革した。
これは、1万6千人の原告となったライダー
たちの裁判闘争として、現実に世の中を
変えたという歴史的成果となって今に残
る。
あの時、私たちライダーが行動していな
ければ、の二輪車に対する不公平
極ま
りない時代が過ぎた今でも世の
中変わっ
てはいなかっただろう。
いくら「お願い」などお上にしてもダメ
だ。合法的に黒白をつける場へ。しかも
それを社会運動として全周から包囲する。
 
裁判準備から現実的な変革の成果まで
5年
の歳月を要した。
ライダーたちが、自分たちの手で環境
を実際に現実として
改革した事は大きい。
シビリアン。
本物のムーブメント。
それは、オートバイルネッサンスとなり、
原告団に参加していない多くのライダー
たちからも賛同を得た。
全学連たちが全国の歩道の敷石をアスファ
ルトに変えさせた「僕たちの失敗」より
も、ずっと人の為になる変革の歴史を
二輪
乗りたちが日本の歴史に刻んだ。
リバティ。
これがムーブメント。
 

底辺の魂

2021年08月02日 | open


劇画作品『キリン』では、なぜやたら
めったらといにしえの新左翼の学生運
動のシーンが出て来るのか。
それはね、イデオロギーではない面と
しての思想的な底辺の底流が、新左翼
オートバイ乗りは全く同質だからな
だよ。ふつふつと流れる地下水脈の
うに通じている。
これは、作者は、それを理解できる者
にしか理解してもらわなくてよいとし
て描いている。
絶対に読者に媚びたり、言わずもがな
の説明を載せたりはしない。
てめえで考えろ、てめえの頭で、の方式
を採っている。自主独立、自分で考え、
自分で行動するのが二輪乗りの原則だか
らだ。人の煽動には乗らない。てめえが
冷徹に孤独に判断する。二輪乗りはそれ。

だが、心底作者の意図と心根を解る奴ら
もこの国にはまだいる。
大抵はジジイかババアになっちまったが。
最近では、そのどちらでもない中間という
か別ジャンル確立者たちもいるようだが。




2015年。既に6年前の社会情勢

2021年08月02日 | open


官憲に逮捕される革マル派(60年代)。

6年前2015年の外国人による取材記事。

このシールズの動きは、1980年に暴力
革命を唱える新左翼セクトと市民が連合
して開始した「ニューウェーブ80」に原初が
ある事をどれ程の日本人が知っているの
だろう。
主として埼玉県の浦和を発信源として、
その今までに全く無い新たな模索は開始
された。
それは60年代末期の「ベトナムに平和を!
市民連合」(ベ平連)との運動とも異なる。
また、60年代末期の新宿フォークゲリラ
とも異なる。
まさに1980年という1970年代最末年に
ニューウェーブ80は登場した。
この流れは、音楽やファッションとの
結合から一定程度の潮流を作った。
1981年6月の日比谷野音での反戦集会で
は、万余の新左翼(ノーヘルルールで参加)
と市民団体が集結したが、宇崎竜童の竜童
組がステージで決起集会コンサートを無報
酬で行なった。宇崎は大漁旗を壇上に掲げ
て反戦を叫び、場を盛り上げた。まだ清志
郎は反原発音頭など歌っていない時代だ。
集会後のデモは、ヘルメットを被っては
いなくとも新左翼であるので、日比谷公園
から始めたデモは過激なデモとなった。
禁止されている集団密集とジグザグと
渦巻き密集デモで機動隊と肉弾戦になっ
た。一てい団が300名程の単位で、それが
あちこちで無数に機動隊の規制と衝突して
いた。
集会は新たな波としての浦和の人士たち
が先駆けて働きかけた音楽とファッション
と政治問題の結合という形式だったが、
デモの形式は新左翼そのものだった。
これには中核派、革マル派、解放派は参加
していない。別場所で党派集会をやって
いた。

