そぞろ神の物につきて―日本列島徒歩の旅の記録

  (2008年 日本海側)
  (2011年 四国八十八ヶ所)
  (2014・15年 太平洋側)

徒歩の旅 第55日 新潟市  越前浜防風林へ

2009年04月30日 | 2008年日本海側の旅
6月4日(水) 晴時々曇 ( 「道の駅 越後出雲崎天領の里」~新潟県・新潟市 越前浜防風林内)



夜明け前、目を覚ますと暗い空に星が沢山瞬いているのが見える。芭蕉が見たのもこの時季だろうか。しかし天の川までは見えず。やはり「光」害ということか。
5時、道の駅を出発。
海は穏やか、太陽が出て、光が海面に反射してとてもきれいだ。


出雲崎漁港を見つつ国道352号線を行く。
5時15分、良寛堂で小休止。




海を見て座っている良寛像。




台座には、「たらちねの ははがかたみと あさゆふの 佐度のしまべを うちみつるかも」と刻まれてある。佐渡は良寛の母「おのぶ」の生地である。


国道402号線に入る。
5時25分、出雲崎おけさの「おけさ源流の碑」を通過。




5時55分、霞がかかって佐渡はまだ見えない。
「海は荒海 向こうは佐渡よ……」と歌いつつ。


6時05分、井鼻海水浴場。


6時30分、長岡市に入る。
和島オートキャンプ場の近くの路傍に、ぽつんと草に埋もれて「お春瞽女(ごぜ)之碑」が立っている。碑文は今東光の書。今東光は瀬戸内寂聴の出家得度の際に手を貸したりもしており、単なる右翼の毒舌坊主というだけではない何かがあったようだ。


解説文もなかなか味わい深い。昭和22年(1947年)秋といえば、ちょうど自分の生まれた頃のことである。


7時10分に県道277号線との分岐を、
8時には県道169号線との分岐を、爽やかな空気に包まれ海を見ながらハイピッチで歩く。
新潟県の海岸は「日本海夕日ライン」と名づけられている。


8時05分、松沢町交差点から、寺泊市街に入っていく。
8時15分、佐渡汽船のフェリー乗り場。


8時25分~40分、寺泊の魚のアメ横。まだ時間が早いため、準備中の店が多い。


観光客の姿もまだ見えない。


開いている売店で、イカと番屋揚げの串焼きを買う。番屋揚げは、草履のごとき形状の巨大さつま揚げといったようなもの。


イカ焼きは大きく肉が厚いので、今はとりあえずこれだけで十分満腹。番屋揚げ焼きは後で食べることにしてザックのサイドポケットに入れておく。
さらに、行動用及び今夜の分として一応トマトも買っておく。
9時10分、信濃川の大河津分水路にかかる野積橋を渡って、
9時15分~35分、SOWA美術館手前の芝生の公園で小休止。
結露に濡れたテントと雨具を乾かしながら、先ほどの番屋揚げ焼きを食べる。
気温は21℃だが、さほど暑いとは感じない。
10時、のどかな水田地帯を通る。


10時20分、左手海岸沿いの「立岩」や


10時25分、右手山側の「滝の川」を見つつ行く。




10時35分、新潟市に入る。このあたりは「越後七浦シーサイドライン」というそうだ。


空は青く、海もまた青く、波は穏やか、絶好の歩き旅日和である。




立壁トンネル、崖松トンネル、白岩トンネルと短いトンネルを抜けて、
11時35分、国道55号と交差する、間瀬交差点あたりで気温は19℃。しかし今度は表示よりははるかに暑い感じである。
間瀬漁港を過ぎ、
11時55分、間瀬海水浴場。


さらにいくつかのトンネルを抜けて行く。
道が大きく山側に上り、
12時35分、やや長いトンネルを2つ(585メートルの角海トンネルと、714メートルの五ヶ浜トンネル)抜けると、今度は海の方へ下っていき、浦浜海水浴場に着く。
13時15分、海の中にある「立岩」を眺めて過ぎる。このあたりには、「立岩」という名称の岩がいくつかある。


13時30分、角田岬の白い灯台を遠く眺めながら行く。


13時40分、角田浜海水浴場。しかしシーズンオフのため買い物ができるような店はない。
そのまま越前浜へと、トラックが頻繁に走るアップダウンの多い道を行く。
今日は距離からいってどこかでビバークになるだろうと覚悟し、適地を探しながら歩く。
しかし、右側は野菜畑、左側は防風林で、なかなか適当なビバークサイトが見つからない。単調な道がどこまでも続き、さてどうしたものかなと考えながら黙々と歩く。
終いには、ままよ、見つからなければ、このまま歩き続けて新潟市街に入っていってもいいや、新潟駅の近くまで行けば宿泊施設はあるのだから、と腹をくくる。
そう決めて歩いていると、
15時30分、松の苗木を植えるため通行止の看板が設置されている、浜辺方面への入口がある。さらに、よく見ると通行止のワイヤーの横に出入りをした形跡もある。そして、偵察がてら一応防風林の中の方へ入ってみると、テントを張った跡もあるではないか。
よしここに決定。
松の苗木に影響のないように、砂浜近くの草むらを選び、今夜の泊まり場とさせてもらうことにする。
単調な防風林がどこまでも続いているので、ここが越前浜のどのあたりか、正確な現在地はわからず。
設営後、早朝からの行動の疲れからか、潮騒の子守唄を聞きながらあっという間に眠りに落ちる。

経費  950円        累計  203,453円
歩数  62,633歩      累計  2,620,925歩
距離  約42km       累計  約1,723km

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徒歩の旅 第54日 出雲崎町 越後出雲崎天領の里へ

2009年04月28日 | 2008年日本海側の旅
6月3日(火) 曇一時雨 (「風の丘米山」~新潟県・出雲崎町 「道の駅 越後出雲崎天領の里」)



5時30分、一人でゆっくり宿泊させてもらった道の駅の休憩所を出発。


昨日上ってきた坂を下り、国道8号線をJR北陸本線と平行して海岸に沿って北上。


6時、鯨波交差点で国道8号線と別れ、左折して柏崎港方面へ。
6時30分、港には、イカ釣り漁船が停泊。


6時40分、鵜川を渡り柏崎市街地へ入る。


工事箇所が続出し紅白のコーンが目立つ。2007年7月の中越沖地震の被災地は、復旧工事中なり。



6時50分、コンビニで食事。牛乳、おにぎり2個。
市街地に入るや、仮設住宅がいくつも立ち並ぶ地域を通って行く。




7時05分、国道352号に入る。
「新潟県立柏崎アクアパーク」は壊れており閉鎖中(その後2008年7月27日に再開された)。


復旧工事の掲示。


7時20分、道路にも各所に被害の後が残っている。そういえば、 「道の駅 風の丘米山」休憩所の備え付けノートにも、地震発生直後休憩所にボランティアが大勢宿泊したとの記載があった。


7時35分、鯖石川にかかる安政橋を渡り、柏崎市街地を抜ける。
7時50分、雨が降り出し、バス停にて雨宿りを兼ねて20分間の小休止。なかなか降り止まず、雨具を着用して出発。
8時50分、荒浜交差点を通過。
9時30分、海から離れ、柏崎刈羽原子力発電所を大きく回りこんで刈羽村に入る。
雨がさらに強くなる中、原発の横を行く。
道路左の原発側は樹木によって目隠しされている。頭上遠くに見える紅白縞の鉄塔は原発のもののようだ。
前年の中越沖地震後、東京電力柏崎刈羽原発は全7基が運転停止中。
時折自動車が飛沫をあげて通過する中を黙々と歩く。
9時55分、刈羽トンネル(551メートル)を抜けて、刈羽村から再び柏崎市に戻り、海岸に沿って行く。
10時20分、酒店で買い物、牛乳、菓子パン2個、バナナ。
海岸の四阿で食事がてら雨宿り。
その後も地震復旧の道路工事箇所をいくつか通過する。
11時、椎谷で国道352号線が通行止め。観音岬が通れず、整理員の指図で279号線を内陸方面に大きく迂回。緑の丘や田圃に雨が降り注ぐのを眺めながら行く。
12時05分、ずいぶん行った頃にようやく左折。新しくできたばかりの堂坂トンネルを抜け373号線へ。見通しが立ち、25分ほど雨宿りと食事。
雨が上がりやや陽も差してきたかなと思うものの、再び曇ってくる。両側が田圃の挟まれた田園地帯の中の道を行く。
12時30分、もとの国道352号線に戻り、海沿いの北上を続ける。
12時35分、雨はすっかり上がり、バス停にて雨具を脱ぎ、小休止。
遠くの海上に佐渡島らしき塊が見える。このところ雨や霞などでなかなか見えなかったが、やっと見ることができたようだ。
13時25分、石地(いしじ)海水浴場にて15分間休憩。


