そぞろ神の物につきて―日本列島徒歩の旅の記録

  (2008年 日本海側)
  (2011年 四国八十八ヶ所)
  (2014・15年 太平洋側)

徒歩の旅 第70日 青森市  道の駅 浅虫温泉へ

2009年05月30日 | 2008年日本海側の旅
6月19日(木) 晴のち雨 (中新座北公園~青森市・「道の駅 浅虫温泉」)



4時、公園発。ホームレス君は、まだベンチで眠っている(中央奥)。


洗面と用足しのため、一旦「道の駅 なみおか」に戻る。
4時30分、道の駅を出発し、リンゴ園と水田の中を貫く、国道7号線の新しくて広い浪岡バイパスを行く。この道路は、旧国道7号線(現県道)のバイパス道路の一部で、以後青森駅方面に向かい、大釈迦バイパス、鶴ヶ坂バイパス、青森西バイパスと続いている。
天気予報は下り坂だが、今のところ雲にさえぎられつつも時々は日差しもあり、雨の気配はなし。気温は15℃。
5時15分、津軽自動車道(浪岡五所川原道路)の方の国道101号線との交差点を通過し、さらに、
5時40分、今度は大間越街道の方の国道101号線との交差点を通過。田園地帯から大釈迦峠へと上っていく。
6時、緑濃き大釈迦峠へ。
6時30分、JR奥羽本線の鶴ヶ坂駅方面への分岐を通過。
鶴ヶ坂バイパスは高く茂る木々に囲まれた山間部に入って行く。
鶴ヶ坂1号橋、2号橋、3号橋と真新しい橋梁をわたる。いずれも高度感のある橋である。
その後は、青森市中心部方面に向けて長い坂をずっと下って行く。
8時10分、青森環状バイパスとの交差点を通過。ここを右折すると三内丸山遺跡方面に行くのだが、今回は素通り。
8時20分~45分、コンビニにて食事。牛乳、から揚げ弁当。
日差しが弱くなり、雨が接近している予感。コンビニ先の道路わきにて15分ほど結露に濡れたテントを乾かす。
9時15分、新城川にかかる新城大橋を渡り、青森市街に入る。先ほどまでと違い高層ビルの間を行く。
9時40分、青森西郵便局にて旅の途中で入手した資料などを自宅宛に郵送。
10時、JR津軽線を跨ぎ、市の中心部を歩いていると、お婆さんに「どこまで行くの」と声をかけられる。旅の説明をしたあと、15分ほど市内の様子や彼女の家族の話などを聞いたりし、青森のリンゴは甘いからぜひどうぞと、リンゴジュース缶を2個いただく。「お気をつけて」の声に送られ出発。
10時25分、古川跨線橋でJR奥羽本線とJR東北本線を跨ぐ。青森駅や青森港は左手の奥の方である。


さらに市内を進み、
10時35分、青森県庁前を通過。ここには、国道7号線と国道4号線の転換点を示す道路標識があり、したがって、ここからは国道4号線を歩くことになる。




すぐ近くに「空襲・戦災青森都市」の説明プレートもある。東京や横浜・川崎、大阪や神戸、広島・長崎などの空襲は知っていたが、青森市も空襲を受けていたとは知らなかった。1945年7月28日夜半の空襲で、死者1018名、市街地の90パーセントを焼失した、とある。


11時、銀行やホテルが並ぶ町並みを過ぎ、堤川にかかる堤橋をわたると、青森市の中心街をぬける。
11時10分~30分、弁当屋にて昼食。焼肉弁当を店内の椅子に座って食べる。
浅虫方面へは県道259号線を海沿いに行くつもりでいたが、うっかり分岐を見落としてしまい、しばらく4号線を行ってから気づいて戻る。
12時10分、青森商高の横で10分間小休止。小雨が降り出し雨具を着用。
青森湾に沿って県道259号線(奥州街道の旧国道4号線)を東進する。
13時50分、雨が強くなり、草に囲まれた無人のJR東北本線野内(のない)駅にて、雨宿りを兼ねて30分ほど休憩。ホームの待合室で少し眠る。
再び雨の中を行く。
15時、久栗坂(くぐりざか)で国道4号線と合流。善知鳥(うとう)崎を望みつつ、青森湾沿いの風情ある景観の中を行く。
15時05分、雨は上がり、善知鳥トンネル(112メートル)をぬけ再び青森湾沿いを浅虫(あさむし)へ。


15時30分、「ゆ~ざ浅虫」という温泉に併設の「道の駅 浅虫温泉」に着く。
浅虫の町は大きなホテルや温泉旅館が立ち並ぶ歓楽街である。どこかテントを張るのに適当な場所はないかと探すと、うまい具合に道の駅に通じる歩道橋下にスペースが見つかり、今夜はここで泊まることに決定。
時間的にまだ早すぎるので、道の駅売店でお菓子を買い、その後5階の展望浴場「はだか湯」に入浴。
裸になると、半そで半ズボンで歩いているため、日焼けしている部分とそうでない部分との落差が余りに大きく、湯船の男性たちに何の商売をしているのかと尋ねられる。漁師ОBの彼らの話を聞き、温泉でゆっくりと汗を流した後、自販機で飲料。時間があるので、今後のルートの検討、旅の費用の計算などをして過ごす。
今日、東北地方の梅雨入りが発表される。ついに梅雨前線に掴まってしまったか。
しかし、徒歩の旅は今日で70日目。着々と北海道に近づいていることを実感する。

経費  2,550円     累計  257,186円
歩数  58,973歩    累計  3,439,309歩
距離  39km       累計  2,271km

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徒歩の旅 第69日 青森市浪岡 中新座北公園へ

2009年05月28日 | 2008年日本海側の旅
6月18日(水) 晴 (「尾野旅館」~青森市・波岡 中新座北公園)



7時50分、出発時に女将さんが、お昼ご飯の足しにと、大きなおにぎりと沢庵を持たせてくれる。親切な心遣いに感謝し、今日もまずは国道101号線を行く。
8時10分、鰺ヶ沢観光案内板。「津軽藩発祥の地」とある。岩手の大浦光信が、西海岸一帯の守りのためにやってきて1491年、種里に築城。


8時30分、跨線橋から緑の中の五能線。


海岸沿いにはイカ干しの店。


8時30分、鳴沢橋をわたると道は海岸線を離れ、岩木山を右手に眺めつつ、津軽半島の付け根を東に向かって横断するルートに入っていく。


8時40分、岩木山の一部にはまだ雪がついている。


9時15分、つがる市に入る。


9時45分、コンビニで買い物。牛乳、ガム、のど飴。
コンビニの女性従業員が、「深浦の方から来たでしょう。昨日も今日も、出勤途中に車の中から見かけましたよ。」と言い、「頑張ってください」と激励される。
美空ひばりの「津軽のふるさと」や「リンゴ追分」などを歌いながら、津軽平野の水田とリンゴ園の広々とした道を行き、




10時20分~35分、「道の駅 もりた」にて小休止。
旧増田家住宅母屋が保存されており、見学。100年以上前に造られた大規模な萱葺き家屋の豪邸である。




11時10分、再び跨線橋上からやって来る五能線の写真を撮る。左端は岩木山。


11時20分、道路わきの小公園で食事。宿の女将さんに貰ったおにぎりを食べる。
13時、岩木川にかかる乾橋をわたり、五所川原市街地に入る。
13時10分~50分、女将さんが、「是非寄っていきなさい。」とすすめてくれた「立佞武多(たちねぷた)の館」を見学。




高さ22メートル、重さ17トンという巨大な実物の「立佞武多」が3台、4階建ての館に収納されている。その迫力に圧倒されてしまう。


4階からスロープでらせん状に降りながら、その大きさを実感する。


五所川原の「立佞武多」は、青森の「ネブタ」、弘前の「ねぷた」と並び、青森三大ねぷたの一つ。






8月4日から8日にかけての「立佞武多祭り」では、これらが五所川原の町を練り歩くことになる。




実際に市街を練り歩く姿を見てみたいもの。


(興奮して、何枚も写真を撮っているのがわかるでしょ。)


その後は、五所川原商店街のアーケードを進み、
14時25分、コンビニで食事。牛乳、おにぎり2個。
14時50分~15時、泊まりに備えてスーパーで買い物。食パン、トマト、玉ネギ、サラミ、ママレード、ココア。
水田の中を行くが、増えた荷の重さと暑さのためのどが渇き、自販機でペットボトル買う。
15時40分、五所川原東ICで津軽自動車道の下をくぐり、
15時55分、中溜池を通過。


16時10分、分岐にて国道101号線と別れ、県道34号の五所川原浪岡線に入る。浪岡まで11キロの表示あり。
その後は、再び間近くなった岩木山を右手後方に見つつ、田園地帯、水田とリンゴ園が続く道を行く。
県道は元は畦道だったのだろうか、くねくねと曲がった所や小さなアップダウンを進む。大木に囲まれたいかにも豪農然とした旧家や、ところどころに果樹園や溜池などがある。
17時~10分、高野にて小休止。
17時15分、青森市に入る。


18時25分、ようやくにして国道7号線に出る。
18時35分、今夜の宿泊予定地の「道の駅 なみおか」手前で、道の駅から出てきたホームレスの男性と話。
彼は道の駅で泊まるつもりだったが、職員から夜間に警察が職務質問に来ると聞き、近くの公園に移動するところとのこと。いよいよ洞爺湖サミットの警備の影響が出てきたかな? こちらは免許証もあり旅の計画書もあるので職務質問は別にどうということもないが、聞くところによると、彼は二日間何も食べていないとか。可愛そうになってしまい、近くの公園で一緒に食事をすることにする。
18時45分、道の駅近くの中新座北公園にて、シートを敷いて二人で奇妙なトワイライト ディナー。とりあえず非常食として自分用の乾パンだけは確保し、その他の手持ち食料は二等分してしまう。彼は42歳で、調理師になるべく専門学校を出たが、勤め始めて自分には向いていないと思い、調理師の道は諦めてしまったとのこと。その後いろいろな職業についたが、どれも長続きせず、結局はホームレスになってしまったのだそうである。トマトや玉ネギを食パンにはさんでマヨネーズをかけただけのサンドウィッチだが、実にうまそうに食べ、残りの食料は大事そうにバッグにしまっていた。いろいろな人生があるものだと思うが、やはり実際に目の当たりにし話を聞いてみないと、なかなか想像力ははたらかないものだ。
そんな訳で、今夜は公園でテントを張って泊まることになる。彼はベンチで、あげた銀シートにくるまって寝たようだった。

