そぞろ神の物につきて―日本列島徒歩の旅の記録

  (2008年 日本海側)
  (2011年 四国八十八ヶ所)
  (2014・15年 太平洋側)

2015年 徒歩の旅 第19日  気仙沼市・ホテルパールシティへ

2016年04月14日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年4月19日(日) 晴 (南三陸町・平成の森
                  ~気仙沼市・ホテルパールシティ)








6時30分、出発。快晴無風。出発時、管理人さんの話では、歌津は起伏が多いから、すぐに高い所へ逃げられるので、東日本大震災の時もあまり死者は出ていない。ただし、それが逆に、いつでも逃げられるとたかをくくって油断したために亡くなった人もいる、と。

宿の横の仮設住宅と桜。






国道45号線(東浜街道)を北上、やや内陸部を行く。


交通整理の男性に、皆さんが復興のために汗水たらして頑張っているところを、遊山気分で通り過ぎていくのは、実は気が引けるのだが、と言ったら、地震も津波も過去のこととしてどんどん忘れられている、現状を見て行ってくれるだけでも有難い、と言われた。――首都圏で新聞とテレビだけからうけとるのではなく、実際にその状況の中で見ると、あらためて被害の大きさ・深刻さが、多少なりとも肌で感じられる気がする。首都圏では得られないものを、なるべくしっかり見ていくこと、なるべく忘れないこと、帰ったら周囲の人になるべく様子を伝えること。

7時25分、JRのBRTが陸前港駅に停まっていたので写す。




BRTは鉄路をアスファルトで埋めたところ(信越線の碓氷峠の廃線跡のような感じ)や、それができないところでは一般道を走っている。


仮設や、


桜を見て、


7時45分、南三陸町を抜けて、


気仙沼市に入る。




アップダウンが多い道。




蔵内漁港。海の人たちが働いているのを見るのは久しぶり。


その先から、浜に沿って行くところではどこも工事中。ただし、日曜日なので復興ダンプは通らず、歩くのには助かる。




8時35分、陸前小泉駅。


中で小休止。


8時55分、本吉町では、寸断された鉄路。




その周辺は大々的な工事。




再び上っていくが、高い所では津波の被害がないので、一見、何事もなかったような感じ。海岸部との落差の大きさを感じる。




9時25分、津谷高架橋。


再び海岸部へ下りてくる。










10時40分、大谷海岸。ハマナス公園の修復中。




10時45分、道の駅大谷海岸。




昼食休憩30分。

11時45分、御伊勢浜。


BRT専用道路。一般車通行禁止。


12時、二本松の一里塚。一本は道路拡張工事で消失。


松岩浜で国道45号線と別れ、気仙沼市街地へ。
賑やかな市街地を通り抜け、

14時30分、JR気仙沼駅の北側の「奥州観音霊場第三十番札所 曹洞宗 白華山 補陀寺」へ。






補陀寺は大学時代に一緒に山に登った山岳部の後輩が住職をやっていて、近況報告の後、彼の車で安部山(239m)に行き、中腹の展望地から市内を見下ろしつつ、東日本大震災の被害状況などを説明してもらった。




気仙沼は、地震と津波による広範な家屋の倒壊・流失、火事などあり、かなり凄惨な状況を見てきた、と。気仙沼市の被害は、死者・行方不明者あわせて約1500人。補陀寺は、高台にあったため津波の影響はなく、地震による一部損壊で済んだ。本堂内は一時避難所となったそうだ。

また、ビルの上に打ち上げられた漁船が話題になったが、震災遺構として保存するか、下ろして取り壊すかが問題になり、賛否両論の末、結局近隣住民のアンケートで8割の意向により後者になった、とのこと。維持管理の問題や遺族の感情などが大きかった模様。

その後、車で復興商店街などを見て回った。

いったん、彼が用意してくれた駅前のホテルで風呂に入った後、夫妻と3人で夕食をとった。‥‥というか、ご馳走してもらった。マンボウの刺身というのを初めて食べた。飲んで食べて話は尽きなかったが、翌日以降の行動もあり、21時少し前にホテルに戻った。お通夜堂にでも一晩泊めてもらえれば、と思って行ったのだったが、かえってずいぶんと散財させてしまった。いろいろと歓待してもらい感謝の一言。有難う。宿泊代も、手配してもらったので、0円。


2015年 第19日(佐多岬より81日)

歩数  46395歩    (佐多岬より累計  4215464歩)
距離  31.5km     (佐多岬より累計  2782.5㎞)
費用  2622円     (佐多岬より累計  407927円)


2015年 徒歩の旅 第18日  南三陸町・平成の森へ

2016年04月13日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年4月18日(土) 晴 (女川町・ふじ旅館~南三陸町・平成の森)







工事関係者が多く宿泊しているため、朝食は6時前から用意されていた。

6時15分、宿を出発。天気は晴、風は無し、絶好の歩き日和。国道398号線を行く。


至る所、工事中だが、まだ時間が早いため静かだ。








6時40分、東日本大震災の震災遺構の一つである旧女川交番。




遠くに見える白い三角屋根が、移築されたJR女川駅。


女川湾は防潮堤工事。


仮設住宅。


急坂を上ると女川湾の防潮堤工事の様子が見下ろせる。


7時5分、大島桜が満開で朝日に輝いていた。


7時10分、マリンパル女川。この辺りより北側は、「リアスブルーライン」と呼ばれるようだ。海が美しいが、この海が津波となって襲い来ることもあるのだ。






7時30分、仮設住宅。


竹の浦の海。


8時、女川第三小学校の校庭にも被災者仮設住宅。


8時10分、尾浦。




8時40分、御前浜、防潮堤工事中。




指が浜。










9時25分、再び石巻市に。












9時50分、分波トンネルと


10時、水分トンネルを抜けて、


雄勝へ。




雄勝は硯の名産地。


支倉六右衛門常長の造船地碑。遣欧使節の船を造らせたのだろうか。


雄勝湾。


鯉のぼりを上げていた人たちに道を尋ねたところ、そのうちの自動車2台で来ていた4人の中年の支援者のグループが、南三陸まで行くから乗せてくれるという。

今日は距離の関係で宿が取れず、北上川付近のどこかでビバークを考えていたので、南三陸町まで乗せてもらえるのは大助かり。

彼らは、大学の同期生で3人は関東在住、東日本大震災の直後にも来ており、現在の被災地の様子を見に来たと言っていた。鯉のぼりは、被災者を励ましたいということで立てたのだそうだ。良心的な感じの人たちだった。車内で、4人のうちの宮城県に住んでいる1人からいろいろとこの4年間余りの様子を聞いた。