浜にいた中年男性と話。
石地地区は地震をまぬがれたが、柏崎市街地はひどかった。この違いは地層の関係かもしれない。先ほど迂回させられたところは、崖崩れでずっと通行止め。今後はトンネルを掘る予定になっているとか。
佐渡島の左に小さい佐渡が見えると言うので目を凝らすとそんな感じもする。佐渡の島の地形がそう見せるのだと。また、佐渡まで海の中で岩が飛び飛びに続いており、それが隆起したときに伝って佐渡に渡れたという伝説がある、などの話を聞く。
13時45分、海上遥かの佐渡島。


セグロカモメなど。


14時、出雲崎町に入りさらに行くと、


14時30分、「道の駅 越後出雲崎天領の里」に着く。「天領」とは江戸幕府の直轄地のこと。


ここは、道の駅とはいえドライバーのための無料休憩所もない。天領出雲崎時代館とみやげ物とレストランの観光センターの一角を、国土交通省が間借りして道の駅にしているといったところか。
レストラン前の広場の、焼きそば屋のおばさんにザックを見ていてもらい、さっそく「良寛記念館」に行く。
途中で「芭蕉園」に立ち寄る。芭蕉の像。


『奥の細道』の一節と「「荒海や 佐渡によこたふ 天河」の句の碑がある。




さらに、芭蕉が宿泊した旅人宿「大崎屋」の跡。




また、近くに「北国街道人物往来史」という非常に興味深い掲示板がある。


佐渡に流罪になった人々の他に、上杉謙信・景勝、豊臣秀吉らの武将や、日蓮上人や遊行上人(一遍)、木喰上人らの僧、芭蕉や池西言水や谷文晁らの文人たち、歌舞伎の阿国や忠臣蔵の堀部安兵衛たちが、この地に泊まったり通過したことが分かる。意外だったのは、吉田松陰の名があったことだ(後日、青森にても松蔭の足跡を知る。無知は恥しきものなり)。






15時05分、「良寛記念館」は坂を上った途中にある。


記念館への道の脇に、良寛の作品が石に刻まれてある。
「君看雙眼色
 不語似無憂」
(君看よ 双眼の色  語らざるは 憂なきに似たり)


「己東毛羅東 轉萬理都幾都々 可數美多川 難可起者留悲遠 久良之川留閑毛」
(子どもらと 手まりつきつつ 霞立つ 永き春日を 暮らしつるかも)


「手を振て およいてゆくや いはしうり」


館内には良寛の書と彼に関する多くの著作が展示されている。書かれてある文字は読めないものも多いが、解説によるとその内容は味わい深いものがある。




良寛の住まい「耐雪庵」の模型。


帰路、坂の上から「歴史国道 妻入りの街並」の縦に長い家屋の写真を撮る。


16時、今夜と翌朝の食事用に、コンビニで買い物。食パン、トマト。
道の駅に戻り、ザックを頼んだお礼に、焼きそば、串から揚げを買い、食べながらおばあさんの話を聞く。
その後、海岸にある子供の頃の良寛像や


「夕凪の橋」を写真に撮り、


17時30分、道の駅の隅の小さな芝生スペースにテントを設営。
食後、Bさんに途中の通行止め、迂回の件を電話する。彼は、米山を過ぎて、柏崎市街で今夜の宿を探している最中。
出雲崎市街地にはやたらとジェロとかいう黒人の顔写真が貼ってある。歌手だそうだ。
出雲崎といえば、何といっても芭蕉であり良寛だとばかり思っていたが、今や黒人歌手にその座を追われてしまっているかの如し。嗚呼。

経費  2,346円     累計  202,503円
歩数  55,471歩    累計  2,558,292歩
距離  33km       累計  1,681km
(歩数と距離の食い違いは、良寛記念館に足を伸ばしたため)

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徒歩の旅 第53日 柏崎市  風の丘米山へ

2009年04月26日 | 2008年日本海側の旅
6月2日(月) 晴 (「働く人の宿 あいかわ」~新潟県・柏崎市 「道の駅 風の丘米山」)



朝食後、宿の食事係のお姉さんと話。旅の日程や宿泊形態、家族の理解のことなど。旅に出発する直前にケータイを買い、持たされていることや、毎晩、行動後にメールで安否確認することを義務付けられていることなどを話す。
出発時に、宿の前でケータイのデジカメで写真を撮ってもらう。これまで、途中の風景は何度か送信したが、自分の行動姿は送っていないので、一応自宅に送っておくことにする。


7時30分、彼女に激励されて出発。小さな潟川橋を渡り、
7時50分、日の出交差点で国道8号線に合流。産業団地を行く。
クラクションが鳴ったので見ると、昨夜の同宿者たちが車で作業現場へ行くところだった。笑いながら手を振って「頑張れ」と叫ぶので、こちらも手を振って応える。
8時20分、コンビニで買い物。牛乳、ガム2個。
8時50分、JR信越本線犀潟駅を通過。
9時30分、土底浜駅を通過。ここも無人駅で、当初、場合によってはここで泊まろうかとも考えていた。だが、この後テント泊が続きそうなので、結局は宿泊まりに切り替えたというわけ。
国道8号線は車が多いので、海に近い県道129号に入る。
9時50分、潟町郵便局のATMで2万円下ろす。
10時10分、大潟海浜公園のハマナスの池にて小休止。今日は、少し咲いているだけ。


公園内の夕日の森展望台に上ってみる。
直江津方面。視界がきけば妙高山や佐渡が見えるらしいが、空気が霞んでいて見えず、残念。


新潟方面。こちらは遠く米山が見える。


風が出て、寒さを感じる。
鵜の浜温泉街を通ると、「直江兼続」のポスターがあちこちに貼ってある。(恥ずかしながら、この人物について全然知らず、戦国時代に越後にはこんな武将もいたのかぁ、という感想。旅から帰って、2009年のNHKの大河ドラマの主人公と知る。)
10時50分、再び国道8号線に合流。
11時00分、上下浜駅通過。
11時35分、馬正面交差点のコンビニにて買い物と食事。カツ丼焼きそばセット、豆大福。
「馬正面」という珍しい地名はどういう謂れがあるのだろうか。
11時55分、正面右手に標高993メートルの米山が大きく近づいてくる。


越後の道端に咲いていたシモツケソウ。


12時35分、道が海岸沿いになり、更に風強く寒い。


JR特急列車の写真を撮っている人がいるが、彼も寒そうにしている。
13時10分、こちらは信越本線普通列車。


13時15分、柏崎市に入る。


13時40分、米山駅を通過し、聖ヶ鼻の岬手前。ここも真っ黒な屋根瓦の家屋が多い。


国道8号線は坂を上り、米山の町は足元に。


14時、米山トンネル(350メートル)を抜ける。
14時05分、信越本線米山第二トンネルの手前側は、中越地震の地すべり跡の工事だろうか。


14時25分、芭蕉ヶ丘トンネル(455メートル)を抜ける。
14時40分、後ろから来た自転車の青年に「頑張って下さい」と声をかけられ、「有難う」と応える。
彼が自分と同じ銀色のロールマットを自転車にくくり着けているのが印象に残った。というのも、そろそろ梅雨対策として銀マットは自宅へ送り返し、代わりにコンパクトでザックに入れられる登山用のウレタンマットを、どこかの郵便局留めで送ってもらおうかと考えていたからだ。銀マットがザックに外付けされてあると、雨の際ザックカバーを着用する時にちょっと手間がかかるため。しかし、どうやら銀マットは、テント泊まりで街道を旅する者たちにとっての連帯の象徴のようだなという気がしてき、それならやっかいでも最後までこれを持って行こうと決める。
14時分45、短い笠島トンネルを抜けると海。


14時50分、柏崎国民休養地。
当初、今日はここのキャンプ場に泊まる予定だったので、ちょっと坂を上ってキャンプ場を偵察する。しかし結局、天気は下り坂という予報が出ていることも考え合わせ、もう少し歩いて屋根のある道の駅に泊まることにする。
14時55分、柏原市の地図。


15時、振り返ると笠島港と田塚鼻の岬。


15時40分、国道から右手に上っていったところの、大きな風車のある「道の駅風の丘米山」の休憩所に到着(写真の、右手奥)。


休憩所は、水道・トイレOK、やや狭いながらも畳敷きで快適そう。隣の売店で夜食用に、牛乳、豆菓子を買う。
ケータイから天気を調べる方法がわかり、それまで夜の交信時に自宅から聞いていた天気予報を今後割愛する。

経費  1,373円     累計  200,157円
歩数  44,630歩    累計  2,502,821歩
距離  32km       累計  1,648km


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徒歩の旅 第52日 上越市  働く人の宿 あいかわへ

2009年04月24日 | 2008年日本海側の旅
6月1日(日) 快晴 (JR梶屋敷駅~新潟県・上越市 「働く人の宿 あいかわ」)



今日から6月。4時頃にはそろそろあたりがうっすらと明るくなってくる。
4時30分、一晩お世話になったJR梶屋敷駅を出発。


4時40分、昨日とはうって変わって雲一つない空の下、早川橋を渡る。


朝日を浴びた海谷山塊の山々がくっきりと見える。


4時45分、コンビニにて食事。牛乳、おにぎり2個。
5時40分、JR浦本駅を通過。ここから直江津までは「久比岐(くびき)自転車歩行者道」が、国道8号線に平行して続いているが、もうしばらく国道を行く。
6時20分、木浦橋を渡る。
7時、弁天岩。赤い欄干の曙橋のたもとに、野口雨情の碑があり、
「能生の弁天岩  どんと波おいで  いつも弁天さま  どんと波見てる」と刻まれている。
海も昨日の鉛色と異なり、青々とおだやかである。


