2015年4月18日(土) 晴 (女川町・ふじ旅館~南三陸町・平成の森)
工事関係者が多く宿泊しているため、朝食は6時前から用意されていた。
6時15分、宿を出発。天気は晴、風は無し、絶好の歩き日和。国道398号線を行く。
至る所、工事中だが、まだ時間が早いため静かだ。
6時40分、東日本大震災の震災遺構の一つである旧女川交番。
遠くに見える白い三角屋根が、移築されたJR女川駅。
女川湾は防潮堤工事。
仮設住宅。
急坂を上ると女川湾の防潮堤工事の様子が見下ろせる。
7時5分、大島桜が満開で朝日に輝いていた。
7時10分、マリンパル女川。この辺りより北側は、「リアスブルーライン」と呼ばれるようだ。海が美しいが、この海が津波となって襲い来ることもあるのだ。
7時30分、仮設住宅。
竹の浦の海。
8時、女川第三小学校の校庭にも被災者仮設住宅。
8時10分、尾浦。
8時40分、御前浜、防潮堤工事中。
指が浜。
9時25分、再び石巻市に。
9時50分、分波トンネルと
10時、水分トンネルを抜けて、
雄勝へ。
雄勝は硯の名産地。
支倉六右衛門常長の造船地碑。遣欧使節の船を造らせたのだろうか。
雄勝湾。
鯉のぼりを上げていた人たちに道を尋ねたところ、そのうちの自動車2台で来ていた4人の中年の支援者のグループが、南三陸まで行くから乗せてくれるという。
今日は距離の関係で宿が取れず、北上川付近のどこかでビバークを考えていたので、南三陸町まで乗せてもらえるのは大助かり。
彼らは、大学の同期生で3人は関東在住、東日本大震災の直後にも来ており、現在の被災地の様子を見に来たと言っていた。鯉のぼりは、被災者を励ましたいということで立てたのだそうだ。良心的な感じの人たちだった。車内で、4人のうちの宮城県に住んでいる1人からいろいろとこの4年間余りの様子を聞いた。
11時10分、大川小学校跡で車を止めて一緒に見学し、またその彼から、説明を受けた。
現地は、確かに津波が押し寄せてくるとは思えないほど広々としていたが、自然の脅威は侮れないもの。当時、小学生が待機中に北上川の堤防が決壊して津波が押し寄せ、前の方の低学年の生徒たちが巻き込まれ、おぼれていく中で、後方の数人の高学年生が、とっさに裏の斜面に駆け上って一命をとりとめたのだろう、とのこと。様々の要素が重なり合っていると思うので簡単に結論は出せないが、深く考えさせられた。
祭壇に手を合わせ、74人の生徒と10人の教員の冥福を祈ったときには、不覚にも涙が出そうになった。
その後、国道398号線、国道45号線を経て、
12時20分、南三陸町の「南三陸さんさん商店街」まで乗せてもらい、そこでお礼を言って別れた。少額を包んだが、受け取ってもらえなかった。
刺身定食を食べて大休止。
志津川まで来ることができたので、急遽、歌津の平成の森の宿泊施設に電話したところ、折よく宿が取れ、歌津まで国道45号線を辿ることに。
13時、気仙沼線BRT(バス高速輸送システム)の志津川駅。
志津川高校。
やや内陸部に入り、土曜日なのに、ダンプカーやミキサー車が激しく行き交う中を歩く。「志津川復興街づくり事業」というゼッケンをつけたトラックもあり。
清水浜で、破壊されたmJR気仙沼線の下を通る。
、
その後再び内陸部を行き、ここも寸断された鉄路。
歌津に入る。
田束山。
歌津の町で、食料を調達し、平成の森に向かう。
途中、自動車の高齢夫婦が、平成の森まで乗せてくれるというので、短い距離だったし、1日に2回も自動車に乗せてもらっては歩き旅ではなくヒッチハイクになってしまうと思ったが、是非にと言われ、お言葉に甘えた。彼らは近くの旅館のオーナーで、彼らの話で、今年の3.11以後、被災地のお遍路が始まった、ということを知った。三陸地方の被害を免れた寺院を順にお参りするという取り組みで、既に10人のグループを泊めた、と言っていた。
16時、宿に着く。宿泊、素泊まり 3900円。
宿の隣にも仮設住宅。
2015年 第18日(佐多岬より80日)
歩数 47113歩 (佐多岬より累計 4169069歩)
距離 74km (佐多岬より累計 2751km)
※雄勝~志津川の間(約40㎞)と平成の森直前は自動車に乗せてもらった。
