そぞろ神の物につきて―日本列島徒歩の旅の記録

  (2008年 日本海側)
  (2011年 四国八十八ヶ所)
  (2014・15年 太平洋側)

徒歩の旅 第25日 仁摩町  城福寺ユースへ

2009年02月27日 | 2008年日本海側の旅
5月5日(月) 雨のち晴 (「石見海浜公園キャンプ場」~仁摩町 「城福寺ユースハウス」)



今日の目的地である「城福寺ユースハウス」まではまた40キロ余の旅なので、天気が下り坂という予報も考えて、3時起床、4時出発の体制をとる。3時半頃小雨が降り出したとな思っていると、あれよあれよという間に、急に雨脚が強くなる。暗い中、雨中という悪条件下で撤収、出発準備ということになる。装備一式を急遽近くの炊事棟の屋根の下に移し、パッキング。ところが、準備が整い、雨具を着ていざ出発という段になって、急に小降りになり、雨が上がってしまった。
4時15分、真っ暗な中をヘッドランプを頼りに国道9号線を歩く。まだ車は少ないが、時折ヘッドライトが近づいてくる。
4時50分、「県立しまね海洋館アクアス」という広い敷地の水族館の横を通過。中国地方最大の水族館だそうで、連休のためか、暗い中に開館を待つ車が停車している。「お父さん」は大変だ。
5時、浜田市を抜けて、江津市に入る。周囲がやや明るくなるが、雨はいつ降ってくるかしれず。
5時50分。JR山陰本線の敬川(うやがわ)駅通過。
6時10分、コンビニで朝食、牛乳、おにぎり3個。「焼き豚チャーハンおにぎり」というものを食べてみた。
6時30分、都野津(つのづ)駅をへて、しばらく山陰本線と並行しつつ市街地を行く。
7時20分、江津駅前を通過。
7時40分、江の川にかかる江川橋を渡る。山陰本線が鉄橋を渡って来たが、デジカメは雨対策でザックの中、残念。静かな街中を行くが、車が徐々に多くなってくる。
8時35分、浅利トンネル(470メートル)を抜ける。
8時40分、デジカメをザックから出す。日本海を望む。海から離れ、やや内陸部を行く。


9時05分、浅利駅手前のコンビニも連休のためか満車状態である。
9時15分、道路標識は、「松江 99km、大田 34km」と、松江まで100キロを切っている。


10時30分、大田市に入る。「おおだ」と読むそうである。難読地名の一つか。


11時05分、コンビニにて食事。牛乳、おにぎり1個。
トンネルをいくつか抜けていくが、曇天のせいか、新緑の匂いが非常に濃い感じがする。
12時、温泉津(ゆのつ)駅、12時分40分、湯里(ゆさと)駅と、温泉地を過ぎる。途中の清水トンネル(434メートル)は今日の最長トンネル。再び小雨が降り出し雨具を着用する。デジカメは再びザックの中へ。
この付近は両側に木々が生い茂り、さまざまな若葉に包まれて、まるで緑の廊下のようだ。
13時10分、馬路(まじ)トンネル(266メートル)を抜け、これで今日の分の7つのトンネルをすべて抜けきる。
雨はますます強く降ってくる。丁度よい具合に桜の木があり、雨宿り。さらに見回すと近くに小学校があるので、そのトイレの庇の下に駆け込んで休む。かなり濡れてしまった後、いくらか小止みになったので歩き始めると、200メートルほど先に、立派なバス停の建物があったので我ながら笑ってしまった。まあ、こんなもんであろう。
14時40分、仁万(にま)駅を経て、少し坂を登り、
15時頃、城福寺というお寺のユースに着く。声をかけても応答がないので、土間に入らせてもらって待つ。携帯電話で自宅へ郵便差出の依頼をし、しばらくすると同宿者という女子大生が来る。ユースに連泊して、今日は石見銀山に行ってきたと言う。ワンゲル部に所属しており、明日は三瓶山に登りにいくとのこと。
旅の話など二人で雑談をしているところへ家人が帰ってくる。タオルと洗面道具などを入れる袋をいただき、早速風呂に入ることができたのは有難かった。
ここで右靴下の底に大きな穴が開いているのを発見。風呂で計ったら体重が65キロだったので、荷物の重量や歩行距離をあわせて考えれば、靴下にとっても過重であったのだろう。


さらに言えば、靴底の方もだいぶ磨り減ってきている。当分は大丈夫だと思うが、この先どこかで新調しなければならないかもしれない。
雨が止んだので、夕食を待つ間に、窓の手すりにテント、雨具などを干し、出雲、松江の両ユースの予約を検討する。当初予定では、5月8日・9日に松江のレイクサイドユースホステルに連泊し、9日昼に自宅からの松江中央局留め郵便物を回収するつもりだったが、松江ユースが8日は休業のため、やむなく7日・8日を出雲のユースに連泊し、9日・10日と松江ユースに泊まる方針に変更する。
夕刻、晴れて真っ赤に染まった空と海、仁摩の街や夕陽が反射している水田の写真を撮る。
18時42分、


18時52分、日没時刻もずいぶんと遅くなっている。


城福寺は真言宗のお寺なので、夕食のメニューは精進料理かと思っていたらラム肉のすき焼きだった。もちろん美味しくいただいた。
今日は、アップダウンの多い40キロ余の行程だということに気持ちが左右され、しかも途中で強い雨に降られたりと、あまりゆとりのない一日だった。写真もほとんど撮ることができなかったのは残念。しかし、体中が緑色に染まるくらいの新緑の中を歩けたのは大収穫だった。

経費  4,911円     累計  87,463円
歩数  60,834歩    累計  1,186,891歩
距離  41km      累計  762km


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徒歩の旅 第24日 浜田市  石見海浜公園キャンプ場へ

2009年02月25日 | 2008年日本海側の旅
5月4日(日) 晴のち曇 (「ゆうひパーク三隅」~浜田市 「石見海浜公園キャンプ場」)



5時、起床。一昨日、昨日と約40キロ以上歩いて来たので、今日の石見海浜公園キャンプ場までの距離は余裕に感じられ、朝少しのんびりする。
道の駅の洗面所で歯を磨いていると呼ぶ声がし、振り向くとBさんが自販機の傍にいた。そこでテント泊だったとの話。どうしたのですかと尋ねると、夕べは宿泊予定の荒磯館はじめことごとく断られてしまい、夜8時過ぎにここに到着したとのこと。どうやら連休と、さらに工事関係者が大量に入ってきたのが重なってしまったためらしい。今日の行程を石見海浜公園までと一応決めて、あとはお互いの歩行ペースを考え、自主行動で行きましょうということになった。


6時45分、出発。朝の海はとてもおだやかである。


これから行く方向に鉄路が伸びている。海岸線を走るディーゼル車の線路は、電線もなくすっきりと美しい。


7時、折居駅でちょうどやってきたJR山陰本線の写真を撮る。


8時、このあたりも農作業の真っ最中である。


8時20分、周布(すふ)駅を通過。
8時40分~55分、コンビニで買い物と朝食。牛乳、鮭弁当。コンビニ弁当は、この旅ではじめてのこと。中に食事ができるコーナーがあり、ゆっくり食べることができた。旅人には、とても助かるいいアイデアで、もっと普及して欲しいところだ。
9時15分、海を離れ、やや高台に上ったところで、浜田港方面を遠望する。


9時20分~9時50分、結露に濡れたテント干し休憩。後で考えたら、テント干しに30分もかける必要があったかどうか、今日は時間に余裕があるのだから、石見海浜公園に着いてからそこで干せばよかった。しかし、休憩中に山陰本線のディーゼル車が通過し、写真を撮ることができたのは収穫であった。




10時、西浜田駅通過。
大型連休中なので車が多い。三重ナンバーの車もある。


10時25分、時間の余裕もあるので、国道9号線を離れて浜田港から市街地方面へ行ってみることにする。浜田は山登りにとっては、ラジオの気象通報でお馴染みの地。初めてなのになんとなく親しみを感じてしまう。



10時30分、コンビニで、飲むヨーグルトを買う。
10時40分、浜田漁港と浜田マリン大橋。


11時10分~35分、浜田城跡見学。


浜田城山は、案内板によると、万葉歌人の柿本人麻呂の終焉の地といわれているそうである。人麻呂辞世の一首、
「鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも 知らにと妹が待ちつつあらむ」
と、妻の歌二首、
「今日今日とわが待つ君は 石川の貝に交りてありといはずや」
「直(ただ)の逢ひは逢ひかつましじ 石川に雲立ち渡れ 見つつ偲はむ」
が紹介されてある。


緑の木陰を城山の広場へと上って行く。


護国神社がある。


神社の境内には、島根県生まれの島村抱月の文学碑。「在るがまゝの現實に即して全的存在の意義を髣髴す 観照の世界也 味に徹したる人生也 此の心境を藝術といふ」とある。