11時10分、大川小学校跡で車を止めて一緒に見学し、またその彼から、説明を受けた。
現地は、確かに津波が押し寄せてくるとは思えないほど広々としていたが、自然の脅威は侮れないもの。当時、小学生が待機中に北上川の堤防が決壊して津波が押し寄せ、前の方の低学年の生徒たちが巻き込まれ、おぼれていく中で、後方の数人の高学年生が、とっさに裏の斜面に駆け上って一命をとりとめたのだろう、とのこと。様々の要素が重なり合っていると思うので簡単に結論は出せないが、深く考えさせられた。




















祭壇に手を合わせ、74人の生徒と10人の教員の冥福を祈ったときには、不覚にも涙が出そうになった。


その後、国道398号線、国道45号線を経て、

12時20分、南三陸町の「南三陸さんさん商店街」まで乗せてもらい、そこでお礼を言って別れた。少額を包んだが、受け取ってもらえなかった。








刺身定食を食べて大休止。


志津川まで来ることができたので、急遽、歌津の平成の森の宿泊施設に電話したところ、折よく宿が取れ、歌津まで国道45号線を辿ることに。

13時、気仙沼線BRT(バス高速輸送システム)の志津川駅。


志津川高校。




やや内陸部に入り、土曜日なのに、ダンプカーやミキサー車が激しく行き交う中を歩く。「志津川復興街づくり事業」というゼッケンをつけたトラックもあり。

清水浜で、破壊されたmJR気仙沼線の下を通る。








その後再び内陸部を行き、ここも寸断された鉄路。






歌津に入る。




田束山。








歌津の町で、食料を調達し、平成の森に向かう。

途中、自動車の高齢夫婦が、平成の森まで乗せてくれるというので、短い距離だったし、1日に2回も自動車に乗せてもらっては歩き旅ではなくヒッチハイクになってしまうと思ったが、是非にと言われ、お言葉に甘えた。彼らは近くの旅館のオーナーで、彼らの話で、今年の3.11以後、被災地のお遍路が始まった、ということを知った。三陸地方の被害を免れた寺院を順にお参りするという取り組みで、既に10人のグループを泊めた、と言っていた。

16時、宿に着く。宿泊、素泊まり 3900円。


宿の隣にも仮設住宅。





2015年 第18日(佐多岬より80日)

歩数  47113歩    (佐多岬より累計  4169069歩)
距離  74km       (佐多岬より累計  2751km)
※雄勝~志津川の間(約40㎞)と平成の森直前は自動車に乗せてもらった。
費用  6532円     (佐多岬より累計  405305円)


2015年 徒歩の旅 第17日  女川町・ふじ旅館へ

2016年04月12日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年4月17日(金) 晴 (仙台市・千登勢屋ユースホステル
              ~東松島市・JR陸前小野駅~女川町・ふじ旅館)




今日から再びザックを背負っての旅がはじまる。

5時20分、宿を出て、JR仙台駅から仙石線で松島海岸駅へ、代行バスで陸前小野駅へ向かう。

代行バス区間は、松島の遊覧船乗り場を過ぎるとあたりが一変し、復旧工事中のコンクリートが続く。途中しばらく田園地帯を通ったが、陸前大塚からは工事中。防潮堤が鉄道の線路を防護するようにずっと続いていた。特に野蒜の周辺がひどくやられたようで、駅のあったところは荒廃し、更地のままむき出しで、遠くに高い白色の防潮堤が見えた。

7時30分、昨日の到達点であるJR陸前小野駅に着く。

駅からの様子(仙台方面)、


(石巻方面)


案内図。


7時35分、陸前小野駅を出発、国道45号線を石巻、女川方面に向かう。


8時30分、矢本駅前。


道路は工事関係のダンプカー多し。

9時5分、定川橋を渡る。


定川の堤防工事が大々的に行われていた。


9時40分、石巻市に入る。


歩道橋を渡り、389号線に入って、

10時40分、金華山道の標柱のある交差点を右折して県道240号へ。


途中で道を尋ねつつ、

11時15分、日和山公園(標高54m)へ。






桜が満開で、眺望は抜群だが、手前の斜面の桜とは対照的に、先の方の平地は津波の爪痕が生々しく残っており殺伐としていた。だだっ広くむき出しの荒れた平地をダンプが何台も走り回っている。かつてここに街があったとはとても思えず、約4000人の犠牲者のことを考えると言葉もない。






鹿島御児神社参拝。一日も早い復興を祈念した。




見事な桜の木の下に芭蕉句碑あり。
「雲折々 人を休める 月見かな」




木俣修歌碑、
「大漁の旗あぐる船よりよぶこゑに
こたふるなして海なりの音」。




北上川の改修や石巻河口港の整備を行い、石巻港繁栄の基礎を築いた、川村孫兵衛重吉の像。




冷たい風が吹き始め、寒くなったので下山。

急坂を一気に下り、
今も震災津波の跡が残る街中を通って、












国道389号線に戻り、旧北上川にかかる内海橋を渡って回り込むように進むが、歩道は非常に状態が悪い。道路が骨粗しょう症のような感じ、というか。あちこち工事中。

風強くかつ寒く、吹き飛ばされるように歩く。向かい風ではないのが救い。

13時50分、万石浦も護岸堤防が目立つ。




石巻線に沿って浦をまわる。







途中で降雨あり。

14時10分から20分間、バス停にて雨宿り。
その後は止んで、薄日がさしやや暑し。

14時35分、女川町に入る。







万石浦が終わり、浦宿駅で、やって来た「キハ」の写真を撮り、




15時25分、宿へ。宿泊、2食付き 7020円。

宿には、長期滞在の工事関係者が多かった。宿の人から、予約の際にも工事関係者かと尋ねられたし、ここから先も工事関係者で宿は一杯だろうと言われた。夕食に毛ガニが出た。


2015年 第17日(佐多岬より79日)

歩数  40805歩    (佐多岬より累計  4121956歩)
距離  28km       (佐多岬より累計  2677km)
費用  8310円     (佐多岬より累計  398773円)


2015年 徒歩の旅 第16日  東松島市・JR陸前小野駅へ

2016年04月11日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年4月16日(木) 晴 (仙台市・千登勢屋ユースホステル
     ~東松島市・JR陸前小野駅~仙台市・千登勢屋ユースホステル)