ただし、2015年のシールズの動きは、
こうした80年代初期の社会ムーブメント
とは大きく異なる。
80年代のそれは、それまで商業音楽に
身を置いた多くの「プロ」たちがまず
参加し、それにアマチュアバンドたちも
アトミックカフエでの動きと連動して、
パンキーにロックを政治主張として訴え
たのが特徴だった。
英国のプログレや西ドイツのそれはまる
きり西欧型新左翼だったが、世界に先駆け
て先行してい日本の新左翼との結合を日本
のハードロックやパンクの担い手たちは
実行して行ったという音楽シーンの歴史が
日本の80年代前半には醸造されたのだっ
た。
これは、中核・革マル・解放派の大手新
左翼はやれなかったしやらなかった。
相変わらずヘルメットを被って他党派攻撃
をする事のみに大手新左翼たちは躍起にな
っていた。
1980年代、もはや、大手新左翼は「新」
ではなく、かつての日共代々木のように
旧態然とした「旧左翼」になり果ててい
た。ヘルに棒の威嚇利用は意味なし。
だが、角材やプラカードが凶器となると
して禁じられた後も、旗竿であるならば
表現の自由から合法であるので、ハンカチ
程の旗を付けたド太い竹竿を解放派は
どの集会でも持ち込み、他派を威嚇して
いた。機動隊には向けられない。他派に
対して、それで地面を叩いて威嚇してい
たのが1980年代の青ヘル解放派だった。

新左翼大手たちは、1980年代初期には
その時から10数年前の行動様式をなぞる
事しか出来ていなかった。ムーブメント
は微塵も作り出せていない。
一方で、テクノロジーとしてのテロジャン
ルには大手は磨きをかけ、迫撃砲などを
自主生産してどんどん発砲していた。
中核派は、1972年の三里塚強制代執行の
時の奮闘以来、威張り散らすだけかとの
集中放火の他派からの批判をかわす意図
か1985年に三里塚で機動隊に肉弾突撃を
した。しかし、それは1968年にブントの
早大の花園たちが丸太抱えて防衛庁に
突撃した事の猿真似だった。
中核派は仕方ない。革マルとの殺し合い
しかしておらず、大衆運動や大衆の組織
化、労働運動へのオルグ(日産労組の一部、
動労千葉、国労の一部等は除く)も手薄
だったから。
これは革マルや解放派も同様の様相であ
り、1980年代は共労党などの構改系や
旧ブント系諸派の動きが学戦でも労戦でも
活発だった。超党派連合も模索されていた。

そうした情勢の中、80年代には社会運動
の一パターンとして、音楽とファッション
と政治問題の融合が模索された歴史が日本
の社会運動史には刻まれている。
その流れがベースにあるので、その数年後
に忌野清志郎はタイマーズという覆面裏
バンドを組んで社会的メッセージをロック
に乗せて発信する事を始めた。
だが、ロッカーの白竜や宇崎竜童がやり
始めたのは、1980年からだ。
そして、それのムーブメントとして流れを
作ったのは、ニューウェーブ80という市民
と新左翼が垣根を除いて合流した「大衆
的」な運動がベースとなっていたのだっ
た。

1980年代は新左翼や市民リベラル活動者
たちの間に大きな分岐があった。
それは、新左翼大手のように、旧式の新
左翼運動(運動していないが)に拘泥し抜く
頑固な旧態温存希求者たちと、市民や労
働者や町の若者と結合して新たな波を意図
的に作ろうとする諸派の大同団結連合体の
動きだった。
だが、後者については、新左翼大手たちは
ゲバルトで彼らの運動の動きを粉砕しよう
と躍起になったし実行した。
明大での解放派の早大革マルのような振る
舞いや、中核派の法政大での横柄だけで
なく、内ゲバ反対党派に対する脚部切断
の暴力の実行等。
もはや、新左翼大手は、全員が革マルの
ような体質に変貌していた。
そのうち仲間を殺し始めるぞと予想して
いたら、案の定、解散派はまず2派に分離
し、さらに3派になり、組織内で人殺しを
始めた。
また、一枚岩かと思われた中核派も、まず
2派に分裂し、更に3派に分裂した。
中核派の代表議員だった区議会議員でさ
えも、執行部を抑えた派からは裏切り者
呼ばわりされて攻撃され、派の仲間の弁
護士にまで攻撃をするに至った。
やり口は暴力団の恫喝と全く同じ。
正義を振りかざすだけヤクザより始末が
悪い。
新左翼大手は1980年代にすでに「死に体」
になっていた。
自己総括無き組織、己に刃を向けて反省
する姿勢なき高慢。
それでは、牽引者として何も出来る筈が
ない。

