「歎異抄」(阿満 利麿 訳・注・解説)を読みました。「念仏には無義をもて義とす」(念仏においては、計らいを捨てることが道理にかなっているのです)という本願念仏の思想を、全存在をかけて極めて行った親鸞。親鸞没後25年、親鸞の教えに違う言説(「異」)が広がるのを嘆き(「歎」)、親鸞の言葉に立ち返ろうとした唯円。そして、「原文」「注」「現代語訳」「解説」という形で、この本を編集した著者阿満利麿。思想と向き合う人たちの崇高さと覚悟が伝わってきます。
筆者は次のように語ります。「念仏者は、けっしてこのんで差別や排除を批判しようとするのではない。しかし、本願念仏の教えに忠実であればあるほど、世俗社会の秩序が隠そうとする不条理や欺瞞を見抜くことになる。その結果、時に、政治的弾圧を蒙ることになる。そうした場合にこそ、念仏者は本願念仏の教えを貫くという覚悟を必要とする。」
「石、瓦、つぶて」のごとき、社会の底辺に生きる人々を「われら」とよび、権力の弾圧によって島流しとなり、「非僧非俗」の在家主義を貫いた親鸞の生き方と、次の言葉がずしりと重い一冊でした。
「わがこヽろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」(自分の心がよくて人を殺さないのではありません。反対に、人を害しないでおこうと決めていても、「業縁」がはたらけば、百人でも千人でも殺すことになるのです)。
筆者は次のように語ります。「念仏者は、けっしてこのんで差別や排除を批判しようとするのではない。しかし、本願念仏の教えに忠実であればあるほど、世俗社会の秩序が隠そうとする不条理や欺瞞を見抜くことになる。その結果、時に、政治的弾圧を蒙ることになる。そうした場合にこそ、念仏者は本願念仏の教えを貫くという覚悟を必要とする。」
「石、瓦、つぶて」のごとき、社会の底辺に生きる人々を「われら」とよび、権力の弾圧によって島流しとなり、「非僧非俗」の在家主義を貫いた親鸞の生き方と、次の言葉がずしりと重い一冊でした。
「わがこヽろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」(自分の心がよくて人を殺さないのではありません。反対に、人を害しないでおこうと決めていても、「業縁」がはたらけば、百人でも千人でも殺すことになるのです)。
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