今日も千登勢屋ユースホステルを根拠地にして、空身のピストン。仙石線の状況を見つつ、行けるところまで。

5時15分、宿を出る。清々しい陽気。

5時30分、仙台市立東六番丁小学校の校庭の桜が満開。


左折して国道45号線(仙塩街道)を東進する。

途中で見かけた「みちのくプロレス」のポスター。


6時10分、陸上自衛隊仙台駐屯地。門の中、桜が満開。


6時30分、仙台バイパスの苦竹インターチェンジの歩道橋より。東に向かって歩いているので太陽眩しい。


7時5分、七北田川にかかる福田大橋より上流側。


橋梁補修工事中。


7時30分、宮城野区中野歩道橋にて「過去の津波浸水区間」の表示。


防災マップ。


7時40分、多賀城市に入る。


頭上にも境界表示ありて、


仙台市を抜ける。


多賀城高校生がつくった、3.11津波の到達表示や、


「波来の地」碑。


8時15分、多賀城市伝上山の歩道橋の「過去の津波浸水区間の表示」。


8時30分、塩釜市に入る。


8時35分、塩釜市錦町の歩道橋の「過去の津波浸水区間」の表示。


9時、「芭蕉船出の地」の碑。元禄2年5月、この辺りより松島に向けて船出した、と。(当時はここが海岸線)




途中の店で、鹽竈神社について尋ねたところ、桜が満開だからぜひ行って見てきたらよい、と強く勧められ、寄り道することにした。

9時5分、鹽竈神社東参道入口。


9時10分、「東日本大震災による津波 この地点まで到達する」の標柱。


その先に、陸奥国一之宮「東北鎮護鹽竈神社」の表参道。


202段の急坂。標高差約50mを上る。






上りきると随身門。


境内は桜が満開。寄り道は大正解。「桃源郷」ならぬ「桜源郷」の気分。




別宮拝殿に参拝し、


左右の宮拝殿に参拝。


境内案内図。


鹽竈神社は志波彦神社と同じ境内に同居。



社殿の東にある境内社の志波彦神社手水舎の見事な枝垂桜。




甑炉型鋳銭釜


塩釜湾を望む。


東参道の明神鳥居。


有名な鹽竈桜はまだ咲いていなかったが、ソメイヨシノや枝垂桜の他にも八重桜の「白妙」あり。




他にも花の案内があった。


「ミヤマシオガマ」や「ヨツバシオガマ」は、山で見たことあり。


名物お菓子「志ほか満(しおがま)」の店。




10時、国道45号線に戻り、仙石線の下から塩釜湾。先ほど上から見たときはわからなかったが、近くによると復旧工事中。




工事完了時のイラストがあるが、あとどれほどかかるのだろうか?


10時35分、利府町に入ると、


松島湾。


10時40分、須賀第一トンネル。


トンネルの海側に、歩行者自転車専用トンネルあり。


利府町案内図。


11時、浜田トンネル。


11時15分、松島町へ。


歩道がなく、ヒヤヒヤしながら歩いていたが、途中から立派な遊歩道になった。






松島と象潟は夫婦町で、象潟の娘タニと松島の若者小太郎の悲恋物語が両町を結びつけた、のだそうだ。芭蕉とは関係ないようだが、「象潟や 雨に西施が ねぶの花」の句など思い浮かべつつ。


11時45分、松島トンネルを抜けると、


観光地松島。


瑞巌寺には芭蕉碑と


いくつかの句碑など。


紅蓮尼の歌もあり、
「植え置きし花の主ははかなきに
軒端の梅は咲かずともあれ」
「咲けかしな今は主とながむべし
軒端の梅のあらんかぎりは」。


11時55分、瑞巌寺本殿参拝は修理中のため割愛。






12時、遊覧船渡船場。


五大堂。


松島湾。


13時25分、東松島市に入る。




その後、大失敗。海沿いを行くべきであったが、国道45号線に引きずられてそのまま進み、高城川を遡行して内陸部で一山上って下りた。コンビニもなく自販機もない暑いバイパス道路をひたすら歩く羽目になってしまった。一つだけよかったのは、カエルの声が聞けたこと。あちこちで高らかに鳴いていた。

14時40分、ともかく鳴瀬大橋に出て、




15時5分、陸前小野駅に着く。


売店の女性に、代行バスの乗り方を教えてもらい、駅前から松島海岸駅へ、その後は仙石線で仙台駅へ。

17時5分、宿に戻る。

宿の女将さんの話では、野蒜にあったパイラ松島・奥松島ユースホステルは、3.11の津波でそっくり壊滅してしまい、オーナーの奥さんも亡くなられたとのこと。現在、再開のめどはたっていない、若い真面目なご夫婦だったのに残念なことだった、と。


2015年 第16日(佐多岬より78日)

歩数  64661歩    (佐多岬より累計  4081151歩)
距離  42.5km     (佐多岬より累計  2649km)
費用  5932円     (佐多岬より累計  390463円)


2015年 徒歩の旅 第15日  仙台市・千登勢屋ユースホステルへ

2016年04月10日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年4月15日(水) 雨・晴のち雨 (仙台市・千登勢屋ユースホステル
       ~JR仙台駅~JR岩沼駅~仙台市・千登勢屋ユースホステル)




5時30分、小雨の中、宿を出て、JR仙台駅へ。さらに東北本線で岩沼駅へ。

JR岩沼駅前の芭蕉像。


6時30分、岩沼駅を出て、「日本三大稲荷」の竹駒神社へ。雨止む。

大鳥居。


隋身門。


向唐門。


拝殿。


境内。


元宮跡。


境内の芭蕉句碑(右)、
「佐くらより松盤二木を三月超し」。


土井晩翠歌碑
「竹駒の神のみやしろもうで来て
  綻びそめし初桜見る  晩翠」。


参拝中に、陽がさしているのに再び雨が降り出した。「狐の嫁入り」。ちょうどお稲荷さんで、できすぎた話。

すぐに雨は上がり、みるみるうちに青空が広がる。


7時、歩行開始。門前をしばらく北上し、国道4号線(奥州街道)へ。

7時40分、名取市。


登校中の小学生たちと挨拶を交わしながら、仙台バイパスを避けて、そのまま旧国道4号線で現在は国道273号線を行く。

暑くなり、自販機でポカリを飲む。気づかないうちに仙台市に入り、

9時40分、名取橋を渡る。


遠くの雪をつけた白い山々は蔵王あたりか?