それが1980年代以降の実相である。
ただ、私はシールズの意気は理解するが
ムーブメントには懐疑的だ。
結局は「お願い行動」でしかなく、それ
は限界があるからだ。
暴力を全否定するという事は、自衛の為
の防衛行為をも否定する事になる。
そして、私がシールズに否定的であるの
は、新左翼は「対決」の為に暴力を一切
否定しなかった事だ。
まして、武装蜂起をし、内戦を勝ち、人民
による権力の樹立を新左翼は全員が一様に
目指していた。最終的には暴力革命による
権力奪取と新国家建設を目指していた。
シールズの活動は「意見表明」にしか
過ぎない。
気持ちも分からないではないが、個人的
には単なる駄々っ子のように思えてなら
ない。警察にもほいほい協力してるし。
なんか、これ違う感が半端なくある。

ボタ山

2021年08月02日 | open

福岡県飯塚市のボタ山。
炭鉱の石炭掘りの際の廃棄捨石集積場。
今や完全に山となっている。景観は自然
の山のように。
だが、産廃物であり、崩落や自然発火の
危険がある。
諸事情により、更地にするには困難を伴
う。環境に関する周辺法成立以前の産業
遺物であるので、現代法で全て処理する
には難しい問題が多くある。法成立以前
の事案には遡及しないのが憲法の原則だ
からだ。
いろいろな社会問題の原因となったボタ山
は、積まれた産廃物の再利用をめぐって
クリアではない利権行為も起きていたりも
した。
地方によっては、保存する動きもある。

1950年代の飯塚のボタ山。

しかし、掘るだけ掘って、あとはポイ。
それを日本だけでなく全世界は続けて来
た。後先の事を考えずに。
捨てて集積したボタ山は100メートルを
超えるものもある。
目先の事のみしか考えず、やれ富国強兵
よと突き進んだ資本主義体制の姿がここ
にある。
ただ、資本主義だけではない。中国でも
炭鉱のボタ山問題は棚上げのまま石炭を
掘り続けている。
経済体制の問題ではなく、産業の利潤主義
の問題だろう。
案外、地球上の人類は頭が良くない。
目の前の利益にがっつき食い散らし、あと
の世代や地球の事などどうでもいいという
ところで腹を満たしている。

原子力発電にしても、核廃棄物どうするん
ですかね?
どんどん危険な核廃棄物を溜めて行って
る。
以前などは、日本はよそに捨ててしまえと
遠洋まで運んで海洋投棄をしていた。
ただのゴミではない核廃棄物を。
被爆国の国家がやる事とも思えない。
核廃棄物による南洋の人々の被曝などは
どうでもいいと考えている。安全だから
と嘘をついて。
安全ならば、東京湾埋め立てにでも使え
よいだろう。
原発も、安全だからというのであれば、
地方に押し付けるのではなく東京湾臨海
都市エリアにでドーンと作ればよい。
でも、そうなると、本当のところは、臨海
エリアが臨界エリアになりかねないので
やらない。

宮崎美子さん

2021年08月02日 | open

あれ?
宮崎美子さんは宮﨑あおいさんと同じ
宮﨑だったの?




昔はそれとなく可愛かった。

これは2021年にマクドナルドのCMにCG
で41年ぶりに蘇った宮崎さん。顔と首と
手を加工みたい。加工ベース原本は本人
が演技。


プラグをDXに

2021年08月02日 | open





4スト2輪の用にNGKのDXプラグを購入。
高いのね。定価だと4本で1万数千円する。
安いとこで仕入れました。
交換はまだ。

構造、材質、レビューを見る限り、4スト
にはかなりの効果が期待できそうな二輪車
専用のメーカーのハイエンドプラグだ。
元トップライダーの宮城光さんは「体感
で違いが分かる」と言う程だ。

タンク外して、エアコンプレッサーのエア
ガンでプラグ穴周囲を吹いてからでないと
既存プラグの取り外しはできない。
微細だろうとゴミが窪みに落ち込んでいて
それがエンジン内部に入るとダメだから。
2ストパラレルのようにちょちょいとプラグ
交換という訳には行かない。

冷やし中華

2021年08月02日 | open


夏は冷やし中華が美味しい季節ですね。
冷やし中華の麺はまるちゃんがおすすめ。
うまし!