暑くなりそうなので自販機でペットボトル買う。
7時10分~9時、「道の駅 能生(のう)」の海洋公園で大休止。
東京から職場の元同僚のA君、J君が陣中見舞い。
差し入れを貰い、自宅からの荷物を受け取り、こちらの荷物も自宅へ届けてもらう手筈。待望の薄手のダウンジャケットが届いたので、これで今後のテント泊や駅寝の寒さがだいぶ和らぐだろう。荷物の軽量・コンパクト化を心がけた結果とはいえ、払った代償は大きくずいぶん寒い思いもした。
彼らはこれから能登半島、白川郷方面に行くことになったとかで、余り時間もとれなかったが、食事をしながら旅の話をしたり、記念写真を撮ったりしてしばしくつろぐ。
9時10分、「久比岐自転車歩行者道」に入る。
「久比岐自転車歩行者道」は全長33km。正式名称は「新潟県道542号上越糸魚川自転車道線」。旧国鉄北陸本線の線路跡地を利用した自転車と歩行者の専用道路で、平坦で非常に歩きやすい道路である。


昨日から今日にかけて歩いてきたところは、田中冬二の詩「北陸にて」で描かれた場所である。若い頃に読んだその詩のところどころ断片など思い出しつつ一人歩く。

( 「北陸にて」     田中冬二

北陸線の
能生 梶屋敷 糸魚川 青海 親不知 市振 泊 入善
みんな何といふさびしい名であらう
能生は海に沿うた細長い そして魚くさい町だ
魚問屋の土間をとほして 青い海が見える
丁度スクリーンいっぱいのように
その青い波の上を 低くとんでゐる白い海鳥
板屋根の古い宿屋があって
昼は海に向かった方の雨戸を 半閉ざしてゐる
そんな昼を心太の水もぬるむような昼を
按摩が笛を吹いて歩いてゐる
能生 梶屋敷 糸魚川 青海 親不知 市振 泊 入善
みんな何といふさびしい名であらう )

現代化された北陸だが、こんな雰囲気を今でも感じさせるのはなぜだろうか。
「久比岐自転車歩行者道」から国道8号線と日本海を望む。


道は時々緑の草や潅木の間を行ったり、トンネルを通過したりするが、概ね国道8号線の一段上を通行するので、海方面の展望がよい。
振り返ると、「道の駅能生」の白い風車が見える。


前方。歩きやすい道が筒石、名立へと続く。


右手の陸地側は、緑が眩しい。


このあたりも自転車歩行者道が高台を通るようになっており、国道8号線を見下ろしながら、日本海の展望を楽しみつつ歩く。天気はよく、道は歩きやすく、車に怯えることもない、まさに歩き旅日和。


10時20分、筒石を通過。ここは真っ黒な瓦屋根の家が多い。気候の過酷さを物語っているようだ。


10時25分~40分、後から来た自転車の青年と、しばらく話しながら歩く。彼は地元の役場に勤めていて、将来四国八十八ヶ所と屋久島に徒歩で行きたいとのこと。資金調達、宿泊場所や装備の選定、衣類の洗濯、その他についてのノウハウなどアドバイスを求められる。「意志あるところ道あり」で決意を持続させること、すべてはそれに付随してなんとか考えつくもの、それがまた旅の計画の面白いところ、目的場所が観光によって俗化し荒れないうちに、なるべく早く行った方がよいのではないか、など自分の経験の話をする。
青年と別れて少しして、後ろから来た自転車の男性に羊羹を貰う。「何処まで行くの?」「北海道まで」「日帰りか? 何処から来たの?」「鹿児島から」「日帰りか?」「いや百日帰り」と、なんとも他愛ない会話を交わす。
気づかないうちに上越市に入り、
10時50分、名立海水浴場では、サーフィンを楽しむ人たちがいる。


11時、大抜トンネル手前の、屋根つきの名立休憩所で10分間の小休止。さきほどいただいた羊羹を食べながら、地元の高齢者のサイクリング団体の人たちと旅の話など。出発時には口々に激励される。
11時35分、名立。ここには「うみてらす名立」という道の駅があるが、寄らずに通過。


12時20分、茶屋ヶ原でトンネルに入る。


12時30分、JR有間川駅を通過。
12時40分、やや広くなった地点で20分ほど休憩し、地面にテント、マット、雨具などを広げて乾かす。
日差しが強く、暑いので、朝買っておいたミネラルウォーターがうまい。自転車歩行者道は歩きやすくてよいのだが、途中に売店も何もないのがやや難点か。いや考えようによって、むしろそれだからこそ逆によいのか。
この後、400メートル前後のトンネルをいくつか通過。内部は照明が明るく歩きやすい。ひんやりとした空気が火照った体に心地よい。
14時、道は国道を越えて、海岸沿いに続く。


14時20分、郷津交差点で「久比岐自転車歩行者道」は終わる。
この先国道8号線に戻り大回りで直江津港の宿に行くか、そのまま県道468号線を行くかで迷うが、近そうな県道を行くことにする。
しかしこの選択は誤りで、坂道をだいぶ上ることになり、さらに分かりにくいところを通り、ようやくにして直江津駅から港への道を確認する。
15時20分、関川河口から直江津港方面。川の中にいるのはアオサギのようだが。


15時30分、荒川橋、古城橋と渡り、
15時40分、「働く人の宿 あいかわ」に着く。
宿の主人の話では、ここは直江津港で働く期間労働者などが主な宿泊者とのこと。長期滞在者も多いそうだ。料金を安くするために、食堂はセルフサービスにしているということだが、食事はボリュームがあり且つ美味、洗濯やインスタントコーヒーは無料などとても快適な宿である。
風呂で同宿の中高年の労働者たちと雑談したりして、旅の疲れを癒した。同宿の3人ともとても気のいい人たちで親切。北海道から九州まで全国で働いてきた彼らの仕事の話は興味深い。こちらの旅の話にも関心を持ったようでいろいろと尋ねられる。

経費  7,220円     累計  198,784円
歩数  54,805歩    累計  2,548,191歩
距離  38km      累計  1,616km

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徒歩の旅 第51日 糸魚川市 JR梶屋敷駅へ

2009年04月22日 | 2008年日本海側の旅
5月31日(土)   雨のち曇  (「料理旅館 有磯」~新潟県・糸魚川市 JR梶屋敷駅)



朝は雨が降ったり止んだり。部屋は日本海の雄大な展望を目の当たりにし、窓を開けると潮騒が聞こえる。
今日はいよいよ親不知・子不知の通過。日本海に沿って国道8号線を行く以上、他に迂回路はない。
とは言え、行程は30キロほどなので、少しゆっくりして天気の様子見。
8時05分、霧雨程度になったので出発。宿の女将さんから宗谷岬まで無事に行けるようにと、ヒスイの根付のお守りを頂く。


8時20分、JR北陸本線に沿って、車両の写真を撮ったりしつつ行く。
普通列車。


特急列車。


雨が強くなり、雨具着用。デジカメはザックの中へ。
8時55分、境川にかかる境橋を渡ると新潟県糸魚川市である。13県目。これで、新潟、山形、秋田、青森、そして北海道とあと1道4県を残すのみ。旅も半分と思うと、にわかに随分と来たものとの感を強くする。
9時、雨が強いので、「道の駅 越後市振(いちぶり)の関」にて50分間の大休止。
情報コーナーで、親不知の道路の移り変わりの歴史などを見つつ過ごす。現在、親不知・子不知はJR北陸本線の市振駅~親不知駅~青海(おうみ)駅の三駅間、約15キロの総称とされている。








この間に、やや遅れて着いたBさんは、5分ほど休んだだけで先行する。
9時50分、雨は相変わらずだが、当分止みそうにないので出発。
10時、JR市振駅を覗く。
当然ながら40年前の面影はなく、モダンな駅になっている。
あの時は、3月に5人で五竜岳から雪の後立山連峰稜線を北上し、2週間かけて国鉄市振駅に着いたのだった。当時は「栂海新道」もなくて、積雪期だけのルートだった。
かつて待合室にかかっていた、芭蕉の「一家に 遊女も ねたり 萩と月」の額を探してみたがが見つからず。
10時15分、小降りになった雨の中、これから行く親不知のトンネルと洞門が、海岸に沿って何処までも続いているのが見えてくる。


10時25分、最初の洞門に入っていく。
幸いなことに、今日は土曜日のせいか、大型トラックは予想していたよりも少なくて助かる。
しかしそれでも、猛烈なスピードで走り抜けていく何台もの車を避けながら、白線で区切られただけの狭い洞門内の「歩道」を通行するのはさすがに神経が疲れる。
一昨日富山市で買った反射バンドを腕に巻き、ヘッドランプを手に持って振りながら、右側のコンクリート壁にへばりつくようにして歩く。左側は、洞門の隙間から曇った空がのぞく。
10時50分、「天険(てんけん)トンネル」へ。ここは海側に遊歩道がついており、そこを通行する。海抜70メートル、距離900メートルのこの道は、天険親不知線という市道で「親不知コミュニティロード」と呼ばれている。
断崖には「如砥如矢」や