また、日清戦争で、敵の弾を受けてもラッパを放さなかった地元浜田歩兵第21連隊所属のラッパ手・木口小平像。


ノモンハン事件の戦没者の慰霊碑などもある。


11時45分、スーパードラッグで、カロリーメイト2個を買う。
11時55分、山陰本線車庫横を通過する。


12時30分、国道9号線に合流。
12時50分、下府(しもこう)駅通過。
13時20分、コンビニで買い物をしていた自転車の若者と話をする。彼は「一期一会」という旗をリュックに挿して背負っており、こちらも銀マットを背負っているので、お互い旅人同士の親近感の如きものをいだいたということか。彼は、大阪から、淡路島、四国、九州、沖縄、九州へ戻り、山陰へと、途中で働いたりしつつ回って来、旅は8ヶ月目とのこと。こちらも自己紹介で、鹿児島から北海道を目指して歩いており今日で24日目、ということを話すと、「おれよりもすごいよ」と驚いていた。「いや、君の方がすごいよ」などと言いつつ、お互いに頑張ろうと握手をして別れた。別れ際に彼が、左手の親指を立てて挨拶を送ったので、こちらも「グッドラック」と呼びかけた。
連休中なので、9号線はずっと混雑しており、一部で渋滞もしていた。広島、大阪、神戸、岡山などのナンバーの乗用車もあった。また、バイクのグループも多数見かけた。キャンプの装備を後ろに付けたバイクもかなり見かけた。
13時45分、石見海浜公園入口。


事務センターで受付を済ませて、広々とした「キャンプ村」へ。


ここにテント設営を決定。


14時、設営完了。


その後周囲を見て回ったが、Bさんは見つからなかった。衣類などを洗濯し、ゆっくりする。ここは、立派な施設なのにテント場使用料は無料。こういう施設がもっと増えることを切望する。
夕刻、あたりを散策。昼間の賑わいはなく、広くきれいな砂浜は静かだった。


公園西端の赤鼻方面。


しかし、雲が出てきたため、残念ながら期待していた夕日を見ることはできなかった。天気は下り坂のようだ。

経費  1,094円     累計  82,552円
歩数  37,991歩    累計  1,126,057歩
距離  25km      累計  721km


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徒歩の旅 第23日 浜田市  ゆうひパーク三隅へ

2009年02月23日 | 2008年日本海側の旅
5月3日(土) 快晴 (「ゆとりパークたまがわ」~浜田市 「道の駅ゆうひパーク三隅」)



今日は憲法記念日。テント内での朝食つくりにもたついてしまい、
6時10分、出発。青空に鯉のぼりが泳いでいる。今日もよい天気が続くだろう。


6時25分、朝日を浴びる田園。


6時50分、仏峠の田万川トンネルを抜けて、山口県を後に、島根県益田市に入る。6県目である。


路傍にミツバツツジの濃いピンクの花。


7時30分、人形トンネルを抜けると、左側に日本海が広がっている。


飯浦漁港を眼下に歩く。


7時50分、益田市小浜町に入る。


ゆるく蛇行する静かな道を行く。益田市は柿本人麻呂と雪舟の町。


8時10分、戸田小浜駅は下関より150キロ地点。
田園地帯を行くと、水を張った田圃に映る老人。


8時35分~9時05分、道路わきの広々とした誰もいない「ふれあい広場パーキング」で休憩し、テントを干しつつ食事。雪舟と人麻呂の解説もある。


9時10分、のどかな海辺では釣りをしている人たちも。


三里が浜の海岸沿いを行く。


ウミウ。


10時、萩石見空港入口を通過。天気よく、非常に暑い。前を歩いているBさんと出会う。彼は昨夜9時に「ゆとりパークたまがわ」道の駅に着き、自販機の脇でテント泊とのこと。今朝は5時に出発してきたので、今日は少しゆっくりと荒磯館の温泉に泊まる予定と言っている。こちらの宿泊予定地はもう少し先なので、先行させてもらう。
10時05分~15分、コンビニで買い物。牛乳、オールレーズン、農協グレープ果汁、おやつラーメン、柿ピー、ガム。
10時45分、高津川にかかる高津大橋をわたる。


高津川はゆったりと流れている。


10時50分、中吉田の交差点を左折し、国道191号線から、9号線(山陰道)に入る。


心なしかコンビニが増えた感じである。それと、今日からの4連休の影響だろうか、車が非常に多い。さらに、バイクに銀マットをつけたグループや、自転車の集団など、さまざまに走っている。ナンバーも島根のみならず、大阪、久留米、などの乗用車がある。
10時55分、益田川にかかる新大橋をわたる。


11時15分、ここでも田圃に水を張っている。ツツジが満開である。


12時05分~20分、バス停で休憩。食事と水分補給。
12時35分、石見津田駅を通過。小さなトンネルを二つ抜ける。


13時15分、このあたりは立派な瓦屋根の家が多い。


13時35分、鎌手駅で山陰本線のディーゼルの写真を撮ろうとして、待機していたら、ベンチで待っていた女性が、反対側ホームにぴょんと駆け上がった。


14時05分、蓮華の花盛り。「蓮華たんぽぽ花盛り、何やら悲しい旅の空、いとし殿御の心の内は、雲にお聞きと言うのかえ~」(美空ひばり「花笠道中」)


14時15分、浜田市に入る。


14時40分、通区訓練中の郵便労働者。聞いてみたら、住居が飛び飛びなので番地を覚えるのが大変だと言っていた。


14時55分、分岐で、9号線に分かれて、海沿いの171号線を行く。
6月1日から始まる石見神楽舞のポスターが貼ってある。


15時20分、漁港方面に向かって行く。


三隅火力発電所と三隅港。


15時30分、田ノ浦海水浴場の浜辺。


16時20分、三保三隅駅の先で後ろから来た自転車の青年に挨拶される。
16時35分、ここはもう田植えが終わっている。


田植えの済んだ田圃とおばあさん。


16時50分、再び9号線に戻り、峠を越える。
17時15分、山陰本線を眼下に見下ろす「ゆうひパーク三隅」道の駅に着く。


前方の海。海岸に沿って鉄路が伸びている。


休憩していたら先ほどの青年とまた出会い、20分くらい話。連休で中国地方一周をしている、仕事は1週間くらいしか続けて休むことはできないが、これまでに北海道を4分の1、四国は一周したとのこと。こちらの計画の話も少しし、激励された。
18時30分、道の駅の店が閉まったので、テント設営。夜、自宅と交信。松江郵便局留めを頼んだ品をいつ受け取るか、松江のユースの予約日をいつにするかなどを検討しつつ就寝。

経費   988円     累計  81,458円
歩数  65,105歩    累計  1,088,066歩
距離   44km    累計  696km

徒歩の旅 第22日 萩市 ゆとりパークたまがわへ

2009年02月21日 | 2008年日本海側の旅
5月2日(金) 晴 (「萩ユース」~萩市 「道の駅ゆとりパークたまがわ」)



萩ユースの同宿者たちとゆっくり朝食をとり、
7時45分、出発。今日も朝から晴れてよい天気。


7時50分、すぐに菊ヶ浜。白砂青松のむこうに真っ青な海。


左手は指月山。


遠くの帆船は練習船だろうか。


菊が浜の海岸線に沿ってしばらく行く。ゴミ一つない浜辺は気持ちがよい。


阿武川河口の卸魚市場や停泊する漁船の写真を撮りながら行く。




8時30分、萩橋にて国道191号線に合流。萩の町は日本一ゴミのない町とかで、たしかにきれいであった。


9時15分、越ヶ浜。海は青く、浜辺にはハマナスの赤と白の花が咲いている。




相変わらず海は澄んで底までも見える。


漁船が操業中。海は太陽の光と角度によって多様な色を見せてくれる。








そのまま白砂青松の海岸を見つつ行く。


10時25分、不思議なものが祀ってあるのを発見。このたわしは何の神様かな。


10時45分、山陰の大井川。長門大井を通過。


10時50分、コンビニで食事。牛乳、柏餅、新聞を買う。5月なので、いつも買うおにぎりをやめて、今日は柏餅にした。こしあんが実にうまい。
11時15分、海岸で先生と生徒たち。理科の授業だろうか。


でも遊びに夢中のようにも見えるなぁ。


あっ、それなら自分も同じだ。


長い海岸線を行く。


遠くの島々。


海の色はどこまでも神秘的。


よく見ると、ウミウが一羽、岩の上に。


11時50分~12時05分、「全国道の駅発祥の地」である阿武(あぶ)道の駅にて、買い物。トマト、きゅうり。ATMで2万円おろし。


12時50分、サエカ峠を越える。


14時05分、木与駅周辺は海を眺めるのに格好のスポットになっており、写真を撮りつつ歩く。「北長門コバルトライン」と名づけられている白砂青松の浜辺が続き、「西の松島」と呼ばれているところもある。海のみか、島々、砂浜、空、いずれもすばらしい。