『探偵はBARにいる』の人物像

2021年08月02日 | open

『探偵はBARにいる』(2011年)

なかなかの快作である本作は、
人気が
出てその後シリーズ化
された。

舞台は北海道札幌、現代。
しがない探偵とその助手の北大
院生
のコンビが事件を解決して
いく。


プロットの甘い部分もあるが、
本作は
ガンエフェクトも正確
であり、役者も
好演していて
かなり楽しめる。

物語は、札幌の有力実業家で
ある企業の
社長が街中で拉致
されようとした女性
を助けよう
として路上で鉄パイプで
撲殺
されるところから始まる。
だが、見逃してはならない。
拉致されようとした女は、助け
ようとした社長を車から蹴って
いる。それでグルだと視聴者は
即判る。
これは仕組まれた殺人計画だ、
と。


殺害された社長。社員や取引先、
誰から
も慕われている人物だっ
た。元新左翼の
活動家。(西田
敏行)


真の黒幕。元新左翼。関西の裏
社会
のフィクサー。北海道の地
元暴力団員
さえも事件関与から
手を引く程の冷酷
な裏社会の支
配者。(石橋蓮司)



度重なる殺人事件の真相は、数
十年前
に学生運動が盛んな時代
に、仲間と組織
を裏切る行為が
あり、そのため自身と
関係者に
危険が及ぶ事を避けるために

西田敏行が身重の内妻(竹下景
子)と
お腹の子を残して疾走し
た事に端を発し
ていた。
その新左翼組織の裏切り者が後
に関西の
裏社会のドンとなって
いた(石橋蓮司)。

かつてのいきさつを探偵に語る
「元内妻」
の竹下景子は「よく
は知らないが何か
深刻な対立が
あったらしい」と言う。

北海道。学生運動。
北海道は北大を中心に革共同革
マル派が
覇権を握っていた。革
マル派と元々同じ
組織だった革
共同中核派は、1960年代
初期に
60年安保の敗北から全学連主流
だった共産主義者同盟(ブン
ト)のメン
バーが革共同に移籍
したことにより形成
された。革
命的共産主義者同盟=革共同
は、
元々は日本トロツキスト連盟を
前進
とし、60年以降は黒田寛一
を首魁とする
革マル派、元ブント
の本多延喜を首領と
する中核派、
第四インターナショナル
日本支部
(創立者トロツキー)の三派に

内部分裂していた。元々革共同
は黒田と本多が結成したが分裂
した。
そして、1970年に中核派が革マル
派の東京教育大生の海老原
君を詰
問の際に法政大学に拉致して殺害
(海老原事件)
してしまった事で
中核VS革マルの殺し合いの戦争が
初めて始まる。発端は海老原君が
過去に中核派の活動家たちに対し
公然と暴行を働き、
情宣活動を暴
力で中止させた事による。
たまたま後日路上通行中の海老原
君を発見
した中核派活動家たちは
その場で彼を制圧
してデモを装っ
て羽交い絞めにして道路を
通って
中核派最大拠点校の法政大校内に
拉致監禁し、椅子に縛り付けて
暴行を加え
て殺害した。
革マル派は報復宣言を出し、11日
後に
中核派の本丸である法政大学
に数十人で
偽装して潜入し中核派
活動家10数名を
襲撃して全員半死
半生の重傷を負わせた。
以降、両派は相手を殺害すること
を党是
として公言するようになっ
た。中核派は
「反革命カクマル
せん滅」と称した。


海老原君事件では中核派は自己
批判の声明
を一旦出した。
だが、その後の革マルの報復に
より、自己
批判は反故にし、完
全に殺し合い路線に
両派は転化
した。

そこに日本社会党社青同解放派=
革命的
労働者協会=革労協が加
わり、革マル派vs
中核派+解放派
という殺し合いの図式が
できあが
った。

その状況になるまで、革マル派
は他の全
新左翼とは一線を画す
独自路線で、「人民
ではなく革
マルが革命を起こす」という

実を以て、他党派に攻撃を仕掛
ける事
を旨とする組織であるこ
とを続けていた。

暴走族でいうなら、「CRSを潰
す為だけに
組織された極悪」と
いうチームの性質に
似ているの
が革マルだった。革マルは革
マルしか認めない。他党派の
事は蛆虫
の害虫だと機関紙で
公言していた。