費用 6532円 (佐多岬より累計 405305円)
工事関係者が多く宿泊しているため、朝食は6時前から用意されていた。
6時15分、宿を出発。天気は晴、風は無し、絶好の歩き日和。国道398号線を行く。
至る所、工事中だが、まだ時間が早いため静かだ。
6時40分、東日本大震災の震災遺構の一つである旧女川交番。
遠くに見える白い三角屋根が、移築されたJR女川駅。
女川湾は防潮堤工事。
仮設住宅。
急坂を上ると女川湾の防潮堤工事の様子が見下ろせる。
7時5分、大島桜が満開で朝日に輝いていた。
7時10分、マリンパル女川。この辺りより北側は、「リアスブルーライン」と呼ばれるようだ。海が美しいが、この海が津波となって襲い来ることもあるのだ。
7時30分、仮設住宅。
竹の浦の海。
8時、女川第三小学校の校庭にも被災者仮設住宅。
8時10分、尾浦。
8時40分、御前浜、防潮堤工事中。
指が浜。
9時25分、再び石巻市に。
9時50分、分波トンネルと
10時、水分トンネルを抜けて、
雄勝へ。
雄勝は硯の名産地。
支倉六右衛門常長の造船地碑。遣欧使節の船を造らせたのだろうか。
雄勝湾。
鯉のぼりを上げていた人たちに道を尋ねたところ、そのうちの自動車2台で来ていた4人の中年の支援者のグループが、南三陸まで行くから乗せてくれるという。
今日は距離の関係で宿が取れず、北上川付近のどこかでビバークを考えていたので、南三陸町まで乗せてもらえるのは大助かり。
彼らは、大学の同期生で3人は関東在住、東日本大震災の直後にも来ており、現在の被災地の様子を見に来たと言っていた。鯉のぼりは、被災者を励ましたいということで立てたのだそうだ。良心的な感じの人たちだった。車内で、4人のうちの宮城県に住んでいる1人からいろいろとこの4年間余りの様子を聞いた。
11時10分、大川小学校跡で車を止めて一緒に見学し、またその彼から、説明を受けた。
現地は、確かに津波が押し寄せてくるとは思えないほど広々としていたが、自然の脅威は侮れないもの。当時、小学生が待機中に北上川の堤防が決壊して津波が押し寄せ、前の方の低学年の生徒たちが巻き込まれ、おぼれていく中で、後方の数人の高学年生が、とっさに裏の斜面に駆け上って一命をとりとめたのだろう、とのこと。様々の要素が重なり合っていると思うので簡単に結論は出せないが、深く考えさせられた。
祭壇に手を合わせ、74人の生徒と10人の教員の冥福を祈ったときには、不覚にも涙が出そうになった。
その後、国道398号線、国道45号線を経て、
12時20分、南三陸町の「南三陸さんさん商店街」まで乗せてもらい、そこでお礼を言って別れた。少額を包んだが、受け取ってもらえなかった。
刺身定食を食べて大休止。
志津川まで来ることができたので、急遽、歌津の平成の森の宿泊施設に電話したところ、折よく宿が取れ、歌津まで国道45号線を辿ることに。
13時、気仙沼線BRT(バス高速輸送システム)の志津川駅。
志津川高校。
やや内陸部に入り、土曜日なのに、ダンプカーやミキサー車が激しく行き交う中を歩く。「志津川復興街づくり事業」というゼッケンをつけたトラックもあり。
清水浜で、破壊されたmJR気仙沼線の下を通る。
、
その後再び内陸部を行き、ここも寸断された鉄路。
歌津に入る。
田束山。
歌津の町で、食料を調達し、平成の森に向かう。
途中、自動車の高齢夫婦が、平成の森まで乗せてくれるというので、短い距離だったし、1日に2回も自動車に乗せてもらっては歩き旅ではなくヒッチハイクになってしまうと思ったが、是非にと言われ、お言葉に甘えた。彼らは近くの旅館のオーナーで、彼らの話で、今年の3.11以後、被災地のお遍路が始まった、ということを知った。三陸地方の被害を免れた寺院を順にお参りするという取り組みで、既に10人のグループを泊めた、と言っていた。
16時、宿に着く。宿泊、素泊まり 3900円。
宿の隣にも仮設住宅。
2015年 第18日(佐多岬より80日)
歩数 47113歩 (佐多岬より累計 4169069歩)
距離 74km (佐多岬より累計 2751km)
※雄勝~志津川の間(約40㎞)と平成の森直前は自動車に乗せてもらった。
費用 6532円 (佐多岬より累計 405305円)