ユースでくんできたお茶は早々と飲んでしまい、自販機でペットボトルを買う。
14時30分、トンネルを2つ(田部トンネル、井部田トンネル)抜ける。
15時、静かな午後の宇田郷漁港を通過。


15時15分、海は午後の日差しを浴びて。


ひねもす のたりのたりかな。


15時40分、海草を干している家がある。


16時05分、峠越えの小刈トンネル入口に、「益田 32km、須佐 4km」とある。


16時10分、今日はしきりにのどが渇き、またペットボトル。
16時35分、大刈トンネル(1469メートル)を抜ける。


ここに再び萩市の標識があり、萩市に入る。阿武町は囲まれているが、「平成の大合併」の愚行に抗し独立独歩で行くのかな。


17時、須佐トンネルを抜ける。
17時15分、益田氏を祀る笠松神社。


17時30分、JR山陰本線の下をくぐり、須佐の街に入り、広々とした須佐駅前を通過する。


18時40分、江崎のスーパーで泊まりに備え買い物。牛乳、氷砂糖、ウインナー、煮豆、卵。
19時10分、鯉のぼりが立つ道の駅「ゆとりパークたまがわ」着。東屋の横の芝生の隅にテントを設営し今夜の宿とした。写真は道の駅まであと1.3キロ地点。今日の歩行の目途がつく。


今日は山陰の海の美しさを満喫しつつ、11時間行動でよく歩いた日だった。

経費  2,174円    累計  80,470円
歩数  65,871歩   累計  1,022,961歩
距離   44km    累計  652km

徒歩の旅 第21日 萩市 萩ユースへ

2009年02月19日 | 2008年日本海側の旅
5月1日(木) 晴 (黄波戸駅~萩市 「萩ユースホステル」)



無人駅は寒く、早々と目が覚める。カロリーメイトと昨晩の残りのハムを食べ、
4時50分出発、あたりはまだうす暗い。深川湾に沿っていく。夜明けの海は穏やかであった。
5時20分、国道191号線に合流。案内板あり。


5時30分、海は美しく、幻想的なり。対岸は青海島。


6時10分、長門市駅近くのコンビニで食事。牛乳、おにぎり3個。
6時20分、長門市役所前を通過。


6時50分、JR山陰本線のディーゼル列車がすぐ傍を通る歩道を歩く。


7時、萩まで23キロ。
7時10分、遠くに海を眺めつつ、広々とした田園を行く。


7時20分、村田清風の旧家があり記念館になっている。


清風は「維新回天の楚」で幕末にこの地の子弟の教育に功績のあった人物だそうである。恥ずかしながら初めて知る名前で、自分の無知を悟る。立ち寄って見学しようと思ったが、時間が早く開いていないので外から見ただけで通過した。
記念館と、


旧宅。


しばらく行くとここにも道路に狸の死骸があった。鹿児島のバイパスでも見かけたが、可哀想である。
8時25分、分岐。景色の点では海沿いの地方道を行きたかったが、少し先に香月泰男美術館があり、是非とも立ち寄ってみたかったので、結局191号線を行くことにする。
8時45分、歓迎ゲートをくぐって、「三隅町立香月泰男美術館」方面に右折、開館にはまだ早かったので、ふれあい広場で小休止。
9時00分~9時40分、館内見学。500円。香月泰男はシベリアに抑留され、収容所で強制労働に従事させられた。その経験をモチーフにした作品で有名。学生時代にいくつかの作品は知っていたが、ちょうど旅立ち前の3月にも、NHK教育テレビの新日曜美術館という番組で紹介されていた。軍隊からの家族への便り、金属製のおもちゃなども、興味深く見学した。終生、故郷三隅の風景を愛した、と解説されていた。


香月泰男の作った金属のおもちゃの像。


11時、宗頭(そうとう)の分岐にて、トマト、甘夏、を買う。山口県には5月2日~4日に「マラニック」というのがあるそうで、店の人は、僕のザック姿を見て、そのためのトレーニングかと思ったとのこと。マラソン+ピクニックかな。
11時45分、新緑の中を鎖峠に向かう。


12時、長門市から萩市に入る。トマトを食べ、標高231メートルの鎖峠を越えて行く。


長門市よさようなら。美しい海を忘れない。


12時55分、静かな里山を見ながら峠を下っていく。


13時15分、分岐で小休止、甘夏を食べる。それから長い下り坂を経て、
13時25分、下り坂はゆとりを持って、周囲の新緑も味わいながら眺められる。


13時45分、道路わきの甘夏の木がたくさんの実をつけている。


14時10分、コンビニで、牛乳、おにぎり2個を買う。
14時20分、橋本川にかかる玉江橋を渡り、萩市街に入る。奥は指月山、その麓に萩城跡がある。


14時45分、市内にて高杉晋作の生家を見学。100円。


「西へ行く人をしたひて東行く 心の底ぞ神や知るらむ」と石碑にある。西行を慕って頭を丸めて見たけれど、自分の心は逆に東に行く。その心は神だけが知っているだろう、という意味。倒幕の決意表明と言われている。高杉晋作もまた、興味深い人物だ。


高杉晋作が産湯をつかった井戸。


その後、萩の古い家並みなどを眺めつつ写真を撮る。萩の町並みはきれいで看板もないし電柱も少なかった。




16時20分、ユース着。しばらくすると、Bさんも到着した。同室になり夕食後、昨日の宿泊地選定の苦労話などして過ごす。

経費  6,345円     累計  78,296円
歩数  53,372歩    累計  957,090歩
距離  33km       累計  608km


徒歩の旅 第20日 長門市  黄波戸駅へ

2009年02月17日 | 2008年日本海側の旅
4月30日(水) 晴 (長門二見駅~長門市 JR黄波戸駅)



5時50分、長門二見駅の「夫婦岩ふれあいステーション」を出発。




6時、二見トンネルを抜け、国道191号線に戻り海岸線を行く。


6時05分、二見漁港で働く人々。


二見川を渡るころ朝日が昇ってくる。


ここの海は「長門ブルーライン」と呼ばれているそうだ。海岸線に沿って行く。(前方)


(後方)


昨日とは打って変わって、海底まで見える澄んだ海水を眺めつつ行く。


7時05分、矢玉漁港を通過。漁港にはカモメやカラスではなく、トンビがいて、大きな声で鳴いている。が、騒々しくなく、むしろのどかな感じがトンビのよいところ。


次いで、「危険、事故多発地帯」と看板のある、歩道が無い狭い国道を通過する。
7時35分、土井ガ浜近辺を通るが、キャンプ場の位置は不分明。仮に昨日こ
こまで来ていたら、夜間で、疲れた状態で、危険地帯を通るという、最悪の事態に陥っていた可能性もあり。長門二見駅で泊まってよかった。


7時30分、海の反対側は農作業の準備をまっている。


7時45分~8時15分、道端の小さな社の前で休んでいたら、ギターを手に、ザックを背負った若者がやってくる。京都の大学生のC君で、1年休学して放浪の旅と言う。屋久島まで行くつもりとのことで、しばらく情報交換をする。京都からここまで1ヶ月かかって来たこと。お寺で1週間泊めてもらったり、いろいろなところで泊まったりしていること等々。ヒッチハイクもしている。テントは持たず、シラフだけで寝ているとのことで、今日中に下関まで行きたいと言っていた。下関までの道路状況を教え、「お互いに頑張ろう」とエールを交わして握手で別れる。
8時20分、再び海に沿って行く。海岸線に野菜畑がある。


8時30分、海水は澄んできれいだが、海岸はゴミというアンバランス。景観がもったいない。


8時40分、鏡のような澄んだ入り江を見つつ行く。


8時55分、特牛(こっとい)漁港。


空青く、海もまたどこまでも。


10時05分、牛乳を買って食事休憩。
10時10分、阿川八幡を通過。


10時20分、白い蓮華咲く海辺。


海の写真を撮っていると、おばあさんが近づいてきて、少し話をする。海が本当にきれいですねと言うと、郷土を褒められとても喜んだのか、持っていた甘夏4個入りのネットを呉れると言う。重そうなので1個だけいただきたいと言ったが、これは家で作ったもので甘くておいしいからぜひみんなもっていきなさいと言われ、有難くいただく。
10時35分、内陸部を通過。里山の風情。


11時35分~12時20分、Bさんに追いつき、しばらく同行する。甘夏1個を食べてもらい、2個はこちらで食べる(彼は小串で、漁港のせり場の近くに許可を貰ってテントで泊まったのだが、2時ごろからあたりがにぎやかになり起こされてしまい3時に出発。夜明け前に歩き始めたので僕よりも先行していた。足首が軽い化膿状態だと言いながらも、頑張って歩いている)。
12時40分、ようやく長かった下関市を抜け、長門市に入る。