「足下千丈親不知」「天下之嶮」などの文字が刻まれている。


11時、前方にはまだまだ洞門が続くのが見える。


11時15分、振り返ると、断崖絶壁がもろに日本海に落ち込んでいるのがわかる。


「親不知文学散歩」の案内板には、尊敬する文学者で共産主義者である中野重治の「しらなみ」の詩が紹介されてある。


(「中野重治詩集」所収「しらなみ」の詩全文。
   
「しらなみ」     中野重治
ここにあるのは荒れはてた細ながい磯だ
うねりは遙かな沖なかに湧いて
よりあいながら寄せてくる
そしてここの渚に
さびしい声をあげ
秋の姿でたおれかかる
そのひびきは奥ぶかく
せまつた山の根にかなしく反響する
がんじような汽車さえもためらいがちに
しぶきは窓がらすに霧のようにもまつわつてくる
ああ 越後のくに 親しらず市振(いちふり)の海岸
ひるがえる白浪のひまに
旅の心はひえびえとしめりをおびてくるのだ )

案内板に親不知・子不知の由来が書かれている。
「親しらず子はこの浦の波枕
  越路の磯のあわと消えゆく」


また、親不知観光ホテルのそばには、「栂海新道」の登山口がある。乗鞍岳から始まった北アルプスのどん詰まりである。
11時25分、展望台のウェストン像の横で小休止。トンネルと洞門の前半戦をひとまず終了。
11時50分、「道の駅親不知ピアパーク」で20分間雨宿り、兼小休止、兼昼食。週末のせいか、雨天にもかかわらず結構人がいる。
休憩後、さらにいくつかの洞門とトンネル歩きの後半戦が続き、
13時10分、全部で約3時間の集中力の維持から解放され、この旅の最大の難所が終わる。
13時20分、雨宿りを兼ねて15分小休止。
さらに、降りしきる雨の中を闇雲に歩き続け、青海川を渡り、
13時55分、JR青海駅でまた15分の小休止。
15時30分、姫川にかかる姫川大橋を渡る。
姫川は、フォッサマグナの西縁いわゆる糸魚川・静岡構造線に沿って、白馬から糸魚川へと日本列島を東西に分割する大断層を流れる川。
あらかじめ想定していた旅のちょうど中間地点であるが、「越えては越えて 来つるものかな」と感慨にひたるゆとりもなく、デジカメもザックから出せずに黙々と雨中を歩く。
15時40分、泊まりに備え、コンビニで食料の買い物。牛乳、幕の内弁当、菓子パン。
15時55分、JR糸魚川駅を通過する頃、ようやく雨が上がる。
16時10分、無人駅のJR梶屋敷駅に到着。濡れた雨具やザックを待合室の隅で乾かし、今夜はここで駅寝をさせてもらう。

経費  10,416円(前夜の旅館代含む)累計  191,564円
歩数  45,920歩          累計  2,403,386歩
距離  31km             累計  1,578km

(本日の到達地点――新潟県に入る)


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徒歩の旅 第50日 朝日町  料理旅館 有磯へ

2009年04月20日 | 2008年日本海側の旅
5月30日(金) 曇のち晴 (「浜黒崎キャンプ場」~富山県・朝日町 「料理旅館 有磯」)



4時40分、出発。
「浜黒崎キャンプ場」にある「富山県観光案内図」。


空は曇っており、灯台の灯りがしょんぼり。


地方道1号線を行き、常願寺川にかかる今川橋、白岩川にかかる浦の橋と渡って行く。
5時、コンビニで食事。牛乳、おにぎり2個。
滑川市に入り、道路にゴミが全くといっていいほど落ちていないことに驚く。これまで歩いてきた道路の中で最もきれいであった。萩市も確かにゴミがなくきれいだったが、随所に「ゴミ捨てるな」の看板があった。滑川にはそれもない。
滑川市のマンホールには、北アルプスの山々を背景に、ホタルイカ漁の様子がが描かれている。


5時45分、滑川市加島町、「立山 大岩道しるべ」。立山、大岩への登拝者のための道案内で、江戸時代に作られたもの。「大岩道 是より四里」とある。


6時、神明町にある「延喜式内社」の檪原(いちはら)神社には、芭蕉の「しばらくは花のうへなる月夜かな」の句碑がある。「延喜式内社」とは1200年前に決められた延喜式神名帳に記載された神社ということだそうだ。


滑川は、往時北国街道の宿場町として賑わったが、当時を語る「なめりかわ宿場回廊」という説明板がいくつも立てられている。
6時10分、「ほたるいかミュージアム」の先にある「道の駅ウェーブパークなめりかわ」にて小休止。早朝ゆえ人の気なし。
6時40分、海浜公園を過ぎ、海岸線の松並木を走る「しんきろう自転車道」に出て、富山湾沿いを行く。
7時10分、海釣りをしている人などを眺めながら10分小休止。空が曇っているので、海の色も今一つ冴えない。
7時40分、三ケ(さんが)にて1号線に戻り、早月川を渡って、滑川市に別れを告げる。


滑川市のシンボルは「ホタルイカ」。


早月川は剣岳西面からの水を集めて富山湾に注いでいる。澄んでいかにも冷たそうだ。


そう言えば、10年ほど前の5月に、早月川上流のブナクラ谷から、残雪の剣岳北方稜線を大窓まで3人で縦走したことを思い出す。その先剣岳本峰にまで行けるだけの力量は、われわれのパーティーにはなかった。ザイルを使って大窓の雪渓を下り、雪解け水に臍まで浸かる徒渉でちぢみあがったっけ。そんなことも懐かしい思い出である。
早月橋の上から、剣岳方面を望むも、雲に覆われて剣岳は見えず。
橋を渡り、魚津市に入る。


7時55分、空は相変わらず曇ったままで、目をこらせども剣岳は見えず。


8時05分、富山地方鉄道本線と並行して進む。


魚津駅周辺の案内図。


8時55分、魚津高校の前を通過する。魚津高校山岳部は、幾多の岳人を輩出していることで有名。


9時10分、江口にて国道8号線に合流する。
9時30分、片貝大橋で片貝川を渡る。ここからも剣岳は見えず。白銀の剣岳展望を期待していたが、どうやら今回は縁が無かったようだ。残念無念なり。
片貝川は、剣岳北方稜線の毛勝三山(毛勝山、釜谷山、猫又山)の雪解け水を集めている。こちらも澄んで冷たそうである。


9時40分、黒部市に入る。


10時40分、コンビニにて食事。飲むヨーグルト、菓子パン。
11時25分、黒部大橋を渡る。


黒部川は、広い川幅に北アルプスからの大量の清水が流れている、飛騨・越中の大河である。


黒部大橋は、572メートル。


黒部川は長さ85キロで、上流には、「下の廊下」、そして黒4ダムを挟んで、「上の廊下」や「東沢谷」と、かつて遡行を楽しんだルートがある。


黒部川を渡ると入善町である。


気温が高くなり、暑さに耐えて黙々と国道を歩くが、ついにたまりかねて自販機でペットボトルを買う。
直後に、呼び止められたので振り返ると、金沢ユースで一緒の部屋に泊まったFさん。滑川市の交通公園でSLの写真を撮ってきたとのこと。ペットボトルの差し入れをいただく。ありゃ、今さっき買ったばかりだ。
12時10分、入善黒部バイパスとの合流点の上野にて10分間の小休止。
12時55分、椚山口(くぬぎやまぐち)交差点で、県道60号線方面へ左折、JR北陸本線に沿って行く。
13時20分、麦が黄金色に実って刈入れを待っている。


13時35分、朝日町に入る。


赤川橋を渡り、泊(とまり)の市街地を抜け、
14時20分、水田の向こうに防砂林を見つつ進む。


防砂林の向こうは日本海である。


14時40分、「親鸞聖人御假泊之古跡」がある。岩には親鸞聖人の作と伝えられる「越路なる 宮崎浜の 岩かげに 宿りて弥陀の 思こそしれ」の文字。


宮崎港、ヒスイ海岸を経て、
15時、「料理旅館 有磯」に到着する。この宿は、登山の帰りなどで以前に二度ばかり泊まったことがある。女将さんと雑談をしていたら、Bさんも到着する。
4階の展望風呂でゆっくりと汗を流した後、
夕食は宴会場で、Bさんと二人で豪勢な海の幸をいただいた。
カニ、鯛のかぶと煮、天ぷら、刺身、海老と野菜の蒸し煮、ホタルイカの沖漬、ホタルイカのぬた、焼き魚、香の物、そして当地名物のタラ汁とご飯にビール。この旅で一番の贅沢で大いに英気を養う。宿泊料8925円。
(この写真は2人分)