そして、三つ巴のセクト間で殺
し合いが
激化するのに従い、そ
の3派は組織的な
態度を硬化さ
せ、一切人々の言う事に
耳をか
さない意固地な殺人集団に変質
した。
かつて中核派は大人気であり、
何十万人
もの学生が白ヘルを
被っていた。元都知事の猪瀬
もコピーライターの糸井重里
も中核
派だった。
実に多くの学生が白ヘルに
心を
寄せていた時代も確かにあった。
材木屋の社長が中核派にゲバ棒
の角材を
大量に寄付する等、中
核派は人気があった。

革マルのほうは、路上で敷石を
砕いても
機動隊が来たら全員逃
げたり、東大闘争
でも勝手に持
ち場を放棄して、そこを
陣取っ
た機動隊によって安田砦が攻め
立て
られたりした。革マルは市
民や新左翼各派
からは蛇蝎のよ
うに嫌われていた。また、嫌わ
れるようなことを平気でやって
いた。

中島みゆきが革マルのシンパだ
ったとは
彼女の音楽性からみる
に俄かには措信し
難いような組
織が革マルだった。

また、解放派は人間的に魅力的
な人物だ
らけで「感性の解放派」
とも呼ばれた。

ソ連型の中央集権的社会主義を
否定し、
ローザルクセンブルク
の個人の尊厳を謳っ
た内実をテー
ゼとしていた人間味ある
セクト
が解放派だった。

だが、一変した。

そうした状況になり、それまで、
「革共同
両派と社青同解放派こ
そ運動の害悪」と規定して、

核派と解放派に熾烈なゲバルト
をかけて
いた元共産同マルクス
主義戦線前衛派
は、革マルと中
核派・解放派の殺し合いの
図式
が成立してからは、自派が革マル
同列と見なされることを回避
するために
他セクトへのゲバル
トから1973年に
手を引いた。
それまではマル戦前衛派は中核
派やブント
たちからは「単ゲバ
派」と呼ばれるよう
な組織だった。
(60年安保ブントの中心
部分の
うちの綱領を有する学者派)

中核派とは夜な夜な鉄パイプで
わたり合い、
鉄パイプでは弾か
れるとして鉄板重ね溶接
の武器
を開発したのは前衛派だった。

それだと打突でヘルメットに沈
むからだ。

また、神奈川大襲撃の際は、武
装解放派が
150名いる中に50名
で突撃し、日本刀を
かざす解放
派のそれを奪取して修羅場を

り、完全に解放派を全滅させた
のも
前衛派だった。
前衛派のゲバルト部隊の配置は、
突撃隊
から戦況により後退しよ
うとする部隊員
がいたならば
それを打ちのめすために
軍監
が短い鉄パイプを持ち、自軍
の隊員
を殴打する、という方式
だった。
前衛派のゲバルト部隊はそれだ
った。

前衛派は旧ブント内に対しても
攻撃を
しかけ、元兄弟党派にあ
たるマル戦怒涛派に
対しても、
代々木公園で滅多打ちにした

りしていた。
新左翼の中で、初めて完全非合
法の「軍」
を創設したのが元ブ
ントの前衛派だった。

非合法の地下組織の軍だけでな
く、「表」
の部隊でも前衛派銀
ヘルは手斧を各自
所持して集会
に参加していた。

大集会では他のセクトのヘルメッ
ト部隊
が前衛派の銀ヘルからじわ
りじわりと
離れるように位置を
移動させる事が常に
起きるよう
になった。
これは「壮大なるゼロ」となっ
た1968年の秋の東大安田講堂前
での決起集会でも、銀ヘル前衛
派の周囲のみ異様に隙間が空い
ている写真からも現認できる。
すぐに猛獣のような
大暴れをす
るのが前衛派だったから、他