さらば下関市。


このあたりは「北長門海岸国定公園」に指定されており、透き通った海の水と、きれいな砂浜があちらこちらに展開していた。




本当にきれいな海なので、いくらでも撮っていたくなる。


13時05分、路傍に六地蔵がまつられている。思わず、「これこれ石の地蔵さん~、西へ行くのはこっちかえ~」と美空ひばり。でも自分は東に向かって歩いているのだが。


13時30分、伊上海浜公園で写真を撮る。こちらもまたきれいな海である。




14時、西光寺の「椎ノ木巨樹群」の写真を撮る。


14時30分、自転車の男性としばらく話。彼は益田から来て、今日は小串まで行くとのこと、58歳。団塊の遊び好き同士で話がはずみ、世間の遊びへの無理解を二人で嘆きあった。
16時10分、長門古市で駅の様子を見に行くと、男女の高校生がたむろしている。そろそろ泊まる場所探しにはいるが、もちろんここでは泊まれず、県道56号線の長門油谷線に入るころには日没。さらに黄波戸(きわど)峠を越える。
17時40分、空が暗くなった頃、無人駅であるJR黄波戸駅に着く。時間も遅くなったのでここで泊まらせてもらうことにする。翌日の萩ユースホステルを予約して、行動終了。
今日はほとんど一日、真っ青で底が見えるほど透き通ったきれいな海を見ながら歩き、日本海の美しさを堪能した。4月も今日で終わりである。3月31日に定年退職して準備し、すぐに旅に出て、あっという間の1ヶ月間であった。

経費  1,081円    累計  71,951円
歩数  61,284歩   累計  903,718歩
距離  39km      累計  575km

(多忙により、しばらくの間、ブログ作成を一日おきにします。)

徒歩の旅 第19日 下関市  長門二見駅へ

2009年02月16日 | 2008年日本海側の旅
4月29日(火) 快晴 (「火の山ユースホステル」~下関市 JR長門二見駅)




今日の行程は長いので一人だけ5時起床。ユースの朝食は断って、
5時25分、出発。ユースの庭からの有明の月。


坂を下り、御裳裾川公園で、周防灘のかなたから上ってくる朝日の写真を撮る。朝焼けが美しく空気も清々しい。


5時45分、関門橋の彼方の朝日。これからはずっと日本海に沿って歩くことになるので、太平洋側の海ともしばらくはお別れ。


6時05分、唐土市場・旧イギリス領事館の横を曲がり、近道をして国道191号線(「北浦街道」とも「赤間関街道」とも言われる)に向かう。昨日見た旧イギリス領事館だが早朝は静かだ。


7時05分~15分、コンビニで牛乳、おにぎり2個、で朝食。
7時35分、山陰本線を越えたところで、国道191号線に合流。以後はずっと191号線を行く。
しばらく車と並行して歩く。単調な道だが、結構起伏もあってやや消耗する。
7時45分、「特牛 42km」とある。「特牛」は「こっとい」と読む。だが、これでは宿泊予定地の土井ガ浜キャンプ場まで43キロどころではない。ユースからここまでの2キロほどの距離もどうなってしまったのか、計画段階での計算間違いかな。出鼻をくじかれる。


8時50分、JR山陰本線の福江駅あたりから海が見えてきた。
9時15分、海の色はきれいなコバルトブルーなのだが、


なんと汚い海岸だろう。ゴミや漂着物が海草と一体になって、べったりとテトラポットにこびりついている。きれいな日本海のイメージが一瞬にして吹き飛んだ。ずっとこれではかなわないなあ、と思いつつ歩く。


9時45分、海沿いの道路を行く。特牛まで34キロ。


10時35分、再びやや内陸部に入っていくと、畑では麦が熟れている。もうこんな季節になったのだなあ。


10時40分、本州最西端「毘沙ノ鼻」に近く。


10時45分、雲ひとつない青空の下、のどかな景色だが特牛までは30キロ。


新緑と芽吹きの小山。「山笑う」という季語があったっけ。


暑くなってきたので、途中の無人売店で甘夏を買い、さらにペットボトルの飲料水を買って喉を潤す。路傍にイチゴの売店があり、買って、おばさんやその親類という女性と話をしながら、店の中で平らげる。九州を歩き通したためか、気持ちにも多少余裕がでてきたようだ。
歩いているとバイクや自転車のグループに何度も追い越される。そういえば大型連休に入っていた。
JR山陰本線のディーゼル列車の写真を撮ったりしつつ行く。気がついたのは、鯉のぼりの数が少ないこと。九州ではもっと沢山あったが、今日これまでに見かけたのはわずかに2・3軒でしかなかった。
13時30分、川棚温泉駅で小休止。広い待合室で昼食をとりつつ涼む。


14時40分、山間部から海に小島が見える。


15時30分、湯玉駅通過。ここも立派な待合室があり、泊まりやすそうだ。土井が浜キャンプ場は遠いので、どこか手前で宿泊地を確保しなければならないが、時間的にまだ早い。
16時10分、広い畑の中を行く1両のみの山陰本線のディーゼル車。


16時15分、宇賀本郷駅もやや狭そうだが寝られないことはないな、などと思いつつ通過。


16時45分、長い海岸線をひたすら行く。


16時50分、二見が浦「夫婦岩」の注連縄。


特牛が近づいてくるのだが、


ついに歩みがあまりははかどらなくなってきて、長門二見駅手前のトンネルで思案。
17時20分、トンネルを抜けたところに、運よく立派な休憩舎(「夫婦岩ふれあいステーション」)が併設された無人駅の長門二見駅があった。土地の人たちの管理によるとかで畳敷きの快適そうな建物だ。今日はここで泊まらせてもらうことに決定。


閑散とした駅前で開いていたたった一軒の店で、パン、ソーセージ、アイスクリームを買う。休憩舎で、出発時刻を待っていた路線バスの運転手と話。彼の食道癌のことや、この地方の過疎のことなど。若者は下関市街や北九州・瀬戸内方面に行ってしまい、老いた親ばかりが残されている、と。
宿泊者は一人きりなので、手足を伸ばしのんびりと寝る。もちろん寒さは感じず。
今日は42キロ歩いた。ちょうどフルマラソンの距離だ。
 
経費  1,428円    累計  70,870円
歩数  59,814歩    累計  842,434歩
距離  42km   累計  536km


コラム:「通過儀礼」?

2009年02月15日 | コラム
「通過儀礼」?


2008年4月27日、関門海峡を越えました。第一段階の九州の旅を終え、引き続き第二段階の本州の旅に入ります。




この17日間、いろいろなことがありましたが、特に足のトラブルについて少し書いておきたいと思います。
指宿のユースホステルを出発してから、枕崎駅あたりまでの2日間は快調でした。何ものにも拘束されず、自由に歩く楽しさを満喫していたと言っていいと思います。時として先を急ぎたくなる気持ちに対して、心でブレーキをかけつつ歩きました。「自分で自分を急かせないかぎり、誰も急かす人はいない」というのは、実に爽快でした。ザックの重量は17キロほどになっていましたが、そのかわりテントを持っていることで宿泊地の選択の幅が広がり、いざとなれば何処でも泊まれるくらいの気持ちでした。

(JR指宿枕崎線の大山駅にて)