10時、道幅が広くなった国道273号線を行くと、


10時20分、長町で、左手に仮設住宅が並ぶのを見る。




被災者の生活の困難はいかばかりかと、乏しい想像力で思ってみるよりほかない。

10時45分、広瀬川にかかる広瀬橋。








11時30分、仙台駅へ。


仙台マップ




明日・明後日のダイヤを確認し、売店で義母に「萩の月」を送り、まだ時間があるのでバスで仙台城跡へ向かう。


青葉山公園。


仙台博物館の横を通り、

魯迅の像や、


碑、


先覚者、林子平の碑、


阿部次郎句碑、
「白雲の 行方を問はむ 秋の空」。


などを見つつ、仙台城跡へ。

頂上は、宮城縣護國神社にもなっている。




伊達正宗像。


青葉城資料展示館、700円。







これはあえて言うと、四国で見た「竜馬歴史館」や「平家物語歴史館」などと同じようなビジュアル重視の(=子供向けの)施設で、内容もまぁ底の浅いもの。

土井晩翠の像。






東日本大震災で一部が落下した昭忠碑。




樹間より仙台駅方面を望む。


その後の時間を、牛タン定食を食べるか、仙台市博物館へ行くかの選択になったが、後者を選択。仙台市博物館へ。400円。






館前の不思議なモニュメント。


こちらは先の資料展示館とは比べ物にならないほど、資料的にも充実していた。特に、伊達政宗よりも支倉常長に興味がわき、ボランティアの解説員にお願いした。マン・ツー・ウーマンで、20分以上も丁寧な説明をしてもらい有難かった。支倉は謎の多い悲劇の人物で、実際のところ彼が何を考えていたかはよくわからない、とのことで余計に興味がわいた。旅の後、調べてみたいと思う。

博物館を出たころから、空気が一気に冷えてきて、黒雲が広がりだしたので、急いで宿へ戻った。

16時、宿へ着いた直後に雷鳴がして激しい降雨。ぎりぎりセーフだった。宿泊、夕食付き 4752円。



2015年 第15日(佐多岬より77日)

歩数  44432歩    (佐多岬より累計  4016490歩)
距離  22.5km     (佐多岬より累計  2606.5km)
費用  7271円     (佐多岬より累計  384531円)


2015年 徒歩の旅 第14日  岩沼市・JR岩沼駅へ

2016年04月09日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年4月14日(火) 雨のち曇 (相馬市・「道の駅そうま」
     ~岩沼市・JR岩沼駅~仙台市・千登勢屋ユースホステル)




東電福島第一原子力発電所の放射能もれ事故のため、太平洋岸は通行不可になりしばらく内陸部を迂回したが、再び浜通りにやってきた。


4時45分、出発。小ぬか雨が降っている。夜はさほど寒くはなかった。傘をさして国道6号線を歩くが、間もなく止んで、歩行がはかどる。

5時、20分、相馬バイパスを行く。


ここも路肩に桜の苗木が植えてあるが、花をつけていたり、枯れてしまっていたり‥‥。


6時30分、新地火力発電所を通過。


7時15分、駒ケ根大橋で常磐線の上を通るも、ただ石だけで線路は見あたらず。この区間はまだ復旧していない。


岩沼まで31㎞の表示があたので、できればJR岩沼駅まで行ってしまいたいところ。

8時25分、東日本大震災の時の津波浸水区間の表示。この後、この表示を限りなく見ることになる。


8時30分、福島県新地町から、


宮城県山元町へ入る。小休止。時々降っていた雨はすっかりやんだ。


8時を過ぎて、国交省や林野庁のゼッケンをつけた復興ダンプが頻繁に通るようになった。


「南相馬市除染工事」という土を積んだダンプもある。これはおそらく除染した場所に新たな土を入れかえるもののようだ。

過去の津波浸水区間の表示。この地点は海抜17mとあり、かなり内陸部と思われるが、津波はここまで到達したのかと思うと、いまさらながら、その猛威を感じる。。




9時20分、坂元では大々的な工事をやっていた。






旧市街地はあきらめて、こちらに新たな街づくりを始める模様。


9時25分、列車代行バスの「坂元駅」停留所。


JR常磐線も工事中。高架に変えるようだ。「つなげよう常磐線 JR常磐線復旧工事」と書かれている。

素人目だが、復興はまだまだ先が長い、と感じた。
それと、どうやら列車の運行に関しては、
( 仙台――――亘理‥‥代行バス‥‥相馬――――原ノ町 )
ということのようだ、と考えた。

10時35分、満開の桜にいっときいやされる。


復興ダンプ走る。




11時25分、亘理町へ。


12時30分、ひっそりとした仮設住宅の横を通過。


14時10分、復興ダンプの列。「海岸防災林復旧工事」のゼッケンも。




14時25分、阿武隈川を渡り、




岩沼市へ。


14時50分、二木の松史跡公園にて小休止。





二木の松(武隈の松)の碑。


芭蕉の句碑あり、
「桜より 松は二木を三月越」。


歌碑もある。
藤原元良
「宇恵し登き ち起里やしけ舞 多計久満の
        松をふたたび あ飛見つ留嘉那」 
橘  季通
「堂希九万の 松八二木越 美屋古人
        い可がと問八ば み起とこたへ舞」
     

15時5分、JR岩沼駅へ。


JR東北本線で仙台駅まで行き、駅の総合案内所で確認して、今夜から3日間の根拠地にする千登勢屋ユースホステルへ。

16時20分、宿に着く。宿泊、夕食付き 4752円。

宿では、おとなしいドイツ人の青年と同室だった。28歳で、バカンスで日本に来た。ロシア、中国、日本、タイ、南米のブラジル、アルゼンチンなどを回る計画。見聞を広めるのが目的、日本はきれいで気に入った、と。カタコトの英語、ドイツ語で会話するが、なかなか意思疎通ができずにもどかしいが仕方なし。


2015年 第14日(佐多岬より76日)

歩数  66235歩    (佐多岬より累計  3972058歩)
距離  43.5km     (佐多岬より累計  2584km)
費用  5802円     (佐多岬より累計  377260円)


2015年 徒歩の旅 第13日  相馬市・「道の駅そうま」へ

2016年04月08日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年4月13日(月) 曇のち雨 (飯舘村・もりの駅まごころ
                            ~相馬市・「道の駅そうま」)




4時45分、午後は雨との予報で、早出した。曇で暖かく、風もない。夜間のテント結露もほとんどなし。


暗い中を、ダウンジャケットを着用しヘッドランプを頼りに、県道12号線を東進すると、ここにもフレコンバッグのかたまり。今日は、その後もあちらこちらでフレコンバッグの山を見ることになった。また、5~6個おかれてある民家もいくらもあった。




5時40分、「飯舘村道路元標」と、


村の変遷が刻まれた石碑があった。


1時間で明るくなってきたが、村内には人の気配が全くなく、静寂そのもの。

5時50分、草野の交差点で、このまま南相馬に向かって12号線(ツーリングマップルの緑線)を行くか、県道31号線の少し先の大倉鹿島線という県道268号線(黄色線)に入るか、思案のしどころ。これまでも黄色の線にはずいぶんと苦労させられてきたので迷うが、結局黄色を選択し、はやま湖に向けて下っていく。