経費  9,738円      累計  254,636円
歩数  61,412歩     累計  3,380,336歩
距離  42km        累計  2,232km

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徒歩の旅 第68日 鰺ヶ沢町 尾野旅館へ

2009年05月26日 | 2008年日本海側の旅
6月17日(火) 晴 (JR驫木駅~青森県・鰺ヶ沢町「尾野旅館」)



4時25分、日の出前の驫木(とどろき)駅舎。好天を予感させる空の色。


ホーム。


4時45分、出発。五能線と並行して国道101号線を行く。
5時、ゆとりの駐車帯。トイレと水飲み場があり、洗面および飲料水の確保。
驫木駅にはトイレはあるが、水道はない。しかし、わずか1キロの所に両方ともあり好都合。
そばに案内板があり、その解説によると、このあたりは一時期参勤交代の道でもあったそうで、大間越から鯵ヶ沢までを「西浜街道」と言ったとのこと。


「大間越の国境から鰺ヶ沢(あじがさわ)までが『西浜街道』であり、小泊村までが、西ヶ浜であった。……」とある。


5時40分、海辺に家屋が見える。作業小屋だろうか。


5時50分、海岸線の花々。浜昼顔や、


ハマナス。




白いハマナスもある。


6時05分~35分、「かそせイカ焼き村」という大きな看板がある「道の駅 ふかうら」にて休憩、食事。
海上の大島、




弁天島にある紅白の帯を締めた鳥居崎灯台や、


7時10分、五能線の写真を撮りつつ、海岸線に沿って行く。




6時45分、気温が上がってのどが渇き、自販機でジュースを買う。
7時40分、大戸瀬の漁港では忙しそうに働いている。




8時~15分、千畳敷駅手前で、五能線の写真を撮るべく待ちながら小休止。


8時25分、千畳敷海岸へ。


案内板によれば、千畳敷海岸は1792年(寛政4年)の地震による隆起で出来たとのこと。


広いテーブルのような岩場と、


いくつもの奇岩。鷲岩、兜岩、潮吹き岩などとそれぞれ名前がつけられている。


空も海も真っ青。


太宰治の小説「津軽」の文章が刻まれた記念碑や、


大町桂月の文学碑などがある。


8時45分、波がきらめく中、陽を浴びて歩く。津軽半島が先端の方までよく見渡せる。


9時、跨線橋を過ぎ、坂を上る。
9時30分~10時、暑くなったので、北金ヶ沢の防災広場の四阿で昼寝。
しかし、気温は18℃、澄んだ空気と日差しの強さの問題だろうか。
(この時、草むらをかき分けた際にヌカカに足首を何箇所も刺され、後々まで痒くてまいった。)
10時05分、北小金沢の港を見下ろす地点へ。


10時20分~25分、水田の横を五能線が往来する。






10時45分、甕杉(かめすぎ)。菅江真澄の道の標柱がある。


11時、コンビニにて買い物。牛乳、豆大福。一昨日の「道の駅 みねはま」以来の久しぶりのコンビニである。
11時25分、さらに五能線の写真を撮ったりしつつ水田の傍を行く。


11時55分、鰺ヶ沢町に入る。


12時15分、相変わらず強い日差しの下、真っ青な海を見ながら歩く。




12時50分~13時30分、「ドライブイン汐風」で「イカミンチ丼」というものを食べる。イカのハンバーグで作った天丼のようなものだが、味も良く量も多くて満足。
その後は、海岸通をイカの売店やイカを干している店などを見つつ行く。


淀町、漁師町、釣町、浜町などの歴史を偲ばせる名称を持つ家並みを過ぎて行き、
14時10分、鰺ヶ沢奉行所跡。


14時40分、鰺ヶ沢駅前の「尾野旅館」に到着。
女将さんは真っ白な割烹着が似合う大変気さくな人で、風呂に入っている間に着替えの洗濯をしてもらったり、町のことや泊まった人たちのことなど、いろいろな話を聞かせてもらう。ここは日本海沿いを旅をする人にはちょうどよい位置にあるせいか、様々な人が泊まっていくとのこと。この部屋にも、数年前にカメラマンの人が泊まった、と。おそらく、『日本縦断 徒歩の旅』( 岩波新書)を書かれた石川文洋さんのことだろうと思う。たまたま泊り客も少なく、彼女も時間の余裕があったのか、話は尽きない。
「今日は美味しい魚が入ったから期待していてね。」との彼女の言葉通り、夕食はご馳走。鯛の塩焼き、ワラサの刺身、ヒラメの刺身、巻貝の煮付け、酢の物、香の物、塩辛、ご飯と味噌汁、それとビール。


5日ぶりの宿泊まりで、美味しい食事を腹一杯。夜はぐっすりと眠った。宿泊代、一泊二食付で6,500円。

経費  1,155円(宿泊代は翌日会計) 累計  244,898円
歩数  44,474歩          累計  3,318,924歩
距離  28km            累計  2,190km

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徒歩の旅 第67日 深浦町  JR驫木駅へ

2009年05月24日 | 2008年日本海側の旅
6月16日(月) 晴のち曇一時雨 (深浦町松神 私人宅の庭~青森県・深浦町 JR驫木駅)



5時、昨日の約束どおり、テントを撤収して出発。
歩きはじめる前に昨晩のお礼をと思ったが、Kさんたちはまだ寝ているとのことで、後片づけをしていた女性にお礼を言い、皆さんによろしくと伝えてもらう。旅が終わったら、自宅からあらためてお礼を出すことにして、寝不足と二日酔いまじりのやや重い頭で、大間越街道の国道101号線を北上。
(昨晩の宴会は、この坂の上の林の中。)


5時10分、JR五能線の十二湖駅はまだ閉まっており中へは入れない。
駅前にある観光地図。


5時30分、森山トンネル(295メートル)を抜ける。
5時40分、道路に沿った家に、薪が大量に積み上げられている。この地の冬の苛酷さを物語っているようだ。


6時~30分、陸奥岩崎駅にて小休止、食事と用足し。
生徒たちが電車で通学する。こんなに早朝から大変だ。


上空には多少雲があるものの、白神山地方面は晴れて、稜線がくっきりと望まれる。


6時55分、陸奥沢辺駅を通過。海は今日も穏やかだ。


7時20分~8時25分、「沢辺パーキングエリアゆとりの駐車帯」にて大休止。洗面をし、五能線を撮ったり、今日の行動予定を考えたりする。


8時45分、鯵ヶ沢の駅前旅館に宿泊の予約電話。
9時、ウェスパ椿山駅のスロープカーのレール上に、サルの群れを見かける。逆光に毛並みが輝いている。


右手に風力発電の白い大きな風車を眺めつつ行き、
9時35分、艫作(へなし)駅を通過。
9時45分、観光地図あり。


10時、海岸線に沿って行く。


10時15分、青空と紺碧の日本海。空気が澄んで気持ちがよい。


10時20分~45分、神明神社そばにて小休止、食事。
10時50分、路傍に「菅江真澄の道」の標柱を見つける。新山権現とある。




11時、海岸線を行く五能線快速列車。


11時45分、「岡崎夕陽展望所」から深浦港方面を見る。
雲が出てきて天気は下り坂。
展望台裏手の風が遮られる場所には、自転車旅行者のものだろうか真新しい宿泊の跡もある。




11時50分、深浦港。


11時55分、円覚寺。北前船交易が盛んな頃には、航海の安全を祈願する船乗りたちの絵馬が奉納された。


ここにも「菅江真澄の道」の標柱がある。


12時05分~13時、「津軽・深浦風待ち館」を見学。


江戸時代に北前船の風待ち港として栄えた深浦港の紹介や、北前船に関連した文物や資料の展示、船の模型などがある。また、北前船と深浦ねぶたを紹介するビデオなどを見る。特に映像はわかりやすく、弘前、青森、五所川原の他に、ここ深浦にもねぶたがあることなどを知る。
風待ち館を出ると小雨が降りだし、雨具を着用。
深浦郵便局のATMで3万円下ろし。
13時45分、海岸線を五能線と並行して歩く。


14時20分~25分、広戸駅にて小休止。
この駅には「宿泊等を禁ずる!」という張り紙がない。小さな駅で、周辺には人家も少なく、利用者はいったいどれほどいるのだろうかと思わせるような駅である。女性の保安員が線路の点検をしている。
その後は、霧雨が断続的に強くなったりして降り続く中を、「道の駅 ふかうら」まで行くか、それともこの先の無人駅泊まりにするか、などと波立つ海を見ながら考えつつ歩く。


15時、町はずれのスーパーにて、泊まりの食料として食パンを買う。
15時10分、追良瀬(おいらせ)駅入り口を通過。
15時30分、驫木(とどろき)駅。
雨は降り止まず、この先濡れて歩いて道の駅でテント泊というのも気が進まず、結局この無人駅で泊まらせてもらうことにする。この駅にも張り紙は無い。つまり、深浦駅まではことごとく駅に「宿泊等を禁ずる!」との深浦駅長名の張り紙があったが、それ以後の駅にないのは、五所川原駅長の担当区域になるのだろうか(弘前機関区かな?)。広戸駅や驫木駅などはむしろ非常にオープンな雰囲気である。
「驫木駅」はよく見ると「馬」の字が4つもある。いかにもローカルな感じだが、ところで「驫」はなんと読むのかな、意味はどういうことかな? (帰宅後に調べたところ、「ひょう」と読み、「多くの馬」という意味だそうである。)
そもそもこの駅は実に素晴らしい駅で、駅舎にも、時計と時刻表、切符入れとゴミ箱とベンチ、掲示と駅ノート、あとは外側のトイレの他には何もない。改札も券売機もない。


ホームの前の線路の先は日本海の波である。


そこを時折五能線の列車が発着するだけ。




何もないということのなんという豊かさ! 
すっかり気に入ってしまう。余りに多くのものに囲まれて窒息している自分の日々の生活に、深い反省を迫るような実に素敵な駅である。