しかし、その後、上塘池泊を変更した頃から、降雨もあり、自然と頑張って進んでしまった結果か、右足首が痛くなってきました。また、登山道を歩くのには慣れていても、アスファルトの道を歩くペースには慣れていなかったということか、両足の第2、4、5指および第1指付け根に大小のマメができました。やはりオーバーペースになっていたことによるものと思われます。はじめからマメができるのはある程度は覚悟していましたが、さらに右足第2指に血マメもできて歩くのにいささか難儀しはじめました。マメの上からテーピングを巻いたり、途中で5本指の軍足を買ってそれまでの靴下に代えたりしました。5本指の軍足は指と指の間にできるマメに対して有効でした。
しかし、加えてジンマシンまでもでてきたのには参りました。はじめは腹部から背中、大腿部に大陸状に腫れ、2~3日後に徐々に島嶼状になり、後には消えていきましたが、痒みには苦労させられました。予定外でしたが、2泊した国民宿舎の風呂で冷水をかぶるのが楽しみでした。
痛めた足首の方も依然としてなかなか良くならず、ひえピタ、サロンシップ、テーピング等々考えついた物はコンビニやスーパードラッグで買ったりして対応してみたのですが、なかなか好転しませんでした。チタンテープも効かず、足首には徐々にむくみもでてきて、熊本あたりではちょっと困った状態が続きました。
開聞岳の頃は、セーブしてセーブしてと、言い聞かせつつ歩いたつもりでしたが、痛くなってからはいくら頑張っても時速3キロ程度にペースダウン。はたしてこれで宗谷岬まで到達できるのだろうかと、しばらくはなんとも情けない気分にもとらわれました。足首にテーピングを8の字に巻き、さらに上部にも巻いて固定しやっと歩ける状態でしたが、それでも痛くて、時々足を引きずるありさまでした。「右足君、我慢我慢!」「左足君、右足君の分も頑張ってくれ!」と足に話しかけたい気持ちでした。
第7日目は米ノ津から芦北へ向かった日でしたが、早朝歩いている途中に小学生が登校してくる列に出会ったときは困惑しました。可愛い声で口々に「おはようございます」「おはようございます」と言うので、こちらも笑顔で一人ひとりに「おはようございます」「おはようございます」と挨拶をしつつ平静を装って歩くのですが、彼らが行ってしまって見えなくなると、痛さで思わず立ち止まってしまいました。とにかく、いずれはこの苦痛も懐かしい思い出になることだろう、などと考えて自分を納得させていました。
そんなわけで、熊本では、いくつか装備を自宅に送り返し、荷を軽減して急場をしのごうと考えたわけです。2キロほど減らしました。荷が軽くなって、多少は楽になったとはいうものの、痛みはその後も相変わらず続きました。
さらに、歩行途中に靴下に穴があいてしまい、熊本の登山用品店で靴下を買ったのですが、これが全く裏目にでたということもありました。両足小指にできたマメを、気持ちのゆとりがなくて放置した結果、靴下が厚すぎて圧迫したのか両足とも小指が化膿し始めてしまいました。一歩足を置くのもためらわれる状態で、地面に置いて痛くない場合と痛い場合の区別が分からず、一歩一歩こわごわ足を置くといった按配になってしまいました。
右足首はむくみはじめ、指で押しても凹んだまま戻らず、しかもだんだんと範囲が広がり、上がってきたので、むくみが膝まで上がってきたら撤退し自宅へ戻らざるを得ないかな、などと本気で危惧しました。
しかしその後は、下関で2泊して休養し、またテラマイシン軟膏の効果もあってか小指の化膿はおさまり、痛みもやや軽減しました。また、足首のむくみも相変わらずしばらくは続きましたが、無理に力を入れなければ痛いながらも歩けないわけではない状態にまで復帰しました。この後、山陰地方に入ってからは、徐々にではあれさらによくなり、40キロ以上歩ける日もかなり出てくるようになりました。自宅からも、期限付きの旅ではないのだから日程を調整しながら歩けばよいからと、メールが届いたりしました。

(関門海峡横断記念)

何か、泣き言のようなことを書き連ねましたが、いろいろ体調の面で苦労しつつも、精神的には解放されて高揚して九州を歩いたことは確かです。そして、当初の計画よりは2日ほどオーバーしましたが、景色の美しさや出会った人たちの親切や優しさに支えられ、また比較的好天にも恵まれて九州を通過しました。また、その後の山陰以降の行程も、ときどきはめげそうにはなりつつも、徐々に調子をあげて歩きだし、全体としては日程に沿って着実に進んでいくようになりました。まあ、旅のはじめの「通過儀礼」とでもいったものだったと思います。

徒歩の旅 第18日 下関連泊

2009年02月14日 | 2008年日本海側の旅
4月28日(月) 晴 (「火の山ユースホステル」に連泊) 

休養日につき、ゆっくり朝寝。下関市見学と装備の補充等のため、10時少し前にユースを出る。高台にあるユースホステルから、緑の木々に囲まれた坂を日差しを浴びつつ下り、御裳裾川公園方面へ。


御裳裾川公園で、幕末の下関戦争で長州藩が使用した長州砲の実物大模型を見る。攘夷を掲げる長州藩は米・仏・蘭の艦船にこの加農砲で砲撃したが、英・米・仏・蘭の報復にあい大敗を喫した。この戦いがその後の長州藩の倒幕開国への方針転換の契機になったといわれる。 




こちらは旧式の天保長州砲。




また、ボランティアが身振り手振りを交えて、「源平壇ノ浦の戦」の紙芝居をやっていたので拝聴。紙芝居の後、彼から平家蟹の標本を見せてもらったが、やはりちょっと不気味な甲羅の模様であった。




その後、関門橋の下を通り、写真を撮りつつ下関駅方面に行く。


旧秋田商会ビルや




旧イギリス領事館、


下関南部(みなべ)町郵便局など、海峡のこちらにもレトロな建物がいくつかある。


さらに下関港を見たり、


「海峡ゆめタワー」方面も。


市内では、旅の装備補充と、久しぶりに書店に本を眺めに行った。
帰りに唐土市場を見物し、商店街で食料を買い、昼食。旧秋田商会で金子みすずの展示を見、
赤間神宮や、




日清戦争の講和記念館を見て、




のんびりユースに戻る。
夕刻、同宿者にBさんがやって来る。66歳、やはり徒歩で宗谷岬まで行くとのこと。これまでに日本百名山、江戸五街道、青春18切符での普通列車全区間乗車などの経験があるという旅の大先輩である。彼は大隈半島先端の佐多岬から来たとのことで、1日30キロ弱の歩行で、約100日で宗谷岬へという計画。こちらとほぼ同一の日本海沿いのルートだが、津軽半島から北海道に入り、内陸部(札幌、旭川、名寄)を行く。1日あたりの距離からすれば、僕の方が多少先行することになるかと思うが、ただし、こちらは休養日が多いからどうなるか。彼の方は休日は取らずに、毎日歩くと言っている。(……ちなみに、彼とはその後もお互いに連絡を取り合いつつ、励ましあって二人とも目的を達成しました。)今日の同宿は3人(Bさん、自転車で中国地方を回っているという60歳代の男性、それと僕)。昨日は5人だった。夜、ユースのベランダから関門橋の夜景の写真を撮る。


宿泊代は昨日済み。翌日に備え早寝する。

経費    2,385円    累計  69,442円
歩数  (20,095)歩   累計には加えず
距離     (?)km   累計には加えず



徒歩の旅 第17日 下関市  火の山ユースへ

2009年02月13日 | 2008年日本海側の旅
4月27日(日) 晴 (高塔山公園~下関市「火の山ユースホステル」)



4時、起床。いよいよ九州最後の日。
5時40分、高塔山公園を出発。若戸大橋方面に向かって坂を下っていく。

 
下っていく途中で、火野葦平の文学碑を見る。「泥に汚れた背嚢に さす一輪の菊の香や」と刻まれてある。火野葦平は、『麦と兵隊』などを書いた作家であり、アフガニスタンやパキスタンで医療活動や水源確保、農業支援等の活動を行っている「ペシャワール会」の中村哲医師の叔父である。


文学碑より洞海湾を一望する。


若戸大橋が見えてきたものの、


途中出会った散歩の男性の話で、若戸大橋は自動車専用のため徒歩では渡れないことを知る。歩くには昨日の道を戻り、洞海湾をぐるっと巻いて行かねばならず、足痛もあって弱気になり渡船にすることを選択。
朝の商店街をぬけて渡船場へ。


7時03分、船が出ればあっという間、9分で戸畑に着く。乗船券は100円。


船内から、若戸大橋と朝日を望む。


7時15分、戸畑駅を通過。


8時、コンビニで牛乳、おにぎり2個、を買い、牛乳だけ飲む。
8時40分、高速道路の下を小倉方面に向かっているのだが、はたしてこれでいいのだろうか。


高速道路の下のツツジの花がきれいだ。JR鹿児島本線と並行して行く。


9時05分、小倉城に着き、30分まで、テントを干したり、おにぎりを食べたりした後、お城の写真を撮る。


小倉城は、熊本城に比べると小ぶりだが端正な姿の城である。築城は1602年で、40万石の大名である細川忠興が居を構えた。


城内に「歩兵第十二旅団司令部跡、小倉連隊区司令部跡」の石碑がある。西南戦争の際には、小倉城内に駐屯していた歩兵第14連隊が乃木連隊長に率いられてここから出征した。その後は歩兵第12旅団や第12師団の司令部が置かれたとのこと。


森鴎外の文学碑もある。『小倉日記』や『二人の友』など鴎外が小倉滞在時に残した文章が記されている。


ユースホステルは16時にならないと入れないので、今日はゆっくりと見物モード。
10時20分、小倉駅。
小倉港の海岸に沿って赤レンガ倉庫の写真を撮ったり、






海峡を行く船や、漁港の写真を撮ったりしつつのんびり行く。




関門海峡の彼方、下関市のシンボルタワーである「海峡ゆめタワー」が霞んで見える。いよいよ本州上陸近しを実感する。


その後国道3号線をいくことにしたが、これは失敗。展望はいいが何回か坂道のアップダウンをさせられる。ずっと海岸沿いに行くべきだった。右手に関門橋が見える。


門司駅の郵便局のATMで2万円下ろし。
13時25分、赤レンガの門司税務署前を通過。


13時30分、国の重要文化財である門司港駅に着く。歴史を感じさせる木造の駅舎はネオ・ルネッサンス様式といわれ、構内には戦前から使用されている青銅製の手水鉢などもある。