6時10分、ここにも放射能汚染物質が入った大量のフレコンバッグ。


6時40分、オレンジ色のベストを着て軽自動車に乗った2人連れの女性たちに出会い、いくらか様子を聞いた。それによると、飯舘村は放射能のため全村避難をしており、村には誰もいない。「人に会わなかったでしょう」といわれた。住宅が泥棒や野生動物にやられないように、定期的にパトロールしている、と。地震については、飯舘村は地盤が固いのでほとんど被害はなかった。一人の女性は、うちなんか神棚のお札が倒れただけだった、と言っていた。ところが、その後に思いもよらない放射能の被害をこうむってしまった。原発から遠いし、安全神話にとらわれていて安心していた。もう5年目に入っているのに全く先が見えない、と嘆いていた。月並みで気休めにもならないだろうが、頑張ってと伝えた。彼女たちから、歩きだから、この先、猪とサルに気をつけるようにアドバイスをもらった。

細くて急なジグザグの山道を行く。一度、犬の鳴き声らしきものが聞こえたが、それ以外はなし。ごくまれに自動車が過ぎる。


7時10分、木戸木のトチ。




カタクリの花が、早朝なのでまだ眠っている。


さらにジグザグの大下りでダム湖へ向かった。




8時40分、はやま湖に架かる大倉大橋。


橋の手前の広場で小休止。




はやま湖は波静か。




9時15分、真野川ダム。




9時20分、南相馬市に入る。ここは避難地域ではないので、高齢者たちがグランドゴルフをしている姿もあった。


ダム湖を迂回して、芽吹きの鮮やかな沢を下る。




10時40分、栃窪簡易郵便局。


先ほどまで時おり薄日がさしていた空に、急速に暗い雲が増え、風も冷たくなって、雨の近いことを知らせている。

11時30分、相馬市に入る。


さらにひたすら下って、高速道路の下をくぐると、日立木駅への道が分岐。

11時15分、そのまま進んで日立木駅で小休止。宿の都合上、仙台で3泊の予定なので、明日の夜に仙台へどう行こうかと考えていたが、常磐線が原ノ町駅まで通じていることを確認し一安心。


さらに東進し、

12時20分、国道6号線沿いの「道の駅そうま」に到着。雨はうまく回避できた。




あとは道の駅で食事をし、営業が終わるまで待って、どこかにテントを張らせてもらうだけ。

時間がたっぷりあるので、先ず、震災伝承コーナーの展示などを見た。
















ビデオでは、あの当時の様子をまざまざと知らされた。

















その後は、畳敷きの休憩室で、仮眠したり、持って行ったシャックルトンの『エンデュアランス号漂流記』を読んだりして過ごした。

昼過ぎに雨が降り出したが、予報の言うような強い雨にはならず、夕刻ではまだ弱雨。

17時45分に、休憩室が閉められたので、情報コーナー裏の庇の下にテントを張った。宿泊、無料。


2015年 第13日(佐多岬より75日)

歩数  49411歩  (佐多岬より累計  3905823歩)
距離  32km     (佐多岬より累計  2540.5km)
費用  1337円   (佐多岬より累計  371458円)


2015年 徒歩の旅 第12日  飯舘村・もりの駅まごころへ

2016年04月07日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年4月12日(日) 晴 (二本松市・杉沢大杉入口バス停
                      ~飯舘村・もりの駅まごころ)




5時、起床。天気は晴、風弱し。かなり寒かったが、外には霜が降りていたので、それを考えれば有難い泊まりだった。


5時40分、出発。

6時、日の出。今日は良い天気の模様。


6時5分、国道349号線をしばらく行くと「道の駅 さくらの郷 1.8㎞」の表示あり。小生の古いツーリングマップルには載っていなかったが、きのうのお婆さんが言っていた「すぐそばの道の駅」がこれのようだ。


6時30分、「道の駅 さくらの郷」。まだ開いていないが、トイレ、洗面と小休止。


7時10分、霜が降りた田圃に日がさして、湯気が立ち上っている。


7時35分、連翹と桜。


7時50分、遠くの山に雪が見えた。


8時、「道の駅 ふくしま東和」へ。こちらも開店前で静か。朝食のため20分休憩。


二本松市観光案内版。NHKの大河ドラマ『八重の桜』に出てきた「二本松少年隊」はもう少し西の方か。




歩きだしてしばらく行くと、路傍に大量の土筆が顔を出していた。


8時30分、田植えの準備中だが、



その先には、放射能除染の大量の黒いフレコンバッグが野積みされている。放射能汚染地区に入ったことを実感する。そういえば、昨日のお婆さんも、庭と家の前を除染してもらったと言っていたし、江田の夏井川渓谷キャンプ場も、除染して表面の土を削り新たに入れ替えたと言っていたっけ。そういう地域を歩いている、ということ。


9時、二本松市東和支所にユニークなお祭りのモニュメント。




文化センターに「桜色 ほんとの空に 映えるまち」の幟。
今日は快晴、高村光太郎の妻の智恵子が東京であこがれた二本松の「ほんとの空」の下を歩いている。‥‥でも、今は目に見えない放射能が空中に漂っているのだが。


アップダウンの多い道を行く。暑くなり、短パンに半袖になる。


鯉のぼり泳ぐ。


9時30分、口太山トンネル。これを抜けると川俣町。


美しい自然と、




人事との対比。


桜、椿、連翹、花桃‥‥。


川俣町は、フォルクローレ・フェスティバル「コスキン・エン・ハポン」の開催地。コスキンはアルゼンチンの町の名前だそうだ。


11時、大清水服部(機織)御前堂跡。




11時5分、県道12号線との交差点。右折し、長い坂道を相馬、飯舘方面に上っていく。


「熊出没注意」などという表示なども見ながら上り、

放射線量は0.468マイクロシーベルト。


12時30分、300mほどを上りきって、峠にて飯舘村に入る。


峠は水境で、「水境妙見初發神社」が祀られていた。


境内には松と大杉があり、


「お出なされや妙見さ満に 杉尓可らまる 夫婦松」と彫られた石が立っていた。


峠の先はダラダラと下ったり上ったり。ここにもフレコンバッグ。


当初計画した「あいの沢キャンプ場」は、放射能被害のため、現在、休業中なので、そろそろキャンプ場適地を探さねばと思いつつ歩いていると、

13時35分、「もりの駅まごころ」へ。閉まっているが、日曜のためか放射能のためか?