今日で歩き始めてちょうど50日目、新潟県まであと5キロの地点に来ている。
半分の地点まで来たということは、この先宗谷岬まで行く距離も、Uターンして鹿児島まで戻る距離も同じということ。でも、とても戻ることはできない。この先に困難が待っていようとも、前へは行ける気がする。しかし戻ったら途中で歩くのを止めてしまうだろう。行程の半分までと我慢してきた50余日ぶりのビールにほろ酔い気分で、そんなことを語り合いながら心地よい時間を過ごす。

経費  824円      累計  181,148円
歩数  6,1165歩    累計  2,357,466歩
距離  42km      累計  1,547km

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徒歩の旅 第49日 富山市  浜黒崎キャンプ場へ

2009年04月18日 | 2008年日本海側の旅
5月29日(木) 雨のち晴 (「上和田緑地キャンプ場」~富山県・富山市 「浜黒崎キャンプ場」)



4時15分、目が覚める。夜から降り出した雨は小降りになり、食事をしているうちに止むが、テントを撤収していると再び降り出す。
6時30分までに一応出発準備はできたが、しばらく待機。天気予報が午後から晴れてくると言っていること、今日の行程は30キロ程度であること、そして泊まりは宿ではなく「浜黒崎キャンプ場」の予定ということで、仮に到着が夜になってしまってもよかろうとの判断である。
炊事棟にて雨宿りがてら、柄にもなく旅情にひたりつつ、一人で降りしきる雨に煙る新緑の越中の景色をしばし眺める。
9時30分、雨がやや小降りになったので出発。しかしデジカメはザックの中で、写真を撮ることはできず。
富山市街方面までどこを通って行こうかとしばし思案。やや遠回りでアップダウンがあるが比較的明瞭そうな国道359号線を行くか、それとも昨日通ったどこかの地点まで戻って、不確かながら平らな田圃の中の道を行くか。結局、わかり易い道の方がいいと判断し、359号線に向けて歩くことにする。
ひとまず地方道72号線を行き、
10時、坂をひとつ越えて国道359号線に合流。
雨は相変わらずで、時々強く降ってくる。大型トラックの水しぶきを何度も浴びながら、359号線を富山市街方面に向かって、樹林に囲まれたゆるやかな上り坂を歩いていく。
10時15分、富山市に入る。
10時30分、ブドウ園の看板があり、長い上り坂がようやく終わったかと思いきや、さらにだらだらと上り坂が続き、
10時40分、やっと登坂車線が終わる。
雨が上がったので雨具を脱ぎ小休止。デジカメを出して、今度は長い下り坂を水田の写真を撮ったりしつつ富山平野に向かって下っていく。
なだらかな丘をバックにして、水田に木々が映っているジオラマのような景色はまるでお伽の国だ。水田の作業は大変だろうが、この景観はいつまでも残してほしいと思う。


雨上がりの苗の緑が目に優しい感じ。


森林と水田が交じり合ったようなところを過ぎていく。


都会で生活していると、こういう景色を独り占めして歩いているのは実に至福の時間だ。


11時45分、長沢交差点通過。道路表示に「八尾」の文字があり、「風の盆」で有名な八尾はこのあたりだったのか、と思いつつ行く。
12時、羽根交差点のコンビニで、買物と食事。牛乳、おにぎり2個。
長い下りも終わり、富山平野の一角に入ってくる。


用水は水をたたえて流れ、田畑を潤す。麦畑も黄色く熟れている。


広い静かな道を進み、JR北陸本線を越えて、量販店などが立ち並ぶ富山市街地に入ると交通量も増えてくる。
13時25分、神通川に架かる婦中(ふちゅう)大橋を渡る。神通川は、黒部川と並んで越中を代表する大河。このころには天気予報どおり空もすっかり晴れ上がっている。


神通川の流れ。この川の流域は、高度成長期に、上流の神岡鉱山から出された廃液のカドミウムを原因とする「イタイイタイ病」で有名だった。そんなことを思いながら通過。


13時45分、掛尾町交差点を左折して、飛騨街道の国道41号線に入り、富山駅方面へ。金融機関のビル街を通り抜けて、
14時20分、城址公園前を右折。
14時30分、「いたち川」という名の小川にかかる月見橋のたもとにて小休止。非常に暑くなり自販機でペットボトルを買い、15分ほど濡れた雨具類を乾かす。両岸の桜並木は勢いよく葉を茂らせている。お花見のころはさぞかし見事だろう。


15時20分、これまで使った反射テープが剥がれてきたので、明後日の親不知トンネル通過対策に、百円ショップで反射テープと反射腕バンドを買う。
道は富山湾方面にカーブしていき、
16時20分、針原中町のコンビニで買物。食パン、サラミとチーズ。ついでに、「浜黒崎キャンプ場」への道を教えてもらう。
見渡す限り広々とした水田の中の道をひたすら歩く。






16時50分、北陸本線を越えて、
17時10分、「浜黒崎キャンプ場」に着く。松林の中のきれいなキャンプ場だ。
期間外のためか、キャンプ場は閉鎖していたが、門の横に中へ入る道があるので辿っていくと炊事棟とトイレがある。調べるといずれも使用可能であり、また最近テントを設営した形跡もある。管理人がいないので一言断ることもできないが、今夜一晩ここで泊まらせてもらうことにする。そんなわけで宿泊代0円。
今日で歩行距離が1500キロメートルを超える。旅の全行程が約3000キロの予定だから、これで半分を歩いたことになる。

経費  1,062円     累計  180,324円
歩数  43,032歩    累計  2,296,301歩
距離  33km       累計  1,505km

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徒歩の旅 第48日 砺波市  上和田緑地キャンプ場へ

2009年04月16日 | 2008年日本海側の旅
5月28日(水) 晴 (「金沢ユース」~富山県・砺波市 「上和田緑地キャンプ場」)



5時05分、出発。
卯辰山の坂を下って、浅野川にかかる天神橋を渡る。
梅の橋で浅野川を渡り返して東山の茶屋街方面へ。
木造の梅の橋。


梅の橋の上から見た浅野大橋。


浅野川河岸のひがし茶屋街は国の重要伝統的建造物群保存地区。


夜はさぞかし風情のあるところだろうと想像しつつ、早朝の古い町並みを後にする。


昨日義母に送ったきんつばの中田屋前を通過。


道路は『ツーリングマップル』の地図では国道159号線となっているが、実際の道路表示は359号線になっている。やや不安を抱きつつも、とりあえず行ってみることにする。
5時50分、山の上交差点で確認し、どうやら地図の方が間違っているようだと気づく。最近、新表示に変わったのだろうか。
6時45分、森本からはJR北陸本線と並行して行く。
7時05分、分かりづらい梅田の交差点を通過した時点で、やはり新道路表示になったと確信。道はそのまま国道8号線の金沢バイパスに合流する。
7時40分、コンビニにて買い物と食事。牛乳、おにぎり2個、揚げ餅、北国新聞。新聞は情報収集とテントの結露対策なり。
8時20分、津幡(つばた)の検問所前を通ってしばらく行くと、通学生徒が多くなり、
8時40分、国立石川工業高専前を通過。女子生徒がかなり多く目立つ。
9時15分、「道の駅倶利伽羅(くりから)源平の郷」に着き、30分ほど休憩。
この道の駅は、国土交通省と地元の津幡町とが提携して開設、宿泊施設も併設されている。


情報休憩棟には、源平倶利伽羅の合戦にちなんで鎧兜や屏風絵などが展示されている。
源平倶利伽羅の合戦は、1183年、加賀国・越中国の国境である倶利伽羅峠において源義仲軍と平教盛・平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。義仲軍は平家10万の大軍を打ち破った。
この合戦屏風の複製も展示してある。




「火牛の計」の場面。『源平盛衰記』等に、義仲軍が牛の角に火のついた松明をくくりつけて敵陣に放ち、平家軍を倶利伽羅谷に追い落とした、という記述がある。


倶利伽羅峠では、その後も、上杉謙信軍と一向一揆との戦いや、前田利家と佐々成政との攻防があった。


「歴史国道事業」というものがあることを知る。地域づくりに歴史的意義のある主要な街道を、歴史遺産・文化遺産として生かそうという事業。


10時05分、倶利伽羅バイパスへ。木曾義仲と平維盛とが戦った古戦場跡はこのやや南側にある。


10時50分、957メートルの倶利伽羅トンネルを抜けて、富山県小矢部市へ入る。これで12県目なり。


つづく源平トンネルは避けて、安楽寺西交差点から16号線の北陸道へ入る。
南谷から国道471号線に移り、坂を下って行く。
11時50分、石動(いするぎ)駅にて小休止。売店でガム買う。
12時10分、駅の少し先にあるドラッグスーパーで買い物。食パン、菓子パン、カロリーメイト、飴、テーピング、耳栓、ボールペン。買い物のうちで、テーピングは足裏の緩衝用、耳栓は道の駅における安眠用、ボールペンは記録用に使ってきたものがついにインク切れになったため(こんなことにも旅路の長さを感じる。歩き始めて、今日でもう48日である)。
小矢部川にかかる石動橋を渡り、右折。進路がちょっと定かではなかったが、砺波市方面と狙いをつけ、地図上の地方道72号線を行く。
13時、水牧(みずまき)交差点で、三協立山アルミの建物を確認して一安心。しかし空模様は怪しくなり、いつ雨が降り出すかと案じつつ水田の中を行く。
13時15分、能美自動車道の下をくぐって、
13時20分、砺波市に入る。