18時、雨は上がり、西の海上にヤコブの梯子が見られる。


備え付けの駅ノートを眺めたり、五能線の写真を撮ったりして、最終列車の発車まで待とうとしたのだが……。






疲れのせいか、本当は駅寝マナー違反であるが、とうとう最終列車の出発を待てずに構内の隅にテントを設営し、潮鳴りを間近に聞きつつ夢路をたどる。
駅ノートによれば、この駅は多くのファンを持つ人気の「秘境駅」とか、それもむべなるかなと思う。宝物のようなよい駅に出会えたこともこの旅で得た財産であろう。

経費  498円       累計  243,743円
歩数  45,613歩    累計  3,274,450歩
距離  30km       累計  2,162km

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徒歩の旅 第66日 深浦町松神 私人宅の庭へ

2009年05月22日 | 2008年日本海側の旅
6月15日(日) 雨のち晴 (「道の駅 みねはま」~青森県・深浦町松神 私人宅の庭)



未明に気がつくと雨が降っている。
6時~05分、降ったり止んだりする中、道の駅の東側、水田の彼方をJR五能線が通る。




6時30分、出発。大間越街道の国道101号線を北上する。
白神の山々はガスの中で見えず。雨が上がるのを待って出たつもりが、直後に再び降雨。木の下であわてて雨具を着用する。
7時05分、コンビニにて食事。牛乳、赤飯おにぎり1個。
7時25分、沢目駅の先より五能線の隣を並行して進む。
7時40分、雨が上がり、徐々に遠くが望めるようになる。


7時50分、緑の中の水沢川。


8時15分~25分、県道63号線との分岐の跨線橋上から、水田の中を接近し、去っていく五能線の写真を撮る。




8時40分、積み木のごとき東八森駅を通過。雲が切れ少し青空が顔をのぞかせ始める。


8時50分~9時05分、白瀑神社方面へ続く踏切にて五能線を撮る。


去り行く五能線。空の大きさを感じる。


9時40分、鹿の浦展望所にて小休止。男鹿半島方面は霞んでいてまだ見えない。雲の動きが早く、風が冷たい。


9時50分、五能線快速「リゾートしらかみ青池編成」が通過する。




10時10分、観楓橋を通過。所々青空が広がりつつあるも、白神山地方面は依然としてガスの中。


10時30分、海上は徐々に雲が切れて、男鹿半島が島のように見える。ちょうど佐渡島のような感じだ。


10時50分、あきた白神駅通過。ハタハタ館は、日曜日のせいか駐車やや多し。


11時20分、ゆるい坂を上りつめると、小入川にかかる橋。ちょうど五能線の小入川鉄橋が俯瞰できる地点で、絶好の撮影ポイント。


橋の上に、写真を撮るために待機している青年がおり、一緒に待ちながらしばらく話をする。彼は五所川原に住んでおり、今日は父親とともに写真を撮りに来ている。こちらが宗谷岬まで行くつもりだと話すと、以前は海上自衛隊で全国の港をまわり、北方の国境警備のため宗谷岬にも何度も行ったことがあるとのこと。今は実家に戻り父親と農業従事。今年はいつまでも寒くて、農作物に遅霜の被害が出ていること、この付近は景色はよいが病院と買い物が不自由そうなので住もうとは思わないこと等など。
通過時刻を過ぎても列車が来ないので、二人で時刻表を何度も確認し、首を傾げつつもさらに待つが、何故か一向に来ない。
12時10分、仕方なく写真は断念し、彼らと別れて出発。
12時15分、海青し、青森県も間近なり。


12時35分、海岸線を緑色の五能線快速「リゾートしらかみ橅編成」が行く。


13時~30分、「道の駅 はちもり」にて休憩。
四阿で冷たい風に吹かれて寒々とした食事。
道の駅横の「お殿水」の湧き水で、津軽の殿様を真似て「甘露、甘露。」と言いながらのどを潤し、ペットボトルにも詰めて出発。


13時50分、青森県深浦町に入る。16県目。


気温16℃。見下ろす海岸線は荒涼として、こころなしかもの寂び、ずいぶん遠くへ来たなぁとの感を深くする。


14時、須郷岬方面の岩礁が続く海岸線。


14時10分~30分、筧にて休憩。右手頭上鉄橋を五能線が通過するのを待って写真を撮る。


15時~10分、中の澗跨線橋上にて五能線通過を待つが空振り。
直後、歩いていると、先ほど橋の上で話した青年が車を止めて、ペットボトルのお茶の差し入れ。「気をつけて頑張って。」の声に、お礼を言って有り難くいただく。徐々に気温が上がってきていたので、冷たいお茶がうまい。
15時55分、後方より五能線が接近。


今度は「リゾートしらかみ くまげら編成」。


16時15分、緑の中の大間越トンネル(627メートル)を抜ける。
16時35分、右は山が迫っているが、左は広々とした景色である。空はすっかり晴れ渡り、暑いので半袖のTシャツになって歩く。


17時、白神岳登山口の分岐を通過。
17時10分、太陽が日本海に反射して眩しい。


17時40分、五能線がシルエットになって水田の向こうを通過していく。


18時、宿泊予定の松神駅に着くも、なんと「宿泊等を禁じます!JR深浦駅長」の張り紙。これでは泊まるわけにはいかない。
さてどうしようかと考えつつ歩いていると、子守をしている年配の女性がいる。思い切って、
「恐れ入りますが、歩き旅をしていて今夜の宿泊に困っており、この近くで小さなテントを張って一晩過ごせるような公園か空き地をご存知ありませんか?」
と尋ねると、近くには公園はないが、自分の家の空き地があるからよかったら泊まりなさいと言ってくれる。
彼女の話では、実は空き家もあるのだが、今夜は集まりがあって貸してしまった、空き家の隣に炭焼き小屋がありそこに空き地があるから使ってよい、とのこと。もし雨が降ってきたら炭焼き小屋の中に逃げ込めばよい、と。
親切に対し心からお礼を言い、明朝5時には出発しますと約束して、有り難く泊まらせてもらうことにする。いやぁ助かった。
18時15分、空き家利用のグループの人たちに挨拶をして、炭焼き小屋横にテント設営完了。
テント内で、荷物の片付けをしていると、グループの一人Kさんが、「これから宴会をするので参加しませんか。」と言ってくる。まさかのことにびっくりして一旦はお断りしたが、なおも是非にと誘ってくれるので、「では、ご迷惑でなかったらお願いします。」ということになり、宴会に参加させていただく。
宴会は空き家の横の焚き火のそばで、地元のKさんの他に男性3人(なんと熊本の山の会の人たち)と女性2人のグループ。初対面なのにうちとけた雰囲気で迎えてもらう。やがて女性たちは家の中に、男性陣は焚き火のそばに。真っ暗闇の中で焚き火を囲み、ゆれる炎に照らされつつ話に花が咲き、酒とご馳走もおよばれする。話は白神山地における林野庁との攻防戦を始め、ヒマラヤやアラスカの話等々、どれも興味深く痛快かつ時にしんみりとし、またこちらの旅の話も加わって、次から次へと続き、気がつくと12時過ぎ。酔眼朦朧、お礼を言ってテントに戻る。
青森県第一日目は、いろいろな出会いがあり実に面白き一日。

経費  250円       累計  243,245円
歩数  55,543歩     累計  3,228,837歩
距離  37km       累計  2,132km

(本日の到達地点――青森県に入る)


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徒歩の旅 第65日 八峰町  道の駅みねはまへ

2009年05月20日 | 2008年日本海側の旅
6月14日(土曜) 晴ときどき曇(「道の駅 ことおか」~秋田県・八峰町 「道の駅 みねはま」)


  
5時25分、八郎潟の朝。北風が強く、雲の流れが速い。肌寒く、未明に降雨があったであろうと思われる。その分、空気が澄み渡り、水田と遠くの家々が輝いている。


5時30分、出発。今日も羽州街道の国道7号線を北上する。八郎潟の東部承水路とJR奥羽本線に挟まれた道である。左側には昨日と同じフェンスが続く。
5時50分、コンビニで買い物。牛乳、おにぎり3個。
民家の庭につつじが咲いているのを見かける。鹿児島でつつじを見たのは、もう2ヶ月も前のことになる。ここが北国であることを実感する。
6時10分、鹿渡駅通過。遠く、陽を浴びて白く輝く風車がいくつも回っている。今朝ほど見た田の中の家々といい、この風車の群れといい、あまりに大きな景色の中にいるので、それらが本当におもちゃのように感じられる。


それにしても広い景色。水田も、空も。このデジカメは24ミリの広角だがとても収まらない。


6時30分、風に乗って、どこからかラジオ体操第二の音楽が流れて来て、懐かしさを覚える。
道路は八郎潟に沿って左にカーブし、さらにフェンスが続く道を行く。
7時、「じゅんさいの館」を通過。三種町は、じゅんさいの全国出荷量の8割を占める。


7時10分、左手遠くの山は寒風山(標高355メートル)。


7時25分、路傍に庚申塚。


7時40分、三種川にかかる川尻橋のバス停で20分間の小休止、食事。このあたりまで来ると、八郎潟ももう北の端である。
8時55分、大曲で男鹿半島方面から来た国道101号線と合流。
9時10分、能代市に入る。


9時25分、八郎潟を過ぎても田園地帯はさらに続いている。


9時45分、左に浅内沼を眺めつつ行く。


10時20分、秋田自動車道南能代入口を通過。
断続的に延々と続いてきた防風防雪のフェンスもこのあたりでいったん終わる。
10時30分頃、地震について自宅より安否確認の電話あり。9時40分頃に東北地方に大規模の地震が発生し、大きな被害が出ているとのこと(宮城岩手内陸地震)。回線混雑のためなかなか連絡が取れなかったが大丈夫か、と。こちらは歩行中で揺れにはまったく気づかず。心配なき旨応答する。
11時、バス停にて食事と小休止。
11時30分、芝童森(しどうもり)交差点で国道7号線と別れ、国道101号線を行く。
交通量も増えた市街地を行き、
11時40分~12時25分、スーパーにて買い物と食事。食パン、海鮮天丼、焼きイカ、ミニトマト、吹雪饅頭。
スーパーのベンチで近くに住むおばあさんと食事をしながら話。
地震は、彼女のところでは蛍光灯の笠が揺れた程度、死者が出たことはテレビのニュースで知ったとのこと。
旅のこと、彼女の膝痛のこと、「風の松原」のことなどについて話。
彼女の、時間があるならぜひ「風の松原」に寄って行きなさい、今日みたいに風が強く気温が低い日でも、中でなら昼寝が出来るからという勧めの言葉に従い、「風の松原」に立ち寄ってみることにする。
12時35分~14時10分、「風の松原」にて昼寝、食事、散策で過ごす。