時間が早いので、場合によってははやま湖あたりまで下って適地を探してもいいかと思っていたが、板張りのベランダが快適そうだったので、今日はここに泊めてもらうことにした。宿泊、0円。

この辺りは標高450m、陽が当たっているうちは暑いくらいだったが、陰ると一気に冷えた。



2015年 第12日(佐多岬より74日)

歩数  44803歩  (佐多岬より累計  3856412歩)
距離  31km     (佐多岬より累計  2508.5km)
費用  579円    (佐多岬より累計  370121円)


2015年 徒歩の旅 第11日  二本松市・杉沢大杉入口バス停へ

2016年04月06日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年4月11日(土) 晴 (小野町・宍戸旅館
                     ~二本松市・杉沢大杉入口バス停)




昨夜のテレビの予報通り、天気は雨(「降水確率は80パーセント」と言っていた)。宿でゆっくり朝食をとり、

8時40分、ゴア雨具+傘で雨の中を出発。


昨日の旦那さんが言っていた、小野新町唯一の見どころである「リカちゃんキャッスル」を一応見ていく。


すぐに国道349号線に出て、その後は雨の田園風景の中を北上する。

吉野辺の種まき桜。開花によって種籾をまく時期をうかがう目安にしていた、と。




10時40分、小野町を抜けて、


風越トンネルを通って、


田村市に入る。田村市は、2005年に、滝根町、大越町、都路村、常葉町、船引町の5町村が合併してできた。市の名は坂上田村麻呂にちなむそうだ。


11時5分、田村市の旧大越町の案内板。


船曳町の郊外の量販店や中古車販売店などが並ぶ通り以外は、ほとんどが山里風景

午後、雨があがるが、しばらくしてまた霧雨。


14時20分、「浪江」、「川俣」と、テレビで放射能被害が伝えられている町の名前が現れる。


緩やかな上りを何度か繰り返しているうちに、ようやく14時半ごろに山際に青空が現れ、雨が止んだが、冷たい向い風が吹きあるきづらい。

交通量少なく、通行人はまったくいない。


坂道が繰り返される。




15時25分、二本松市に入る。




15時30分、杉沢の大杉手前で電線にツバメ発見。


歩道の縁石に腰かけていたお婆さんに挨拶したら、どこまで行くのかと言われた。ふくしま東和道の駅まで行って、今夜は、そこで泊まるつもりだと言ったら、バス停所の小屋が自分の所有物で貸してあるものだから、そこで泊って行けと言うので、道の駅のコンクリートの上にテントを張るよりも、小屋の中にテントを張る方が快適そうなので、ご好意に甘えることにした。


そして、家は道路の反対側の店だからお茶を飲んで行けと言われ、寒かったのでちょっと立ち寄らせてもらい、お茶と缶コーヒーをいただいた。冷えきった体に熱いお茶がしみわたった。
先ほどのツバメの巣が、お婆さんの店の中にあった。


話しているうちに、お婆さんの娘さんが川崎に嫁いでいるのだと言い、小生も川崎に住んでいると言ったら、打ち解けて話がさらにはずみ、店のカップ麺とご飯とほうれん草のおひたしもよばれることになった。代金を受け取ってくれないので、お礼の代わりに写真を撮って、旅から帰ったら送ることを約束した。(‥‥後日、約束は果たした。)

その後、有名な大杉を見てくるといいと言われ、夕刻、見に行った。

16時20分、杉沢の大杉へ。










なるほどデカいや。高さ50m、樹齢600年だそうだ。立派であり、パワーそのものだった。

16時40分、バス停に戻り、バスダイヤも終了しているので、中にテントを張って休んだ。宿泊、0円。


2015年 第11日(佐多岬より73日)

歩数  44367歩  (佐多岬より累計  3811609歩)
距離  30.5km   (佐多岬より累計  2477.5km)
費用  0円      (佐多岬より累計  369542円)


2015年 徒歩の旅 第10日  小野町・宍戸旅館へ

2016年04月05日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年4月10日(金) 晴 (いわき市・夏井川渓谷キャンプ場
                              ~小野町・宍戸旅館)




今日は、実のところ、結局、江田駅前商店の旦那さんの自動車で小野新町まで乗せてもらってしまって、予定ルートはまったく歩かず。その代わり(?)予定外の三春の滝桜などを見ることになった。それもまた旅‥‥。

5時に小鳥の声で目覚めたが、もう一眠りし、

5時30分、再度目を覚ましたが、8時に店の旦那さんと待ち合わせして自動車に乗せてもらう手はずになっているので、寝袋の中でぐずぐずした。コースの半分くらいまで行かれればだいぶ助かる。以前なら、自動車に乗せてくれると言われても、「歩き旅なので‥‥」とお礼を言ってお断りしていたが、年も年なので、今回はご好意に甘えることにしている。
現在の天気は曇。夜中にテント内が結露し、起きて拭いたが、今朝はさほど濡れてはいない。昨夜は、昼間に急きょ買ったホカロンを4個使ったので、前夜ほど死にもの狂いではなかったが、それでも寒さのため背骨が少しグラグラした。

8時、車に乗せてもらって出発。県道41号線の磐城街道を小野新町方面へ向かう。


8時10分、籠場の滝。
















大町桂月の歌碑あり、
「散り果てゝ 枯木ばかりと 思ひしを 日入りて見ゆる 谷のもみぢ葉」。


8時20分、夏井川渓谷錦展望台。








地元では「岩ツツジ」と呼ばれているが。正式には「アカヤシオ」というのだそうだ。ちょうど満開で見ごろだが、天気がいまいちなので、われわれの他には、男性カメラマンが一人いただけだった。このアカヤシオの見ごろと秋の紅葉の時には、列車が速度を落としてゆっくり通過するのだそうだ。

雨が降り出してきたので、旦那さんがどうせだから小野新町まで乗せてくれるという。しかし、それでは今日の行程全部になってしまうので、一瞬どうしようかと考えたが、易きに流れ結局は乗せてもらうことにしてしまった。だから、厳密にいえば、上の地図の夏井川渓谷キャンプ場と小野新町の間の行程は赤色ではないはずだが、まぁいいでしょう。

屋根の傾斜の大きさが、冬の雪多さを物語っている。雪下ろしの手間が省ける、というわけ。


9時、夏井の千本桜。残念ながら、まだ早すぎて蕾のまま。花が咲くにはもうしばらくかかりそう。








車中で、いろいろな話を聞くことができた。
① この地域も、今では食料品や旅館など多くがやめてしまった。若者は都会に行ったまま帰ってこない。以前は道路も整備されておらず、自動車も少なくて、列車で大勢の観光客が夏井に桜や紅葉を見に来た。その頃は店も多く賑やかだったが、今では過疎地。地域の過疎化に伴って、イノブタ、サル、ハクビシンなどが大量に繁殖し、作物への被害が大きい。じゃがいも畑が全滅したという例もある。
② いわき市内に、原発の避難者が集中している。当初、会津方面に避難した人も、寒くておられず、いわき市に出てきた。市内には仮設住宅もたくさんある。避難者数は1万5千人くらい。避難者も様々で、通り一つ隔てただけで保証金の額が異なり、感情的な問題もあるようだ。自分も、要請があり、東日本大震災直後から3年間、解体・復旧作業をした。7千人くらい働いており、アパートや関連産業、飲み屋、パチンコなども盛んだった。
③ 小野新町に着いて、時間があったら、ぜひ三春の滝桜を見に行くとよい。ちょうど見ごろだと思う。―― 等々。