14時25分、JR城端(じょうはな)線油田(あぶらでん)駅手前のスーパーで、今夜・明朝の食事を多少なりとも豊かにしようと買い物。ミニトマト、唐揚げ、煮豆、マヨネーズ、ココア、レジ袋(5円)。
14時35分、油田駅の踏切を通過。


砺波東部小学校横で、学童の下校時交通安全の男性に「上和田緑地キャンプ場」への道を聞くと、とても親切に教えてくれる。説明ではだいぶアップダウンがあるようだ。
15時、北陸自動車道をくぐり、
15時25分、庄川にかかる砺波大橋をわたり、小さな坂を二つ越えて行く。
キャンプ場近くの用水の写真を撮る。水面は静まり返り、そこに濃淡さまざまな緑色の枝葉が覆いかぶさっている。
そろそろ梅雨入りだろうか。そんなことを予感させるような雰囲気である。


キャンプ場方面に向け左折したところの水田。ここの苗は随分長くなっている。


14時15分、なんとか雨にはつかまらずに「上和田緑地キャンプ場」に到着。
宿泊届を出しに行くと、管理のおばあさんが、「必ず無事に家に帰って親を安心させなければいけないよ」と何度も何度も言う。心して承る。
テントサイトは刈ったばかりの草の上で、ここも一人きりのキャンプである。幕営は無料。

経費  3,617円      累計  179,262円
歩数  59,234歩     累計  2,253,269歩
距離  44km        累計  1,472km

(本日の到達地点――富山県に入る)


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徒歩の旅 第47日 金沢 連泊(その2)

2009年04月14日 | 2008年日本海側の旅
5月27日 (火) 晴 (「金沢ユースホステル」連泊)  
その2

10時50分まで「兼六園」を見学。
その後、石川県観光物産館で、義母のお土産に中田屋のきんつばを買う。
11時15分、兼六郵便局にてお土産をエクスパックで発送。ついでにATMで2万円おろす。
12時、金沢市の台所と言われる「近江町市場」へ。


市場内の「こてつ」という店で、奮発して海鮮丼を食べる。美味しいし量も適当である。


午後は、先ず「泉鏡花記念館」に行く。




鏡花は、ずっとむかしに『高野聖』を読んだだけなので、旅から帰ったら、その他の作品も読んでみようと思った。「深川もの」といわれている若い頃の作品などにも興味をそそられた。
13時05分、コンビニで飲むヨーグルトを買う。
古い造りの店がある。


「尾山神社」。加賀藩初代藩主前田利家をまつる神社。異国風の三層楼門は和洋折衷の造り。


金沢中心街の街並み。




香林坊を越えて


犀川大橋方面に「室生犀星記念館」目指して歩いていると、
13時40分、前方からBさんがやって来る。ずいぶん早いと思ったら、今朝早く宿を出発して来たとのこと。ユースへの道を案内し、自分は記念館に行く。
犀川大橋のほとりの犀星の碑。


13時50分、「室生犀星記念館」へ。






こちらも充実している。とりわけ、高校で習った「いづことしなく しいいとせみの啼きけり はや蝉頃となりしか ……」という「蝉頃」の詩や、人口に膾炙している「小景異情」の詩などを、犀星の肉声による朗読で聞くことができ興味深かった。また、詩に限らず、小説、随筆、俳句と犀星の多作ぶりに驚いた。




犀川の流れ。上流方面。


下流方面。


帰り道の途中で見かけたレトロな看板。


再び「近江町市場」に立ち寄り買い物。トマト、バナナ。
15時30分、コンビニで、牛乳、食パンを買う。
浅野川ほとりの「滝の白糸像」を見る。「滝の白糸」は、泉鏡花の戯曲の女主人公。


浅野川を渡り卯辰山の坂を上って帰る。
卯辰山公園で鶴彬(つるあきら)の句碑を探すが、今日もなかなか見つからない。
「石川県大衆運動活動家顕彰碑」を見つける。


16時10分、やっと王兎ヶ丘で発見。「暁を抱いて 闇にゐる 蕾 鶴彬」と刻まれている。


(鶴彬は、29歳で壮絶な獄死をした川柳作家。
 万歳と 挙げた手を大陸に置いてきた
 手と足を もいだ丸太にしてかへし  
 胎内の動き知るころ 骨がつき
などの句を残す。前の2句は、「歓呼の声に送られて」出征した兵士のその後。最後の句は、出産の喜びを予感する頃に、その子供の父親つまり夫の戦死した遺骨が届くというもの。2009年は生誕100年。)

その後、金沢市街地を展望して写真を撮り、


16時20分、ユースに戻る。
夕食後、Bさんとお喋りしたりしてくつろぐ。彼は大隈半島の佐多岬から歩いているので旅程もちょうど半ば。薩摩半島の長崎鼻から歩いてきた僕の方もそろそろ半ばに近づく。これからも宗谷岬までお互いに元気で頑張りましょうと誓い合う。

経費  5,229円     累計  175,645円
歩数  25,484歩    累計に加えず
距離  ?km        累計に加えず


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徒歩の旅 第47日 金沢 連泊(その1)

2009年04月12日 | 2008年日本海側の旅
5月27日 (火) 晴 (「金沢ユースホステル」連泊)  
その1


今日は休養日で金沢市内の見物。
宿でゆっくり朝食をとり、
8時30分、出発。
8時40分、卯辰山にて「徳田秋聲文学碑」を見る。




卯辰山の急坂を下り、浅野川を渡る。浅野川沿いに「徳田秋聲記念館」もあるが、今回は素通り。機会があればまた。


9時10分、「兼六園」へ。入場料300円。
桂坂。


「兼六園」は、加賀前田藩の大名庭園。水戸の偕楽園、岡山の後楽園とならび日本三名園の一つ。


園内案内図。面積11.4ヘクタールは、東京ドームの2.5倍。




「霞ヶ池」。
「徽軫(ことじ)灯籠」。足が二股になっており、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に
似ているのでその名が付いたと言われている。


枝振りが見事な「唐崎松」。琵琶湖にある松の名所「唐崎」から種子を取り寄せて植えた。冬の風物詩「雪吊」で有名。




「蓬莱(ほうらい)島」。


池に映る茶室、「内橋亭」。








「霞ヶ池」は、面積5800平方メートル、深いところで水深1.5メートル、「兼六園」で一番大きな池。






噴水。池の水面から3.5メートルの高さまで吹き上がっている。19世紀中頃に作られ、現存するものとしては日本最古といわれている。ポンプなどは使用せず、霞ヶ池との水位の高低差だけを利用して、水を噴き上げさせている。


「瓢(ひさご)池」。右手に「海石塔」、左にやや暗くて見づらいが「翠滝」。池はやや水が濁っている。「海石塔」は加藤清正が朝鮮出兵の際に持ち帰ったという説がある塔。「翠滝」は、「霞が池」から「瓢池」に注ぎ落ちる滝。




「時雨亭」という茶室。


「時雨亭」の庭。






庭園の手入れ。皆さん菅笠をかぶっている。


曲水のカキツバタ。


花見橋。辰巳用水の曲水にかかる橋。




「根上松」。高く盛った盛土に植え、松の成長にあわせて土を取り除いて40本の根を露出させ、地上2メートルまで競りあがらせた。


「日本武尊の像」。明治13年10月に、明治政府開府の折に立てられた銅像。




「雁行橋」。11個の戸室石で構成され、石の配置が雁が空を飛ぶ逆V字隊形のように見える。




陽気もよく、緑と青空を映した池の水の美しさは比類ない。いくら見ていても飽きないほどだ。
ただ、途中から入ってきた台湾人旅行者のグループが、無秩序で、騒々しく、無礼であった。園内の囲いに足をかけたり、囲いの中に入って写真を撮ったりしているので注意すると、わざと笑って手を振ったりする女までいたのには呆れてしまった。そこまでするか。日本の歴史や伝統文化を見て理解するために来たのではないのか。
まぁ、日本人も外国の景勝地で狼藉を働いたりする者がいるのだから、ことさらに台湾人だからというわけではないが、兎に角恥知らずな振る舞いなり。
10時50分、最後にもう一度霞ヶ池を見て、「兼六園」を後にする。次回は雪の季節に来てみたいもの。


(その2へ続く)


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徒歩の旅 第46日 金沢市  金沢ユースへ

2009年04月10日 | 2008年日本海側の旅
5月26日(月) 晴 (「翠ヶ丘いこいの広場キャンプ場」~石川県・金沢市 「金沢ユースホステル」)



4時頃に目が覚めテントの外を見ると、下弦の月と明けの明星がきれいに輝いている。
5時40分、出発。
非常に快適な一晩を過ごした「翠ヶ丘キャンプ場」のテントサイト。