「風の松原」は、日本五大松原の一つで、クロマツの数が約700万本、日本一の規模の防砂林。


幸田露伴の「能代の防風林是なり」という賛がある。


五大松原とは、ここの他に、天橋立(京都)、気比の松原(福井)、虹の松原(佐賀)、三保の松原(静岡)を指すそうで、今回の旅では、天橋立、気比の松原に続き3ヶ所目になる。






どの木も、草食恐竜の首のように陸地側に傾いている。
そのわけは、露伴の文章に「むかしは風すさまじく烈しくして、水の上はもとよりの事、陸の住居さへ安きを得ざりしなり。其故を如何にといふに、礙(ささ)ふるものなき日本海を渡り来る風の直に此方に衝き當ることなれば、其勢の猛きこと喩ふるに物も無きほどにして、石礫(じゃり)を飛ばし土砂を捲き、天を晦(くら)うし地を撼かし、行客を倒し民家を埋め、人をして如何ともすべからぎるを歎ぜしむること、秋冬は一ト月に二度三度のみならざりしを以てなり」とあるごとく、風の凄まじさによるもの。しかし中は別天地で、温室のように無風で暖かく、広場で日差しを十分に浴びながら、午睡をむさぼる。
14時45分、米代川にかかる能代大橋を渡る。


上流側の鉄橋は、JR五能線。


大型店が並ぶ通りを行き、途中ダイソーで封筒を買う。
15時、さらにスーパーで食料の補充。クッキー、ココナツサブレ、柿ピー、レトルトビーフハヤシ、からしマヨネーズ。
道は大間越街道と名称を変え、再びフェンスと水田の中を行く。
15時55分、JR五能線が通る時間帯になり、道の駅手前の田圃の脇で待ち体制。


16時25分まで五能線の写真を撮る。






16時30分、「道の駅 みねはま」に到着。
隣の販売所で買い物。きゅうり、大福、シュークリーム。なにやら無性に甘いものが食べたくなって、余計なものまで買ってしまう。
休憩所には菅江真澄の歩いた軌跡が展示されており、食べながら拝見。




この休憩所で泊まらせてもらうつもりだったが、係員が来て18時で締め出されてしまう。彼の話では、国道7号線など数字が1桁の国道は利用者が多いので、夜間も休憩所が開放されている道の駅もあるが、101号線のような3桁の国道は利用者が少ないので、管理会社に委託し夜間は閉めてしまうところが多い、とのこと。とすると、今後も国道101号線を行くわけだから、青森市までの間では道の駅の休憩所は夜間締め出しかな。
四阿もなく仕方ないので、販売所終了後に、入口の屋根の下にテントを張らせてもらう。明朝も早く出発する予定だから、営業妨害にはならないだろう。

経費  2,800円     累計  242,995円
歩数  53,461歩    累計  3,173,294歩
距離  35km       累計  2,095km

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徒歩の旅 第64日 三種町  道の駅ことおかへ

2009年05月18日 | 2008年日本海側の旅
6月13日(金) 曇一時雨のち晴 (旅館「白鳥荘」~秋田県・三種町 「道の駅 ことおか」)



7時30分、出発。天気予報は下り坂。
8時10分、市立体育館前にて国道7号線に合流。
羽州街道の秋田北バイパスを行く。
菅江真澄の墓に立ち寄って行きたかったが、事前に地図をよく調べておかなかったために残念ながら分からず仕舞い。
国道に入ると、ものすごい車の量で大渋滞である。
9時、臨港警察署入口を通過。雲の流れが速く、時々陽が射したりまた曇ったり。風は強く空気はひんやりしている。
9時10分、秋田臨海鉄道北線の相染跨線橋を越える。
空は今にも降り出しそうな感じ。


9時35分、JR奥羽本線の上飯島駅を通過。秋田市郊外の大型店などが並ぶ通りを、空模様を気にしつつ進む。
10時25分、追分駅で小休止。待合室にいた親切な男性が、秋田県立博物館への道を丁寧に教えてくれる。
10時40分、小泉潟公園の男潟(写真)と女潟の間を通り、


10時45分、秋田県立博物館へ。


博物館の前に設置されている看板。右側のスケッチは菅江真澄の描いたもの。


その後約2時間、県立博物館を見学。館内にはいくつかの展示室と「菅江真澄資料センター」などがある。受付でザックを預ってもらい、まず「秋田の先覚記念室」で写真と業績を見る。


昨日「あきた文学館」で見た人々のほかに、東洋史学の内藤湖南、南極探検の白瀬矗、第38代横綱の照国、流行歌手の東海林太郎や、秋田の産業を築いた人々、婦人運動家など多くの肖像写真がある。ほぅ、こんな人が秋田県出身だったのか、と思う以上に、未知の人がほとんどで浅学を恥じる。
その後は、お目当ての「菅江真澄資料センター」を見学。彼の生涯をはじめ、旅の記録、スケッチや書その他の豊富な資料が、「生い立ち」「風俗」「雪」「晩年」とまとめられている。映像による紹介もわかりやすく、とてもよくできている。実に充実していて引き込まれてしまい、夢中になっているうちに、あっという間に時間が過ぎてしまう。ここは日本全国の菅江真澄研究のセンターでもあるようだ。ぜひ再訪したいと思う。
『真澄』というパンフレットのバックナンバーをいくつかいただく。


平日の午前中とはいえ、見学者は他にはおらず、もったいない限りだ。見学中に雨が降ったようだが、博物館を出るときには既に止んでいる。
小泉潟公園の四阿で休憩して昼食。
再び国道7号線に戻って歩き続ける。
13時55分、潟上市に入る。


14時20分、緑につつまれた元木山公園で食事をしていると、雨が降り出すが、すぐに止んでしまう。
14時50分、高速道路の秋田自動車道をくぐり、「道の駅 しょうわ」にて10分ばかり小休止。苗木などを売っており、混雑している。
道の駅で入手した「菅江真澄の道」のパンフレット。男鹿半島、八郎潟方面を歩いた記録。


当初はここで宿泊の予定だったが、時間的にやや早いこと、休憩所が夜間閉鎖されてしまうことなどを考慮し、急遽もう20キロほど頑張って次の「道の駅 ことおか」まで行くことにする。
再び雨が降ったり止んだりする中を歩き始める。
両側が広々とした水田地帯を過ぎて、
16時25分、「井川さくら」というタレントのような名の駅にて小休止。水分を補給。挨拶をしたおばあさんに、「何処まで行くの? 自分史を書いたらいいよ。」と言われる。
16時55分、大川三叉路を通過。
17時05分、馬場目川にかかる竜馬大橋をわたり八郎潟町に入る。
17時10分、コンビニにて買い物。牛乳、黒あめ、豆大福。
17時25分、五城目(ごじょうめ)入口交差点通過。黒い雲が迫る中を時間と雨に追われる様にして急ぐ。
17時50分、真坂交差点を過ぎると、西方に八郎潟の展望が開けてくる。雲間から太陽の光が差す。


どこまでも続く水田。


広々とした田圃の中を行く特急列車。


18時15分、「夫殿(おっとど)の洞窟」というところを過ぎる。説明には、伝説とともに、「縄文時代の住居にも利用された跡があり……」と書かれている。


すぐに三種町に入る。


18時30分、気がつくといつしか雲も去り、夕陽が八郎潟の果てしなく続く水田を照らしている。


道路の左側は風雪対策だろうか、フェンスが続くところもある。


18時40分、北緯40度の表示を過ぎる。北緯40度には北京やマドリッド、フィラデルフィアなどがある。


西空に薄明光線である「ヤコブの梯子」現象が現れる。


東空は青く澄み渡り、真夏のような輝く雲。


18時50分、奥羽本線が北へ向かう。


日没時刻が迫ってくる。




19時05分、ようやくにして、「道の駅 ことおか」到着。
すでに売店は閉まっており、他に誰もいない快適そうな休憩所で泊まらせてもらうことにする。

経費  376円      累計  240,195円
歩数  60,833歩   累計  3,119,833歩
距離  42km      累計  2,060km

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徒歩の旅 第63日 秋田連泊

2009年05月16日 | 2008年日本海側の旅
6月12日(木) 晴 (秋田市・旅館「白鳥荘」連泊)

宿に連泊し、金沢以来の久しぶりの休養日。
本当は、秋田県立博物館に行き、菅江真澄の資料などを見たかったのだが、地図で調べてみると、県立博物館は宿からかなり遠く、むしろ翌日歩く行程の途中にあることがわかる。
8時、たっぷりの睡眠の後、遅い朝食をとる。
宿のオーナーは、秋田市は竿燈以外には特に見所はないと実に素っ気なかったが、天気も良いので、ともかく街に出てみることにする。
9時、宿を出る。
まず宿のすぐそばの千秋公園に行く。ここは藩主佐竹氏の居城であった久保田城址を公園にしたもの。久保田城は消失して今はなく、御隅櫓(おすみやぐら)と表門が名残をとどめるのみ。


若葉となった桜をはじめ、多数の木々に囲まれ、体全体が緑色に染まるくらいのさわやかな気分である。
久保田城御隅櫓を見学。






櫓も市制100年を記念して復元されたもので、物見や武器の貯蔵庫などの役割を持っていたとのこと。見学者は他にはおらず、一人でゆっくりと見せてもらう。内部には資料室と展望室があり、領主佐竹家の、常陸から当地への転封、歴代藩主の業績などの資料を興味深く見る。
「3階展望室」からの展望は、桜若葉にさえぎられて今一つだが、枝の隙間から鳥海山が見える。
公園内は、平日のせいか、まだほとんど人影を見かけず静かである。
中央に、第12代秋田藩主佐竹義堯(さたけよしたか)の像がある。像は、1915年(大正4年)に戊辰勤王記念銅像建設委員会によって建立されたが、太平洋戦争中に解体、1989年(平成元年)に復元された。
彼は最後の藩主で、戊辰戦争では、新政府方に属して戦った。つまり、奥羽越列藩同盟の会津藩・米沢藩の側から見れば「裏切り者」ということになる。もっとも、佐竹氏は、上記のごとく常陸から転封されてきたものでもあり、その思惑と行動などもっと調べてみないと軽々に評価を下すことは出来ない。