門司港駅のアップ。


駅前広場ではバザーをやっていた。


隣の赤レンガの鉄道記念館や旧門司三井倶楽部の建物など、このあたり一帯は「門司港レトロ地区」という観光スポットを形成している。




駅横のスーパー前の八百屋でトマト2個を買う。八百屋のおばさんにザックを見ていてもらい、スーパーの中で、大福、コロッケ、寿司、ハム、ちくわ、買う。おばさんに、ザック見張り賃として大福をあげたら、かわりにバナナをくれた。
14時20分~50分、和布刈(めかり)公園のベンチで、スーパーで買った寿司を頬張りつつのんびり海峡を眺めていたら、波が急に襲いかかって来て、水をかぶってしまった。




関門橋の写真を撮ったりして時を過ごし、




関門トンネル人道にエレベーターで降りる。


15時10分、福岡県と山口県との境界線で写真を撮ってもらい、九州を後にする。


下関側に出る。ついに本州に入ったかと思うと感慨深い。


海峡のこちら御裳裾川(みもすそがわ)公園は、源平壇ノ浦の戦いの舞台である。
源義経「八艘跳び」の像。


平知盛「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」の像。


安徳天皇の入水の地の石碑があり、「今ぞしるみもすそ川の御流れ波の下にもみやこありとは」と刻まれている。


15時40分頃「火の山ユースホステル」に着き、一休み。
16時、ユースが開扉。風呂、洗濯などし、夕食後、足の手入れをして寝る。明日は九州縦断記念に自分への御褒美で休養日。

経費  9,134円    累計  67,057円
歩数  47,497歩    累計  782,620歩
距離  26km     累計  494km



徒歩の旅 第16日 北九州市 高塔山公園へ

2009年02月12日 | 2008年日本海側の旅
4月26日(土) 晴ときどき曇 (「直方オートキャンプ場」~北九州市 高塔山公園)



4時45分、起床。朝食の後、撤収して、
5時50分、出発。薄い雲の上は晴。


今日もまずは遠賀川を下っていく。昨日から今日にかけて歩いている遠賀川流域は、かつて日本一の生産量を誇った筑豊炭田の中心部である。
6時05分、日の出橋を渡り右岸へ。山の端から朝日。


6時25分、筑豊電鉄の電車が鉄橋を渡ろうとしていたので写真に撮る。


昨日よりやや歩きづらくなった河川敷の自転車道をしばらく行くが、小砂利がふえてきたので、土手上の道に。


しばらく行くと歩道橋が切れ、車も増えてきたので、土手反対側の下の用水路沿いに少し行ってみる。


6時50分頃、3人組の散歩のおばあさんに会い、彼女達に確認すると、この用水が折尾までずっと続いているとのこと。それなら問題なし、明瞭だから今日は道迷い無し、と思いきや、甘くは無かった。
気付かないうちに北九州市に入って、旧長崎街道の宿場町だった木屋瀬宿跡に出たので、そこを通ることにする。




この長崎街道は、長崎と小倉を結び、長崎出島からの文物や情報を、京や江戸へ伝える重要な道であった。
7時05分、町家建築の遺構(旧安田家)。




村庄屋跡(松尾家)。木屋瀬宿には、村全体を統括する村庄屋、旅籠などを統括する宿庄屋、川舟を管理する船庄屋の三つの庄屋があったという。




7時10分、放送作家の伊馬春部生家(旧高崎家)横で休憩。




早朝のため人気のない、木屋瀬宿のレトロな家並みを眺めつつ行く。




しかし、木屋瀬宿を抜けると、その後の用水路の道が複雑になり、今日もまた彷徨うことに。
8時40分、ようやくにして中間市役所前の遠賀橋脇の交差点に出たので一安心。


ここで遠賀川と別れ、県道203号線を、商店街の人に聞きつつ進む。


途中コンビニで、牛乳、おにぎり3個を買い、食事。さらに、
9時45分、水巻町に入る。


そのまま道なりに行くと遠くに鹿児島本線が見える。


10時15分、国道3号線につきあたり右折、ほんの少し行くと北九州市に入る。


すぐに国道199号線に。
新折尾トンネル内は歩行者通行不可なので、トンネル上の木立の下のプロムナードを行く。
11時50分~12時30分、本城公園にて休み。ベンチに腰掛ているとホームレスの男性が話しかけてくる。彼の話では、飼い犬が人に噛み付くので困っている、と。ホームレス襲撃の話などもあるから、彼らも自己防衛しなければならないのか。無人駅泊とテント泊でこっちもひげ面だから、親近感を抱かれたかな。でも明日の晩は下関の「火の国ユースホステル」で風呂だ。
12時35分、高塔山方向を示す表示板。そこを回り込めば目的地は近し。


その後足を引きずりつつ洞海湾に沿って進み、
13時、今夜、九州完歩の打ち上げをすべくスーパーで買い物。牛乳、パン、ハム、マーガリン、レトルトカレー、ガム、チョコ、トマト。
重くなったザックを背負い、宿泊予定地の「しょうぶ谷キャンプ場」をめざすが、道はアップダウンもあり入り組んでいて非常に複雑。何度か出会った人に尋ねるが、すぐに分からなくなってしまう。
途中、洞海湾が遠望できるとおおよその現在地が分かるのだが……。


尋ねたうちの一人で、換気扇の清掃作業をしていた中年の女性が、中間の方から来た人でしょう、と言う。今日はこれで見かけるのは3回目、とか。見ている人は見ているものだ。こりゃ、ちょっとばかり疲れたり足が痛かったりしたからといって、ヘタレた格好はできんぞ。彼女に親切に道を教えてもらったのだが、でもまた迷う。
こんなところも通ったりして……。どうなっているのやら。


15時40分、ようやくにして高塔山公園にたどり着き、園内案内図を見ると、


予定地の「しょうぶ谷キャンプ場」へはあと3キロ以上起伏のある道を行かねばならず、あきらめる。
公園内で、風をよけて木立の間にテント設営。ここにもホームレスの男性がいたので挨拶などしたが、いつの間にかいなくなってしまった。


その後、全行程の半分を超えたら呑もうと決めていたので、酒なしで一人ささやかに九州最後の夜を祝す。怪我の功名として、明日越える若戸大橋に意外と近い地点にいることが分かったが、こんなものかな。16日間の歩行を足に感謝しつつ、テラマイシン軟膏で右足小指の化膿の手当てをして就寝。体に新聞紙を巻きつけて寝たので、多少寒さは緩和されたようだ。

経費   2,005円     累計  57,923円
歩数  48,389歩     累計  735,123歩
距離     28km   累計  468km

(経費について調べなおしたところ、第5日目の経費に間違いがありました。7,415円は宿泊費のみの金額でしたので、その他の買い物も含め、当日経費は8,423円。従って、当日累計も19,331円に訂正。またその後第15日目までの累計にもそれぞれ1,008円ずつプラスして訂正しました。失礼しました。)


徒歩の旅 第15日 直方市  直方キャンプ場へ

2009年02月07日 | 2008年日本海側の旅
4月25日(金) 晴 (筑前山家駅~直方市「直方オートキャンプ場」)



寒くてとても寝ていられず、5時起床。筑前山家(ちくぜんやまえ)駅の写真を撮る。

(クリックすると写真が大きくなります)

乗車ホーム反対側の、長いホーム跡は、かつての筑豊炭田の石炭輸送全盛時代の名残り。


5時50分、出発。防寒用に、雨具上下を着用。フリース手袋もする。
5時55分、木立に囲まれた「山家宿大庄屋役宅跡」を通過。「大庄屋」は、江戸時代にこの地域を管理していた役人で、年貢割り当てや納入、土木工事、参勤交代時の人馬役などの仕事をした、と書かれてある。


国道200号線を行くが、徐々に自動車が多くなってくる。正面右端に、旧長崎街道最大の難所であった冷水峠があり、今日はそこを越えて遠賀川方面に向かう。


浦の下で、新聞配達の女性が、わざわざ車を止めて、車の少ない道(国道200号線横の旧長崎街道)を教えてくれ、しばらくはゆとりをもって写真を撮りつつ行く。長崎街道は、大村益次郎をはじめ多くの人物が、長崎の出島にあったシーボルトの鳴滝塾や勝海舟の海軍伝習所などへと遊学した際に通行した道だ。