キャンプ場のそばに「松井秀喜ベースボールミュージアム」がありちょっと興味が引かれたが、早朝ゆえ通過。
6時05分、道林寺跡地の弁慶謝罪の地を見ていく。


安宅関の後日談。「主を金剛杖で打った罪」を謝罪する弁慶に、「機知の働きは天の加護」と忠誠心をねぎらう義経の像、とある。ただ、歌舞伎の団十郎などから考えられる弁慶像からすると、ちょっと貧弱な弁慶に見えてしまう。  


6時55分、白山市に入る。


その後再び左右に工業団地が続く中を行く。
7時10分、北陸本線小舞子駅の先に、キャンプ場の表示があり、左折。200メートルほど行くと広々とした「小舞子キャンプ場」があり、さらに海岸左側にもテントサイトがある。
7時15分~35分、浜辺のキャンプ場で、結露で濡れたテントを干したり、
ハマナスの写真を撮ったり、


白砂青松100選の小舞子海水浴場の海岸を眺めたりして過ごす。


7時45分~55分、美川大橋から、手取川にかかる鉄橋を行くJR北陸本線の写真を撮る。






8時、美川駅を通過。
8時25分、水田地帯を行く北陸本線。




8時55分、水澄(みすみ)町交差点にて金沢西バイパスの国道8号線に合流。
9時10分、コンビニにて食事。牛乳、おにぎり2個。
一気に交通量の増えた広い通りを行く。
9時55分に宮丸交差点、
10時25分に徳丸南交差点と、所々に水田を見ながら金沢の郊外を通過。
11時00分、三日市交差点で右折し、「兼六園」方面に向かって国道157号線へ。
11時55分、金沢市に入る。


12時35分、荷を沢山つけた自転車に乗った男性と出会い、40分ほど話をする。大阪に帰る途中という79歳の人で、元大阪大学の山岳部にいたとかで小柄ながらとにかく元気な人。とても年相応には見えない。今でも執筆したり、特許申請したりいろいろと忙しそうに生きている。お互いに写真を撮りあって、頑張ろうで別れる。
13時15分、犀川にかかる犀川大橋を渡り金沢市街地に。


13時20分、コンビニで買い物。牛乳、菓子パン、大福。
13時30分、香林坊を右折したところの「中央公園」で、ユースの時間調整を兼ねて休憩。ベンチで先ほど買ってきたものを食べる。
爽やかな風が吹き渡り、太陽の光を浴びて、若葉を繁らせた大きな木々の枝が揺れている。夏近しという風情である。


14時10分、「金沢城公園」の方に回ると、花壇には色とりどりの花が咲いている。


加賀前田藩14代の居城であった金沢城は、大きな石垣が積まれているが、本丸などは度重なる火災で焼失。


14時10分、広坂周辺の図。


昔を偲ばせる石垣。


今では石川門などが現存しているのみ。


「金沢城公園」の一角にある、加賀百万石の祖、前田利家像。


休憩後、ユースを目指して、「金沢城公園」と「兼六園」との間の道を、浅野川方面に行く。
途中のコンビニで今晩の食料を買う。弁当、おにぎり、トマトジュース。
天神橋で浅野川を渡ると、卯辰山上り口の案内図。


卯辰山をくねくねとゆるく登って行く。「卯辰山公園」で反戦川柳作家鶴彬(つるあきら)の川柳碑を探したが見つからず、明日の課題。
16時少し前に「金沢ユースホステル」に到着する。


小浜ロッジ以来、6日ぶりの風呂でさっぱりする。この間、暑い日が続き、また雨にも降られた。キャンプ場などで体を拭いたり、毎日着替えたりはしたものの、やはりなんと言っても風呂はうれしい。
ユースでおかしかったのは、自宅にメールをしようとしたが「圏外」でつながらないこと。NТТの携帯電話はユースの玄関先に出ないとつながらない。でもauは部屋からでもつながるそうだ。
同室の男性は、若い頃からSLの写真を撮るのが趣味とかで、沢山のSLが写ったアルバムを見せてくれる。今は、各地の公園などに展示されているSLの写真を撮って回っており。、明日も車で撮りに行くとのこと。
こちらは明日は休養日の予定なり。

経費  8,285円     累計  170,416円
歩数  47,312歩    累計  2,194,035歩
距離  32km       累計  1,428km

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徒歩の旅 第45日 能美市  翠ヶ丘いこいの広場キャンプ場へ

2009年04月08日 | 2008年日本海側の旅
5月25日(日) 雨のち曇 (「瀬越キャンプ場」~石川県・能美市 「翠ヶ丘いこいの広場キャンプ場」)



昨日からの雨は夜通しテントを叩き続け、4時頃に一時止むも、食事をしていると再び降り出す。昨日余計に歩いたので、今日の距離は30キロ足らずの予定。テントの中で出発準備を終え、もう一度寝直しをする。
8時20分、いくらか小降りになったので出発。テントを撤収しているとき、ボーイスカウトのリーダーに、熱いコーヒーをご馳走になり、激励される。
8時25分、キャンプ場を管理している「竹の浦館」を通過。


8時40分、上木を通ると、確かにキャンプ場は廃止されており看板だけが残されている。


通りがかった散歩中の男性から「上木キャンプ場」廃止の事情を聞く。指定地外でキャンプしたり、失火によって周囲の防風林が焼けたりと、無法状態になり危険なのでついに廃止されてしまったとのこと。「瀬越キャンプ場」の宣伝をしてくれ、と言われる。

(以下、たのまれた「瀬越キャンプ場」の宣伝をします。
 所在地     石川県加賀市大聖寺瀬越町東浜上木境1番地1
 交通アクセス 北陸自動車道 加賀IC から 車 で 10 分
 申込み    竹の浦館へ
 竹の浦館   〒922-0671石川県加賀市大聖寺瀬越町イ19番地1
          TEL 0761-73-8812
 幕営料      300円)

その後、北陸自動車道をくぐるころから霧が濃くなる。やがて雨が本降りになり雨具を着用。
9時15分、畑町で雨宿りがてら15分ほど小休止。
小野坂トンネルを抜けたところでさらに雨が強くなって来、
10時、開発神社で再び10分ほど雨宿り。
10時40分、ようやく雨が上がるが、いつ降り出すかも知れずと考え、雨具は着たままで行く。
10時50分、小塩辻を通過。広々とした田園地帯には、コスモスに似た黄色い花(オオキンケイギクか?)が路傍に沢山咲いている。


11時10分、宮地廃寺塔心礎石跡を通過。


解説によると、7世紀後半、白鳳時代のものと推定されるとか。


11時30分、篠原古戦場跡を通過。源平合戦において、木曽義仲と戦った平家軍武将の斉藤実盛が劇的な最期をとげた所。
『奥の細道』の「むざんなや 甲(かぶと)の下の きりぎりす」の句は、この戦いに題材をとったもの。
すっかり雨が上がり、篠原古戦場跡にあるトイレ横で雨具を脱いでいると、清掃員が来てしばらく話をする。75歳で、この地域のトイレを数箇所廻って清掃するのが仕事という元気なお爺さん。道路状況とコンビニの場所を教えてもらい、激励される。
12時10分、コンビニにて、今夜と明朝の食料などを購入。牛乳、野菜ジュース、食パン、ミルクフランスパン、ハム、ピーナッツ。野菜ジュースを飲み、ミルクフランスパンを食べて出発。
北陸自動車道を左に見つつ田園地帯を行く。


12時30分、海岸沿いの「小松加賀自転車道路」を行くべく、高速道路をまたぐ歩道橋の上。前方と、


後方を望む。


しかしながら、「小松加賀自転車道路」は途中で崩壊していて通行止め。元の道に戻って、再び北陸自動車道と並行し、両側が水田の一直線の地方道20号線を行く。


13時、小松市に入り、一時青空が広がるが、ふたたび雲に覆われる。


しばらく歩くと、左右の景観は田園地帯から工業団地に変わる。
14時10分、安宅関跡。ちょっと遠回りになるので素通りしようかとも思ったが、やはり見ていくことにする。


公園入口。


義経一行が平泉へ落ち延びる途中、安宅関守富樫左衛門泰家に見とがめられ、白紙の勧進帳を読む弁慶像。


歌舞伎十八番『勧進帳』で有名。




一行の中に変装した義経がいると言われ、主人の義経を打ち据える弁慶。弁慶の忠誠心に心打たれ、義経一行と知りながら関所を通す関守富樫。
義経の勇気、弁慶の智略、富樫の仁義をたたえ、「勇仁智」と掲げられた像が立てられている。


安宅の関を通り抜けた弁慶が、無事を喜んで松を逆さまに植えたという「弁慶逆植之松」。


安宅関址。


15時、再びもとの道路に戻り、城南橋を渡る。
小島交差点のコンビニで、ジュースを買いがてら、店員に「小舞子キャンプ場」への行き方を教えてもらう。
言われたとおりに行くと、
15時30分、能美市に入る。