表門(一の門)を見る。


公園内には、若山牧水親子の歌碑もあり、
牧水の歌は、「鶸(ひわ)めじろ 山雀(やまがら)ひばりなきしきり さくらはいまだひらかざるなり」と刻まれている。




秋田市立中央図書館明徳館は、藩校「明徳館」にちなんだもので、菅江真澄の著作が多く収められている。
大手門の堀で睡蓮の写真を撮る。なぜか白い花はなく、ピンクの花がちょうど盛りである。


駅前郵便局で、この間に入手したパンフレットなどの諸資料を自宅に郵送。
駅前にジュンク堂があり、下関以来1ヵ月半ぶりに書店をのぞき、菅江真澄関連の書籍を眺める。
その後は、イトーヨーカ堂へ行き、地下で買い物と食事。玉丼パック、おにぎり2個。さらにダイソーで、定規、マーカー、接着剤。
午後は、「あきた文学資料館」へ行く。秋田県の文学史のパンフレットをいただき、


石川達三や石坂洋次郎など秋田出身や関連の作家などの写真や書籍などの展示を見る。


小林多喜二が秋田県大館の出身であったことを初めて知る。てっきり小樽の出だと思い込んでいた。小林多喜二や葉山嘉樹、徳永直などを読んだのは、全共闘運動が行きづまりつつあった頃のこと。


資料室で菅江真澄についての研究誌を見つけ、しばらく読む。
その後、再びイトーヨーカ堂へ行き、今後の食料などを調達。牛乳、食パン、クッキー、ピーナッツ、チョコレート、ポテトチップ、ココア、サラミ、レトルトカレー、コーヒーあめ、ガム2個。
帰路、千秋公園にてBさんと携帯電話で情報交換。彼は、今日は「道の駅いわき」に泊まる予定とのこと。
宿へ戻り、のんびり風呂に入って、買ってきたポテトチップをつまみに缶ビール。
翌日以降の計画の検討と経費の計算などをする。
宿の夕食は、オーナーの手作りで、おかずも和、洋、中とバラエティーに富んだもの。ボリュームたっぷりなり。

経費  3,413円    累計 239,819円
歩数  14,536歩   累計に加えず
距離  ?km       累計に加えず

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徒歩の旅 第62日 秋田市 旅館白鳥荘へ

2009年05月14日 | 2008年日本海側の旅
6月11日(水) 晴のち曇一時雨 (「道の駅 にしめ」~秋田市・旅館「白鳥荘」)



4時30分、「道の駅にしめ」を出発し北上。酒田以北の羽州浜街道は、「酒田街道」と呼ばれる。愛称「おけさおばこライン」の国道7号線である。
空は快晴だがまだいくらか肌寒い。この旅ではじめて牧草ロールを見る。


途中の「道の駅いわき」を越えて、秋田市内まで一気に入る予定を組んだので、歩行距離は今日も40キロ以上になる。加えて、秋田ユースホステルが満員で宿が取れなかったので、別の宿の予約もせねば。
5時10分、子吉川にかかる本荘大橋を渡る。橋は塗り替え工事中で、テープが張られた端を通過。
市街地を行くが、早朝のため車も少なく町も静か。ウォーキングの人たちと挨拶を交わしつつ歩く。
6時、道は海沿いをたどるようになる。
杉の丸太が大量に積み上げられている海岸の広場脇を通過する。秋田は林業の県でもある。


海上は、波はおだやかだが、雨が近づいているせいか遠くはやや霞んでいる。右側、丘の斜面には、野草が咲いている。




6時35分~40分、秋田まで35キロの表示の先に、「夕陽の見える日露友好公園」があり小休止。


1932年12月のロシア漁船の遭難漂着の救助を記念して建立された碑。


7時10分、路傍の花、オオキンケイギクがここにも。


7時15分、強風や寒さへの対策だろうか、この辺りは家屋や畑などが板や丸太で囲ってある所が多い。


7時20分、芦川を渡る。


7時55分、松ヶ崎のコンビニで買い物と食事。牛乳、菓子パン、塩あめ。
8時35分、JR羽越本線の踏切を渡り、以後線路に沿って進む。気温19℃の表示あり。雲が広がって風がひんやりしてくる。
9時20分、羽越本線の写真を撮っていると、小雨が降りだして来、バス停にて雨宿り。


9時40分~10時15分、「道の駅いわき」にて休憩。携帯電話で旅館の予約をする。
ここの道の駅にも菅江真澄のパンフレットがある。


11時30分、雨があがり、低潅木が続く海岸を眺めつつ歩く。




11時55分、秋田市に入る。


13時、こちらは羽越本線の特急。


13時20分、酒田街道は、国道7号線から別れて県道56号線に変わり、秋田駅方面に向かっている。
13時55分、大森山公園の横の坂をゆるく上り、大森山動物園交差点で県道65号線と交差。このあたりから徐々に市街地の雰囲気が感じられるようになる。
14時15分、新屋橋の公園の東屋で10分間小休止。
14時35分、雄物川にかかる秋田大橋。


大橋をを渡っていると、70歳だという男性に声をかけられ、しばらく話。彼は旭川出身の人で、旭川~秋田間は約700キロとのこと。そうするとこちらもあと1000キロくらい。全行程の約3分の2を歩いてきたわけである。


最上川には比ぶべくもないが、雄物川もまた大河の風格はある。


14時50分、橋を渡りきったところで、今度は自転車の青年に話しかけられる。彼は自転車で日本一周をしたいと考えているとのこと。ぜひ実現するように祈っていると言うと、記念に写真を撮らせてくれと言われモデルになる。
以後は市街のビル群をぬって歩くが、秋田市街は、歩行者にとって実に歩きにくい所。自動車優先で、歩行者信号の待ち時間はやたらと長く通行時間は短い。歩道橋や地下道など頻繁な迂回も否応なしである。福井県に次ぐ歩行事情の悪さだと感じる。
16時、宿に到着。宿は秋田駅に近く、千秋公園の横の静かな所。連泊のため宿泊代、1泊2食付5000円×2。

経費  10,443円  累計  236,406円
歩数  65,579歩  累計  3,059,000歩(300万歩を越える)
距離  46km     累計  2,018km(2000kmを越える)

歩数、歩行距離ともに、区切りとなる大台を越えた記念すべき日なり。

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徒歩の旅 第61日 由利本荘市 道の駅にしめへ

2009年05月12日 | 2008年日本海側の旅
6月10日(火) 晴 (十六羅漢岩~秋田県・由利本荘市「道の駅 にしめ」)



4時10分、十六羅漢岩の展望所でペットボトルに水を詰めて出発。


5時、国道345号から国道7号線に戻る。
JR女鹿(めが)駅が発見できず、昨夜の十六羅漢岩でのビバークは正解だったようだ。
JR羽越本線と並行して歩く。
5時35分~6時05分、三崎公園の山形県側の四阿にて食事休憩。


傍の頭上には羽後三崎灯台がそびえている。


三崎峠を、芭蕉が門弟の曾良と共に越えたのは1689年のこと。
往時の有耶無耶関(うやむやのせき)跡でもある。




草木に埋もれるようにして戊辰戦争戦没者顕彰碑がある。東北戊辰戦争は、奥羽越列藩同盟の結成と分裂、白虎隊の若松城篭城戦、野辺地戦争など、興味尽きないさまざまな事件に満ちている。ここでも今後の勉強課題の発見である。


国道をしばらく行くと、今度は秋田県側の三崎公園。峠からの道がここに通じている。


この難路の峠道を、芭蕉は病をおしつつも、象潟の風景を見たい一心で越えたという。


6時20分、秋田県にかほ市に入る。15県目。秋田県を越えると後は青森県と北海道の2つを残すだけとなる。とはいえ、言うまでもなく北海道は大物ではあるのだが。


6時55分、稲の苗が随分と伸びた水田の向こうには風車も見える。


7時10分、青空の下、広々とした水田の眺め。何とも言えない長閑で心休まる景色である。道草というのは、こういう所でするものなり。ザックを置いて小休止。




7時50分、上浜駅にて小休止。駅員さんとしばらく話。彼は、1987年の国鉄民営化のときに退職し、今は委託されて駅で働いているとのこと。駅舎やホームの花壇がとてもきれいに清掃されてあり気持ちがよい。
9時05分~30分、象潟駅近くの小公園で結露したテントを乾かす。
9時40分~10時、羽越本線の線路を渡り、象潟の蚶満寺(かんまんじ)を見学する。




お寺の北側の庭園には、芭蕉像と「象潟の 雨や西施が ねぶの花」の句が刻まれている碑がある。ここの芭蕉像は、敦賀や出雲崎のそれと比較して、いかにも健脚の旅人といった力強さを感じる。


絶世の美女「西施」について。
「象潟や 雨に西施が ねぶの花」とある。像の隣の「象潟の 雨や西施が ねぶの花」の方が初めに詠んだ句、とか。


境内の池には睡蓮や花菖蒲などが咲いている。


蚶満寺山門。


弁天島方面には、かつての九十九島の名残のこんもりした木立の小山がいくつも見える。象潟は、かつては「東の松島 西の象潟」と言われ、「象潟 八十八潟・九十九島」と呼ばれた景勝地であったが、1804年の大地震で地面が隆起し、現在のような陸地になってしまった。これらの丘が海上に島々となって浮かんでいたなら、それはさぞ美しかっただろうと思う。


10時05分、コンビニで食事。牛乳、菓子パン、ピーナッツ。
10時20分~45分、道路の反対側の「道の駅象潟 ねむの丘」にて小休止。売店で、さくらんぼ、バナナを買う。