9時10分、小野新町に着き、お礼を言って少額だが渡そうとしたが、そういうつもりで乗せたのではないと言って受け取ってもらえなかった。

その後、彼の言う通りに、宿に荷を預かってもらい、


小野新町駅から、




ゆうゆうあぶくまラインで三春駅へ。


シャトルバスがまだ動いておらず、タクシー4人相乗りで、滝桜を見に行った。三春では雨は上がっていた。観桜料、300円。同乗のいわき市街から来た中年女性は、7年前は無料だったのに、と言っていた。花は大きいが、まだ3分咲きといったところ。それでも堂々たる風格。人出はそこそこあった。




















何か気が合って、同乗の4人で行動し、帰りは一緒に歩いて三春駅に向かった(途中でもう一人加わった)。滝桜の他にも、やはり大きな枝垂れ桜が咲いていた。




駅近くで、彼らと別れて、三春町見学。




自由民権の広場に、自由民権運動の先覚者「磐州河野廣中之像」。




三春歴史民俗資料館。入館料250円(滝桜を見たので、-50円の割引き)。






作る、運ぶ、獲るための様々な道具が陳列されており興味深かった。熊野にあった資料館に似た雰囲気だった。鍛冶屋、桶屋、繭蚕業、籠、提灯など不思議な懐かしさを感じた。
その他に、ビデオで、三春駒、三春人形などを見た。
また、この地の自由民権運動の歴史なども知った。

史料館の横にも大きな枝垂桜が満開だった。




桜谷枝垂れ桜といって有名な1本なり。


午後、宿へ戻り、仙台の宿の予約をしたりしてのんびり過ごした。宿泊、2食付き 7000円。

夕食は、宿のご主人が釣ってきたという「ぼっけ」という魚の刺身が出た。

夜、床の中でうつらうつらしていたら、「山のロザリア」の曲のオルゴールが流れた。昔の「山のお寺の鐘」の代わりかな、田舎の風情が感じられた。そういえば、四国遍路の時は、夕刻、ウェルナーの「野ばら」の曲が流れていたっけ。


2015年 第10日(佐多岬より72日)

歩数  14888歩  (佐多岬より累計  3767242歩)
距離  25km     (佐多岬より累計  2447km)
費用  10040円  (佐多岬より累計  369542円)











2015年 徒歩の旅 第9日  いわき市・夏井川渓谷キャンプ場へ

2016年04月04日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年4月9日(木) 晴 (いわき市・勿来の関公園の東屋    
               ~いわき市・夏井川渓谷キャンプ場)




昨夜は寒かった。何度も背骨がガタガタギシギシと揺れる感じがした。軽量化のためとはいえ、ガスストーブを持ってこなかったのが悔やまれた。それでも、ともかく朝は来た。夜明けがだいぶ早くなり、4時半過ぎにはうっすらと明るくなっている。鶯をはじめたくさんの野鳥の鳴き声が響き渡り、見上げると青空が広がっている。


5時40分、東屋を出発。国道6号線まで緩やかな坂道を足どり軽く下っていく。

満開の山桜があちらこちらに。


途中の駐車場にあった案内図。現在地からの距離、「夏井川渓谷 48㎞」か。予定は渓谷の手前までだが40㎞以上はあるなぁ。


5時55分、坂を下りきって勿来海水浴場へ。


「二つ岩」の奇岩。


周辺案内図を見ると、この辺りは正式には「菊多浦」というようだ。


ここも防潮堤工事をやっている。


大洗と同様ここでも、出会った散歩中のお爺さんが、海が見えなくなるのは悲しい、毎朝起きて海を見るのが日課のようになっているから‥‥と言っていた。

6時5分、国土交通省の「道路情報」。「69km先 二輪車軽車両歩行者 通行不可」の表示。原発周辺は立ち入り禁止で、福島県に入ったことを実感する。


6時25分、JR勿来駅。


駅前広場に、八幡太郎義家の像。


国道6号線の常磐バイパスの下の道を行き、

6時55分、蛭田川橋を渡る。蛭田川は両岸とも護岸工事がなされている。ここも東日本大震災の時には海水が押し寄せて洪水になったのだそうだ。


左手遠方の山には、昨日の雪がうっすらと残っている。


右手前方に、勿来火力発電所。


7時35分、鮫川大橋を渡る。


ずっとバイパスを行く。道路わきの気温表示は10℃で、風はひんやり。

10時、南富岡トンネル。


バイパスはアップダウン多し。されど、山桜のほかにも大島桜、ソメイヨシノ、枝垂れ桜などが満開の所があり、見飽きない。
福島の浜街道に桜並木をつくろうというプロジェクトがあるらしく、路肩に苗木が植えられている。根付いているのもあるが、折れてしまっているものや、支柱だけでなくなってしまっているのもあった。苗木にプレートがつけられ、個人名や会社名が書いているのだが、ただ寄付をして植えてもらうだけでなく、世話をし続けなければプロジェクトの成功は難しいだろう。
この先しばらく行くと立ち入り禁止区間になるので、太平洋側は通行不可。原発の周辺を迂回して少し内陸部を歩くことにし、バイパスから鹿島街道の国道399号線に入る。しばらく行くと、

12時10分、いまや全国的に有名なワープロ修理店。


そのままアップダウンの多い国道399号線を進んで、JRいわき駅を通過し、

14時、磐城橋で夏井川を渡る。


そのまま国道399号線で内陸部へ。


15時30分、小川町にて再び夏井川に接近。対岸に桜。


16時5分、「草野心平生家」の表示あるも、先を急ぐので立ち寄らず。


その後は夏井川の流れを眺めながら歩き、












17時30分、ゆうゆうあぶくまラインの江田駅へ。
駅前の店にてキャンプ場を確認。食料調達。店の旦那さんが、明日は雨だし、ちょうど用事もあるから途中まで車に乗せて行ってやる、と言ってくれた。

17時40分、すぐそばのキャンプ場に到着。今日はここに泊まる。宿泊、0円。



2015年 第9日(佐多岬より71日)

歩数  72052歩  (佐多岬より累計  3752354歩)
距離  46.5km  (佐多岬より累計  2422km)
費用  1800円   (佐多岬より累計  359502円)



2015年 徒歩の旅 第8日  いわき市・勿来の関公園の東屋へ

2016年04月03日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年4月8日(水) 雪のち曇 (日立市・ビジネスホテル朝日屋
                   ~いわき市・勿来の関公園の東屋)