しかし、途中でその道も終わり、冷水峠に向けて再び元の道路に合流してからは、実にすさまじいの一言。峠路のカーブを何回となく曲がるが、狭い、歩道なし、危険、怖い。でも、他に道は無いから行くより他ない。
7時45分、峠の上で飯塚市に入る。


下り道もカーブ多し。何度も大型トラックと遭遇し、コンクリート壁に張り付いてやり過ごすこともあった。


8時30分、峠を下りきり、冷水トンネルを抜けて来る自動車専用道路と合流。


広々とした地点に出て一息つき、ようやく周囲の景色を見る余裕がでてくる。


菜の花の黄色が目に鮮やかだ。


しかし、その後も再び車が増えてくる。北九州方面を目指しただ黙々と歩く。


9時05分、JR筑豊本線の筑前内野駅。はじめの計画では、この無人駅も宿泊候補地に考えてはいた。しかし、待合の椅子は筑前山家駅の方が寝心地がよさそう。短くて足がつかえてしまう。ホームの椅子も最悪椅子。したがって、夕べは寒かったものの、それでもここよりは筑前山家駅でよかったということになろうか。


このあたりは往時、長崎街道の内野宿で、それを解説する案内板が掲示されている。


穂波川に沿って歩き出すとまた、単調な道路をトラックと並行。
10時30分~50分、長尾交差点脇の「レストラン冷水」で、やっと朝食。峠を越えた安堵感と、熱々の味噌汁、ご飯にひと時くつろぐ。
11時05分、桂川町に入る。


11時45分、再び飯塚市に。


12時10分~20分、ドラッグスーパーで買い物。牛乳、カロリーメイト、5本指の軍足。
13時45分、遠賀川に架かる飯塚大橋を渡る。


遠賀川はゆったりと流れている。


右岸を河川敷の自転車道路にそって下っていく。振り返ると飯塚大橋は徐々に遠ざかる。


ここは先ほどまでの国道200号線とはうって変わって嘘のような静かさである。白や黄の野草が咲き乱れている。




冷水峠はもう遥か後方である。
 

14時35分、対岸に多くの鯉のぼりが泳いでいる。


ほとんど人通りも無く、ウォーキング、サイクリングの人がほんの時たますれ違うだけ。
14時50分、JR筑豊本線の下を通り、


16時45分、頭の上の陸橋を行く平成筑豊鉄道井田線の写真を撮る。

 


16時50分、直方市に入るのを知る。


そのままずっと河川敷を下っていき、木の仮橋で対岸の「直方オートキャンプ場」へ。


誰もいない無料の広いサイトの、中央の大きな木の下に設営することにした。


炊事場の水が出ないので、道路に上り自販機でペットボトルの飲料水を2本買う。トイレは使用可。下関のユースホステルに宿泊の予約電話をし、自宅にメールをして、夕食の後就寝。河川敷だから暴走族が出るかな、などと考えつついつしか夢の中。相変わらず寒かった。レスキューシートをかけたが効果なし。広いテントサイトにぽつんと一張りのテントだからやむをえない。夜中サイレンが鳴っていたが何だったのか、うつらうつらしつつも眠ってしまった。

経費  2,060円     累計  55,918円
歩数  62,839歩    累計  686,734歩
距離  36km        累計  440km


(明日から、ちょっと奥多摩の山に行ってくるので、ブログは4日間お休みします。)

徒歩の旅 第14日 筑紫野市 筑前山家駅へ

2009年02月06日 | 2008年日本海側の旅
4月24日(木) 晴 (「ルノワルユースホステル」~筑紫野市 JR筑前山家(ちくぜんやまえ)駅)



5時50分、出発。寒し。
6時20分、JR鹿児島本線を跨ぐ頃、雲が去り朝日が出てくる。


6時50分、「鳥栖 28km」の標識。距離も手ごろなので、今夜の宿泊予定は、一応鳥栖(とす)のTS(トラックステーション)とする。というのも、一昨日、熊本TSというトラック協会が運営している宿泊施設で、トラック関係者は2600円、その他は3600円で泊まれるとあるのを、行動中に見かけていたからである。


7時、矢部川の河川敷にある筑後広域公園の新緑が鮮やかだ。


7時05分、矢部川を渡り、筑後市に入る。 


八女(やめ)茶の畑が道路わきにも見られる。


7時10分、コンビニで、牛乳、チョコ買う。
8時、八女の高校生が自転車で何人も通学してくる。八女といえば、五木寛之や井上光晴の小説の舞台になっているところだ。
8時05分、筑後市役所前を通過。


8時10分~25分、羽犬塚(はいぬづか)小学校の門横にあったベンチにすわり、昨日の夕食用に買ったパンで食事。


プレートに、羽犬塚のいわれが書いてあった。


9時、上原々向山(かんばらばらむかいやま)交差点。ちょっと読みづらい、なんか奇妙な名前だ。


9時25分、久留米市に入る。


9時25分、筑後市を後に。


9時40分、相川通過。鳥栖まで20キロ。振り向くと標識はもう「熊本 72km」とある。
ともかくここの道路は非常に自動車が多い。国道3号線が、山中に入っていってしまうため、国道209号線に北九州方面に向かう大型トラックその他が集中するという感じである。びくびくしながらただただ自動車の隣を並行して歩く。




11時20分、西鉄久留米駅の商店街で小休止の後、東町交差点を経て、
12時、八百屋でイチゴを買うついでに道を聞く。ザックを背負った姿を見てか、どこまで行くのかと尋ねられ、北海道までと答えると、「冒険者、頑張って!」と言われる。
12時10分、中央公園の大きな木の下で小休止。




12時20分、河川敷隣の久留米百年公園で「つつじまつり」が開かれている。 


濃淡さまざまなピンクが目に眩しい。


12時30分~13時20分、そのそばの芝生の上で、ゆっくりと食事と昼寝。
のどかな河川敷を行き、
13時35分、国道3号線に戻り、筑後川を渡る。


青空の下、太陽の光を浴びて筑後川はゆったりと流れている。


13時55分、宝満川を渡り、佐賀県鳥栖市に入る。4県目だ。


その後2~3キロもしくはそれ以上にわたって、大根の花が歩道の右側に咲き乱れる中を進む。




そのさらに右側には宝満川があり、覗くと白鷺、五位鷺がいた。


16時、鳥栖TSに着き宿泊できるか聞くが、満室で断られる。どうやら計画が甘かったようだ。仕方なく、あと15キロ、筑前山家駅まで行くことにする。
鹿児島本線の特急の写真を撮る。


17時、ほんのかすっただけで佐賀県を通過し、


再び福岡県筑紫野市に入る。


17時30分~18時、国道3号線を行くが、道路が坂を上がっていった原田(はるだ)のあたりから歩道が不明瞭になり、道迷い。ロスを繰り返し、ようやく通りかかった婦人に聞いて判明。彼女によると、つい先日も福岡の女子大生が自転車で来て迷い、教えたとのこと。迷いやすい場所ではあるようだ。一安心して、コンビニで駅寝に備えて買い物。牛乳、食パン、おにぎり2個。
18時30分、西鉄天神大牟田線の筑紫駅横を通過。


18時40分、再び宝満川を渡り返すころには日没を迎える。


19時10分、やっとのことでJR筑豊本線の無人駅である筑前山家(ちくぜんやまえ)駅着。


記録と家にメール。終電の9時30分頃を前に、駅寝のルールを無視して眠ってしまった。駅舎は戸のない吹き抜けのため夜中は非常に寒く、途中でレスキューシートをシラフカバーの上にかぶったのだが、それでもまだ寒かった。シラフカバーではなく、やはりシラフを持って来るべきだったかな。
今日はこれまでで一番長い距離を歩いたが、上天気だったので、昨日、雨で写真が撮れなかった分を取り返すべく、思い切りとりまくった日だった。こんな日もある。

経費  1,527円    累計  53,858円
歩数  68,972歩   累計  623,895歩
距離  46km    累計  404km



徒歩の旅 第13日 瀬高町  ルノワルユースへ

2009年02月05日 | 2008年日本海側の旅
4月23日(水)曇のち雨 (「丸山キャンプ場」~瀬高町「ルノワルユースホステル」)



4時少し前に起床。天気予報は雨だが、まだ降ってきてはいない。
5時、暗い中を出発。玉名広域農道まで昨日の道を戻る。坂道の途中、両側に林立する「成功の灯篭」がちょっと不気味。右足首をカバーしつつ、時々後ろ向きに歩いたりして痛みをやわらげつつ下り、
5時40分、やや明るくなった頃、農道に合流。そのまま雲が広がりつつある空の下、いくつも起伏のある単調な道を行く。
6時05分、玉名市に別れを告げ、荒尾市に入る。