象潟は『奥の細道』の最北地点である。この日本縦断の旅の中でも、福井県から逆に辿りつつ、石川、富山、新潟、山形と、いくつかの句とともに付き合ってきた芭蕉翁ともここでお別れである。
ここより北、北海道の渡島半島あたりまでは、主に菅江真澄が往来したであろう道を歩くことになる。菅江真澄は、江戸時代後期の旅行者で民俗学者。宮本常一の『辺境を歩いた人々』にも登場する「歩き旅」の大先達なり。
道の駅休憩所にある菅江真澄の紹介。


休憩所で、菅江真澄に関する案内などを見ながら、さくらんぼを食べる。山形県を通り越してからさくらんぼを買って食べているというのが、「ちょっとピンボケ」なり。
10時55分、JR羽越本線の写真を撮りつつ行くと、金浦(このうら)バイパスに。


12時、雲もなく晴れ渡った空の下、幾分汗ばむ陽気で、跨線橋にて小休止。下をJR貨物のディーゼル列車が通って行く。


12時20分~14時10分、勢至公園にある白瀬矗(しらせのぶ)南極探検隊記念館を見学する。


はじめはちょっと立ち寄る程度のつもりであったが、展示や映像など非常に興味深く、結局2時間近く熱中してしまう。大和雪原(やまとゆきはら)の命名者である南極探検家白瀬矗は地元金浦の出身である。彼の直筆の報告書などの資料や当時の使用装備、南極探検の歴史、現在の観測の様子、またオーロラの美しい映像など、時間のたつのを忘れるほど。




外の公園には、彼らが探検に使用した帆船「開南丸」の模型や、白瀬矗辞世の歌、「我れ亡くも必らず 探せ南極の 地中乃宝 世に出すまで 南極探検隊長 白瀬矗」との碑がある。


14時20分、再び水田の間に木々がこんもり茂った丘がいくつも続く道を行く。


14時25分、旧金浦町(現にかほ市)を抜ける。


15時、仁賀保高原風力発電所の多数の風車が丘の上に林立している。


15時10分、仁賀保駅入口を通過。
15時20分~30分、泊まりに備えて、コンビニで買い物。牛乳、食パン、クリームパン。
16時05分、由利本荘市に入る。


16時40分~45分、しばらく前から違和感のあった足の指にテーピング処理。マメは思ったほどには悪化していなかったが、横着せずもっと早く処置すべきであった。反省事項である。
歩道の無い一直線の道路を車に気をとられつつひたすら歩き、
17時40分、道の駅「にしめ」に到着。
今日はここの休憩所で泊まらせてもらうことにする。
休憩所の外の椅子に腰掛けていた、1200ccのバイクの男性に呼び止められ少し話をする。走行中に見かけたからとか。彼は札幌の人で63歳。ほとんどが蛍光ペンで塗りつぶされた日本全国のロードマップを見せてくれる。道の駅のあり方や国道の様子についての話を聞き、こちらの今後のコースの情報も大分仕入れることが出来る。
さらにその後、休憩所で、今度は大阪からという男性が話しかけてくる。彼の方は、車で全国の温泉をまわっているとのこと。北海道のキャンプ場の情報が参考になりそう。
二人とも6月14日に開かれる盛岡の「チャグチャグ馬っこ」を見に行くとのことで、それはどうやら人気のある催しのようだ。
夕刻、鳥海山が一時姿を見せたが、やはり霞んでいる。

経費  1,542円    累計  225,963円
歩数  64,326歩   累計  2,993,421歩
距離  40km      累計  1,972km

(本日の到達地点――秋田県に入る)


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徒歩の旅 第60日 遊佐町  十六羅漢岩へ

2009年05月10日 | 2008年日本海側の旅
6月9日(月) 晴 (民宿「真砂子屋」~山形県・遊佐町 十六羅漢岩)



7時30分、民宿「真砂子屋」を出発。国道112号線を北上する。今日も好天が続く。


通学の小学生たちと挨拶を交わしつつ、30分ほど行くと松並木が現れる。


松の林は、以後ところどころに家並みを挟みつつも、延々と最上川の手前あたりまで続く。最上川南部の見事な黒松帯は、庄内砂丘ともいわれる庄内海岸からの飛砂防護保安林であり、防風林である。
8時15分、庄内空港地下道を抜ける。


再び松並木があらわれ、昨日の予定宿泊地であった庄内夕日の丘キャンプ場への分岐を過ぎる。


8時30分、防風のためだろうか、木材で囲った人家がいくつも見られる。


8時50分、左手に続く黒松林。


9時05分、赤川にかかる袖浦橋を渡る。川面が日に輝いており、川の両側にも大量の松の木が植わっているのが見える。




9時40分、「歴史遺産 次世代に引き継ぐ クロマツ林」という看板を見つつ通過。


10時05分、コンビニで買い物と食事。牛乳、吹雪まんじゅう。
11時05分、京田川と最上川をまたぐ出羽大橋を渡る。つい最近開通したばかりのこの橋は、1250メートル。橋の上から、左手の河口方面を望む。




『奥の細道』で芭蕉が、「暑き日を 海に入れたり 最上川」と詠んだ、最上川の河口の大きさを実感する。






11時05分、出羽大橋を渡り、酒田市街に入る。


11時15分~30分、山居倉庫へ。


明治26年(1893年)に造られたこの建物は、庄内米の取引倉庫で、大きな三角屋根の土蔵造りが12棟ある。


マンホールの蓋にも山居倉庫の絵。


観光のご夫妻にシャッターを押してもらう。


市街を進むと、市役所の庭の片隅に「酒田三十六人衆ゆかりの地」の碑がある。「三十六人衆」は酒田市の礎を築いた大商人達だそうである。


12時、JR貨物の酒田港線を越えて、
12時25分、国道7号線に合流し、酒田バイパスを行く。
大きな鳥海山が急に現れるが、全体的に霞んでおり、上部は雲の中である。
12時40分、道路標識は、秋田まで100kmを、青森まで300kmを切ったことを示している。


12時55分、宮海で食事のため10分間小休止。
13時45分、宮海橋を渡り、遊佐町に入る。


「おばこおけさライン」と呼ばれる酒田街道(羽州浜街道)を、車と並行して黙々と歩く。
14時50分~15時05分、少しづつ雲が取れて、残雪にところどころ覆われた鳥海山が見えてき、小休止して写真を撮る。


16時05分、コンビニで買い物。飲むヨーグルト、コッペパン、菓子パン。
道路の反対側に道の駅鳥海「森のエリア」があるが、テントは禁止。宿泊は西浜キャンプ場で、とある。予定通り無人駅のJR女鹿(めが)駅まで行くことにして、国道7号線と分れて国道345号線に入る。
16時30分に吹浦(ふくら)新橋を渡り、吹浦駅を通過。鳥海山もずいぶんとはっきり見えるようになる。




16時40分、吹浦漁港を過ぎる。


上り坂を、西浜キャンプ場を遠望し、吹浦港を見下ろしつつ行くと、
16時50分、芭蕉の句碑がある。昨日見たのと同じく「あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ はせを」とある。


夕日が反射して海が輝いている。




17時、坂を上りきったところに、十六羅漢岩がある。
展望所の近くの空き地にテントスペースがあり、飲料水も確保できる。女鹿駅まで歩くつもりであったが、今夜は雨の心配もなさそうだし、展望もよいので、ここで泊まることにする。
十六羅漢岩を見に行った後、展望所で日本海に沈む夕日の写真を撮ろうと待機する。
羅漢岩は、寛海和尚というお坊さんが、幕末から明治にかけて、海難の供養と海上安全を祈願して作ったとのこと。鳥海山から流れ出た溶岩に彫ったもので、全部で22体ある。数えつつ探したが、残念ながらそのいくつかはは見つけられなかった。






その後展望所で、散歩に来たという近くに住む70歳の婦人と話。漁港のコンクリートの堤防が出来て、この辺りの浜も様子が全く変わってしまった。自分が小さかった頃はよく海で遊んだものだが、今は汚れてしまい誰も泳げない。田圃の方も、今年は風が強かったので、せっかく植えた苗が風で倒れたり抜けたりして大変だった、等々。「お達者で。」と挨拶をして別れる。
19時少し前、十六羅漢岩のかなたに、太陽が空と海を赤く染めて沈んで行く。




今日で歩き始めてからちょうど60日目である。
計画より4日弱先行している。というのも、計画では1日あたり25~30kmと考えていたのだが、実際には本州に入り徐々に歩くペースが上がってきているからだ。九州での足首の痛みは、今ではまったくウソのようである。また、風邪もひかず、捻挫等もなくここまで来る事ができた。靴底の摩滅等によって足の裏が若干痛いし、今でもマメは時々できてしまうが、ここまで無事で来られた代償としては微々たるもの。願わくば、この調子が宗谷岬まで続かんことを!