派は「巻き込まれたくない」と
の事で
物理的な距離を集会では
置くようになった
のだった(元
中核派活動家談)。
まだブント内に赤軍派は生まれ
てはいない頃の時期だ。旧ブン
トマル戦前衛派の表の学生部隊
組織名は「安保共闘」。東大安
田攻防の有名な写真では時計台
のど真ん中に縦垂れ幕が下がっ
ている。非合法非公然の軍は
「共産主義武装行動委員会(共
武行)」。
軍は連赤あさま後の1973年に
解散。党派は1986年に完全解散。
70年代後半~80年代初頭には表
のデモでは銀ヘル、夜戦ではサ
ンドブラスト艶消し処理をした
濃茶色のヘルメットを装備した。

だが前衛派の大学教授が打ち出
した帝国主義
理論は中核派も採
用していたりという構造
が新左
翼界にはあった。

その新左翼最大の「単ゲバ派」
の前衛派は、
革マルVS中核派+
解放派という図式が浮上
してか
らは一切内ゲバ戦闘から撤退し
た。

以降、革マルと中核・解放の殺
し合いは
1990年代まで続き、死
者はこれまで100名
以上出ている。
特に革マルは中核派のトップの
本多委員長
の奥さんを拉致して
首都高をグルグル車で
回ってい
る間に本多委員長を殺害した。

これで完全に殺し合いの火がつ
いた。

解放派も革マルに殺されたために
報復
が激しくなり、革マル派幹部
を車に閉じ
込めて焼き殺したりし
たし、中核派は
革マル活動家を白
昼洗足池近辺の住宅街
で一気に一
瞬で5名同時殺害を実行したり

た。
すべて撲殺である。刃物や銃器は

使用しない。新左翼の殺害方法
は焼き
殺すか撲殺だ。あとは拉致
されたブント
赤軍派がブント中央
派に追いつめられて
医大校舎から
転落死等。

とにかく、学生運動というと「殺
し合い」
が日常茶飯事となったの
が1970年安保
以降1990年代まで
継続した。

私の時代(1970年代末期~80年代
初期)
でも、殺人行為ではなくと
も、対立党派
を学内や路上で血だ
るまにする等はごく
日常的に発生
していたし、セクトの人間
はそれ
を実行していた。(内ゲバ反対派
の前衛派でさえも)

非道であるのは中核派で、「内
ゲバは
無益であり、絶対にやら
ない」と
表明していた「いい人」
が多かった
第四インターナショ
ナルの学生活動家
を三里塚闘争
の内部対立から中核派が
襲撃し
た事だ。
手を出さない相手と
判っていなが
ら襲撃する。卑劣極まり
ない。革
マル以上に卑怯な事だ。

その襲撃により、横浜国大の第四
インターのY君は脚を切断という
事に
なった。
第四インターは「絶対に内ゲバは
しない」
という事を明言した稀有
な新左翼で人気
が出て、女性が非
常に多かった党派だった。

1978年には三里塚管制塔を武力で
占拠
して開港を遅らせた。管制塔
占拠セクト
はブント戦旗派(西田
派と日向派の2派のうちの
日向派)、
プロ戦、そして第四インター
だっ
た。

だが、増えすぎるといろいろ問題
も起きる。

第四インターは、内部の女性問題
により
自己崩壊し、トロツキー創
設の第四インター
本部から除名処
分を受けてしまい、事実上瓦解し
た。

一方、中核派と解放派はどうなっ
たか。

1980年代末期から本当に末期症状
となり、
解放派は結局内部が三分
裂し、元同組織
の人間をテロルで
殺害しはじめた。新左翼内で初め
てドスで刺殺が実行された。
尤も、革マルは私の時代にも拉致
した
対立党派活動家(前衛派)を
千枚通しでブスブス
刺したりして
いた。早大では革マルが
絶対君主
であるので、他の党派の人間
たち
は別大学に亡命して亡命政権を作
しか生存の道はなかった。早稲
田などは
校門(門扉は無いが)の
前で革マルが
常に監視していて、
他セクトの活動家
が登校できない
ようにしていた。かつて早大には
ブント、解放派、革マル派、他