6時50分、宿を出発。ゴアの雨具を着て、傘をさして行く。


はじめ小雨だったが、すぐに雪に変わる。寒い。

まず、国道6号線(陸前浜街道)にでて、日立市方面に向かう。




8時、JR日立駅入口交差点。満開の桜に雪が降りかかる。寒いが、何ともいわれぬ風情に見とれてしまう。


さほどの雪ではないが、屋根に、


歩道に、


芝生に降り積もった。


その後、雪は、霙から雨へと変わった。


11時30分、高萩市に入る。このころには路面の雪も解けて消えてしまったが、相変わらず寒い。時々雨が降る。黙々と歩くしかない。


13時5分、北茨城市に入る。


木陰で小休止して、今日の宿の件で電話をしたが、国民宿舎勿来の関荘は、つい10日ほど前の3月31日で営業をやめたとのこと。もう一つの国民宿舎須賀屋の方も別の経営者になっており、二人以上でないと泊めないと言われてしまった。後者は古いツーリングマップルの落とし穴だったようだ。どうしようかなぁ。でも、おかげで到着時刻に拘束されずに歩けばよくなったのは好都合なり。

北茨城市消防署の向い側にあった馬頭観音など。


JR常磐線を貨物列車が走る。


茨城百景磯原海岸。




14時15分、磯原は作詞家の野口雨情の故郷で、生家と、


記念館がある。


記念館入口のシャボン玉の像と野口雨情の像。


雨情の詞。
「シャボン玉」


「かもめ」
「なつかしい想いをこめて。
この曲は雨情先生の詩に作曲した「かもめ」という私の作品です… 高木東六しるす」


「磯原小唄」
「天妃山からハ東をね 東を見れば
 テモヤレコラサ 見えはしないが 見えたなら
 あれはアメリカ チョイト 合衆国 」
 

海辺の公園に「通りゃんせ」の像。




14時30分、雨やむ。寒い。


16時、平潟トンネルを抜けて、


福島県いわき市に入る。


16時5分、勿来漁港。


16時10分、勿来海水浴場。海岸で適当なところでもあればそこで野宿を、と思ったが、寒風強く、津波の際の避難も難しそうなので断念。


勿来の関入口。


「古關蹟」の碑。


長塚節の歌碑。
「勿來關 ものゝふの過ぎしいそ回のあだなみを
   なこその關とひとはいふなり 節」
 

「汐干潟磯のいくりに釣る人は
  波打ち來れば足揚て避けつゝ  節」(右側の碑。左の碑は読めず。)


16時30分、とにかく一晩過ごせそうな場所はないかと、勿来の関架道橋をくぐって行ってみる。

左手に駐車場を見ながら、緩やかな坂道を上っていき、だいぶ上ったなぁと思ったところに運よく東屋発見。


近くにトイレもあるので、今夜はここで泊まらせてもらうことにした。

テント設営後、もう少し坂を上って、勿来の関公園に行く。

途中に公園の案内図あり。


遊園施設に放射線量測定装置があった。値は0.096マイクロシーベルト。


その先に源義家の「弓掛けの松」あり。




勿来の関の門。「奥州勿來關跡」とあり。


門前の山桜の下に東国源氏の祖、八幡太郎義家像。




勿来関説明。


関東の宮(左)と勿来の関(右)。


奥州の宮。


ここから勿来関の碑が続く。


源義家歌碑、
「吹風遠那古曽能關登思弊登裳美遅毛勢耳散山櫻可難」(吹く風をなこその関とおもへども道もせに散るやま桜かな)。


齋藤茂吉歌碑、
「みちのくの勿来へ入らむ山かひに
  梅干ふゝむあれとあがつま」。


飛鳥井宗勝、
「九面や潮満ちくれば道もなし
   ここを勿来の關といふらん」。 


室桜関の詩碑。


源師賢歌碑、
「東路はなこその關もあるものを
  いかでか春の越えて來つらん」。


和泉式部歌碑、
「名古曾とは誰かは云ひしいわねとも 心にすうる関とこそみれ」。


小野小町歌碑、
「みるめ刈る海女の往来の 湊路に勿来関を わすれえなくに」。


源信明歌碑、
「名古曾世に なこその関は 行かふと 人もとがめず 名のみなりけり」。


芭蕉句碑、
「風流の はしめやおくの 田植うた」。


「田中智学の源義家顕彰碑」


田中智学の名前がこんなところで出てきたので驚いた。田中は、軍国主義時代の天皇翼賛的宗教団体「国柱会」の指導者で、「八紘一宇」を唱えた人物。童話作家の宮沢賢治も田中に傾倒し、「国柱会」会員でもあった。宮沢賢治を自己犠牲の童話作家とだけとらえるのは一面的であることを教えられたのは、吉田司著『宮沢賢治殺人事件』という本だった。

ところどころ山桜が咲いていた。


テントに戻り休む。宿泊、0円。


2015年 第8日(佐多岬より70日)

歩数  63124歩  (佐多岬より累計  3680302歩)
距離  41.5km   (佐多岬より累計  2375.5km)
費用  480円    (佐多岬より累計  357702円)



「日本本土四極踏破証明書」

2016年04月02日 | コラム
            「日本本土四極踏破証明書」の発行について


 先日(2016年3月30日)稚内市エネルギー協働課から郵便が届き、中に次の文書が入っていました。

      

 つまり、平成28年(2016年)4月1日より、本土の東西南北の端を有する市町で、統一した「日本本土四極踏破証明書」を発行することになったとのことです。
 そして、このような「日本本土四極最北端出発・訪問・到達証明書」が同封されていましたので紹介します。

(表面)
      

(裏面)
      

 このブログで書いていますように、小生、一昨年(2014年)の3月から太平洋側の徒歩縦断を開始し、川崎までで中途断念の後、再び2015年4月から、川崎以後を継続して歩き、2015年6月13日に宗谷岬に到達しました。
 徒歩縦断2日目(2014年3月12日の記録記事参照)に、南大隅町で観光課長から、佐多岬出発証明書というものがあり町役場で発行しているから貰っていくとよい、記念になりますよ、とのことでいただきました。そして、宗谷岬に着いたら稚内市役所で宗谷岬到着証明書をもらうといい、とも言われました。
 それで、2015年6月13日宗谷岬到達後、稚内市役所に行ったところ、新たな取り組みを準備中とのことでしたが、それがこの統一証明書のことでした。そして、取り組みが発足したら正式の証明書を遡って送ると言われており、それが届いたというわけです。
 小生の旅は、単なる遊山であり、何か公的な証明などとは無縁のもので、これまでそのようなものを貰うことなど考えてもみなかったのですが、今では少し考えが変わって、四地方の活性化に微力ながら協力することができるなら協力したいと思うようになりました。‥‥というわけで、ブログで紹介した次第です。小生も、北、東、南は行ったので、いつの日か「最西端」の地に行ってみたいと考えております。ぜひ「最北端」「最東端」「最南端」「最西端」へ出かけてください。