経費  8,214円    累計  224,421円
歩数  56,003歩   累計  2,929,095歩
距離  38km      累計  1,932km

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徒歩の旅 第59日 鶴岡市  民宿真砂子屋へ

2009年05月08日 | 2008年日本海側の旅
6月8日(日) 晴 (道の駅あつみ~山形県・鶴岡市 民宿「真砂子屋」)



5時、「道の駅あつみ」を出発。


6時05分、今日も空は晴れわたり、海はおだやかだ。このあたりから北へ、国道7号線や県道50号線に沿った海岸通りは旧羽州浜街道で、今は「おけさおばこライン」と呼ばれている。遥かかなたに立岩が見える。


6時15分、県道44号線との分岐を通過。あつみ温泉入り口を示す大きなこけし人形がある。


6時35分、JRあつみ温泉駅で小休止。


駅の反対側、海辺にある大鳥神社。




神社の隣は「芭蕉公園」という展望台。「藤沢周平先生絶賛!」と書かれている。
「蝉しぐれ」で有名な作家藤沢周平は、鶴岡の出身。「風の果て」や「春秋山伏記」など、興味深く読んだ記憶がある。


海上には、岩場の間で漁をしている舟も見える。


6時50分、振り返って見た大鳥神社。


7時、コンビニで買い物と食事。今日は湯野浜に泊まるつもりだが、テント泊になった場合をも想定して食料を購入しておく。牛乳、食パン、薄皮アンパン、薄皮クリームパン、ピーナッツ。手持ちが、乾パン、サラミ、レトルトカレー、マヨネーズ、塩しかなかったので、一応ゆとりをもって行動できる。
7時35分、立石を通過。芭蕉の句碑があり、「あつ美山や吹浦やかけてゆふ涼み 芭蕉翁」と刻まれている。




句碑の先に、俵を積み重ねたように見えることから命名された「塩俵岩」。


日曜日のせいか、バイクライダーの集団がいくつも通る。手を振って合図をしていくバイクもある。
8時30分、新五十川(しんいらがわ)トンネル(396メートル)を抜ける。海はあくまでもおだやかで、釣り人も何人か見える。


9時05分、堅苔沢(かたのりざわ)に「鬼かけ橋跡」の碑がある。


『奥の細道』ゆかりの地で、曾良の文にも出てくるとか。


600メートル先の、鬼かけ橋跡。


9時35分、鯵ヶ崎トンネル。係員にトンネル内は工事中で通行できないと言われ、強引に作業用の自動車に乗せられてしまう。実際、入ってみると確かにトンネル内部は狭く仕切られており、片側通行がギリギリの状態で、歩行は無理と思われる。フェリー以外ではすべて歩きのつもりで、兵庫県の諸寄でも、自動車に乗せてもらった地点から翌日は歩き始めたりしたのだったが、これではやむを得ない。


9時55分、鶴岡ユースホステルの横を通過する。この時間では、ユースのチェックインまであと6時間もある。結果的には、ここで宿泊しなくてむしろよかったというべきか。
10時10分、道路が坂を上りきった先の標識の無い分岐で、さてどちらに行くべきか一寸迷う。折りよくバイクライダー達が左折していったので、それに従って由良漁港方面に下る。そこは近道だったようで、直進して行っていたら大回りになるところだった。途中から県道50号線に入る。
下り坂から見る由良漁港。


10時30分~40分、由良の商店で、買い物と小休止。酵母こしあんパンと酵母いちごジャムパン。
横光利一の文学碑があり、「蟻台上に飢えて月高し」と書かれてある。


その傍には、江戸時代の郷土の力士、朝日嶽鶴之助の碑なんぞというものもある。


「由良」というと、通ってきた京都にも「丹後由良」という地名があった。共通する謂れでもあるのだろうか。そう言えば、赤穂浪士の大石内蔵助も「仮名手本忠臣蔵」では大星由良之助となっていたが。
11時、漁港の先は由良海水浴場。おだやかな海を見つつ歩く。


12時、加茂漁港。


12時10分~25分、短い加茂の浦トンネルを抜けたところの公園にて小休止。足の裏にテーピングを2重に貼って痛みの軽減をはかる。
ウォーキングシューズの底もだいぶ磨り減ってきている。おまけに、4日連続で6万歩以上の歩行である。足の裏が痛くなるのも無理もないことか。湯野浜で適当な民宿を見つけて、今日はそこに泊まることにしよう。
12時40分、加茂漁港を振り返って。


13時、湯野浜に入る。


家族連れが浜辺で遊んでいる横を通り、温泉街に入っていく。
ツーリングマップルに「東北・日本海岸最大の温泉地」とあるように、砂浜に沿って高層の温泉ホテルが林立している。
どこの宿も、高くて(tall)、高そう(expensive)だ、などと洒落ながら、民宿はどの辺りにあるのかなと探しつつ行く。
13時30分、「真砂子屋(まさごや)」という民宿を見つけて尋ねると、1泊2食で7000円とのこと。感じもよさそうなので、早速ここに決定。
まだ時間が早いが、すぐに風呂に入れさせてもらい、汗を流して入念に足のマッサージをする。
時間がたっぷりあるので、溜まっていた着替えの洗濯をしたり、記録をまとめたり、この間の会計の計算をしたり、先の予定を考えたりと、とりとめなくのんびり過ごす。
夕食は、刺身、カニ、豚しゃぶ、煮物、ぬた、帆立貝の味噌汁と豪華な食事。
民宿の奥さんが、歩き旅に興味をもっていろいろ尋ねるので、こちらも随分とおしゃべりをしてくつろぐ。宿泊代、上記の通りで7000円。

経費  982円(宿泊代は翌日会計) 累計  216,207円
歩数  50,484歩         累計  2,873,092歩
距離  31km           累計  1,894km

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徒歩の旅 第58日 鶴岡市  道の駅あつみへ

2009年05月06日 | 2008年日本海側の旅
6月7日(土) 曇のち晴 (岩ヶ崎バス停~山形県・鶴岡市 「道の駅あつみ」)



4時30分、出発。
歩き始めた直後に路傍に湧き水を発見。こんこんと溢れ出る水で歯磨き、洗面をし、たっぷり飲んで水分補給。500ccペットボトル2本も満タンに。
4時45分、日本海に沿って、国道345号線を北上する。


JR羽越本線と並行して行く。


海岸線のすぐ傍まで水田が広がる。


5時10分、「海府ふれあい広場」のトイレで朝のおつとめ。泊まり場から30分余りで飲料水もトイレも確保できたわけで、結果として岩ヶ崎バス停は好宿泊条件であったということになる。道の駅や無人駅ならそんな心配もする必要はないのだが。
さらに食事のため10分間の小休止。
その後、この近辺にて泊まるのに快適そうなバス停を4箇所ほど確認する。
5時35分、無人駅の間島駅は、駅舎の待合室もホームのそれも宿泊可能と思われる。


5時55分、海は穏やかで、


天気も急速に回復してくる。


6時、大阪と札幌を結ぶ寝台特急の「トワイライトエクスプレス」が通過。




6時05分、海岸に杭が林立している。秋に刈り取った稲を架ける「はざ木」だろうか。


6時35分、近くの海中に岩が現われ、遠くに佐渡島も見えてくる。ここ数日のうちで今日が最もよく見える。
(訂正――佐渡島だとばかり思っていましたが、実は粟島だったようです。)


ここからの佐渡は、見る位置のせいか随分と幅の狭い島である。
(訂正――佐渡ではなく粟島だったため、随分と幅の狭い島に見えたようです。)


6時45分、海を眺めつつ、快調に歩を運ぶ。






7時、ここにもたくさんの杭が立っている。




7時35分、海辺の小屋では魚を干している。


7時45分、海岸線にはさらに岩が増えて、「笹川流れ」が近いことを教えている。




7時55分、旧山北(さんぽく)町の表示。2008年4月に村上市に合併された。短い鳥越トンネルを抜けると「笹川流れ」。


海岸に大きな奇岩が見え始める。


8時25分、「道の駅 笹川流れ」。まだ店は開いておらず、食料の買い物はできない。数人のバイクのライダーが手持ち無沙汰そうにたむろしている。
道の駅に接している桑川駅は泊まれそうである。
8時45分、「笹川流れ」の眼鏡岩。以前は2つ穴が開いていたが、1964年の新潟地震で1つが崩れてしまったとのこと。


「笹川流れ」は日本百景に数えられている。約11キロにわたり多くの奇岩や洞穴が海岸線に連続する。




海岸の岩の写真を撮りつつ進む。それにしても岩場や絶壁や洞穴と自然の造形は実に見事なものだ。岩陰を遊覧船も見え隠れする。
9時、頼三樹三郎の笹川流れ賛の碑があり、「松島はこの美麗ありて此の奇抜なし 男鹿はこの奇抜ありて此の美麗なし」と刻まれている。


砂浜には家族連れの姿も。


9時20分~30分、バス停にて食事。ずっとコンビニも商店もなく、もう一昨日買った食パンの残りとマヨネーズと水だけしか残っていないが、それでも口にできるものがあるだけよい。
鶴岡のユースホステルに予約の電話をするが、満室で明日の宿泊は不可とのこと。代替策を考えねばならない。
9時40分、再び海を見つつ。




9時50分、「笹川流れ」の案内碑。
「岩船郡山北町大字浜新保より大字寒川に至る海岸線」とある。


JR羽越本線に並行して歩いているので、さまざまな車両が通る。
貨物列車。


特急列車。


普通列車。


11時15分、越後寒川駅を通過。
12時25分、寝屋にて自販機を見つけ、ペットボトルを買って喉を潤す。
12時45分、勝木(がつぎ)駅の先で、国道7号線に合流する。
合流地点にコンビニがあり、買い物と食事。牛乳、おにぎり2個、菓子パン、豆大福。一気にみんな食べてようやく人心地が着く。
コンビニの女店員になぜ「かつき」ではなく「がつぎ」と読むのかを聞いてみたが、わからないとの答え。
13時30分、府屋第一トンネル(605メートル)、府屋第二トンネル(190メートル)と抜けていく。
13時45分、スーパーがあり、今夜と明朝およびその後のための食料を買う。乾パン、ミニトマト、バナナ、サラミ、レトルトカレー、マヨネーズ、飴。
15時、山形県鶴岡市に入る。14県目まで来たことになる。


15時20分、鼠ヶ関跡を通過。勿来、白河とともに東北三大関所の一つ。内務省設置という大きな石碑がある。




弁天島遠望。


16時、「道の駅あつみ」に到着。今日はここで泊まらせてもらうことにする。
休憩所にザックを置いて、売店などを見物。週末なので大勢の人が出ている。
売店で名物の「だだちゃ豆アイス」を買う。
この4日間は連日40キロ以上の歩行行程だったので足も少し痛い。足のメンテナンスのために、明日は計画よりやや手前ながら湯野浜温泉泊を検討する。

経費  2,024円    累計  215,225円
歩数  64,470歩   累計  2,822,608歩
距離  42km      累計  1,863km

(本日の到達地点――山形県に入る)


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徒歩の旅 第57日 村上市  岩ヶ崎バス停へ

2009年05月04日 | 2008年日本海側の旅
6月6日(金) 雨のち曇 (「丸井旅館」~新潟県・村上市 岩ヶ崎バス停)