派がいたが、革マルが一党独裁を
敷いて
からは暴力(殺人を常とす
る)での支配
が早稲田では実行さ
れていた。早稲田のブント系も
解放派もすべて大学には通えなく
なった。
また、中核派も三分裂して元中核
派の元同志を襲撃しはじめ、
それ
の被害の後遺症により元中核派の
弁護士が自殺している。
一体、新左翼は何を目指している
のか。
否、いたのか。
連合赤軍が遺した負の遺産を全く
自ら
のものとして教訓化していな
い。

中核派は10年程前まではそれでも
まだ
末端まで含めると2万4000名
程いた。
革マルもほぼ同数。
中核などは中核派の中核部分は
300名程
で、かつての日本国内騒
乱の時代とさし
て員数の変動はな
い。

よくいわれる社会推移として、
「1970年
安保以降は学生運動人
気が低迷し、新左翼
が激減した」
という事が喧伝されるが、
それは
的を大きく外している。警察白書
も分析がかなり甘い。実態を正確
に把握してはいなかった。

その後も1970年代末期~1980年
代中期
までは新左翼自体の員数
はまったく減って
はいなかった。
周辺部分のシンパやただ
ヘルメ
ットを被って2、3度デモに出

とがある程度の「大衆部分」が
大量に
減っただけの事だ。新左
翼セクト自体の
員数は全く減っ
ていない。

各派合同集会をやれば、万余のヘ
ルメット
部隊が集まった。違いは
「浮動票たる
大衆部分」の参加が
減っていただけの
事だ。中心部分
の新左翼活動家は80年代
初頭でも
60年代末期と同程度はいた。

看板持ちの本当の組織員は。

本映画『探偵はBARにいる』の事
件の核心
は、元新左翼同士の壮年
の男二人の対立
が、実子まで含む
殺人事件に発展した
のが真相だっ
た。

そして、そのうちの元妻が拳銃で
黒幕
一味を最後の最後で欺く手を
使って全員
射殺する。結婚式場で。
その後、その元妻(小雪)は、自
分の
頭を笑顔で射ち抜いて自決す
る。自殺
でも自害でもない。自決
だ。

この映画作品は、なぜ元新左翼の
人物を
持ってきたのかよく分から
ない。

なぜならば、主人公の探偵も、北
大助手
の相棒も一切そうした社会
的な歴史
社会運動には興味がない
ノンポリであり、
ただの浪花節で
生きている人間が事件の
真相を解
き明かす物語だからだ。

だが、実はそうした社会意識から
外れた
ノンポリこそが社会の源の
力をもって
いるのかも知れない。
ノンセクトノンポリだった全共闘
個別撃破されて消滅したが、セ
クト
ではない全共闘という特殊な
運動体が
日本の歴史の中に足跡を
刻んだ事は、
かなり大きい物を残
したと思える。


浪花節?
それでいいんじゃない?
それで革命はできないけれど。
それで人は飯は食えないけれど。
でも、それを失くしたら人はお
しめえよお、てな
のが社会の真
相真理だと俺は思うよ。


ルパン三世的要素を入れている
演出。車両ナンバーが「3301」
であるのは「耳多い」
という探
偵を意味する隠喩の演出である
どうかは不明だ。
ちなみに、新左翼だけでなく社
会運動
を行なって逮捕された国
民を救援する
弁護士派遣業務で
ある「救援連絡センター」
の電
話番号は03-591-1301(獄入り
意味多い)
だった。
救援センター代表の個人的持ち
物件の都内の戸建てのビルのガ
レージを80年代中期に私が属

たレーシングチームはマシン整
備とレーサー
保管場所として借
りていた。
代表の山中氏は無償で
場所を提
供してくれていた。


英国料理がまずいわけ

2021年08月02日 | open














確かにイギリスでうまいもんは何にもない。
ウイスキーにしたって、うまいのはスコッ
チとアイリッシュだ。イングランドではな
い。併合した「別な国」の産物だ。

俺様大将の鼻持ちならない鼻高文化は、
食だけでなく人間性を含めた全文化の
健全な発展を完全に阻害する。人間的な
涵養さえ発達しない。
そして、特定の経済構造により、さらに
それは深化してしまう。英国の経済体制
を研究したマルクスが指摘するように、
上部構造(政治、文化、人的価値観)は下
部構造(経済構造)によって全て規定され
仕組みがあるからだ。
フィッシュアンドチップスは、さしずめ
お好み焼きみたいなものだろう。