(荒尾といえば、開聞岳へ向かうべく、4月9日に、JR鹿児島本線普通列車の接続待ちをした駅である。あの時も雨が降っており、肌寒いホームには他に誰も居なかったっけ。一人ベンチに座って、雨に濡れた鹿児島本線が発着するさまを眺めつつ、ずいぶんと遠くまで来てしまったものだと実感させられた。2週間後の今日の荒尾もまた雨である。)

(これは4月9日の写真)

6時、小雨が降りだし、雨具着用。
雲の流れが速く、しばらく降ったりやんだりを繰り返す中、段丘に棚田が続く里山風景を眺めつつ歩く。




7時、本格的に降りだしたので、ザックにもカバーをかける。この後、時として小止みになりつつも、一日中ずっと雨天のため、防水仕様ではない我がデジカメは終始ザックの中。したがって残念ながら写真はなし。
7時40分、萌黄色とでもいうのだろうか、新緑が雨を浴びて実に美しく、鶯も鳴いている。杜牧の、「千里鶯啼緑映紅」(千里鶯啼いて緑紅に映ず)という「江南春」の一句などを口ずさみつつ行く。緑の木々の匂いが心地よく、また同じく緑色といっても、濃い緑から淡い緑、黄色がかった緑など実にさまざまな色合いがある。写真に撮れなかったのが残念だ。
8時、福岡県大牟田市に入る。3県目である。しばらく行くと不明瞭な分岐。バス停にいたおばあさんに尋ね、さらに進む。
9時17分、コンビニにて、牛乳、ピザパン、菓子パンを買い食事。
9時45分、狭くていかにも農道を簡易舗装しただけという道路ヘ入る。車同士が交差しつつ次から次へと通り、歩行もままならず。あげくにバスまでもが進入してくるではないか。東京ならまちがいなく一方通行になっているところだ。何処かへの抜け道になっているのだろうか、無茶苦茶な状態になっている。その後、道が錯綜してきて、進路を失う。なんとか208号線に出たいと思いつつ、勘をはたらかせながら行くも外れを繰り返す。途中にあった店の人にも聞くが、駄目。今度もまたバスを待っていたおばあさんに尋ねる。おばあさんは丁寧に教えてくれたが、目印まではかなり距離がある。さらに再び彷徨って、
10時40分、やっと国道208号線に出て一安心する。昨夜のキャンプ場泊のため幹線道路から外れたわけだが、戻るのにだいぶ苦労した。
11時、西鉄天神大牟田線の倉永駅を通過。西鉄線や鹿児島本線の写真をケータイのデジカメで撮ろうとするが失敗。
11時25分、みやま市に入る。その後は、左右に青い麦畑を見ながら雨の中を北上。鹿児島本線の特急もケータイで写せず。その後、
12時20分~40分、荒仁神社で雨宿りを兼ねて休み、食事。今日は、雨の中を、雨具を着け15キロのザックを背負って、何度も迷い彷徨いつつ歩いたため、ザックからデジカメを出す意欲も失われてしまった、ということか。
13時40分、ガソリンスタンドで「ルノワルユースホステル」の場所を確認し、予約電話では素泊りだったため、途中で食料調達。食パンと菓子パン3個。
14時、「ルノワルユースホステル」に着くも、鍵が開いておらず、ガタガタやったり、電話すべくケータイで番号を調べたりしていると、中からおばあさんが開けてくれる。しかし「今、係がいないから」云々で、土間にて待たされる。民間のユースとはこういうものかと、熊本県青年会館に併設されていた「ユースピア熊本」との差に驚きながらも、くたびれてすのこに座り込み、居眠りをしてしまう。(実際には、ユース規則をよく読んでいなかったためのこちらの誤解によるもの。ユースのチェックインは16時だったから、時間前にガタガタやった当方が間違い。)
15時、ユースの「係」といわれた奥さんが戻ってきて部屋に通される。二階の畳敷きの一部屋で、古典的なユースのつくりの感じ(指宿の「圭屋ユースホステル」に似ている)。


但し、夕食(素泊まりのつもりでいたが、食事の用意ができるというので急遽方針変更して頼むことにした)は、てんぷら、筍の煮付け、鯖の塩焼き、豆腐、スープ、といずれもうまかった。部屋の隅に雨にぬれたザック、雨具、等々を干させてもらう。宿泊者は一人だけなので、風呂のあと、手足を伸ばしゆっくり畳の上で寝ることができた。

経費  4,665円    累計  52,331円
歩数  44,293歩   累計  554,923歩
距離  30km      累計  358km

* 経費は、その日に財布から出して支払った金額の合計。以前にも書きましたが、ユースホステルは当日支払い、国民宿舎などは翌日支払いでした。
* 歩数は、携帯電話に付属していたもので計りました。但し、コンビニやスーパーなどでの買い物の際も歩数に入ってしまっています。
* 距離は、おおむね『ツーリングマップル』をもとに合計した概数(小数点以下は、四捨五入)を示しています。

徒歩の旅 第12日 玉名市  丸山キャンプ場へ

2009年02月03日 | 2008年日本海側の旅
4月22日(火) うす曇のち晴 (「ユースピア熊本」~玉名市「丸山キャンプ場」)



5時50分、出発。市内を進み、熊本高校横や県立美術館前を通り、子飼交差点で国道3号線に合流。再び、見慣れた「門司○○km」というキロポストに出会う。
北上して、
7時、北熊本の跨線橋から熊本電鉄の写真を撮る。


振り返ると、昨日上った熊本城の天守閣がはるかかなたやや左に見える。


拡大写真。


街路樹の根下では、ツツジが盛りである。


7時30分、山室分岐。長いだらだらとした上り坂を行く。今日は一昨日よりも足首の具合はよいようだ。ただし油断は禁物(案の定、後で両足の小指が痛くなった。買った靴下がやや厚くて合わなかったせいだろうと思われる)。
8時05分、島津・細川氏などの参勤交代時に、休息所として使用されたといわれる「御馬下の角小屋」を通過。




9時10分~20分、コンビニで買い物と食事。牛乳、赤飯おにぎり。それと手持ちのカロリーメイトを食べる。
9時20分、田原坂方面の指示標あり。


9時25分、分岐で3号線と別れる(この時点で門司まで176.4キロ)。


田原坂公園への一方の入口。


国道208号線に入ると、両側にはハウス栽培の畑が多い。




11時10分、もう一方の側の田原坂公園入口通過。資料館などもあるというので立ち寄ってみたかったが先を急いでしまった。


このころより路傍に西南戦争の戦跡の碑が増えてくる。「官軍攻撃第一線」、「官軍病院跡」、「乃木奮戦跡」等々。






石碑には「乃木第十四聯隊長奮戦阯」とある。日露戦争における二百三高地攻撃のあの乃木将軍である。


昨日の熊本城見学の際にも感じたことだが、西南の役について旅が終わったら少し調べてみたい。「維新政府の進める近代化に対する不平士族の反乱」といった遠い昔の受験知識にとらわれず、不十分なものであっても自分自身の中で評価を出してみたい、などと考えながら歩く。
12時15分、玉東町より玉名市に入る。
13時10分、バイパス分岐。ややわかりづらく、コンビニでコーヒー牛乳、おにぎり2個を買い、ついでに店の人に道を確認。
単調なバイパスを行く。正面の小山が本日宿泊予定のキャンプ場がある小岱山(しょうたいざん)か。


バイパスは緑が多く、この写真では光線の具合で青空が白飛びしてしまっているが、空は晴れ渡り、春の里山の風情。




菊池川大橋で菊池川を越える。


広域農道に入るあたりもまたわかりづらい。ザックを置いて周囲を確認し、
蛇ガ谷公園横を通過。八重桜とつつじが今を盛りと咲き誇っているので写真に撮る。青空の下、まさに春爛漫といった感じ。




玉名広域農道を進み、
14時30分~45分、湧水の郷で買い物。トマト、食パン、菓子パン、ピーナツ味噌。湧き水を飲み、店員にキャンプ場を教えてもらう。広域農道を道なりに1時間ほどで、蓮華院の入口。右折してだらだらと坂を上っていく。両側に成功祈願の灯篭が沢山ある。
立派な奥の院(法然上人の師が生まれた寺であるとか)があり、


それを越えてやや下っていくと、
16時15分、小岱山のふるさと自然公園内にある「丸山キャンプ場」に到着。管理事務所は定休日。翌日の雨に備えて、幕営適地をさがして整地。
16時30分、テント設営完了。奥の方にもう一張りテントがあっただけの、木立に囲まれた落ち着いた泊まり場である。幕営無料。
今日は、一日中海を見ることがなかった。これからも内陸部通過のため、海は関門海峡までしばらくお預け。

経費  1,309円    累計  47,666円
歩数  50,134歩   累計  510,630歩
距離  35km      累計  328km


*明日は仲間同士の勉強会があるため、ブログはお休みします。