夜明け前に一度雨が上がるものの、朝食時再び降ってくる。旅館のご飯は食堂のお姉さん自慢のコシヒカリで、確かにとても美味しい。朝食も夕べと同様に2度おかわりする。彼女に言われて気づいたが、半ズボンから出ている足は、後ろ側の方が色が黒い。北に向かって歩いているので、知らぬ間に後ろ側がよく日焼けしたらしい。
7時30分、雨は相変わらず。はじめから雨具を着て出発。今日も長丁場になりそうだ。
途中までは昨日通った商店街を引き返すが、確認しておいた道路標識をうっかり見落としてしまう。
結局、住吉町交差点、舟入交差点と非常な遠回りをし、国道7号線に沿って戻る羽目になる。
8時50分、ようやく城北町の交差点にたどり着く。左折して県道21号線を日本海方面へ、紫雲寺方向を目指す。朝っぱらから大きなロスなり。
9時、広々とした越後平野の水田地帯を行く。雨は一時上がるものの、今日の飯豊連峰は雲の中である。


9時20分、加治川橋を渡る。


9時30分、2ヶ月半前に閉校になった新発田市立中川小学校跡を通過。


郷土の詩人相馬御風の作詞による校歌が刻まれた記念碑。


過疎化による少子化と町村合併の結果だろうか。そういえば一昨日も廃校跡を通ったっけ(6月4日)。


9時50分、日本海東北自動車道の高速道路の下をくぐり、
10時、さらに緑の水田地帯を通って行く。広々と果てしなく続く越後平野の穀倉地帯だが、ところどころに見える減反政策による休耕田が痛々しい。


10時15分、稲荷岡交差点で右折。村上方面に向けて県道3号線に入る。民家が続き、時折右手に水田が垣間見える。
再び雨が強く降ったり止んだりし、雨具の着脱で消耗の繰り返し。黒い雲に追いかけられるようにして歩く。
11時30分~45分、気づかないうちに胎内市に入っており、築地(ついじ)にて小休止し食事。道路には小さなカタツムリがいくつも這っていて懐かしい。
12時40分、胎内川にかかる新胎内橋を渡る。飯豊連峰から流れ出る胎内川は水量多く澄んでいる。
13時05分、大出(おおいで)にて国道113号線に合流。とたんにトラックの量が増える。
このころになりやっと雨が上がって、時々陽も差すようになる。
13時35分、乙(きのと)という名の交差点を経て、村上市に入る。乙を正しく読める人は少ないだろうから、きのと(きっと)難読地名に分類されるだろうな。


13時45分、道標を見かけ写真に撮る。


米沢街道(小国街道)と羽州浜街道(出羽街道)の交点なり。


相変わらず、水田地帯が広がっている。


14時05分、金屋郵便局のATMで2万円下ろす。
14時35分、海岸線を通ってきた国道345号線に合流し、荒川にかかる長い旭橋を渡る。橋からは2日ぶりの日本海が遠望できる。


14時40分、コンビニにて買い物と食事。牛乳、コッペパン、豆大福。
15時45分、水田の脇を通りつつ行き、路傍で撫子の花を見かける。


16時、越後平野の水田地帯もそろそろ北端に近づく。


16時30分、瀬波温泉トンネル(1045メートル)を抜け、村上市街地に向かう。
JR村上駅の北側の陸橋を渡り、肴町交差点を左折、日本海方面に行く。
17時、コンビニで当面の食料調達。薄皮チョコパン、ロシアパン、バターピーナッツ(このときは気づかなかったが、この後、勝木までコンビニも商店もなく、ここで買っておいた食料は貴重だった)。
17時30分、三面川にかかる瀬波橋を渡り、急坂を登る。
雲間から雄大な日本海に光を投げかける太陽を写真に撮る。佐渡島もよく見える。
(訂正――佐渡島だと思っていたのは、実は粟島だったようです。)


17時55分、坂を上りきったところに、立派な「岩ヶ崎」のバス停を発見。実際には冬の過酷な天候を物語るのだが、今の自分にはおとぎの家のように見える。


予定では無人駅の間島駅まで足を伸ばすつもりだったが、時間も遅くなってしまい、ここは無理をせず、このバス停を借りて今日の泊まり場にさせてもらうことにする。宿以外での宿泊地選定の基準は、まず飲料水とトイレの確保であり、従ってバス停泊は優先順位では下位ランクにあるのだが、屋根があるのはうれしい。中は清掃が行き届いており非常に快適。
夜間は、たまに通る夜行列車か貨物列車の響きを夢うつつに聞きながらも、ゆっくりと眠る。

経費  755円       累計  213,201円
歩数  65,292歩    累計  2,758,138歩
距離  45km       累計  1,821km

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徒歩の旅 第56日 新発田市 丸井旅館へ

2009年05月02日 | 2008年日本海側の旅
6月5日(木) 晴のち雨 (越前浜防風林内~新潟県・新発田市 「丸井旅館」)



3時過ぎ起床、前夜は早々と眠ってしまったので今日は睡眠十分。暗い中で、朝食をとり、テントを撤収する。予報では天気は下り坂ということで行動を急ぐ。
4時05分、出発。天候の悪化を予測させるかに朝焼けの空に燃えるような色の雲たなびいている。




4時15分、単調に続く国道402号線を東へ向かってひたすら歩く。


4時25分、四ツ郷屋(よつごうや)海水浴場へと続く交差点を通過し、現在地を確認する。
予想地点とさほどは違ってはおらず。
その後、一時佐渡島が松林の切れ目から望めるも、それ以外のところでは防風林にさえぎられて海もほとんど見えない。
5時30分、新川にかかる往来橋を渡り、402号線からそれて、新川沿いをJR越後線の内野駅方面に向かう。
5時55分、内野駅を通り、「西大通り」の方の国道116号線に出る。
6時05分~20分、コンビニで買い物と食事。牛乳、カツ弁当、おにぎり2個。コンビニ先の広場で、結露したテントを乾かし、「新潟西バイパス」の方の国道116号線の方面に向かう。
この時点までは、距離からいって、今夜の泊まりは「道の駅 豊栄」のつもりでいたが、直後に事前調査の不十分さを思い知らされることになる。
7時、新通ICへ着いてみると、新潟西バイパスは自動車専用道路で、歩行者は通行不可との表示板がある。
結局、元来た道をとぼとぼと引き返す。この間に40分ほどのロスタイム。
さらに、これでは新潟西バイパスの延長にある新新バイパスの「道の駅 豊栄」は使用できないだろうと一人合点。使用できないとすると、さて今夜は何処に泊まろうかと考えながら歩く(実際には道の駅へ通じる他の道路があり使用可能だったようだ)。
ともあれ、先ほど通過した西大通りへ戻り、坂井交差点で右折、県道16号線を新潟駅の方に向かって行くことにする。
小学生が通学してくる商店街の通りを、
7時55分にJR越後線の寺尾駅の傍、
8時25分に小針駅の傍を過ぎ、
8時35分~45分、青山水道公園で小休止。
おにぎりを頬張りつつ、今日のこれからの行動について作戦を練る。
宿泊は、新潟駅近辺ではあまりに近すぎるので、降雨との兼ね合いだが出来るだけ前進し、日本海側の公園かさもなければ新発田駅あたりでも、という暫定的結論に。
9時10分、信濃川の関屋分水路にかかる関屋大橋を渡る。




こちらは信濃川本流。分水されても信濃川は日本一の大河である。


新潟駅方面を目指して、整備されて公園になっている河川敷に沿って行く。


信濃川の鉄橋を行く越後線。


土手は爽やかで、ウォーキングをする人、ジョギングをする人、犬と散歩する人などが何人もいる。また、遠くには雪が白く鮮やかな懐かしい飯豊連峰も一部望まれる。飯豊全山縦走をしたのは9年前の秋口だった、などと思い出しながら。あの時飯豊本山のテント場で見た満天の星空と人工衛星は忘れられない。
こちらは昭和大橋。1964年6月16日の新潟地震で、架け替え後15日にして落橋。その後改修して現在に至る。


10時05分、さらに河川敷を行き、萬代橋の手前で管理の人と話す。彼の話では、新潟地震のときにも、他の橋が壊れたのに萬代橋はびくともしなかったとのこと。




10時15分、6連アーチの姿が美しい萬代橋を渡る。


振り返って見る。


萬代橋の「橋側灯」の説明。


ビル街を通り抜け、国道113号線を行こうとするも、
10時分40、万国橋を渡ったところでついに雨が降りだす。雨具、ザックカバー着用。
雨はその後、夕方まで降ったり止んだりの天気となる。
11時15分、コンビニで今夜と明朝の食料などを買い込む。牛乳、飲むヨーグルト、おにぎり4個、食パン、ハム、ピーナッツ。ヨーグルトだけその場で飲み出発。
左折し、県道3号線を行くことにする。
12時30分、ワークショップで5本指靴下4足セットを買う。穴が開いてしまったこと、5本指は指と指との間のマメ防止に有効であること等々。
レジで、たまたま鹿児島から北海道まで歩いているという話になったところ、レジ嬢や他の女店員たちが感激し、タオルや軍手をおまけにくれた上、口々に「気をつけて」「頑張って」と5人総出で激励。うら若き女性たちの黄色い声援で見送られるということは、はなはだもって結構なことでございます。
13時20分~40分、阿賀野川に架かる泰平橋を渡り、小休止。
阿賀野川はとにかく桁違いに川幅が広く、川幅について言えばこれまで渡った中で一番ではなかろうか。とにかく感動するくらいに広い。かつて何度か沢登りをした只見川はこの川の上流である。


さらに県道3号線をどんどん進み、
14時50分、内島見(うちしまみ)東の交差点を通過。
15時10分、新発田市に入る。今夜の降雨量を想定し、新発田駅前の旅館に泊まることに決定。急遽電話で予約をする。
後は、宿まで飯豊山脈を正面にみつつ一気に行く。時々見える山塊は南部がガスに覆われてしまっている。
高速の日本海東北自動車道の下をくぐり、
16時20分、市街地を新発田駅方面に向かう。


再び雨が降り出してくる中を、市周辺の量販店などが並ぶ地域を抜け、さらに駅前商店街を抜けて、JR新発田駅に出る。
17時20分、雨の中、ようやくにして「丸井旅館」に着き、ともあれ13時間行動を終える。宿泊料6615円。
今日は、長距離であったこと、事前調査が不十分で道路や道の駅の利用が不確かであったこと、行動方針が一定しなかったことなど、反省点の多い一日である。

経費  8,993円(宿泊料前払い) 累計  212,446円
歩数  71,921歩          累計  2,692,846歩
距離  53km             累計  1,776km


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