15時45分、さらに行くと、「翠ヶ丘いこいの広場キャンプ場」がある。
この先の「小舞子キャンプ場」へ行くよりも、明るいうちに濡れたテント類を乾燥させたいと考え、こちらに泊まることに決定。テント場代500円。
テントサイトは松林の中で、風が吹き抜けて快適である。砂地に木の土台があり、その上にテントを設営する。他に利用者は誰も居らず、濡れたテント・雨具を干したり、着替えを洗ったり、食事を作ったり。
夜、Bさんに電話をすると、今あわら市に居り、明日は小松、明後日は金沢の予定とのこと。僕の方は金沢ユースで連泊するつもりなので再会できるといいが。

経費  1523円     累計  162131円
歩数  42785歩    累計  2146723歩
距離  26km      累計  1396km

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徒歩の旅 第44日 加賀市  瀬越キャンプ場へ

2009年04月06日 | 2008年日本海側の旅
5月24日(土) 曇のち雨 (「鮎川園地キャンプ場」~石川県・加賀市 「瀬越キャンプ場」)



4時35分、予報によれば雨が接近しているとのことで早出を心がけ、薄暗い中を出発。キャンプ場では左手の炊事棟の向こう側の草地で幕営。


昨日に続き国道305号を北上する。風はなく、ややむし暑い。
4時45分、大小の岩が浮かぶ海を見つつ行く。


沖にはもう漁船が。


このあたりは、砂岩や礫岩ではなく、柱状節理をなす安山岩。


5時15分、海辺の水田の向こうに亀島が見えてくる。


亀島も柱状節理の安山岩の島。


5時35分、海岸線から離れ野菜畑の目立つ道を行く。二枚田川を渡り松陰町を通過。
6時25分、柳原交差点のコンビニで買い物と食事。牛乳、おにぎり2個、草大福、チョコスティック。土曜日なので、レジャー客で早朝のコンビニもかなり混雑している。牛乳と草大福のみ食べる。
7時頃から、広いラッキョウ畑を右手に見ながら行く。スプリンクラーで水を撒いている。三国地方の「花らっきょう」は全国生産量の9割を占めているそうである。


道路の左側は「三里浜緩衝緑地」の樹林地帯が続いている。道路は広々として、車も少なく歩きやすい。
7時15分、坂井市に入る。


7時50分、「道の駅みくに」を通過。まだ店は開いておらず、忙しそうに立ち働く従業員のみ。駐車場の車もまだ少ない。


8時20分、九頭竜川にかかる新保橋を渡る。


九頭竜川は、福井県を代表する大河である。


8時25分、橋を渡り汐見公園にて小休止。
東尋坊を見に行くか、それとも雨の予報も出ているし行程も長いことだからこのまま先を急ぐか、としばし思案。結局、どこかで雨には降られることになるのだからと考え、東尋坊を廻っていくことにする。
九頭竜川に沿って河口方面へ。
堤防のフェンスの向こう側には、電球を沢山吊るしたイカ釣り船などが多数停泊している。


8時50分、えちぜん鉄道三国芦原線の三国港駅を通過。


9時05分、彼方に東尋坊タワーが見える。
9時10分、海に沿った松並木の道をたどる。


9時15分、荒磯遊歩道。


「文学碑の小径」を行くことにする。


東尋坊周辺案内図。


左手が断崖になっている遊歩道の途中には、三国ゆかりの著名な文学者の碑などがいくつも立っている。
高見順の碑。
「おれは荒磯の生まれなのだ  
 おれの生まれた冬の朝
 黒い日本海ははげしく荒れてゐたのだ
 怒涛に雪が横なぐりに吹きつけてゐたのだ
 おれが死ぬときもきっと
 どんどどんととどろく波音が
 おれの誕生のときと同じように
 おれの枕もとを訪れてくるのだ」


石原八束の句碑。
「彼の世より 光をひいて 天の河」


三好達治の碑。
「春の岬 旅のをはりの鴎とり うきつゝとほく なりにけるかも」


高浜虚子らの句碑。
「日本海 秋潮となる 頃淋し」(右・伊藤柏翠)
「野菊むら 東尋坊に 咲きみだれ」(中・高浜虚子)
「ゆきぐにの深き庇や 寝待月」(左・森田愛子)


9時30分、柱状節理の岩を見下ろすと、まさに吸い込まれるかの気分である。








さすがに「名所」で、近くには慰霊碑や救いの電話もある。
東尋坊タワーの周辺には、お土産屋や食堂が並んでいる。
10時05分、松並木を行き、雄島を眺めつつ食事休憩。おにぎりと草大福。
その後、さらに松林の道を通り、越前松島や水族館を経て、
11時25分、加戸にてもとの305号線に合流。
交差点にあった「ワンダーランド遊びの駅」は、土曜日の昼間だというのにガラガラで、遊具がしょんぼり。


11時35分、隣の「大堤」は睡蓮の盛り。


真っ白い清楚な花がいくつも水面に浮いている。


11時40分、あわら市に入る。


11時45分、コンビニで買い物。飲むヨーグルト、泊まり用の食パン。
買い物をしている最中に小雨が降り出して来、軒下で雨宿りをするも、止みそうにないので、雨具を着けて歩き出す。
12時30分、「きららの丘」というファーマーズ・マーケットでトマトを買いながら雨宿り。
13時20分、雨の中、北潟湖対岸の「芦原青年の家」でキャンプを願い出るが、職員にここは教育施設だから部外者は駄目だとけんもほろろに断られる。一人用の小さいテントなので端の方のスペースにでも一晩だけ張らせてもらえないか、との願いも聞いてもらえず。あげくに、泊まりたければあわら市内にいくらでも温泉があるなどと言われる。
諦めて、さらに強くなってきた雨の中をまた歩き始める。確かにこちらの事前調べの甘さが原因であり、教育施設かもしれないが、それにしてもなぁ。ここは蓮如上人が布教活動をした土地ではないか。慈悲の心は無いのかなぁ。一昨日通った阿曽の「区民の指標」では「○ 未知の人に対しても、広く美しい人情を示しましょう。」とあったが、ここはそうじゃないのかなぁ。「勧進帳」の安宅関だってこの近くなのになぁ……などと未練がましくあれこれと考えながら、広い北潟湖のほとりの水田が続く道を雨に打たれながら歩く。
代替案として、「上木(うわぎ)キャンプ場」まであと10km、2時間半の歩行を覚悟。致し方ない。
浜坂の開田橋で北潟湖を渡る。
14時40分、蓮如上人の布教拠点であった吉崎寺で10分間の雨宿り休憩。
やや小降りになったので出発。
14時55分、悪路の福井県に別れを告げて、石川県に入る。11県目。
すぐに塩屋大橋で、大聖寺川を渡る。
石川県に入ったとたんに、歩道の先が読めるようになり歩きやすくなったと感じる。
15時05分、「瀬越(せごし)キャンプ場」という看板があり、一応念のため偵察すると、入口に松くい虫の駆除のため4月から6月までは立ち入り禁止、との立て札がある。
これでは無理と先を急ぐと、小雨の中をおじいさんが一人傘もささずに歩いている。「上木キャンプ場」を尋ねると、キャンプ場は去年で廃止、今は壊してしまったから水も出ないとのこと。困ったなと思っていると、先ほどのキャンプ場を管理している人に相談してみるとよいと教えてくれる。再び戻って管理をしている「竹の浦館」で尋ねると、駆除は来週からでまだ宿泊可能とのこと。有難い。キャンプ代300円。
15時40分、親切な奥さんに言われたとおりにキャンプ場の奥に行くと、訓練中だったボーイスカウトの少年たちと一緒になる。彼らの活動の邪魔にならないようにと考え、リーダーに挨拶をして、
15時50分、雨の中、テント設営完了。
本日は12時間行動なり。
それにしても、雨の中を歩いていたあのおじいさんがいなかったら、ちょっと厄介なことになっていただろうと考えると、なんとも不思議で幸運なことだったと思う。「捨てる神あれば拾う神あり」である。

経費  1,305円     累計  160,608円
歩数  64,075歩    累計  2,103,938歩
距離  43km       累計  1,370km

(本日の到達地点――石川県に入る)


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徒歩の旅 第43日 福井市  鮎川園地キャンプ場へ

2009年04月04日 | 2008年日本海側の旅
5月23日(金)  晴のち曇 (「道の駅河野」~福井市 「鮎川園地キャンプ場」)



5時、出発。一晩お世話になった道の駅の休憩所を後に。


時折長距離トラックが往来する、広い国道8号線の敦賀街道を下っていく。
5時30分、桜橋南交差点にて、武生方面に行く8号線と別れ、305号線に入る。
今日は若狭湾に沿って越前海岸を行く予定。まずは静かな朝の田園地帯を、河野川に沿ってさらに下っていく。8号線に別れたとたんに、大型トラックからの解放感。
5時35分、河野町に入る。


途中、いくつか満州開拓の記念碑を見る。


碑面には、「福井県と河野村の要請を受け入れ、満州開拓団となり、満州に河野村分村を実現せんとして勇躍渡満し……が、敗戦となり……幾多の犠牲者を出して、九死に一生を得て涙乍に引揚げて来た……」とある。戦後生まれのわれわれの想像を絶する苦しみがあったのだろう。


だが同時に、事態を中国農民の側から見たらどうなのだろうか、とも考えざるをえない。
6時15分、塩見トンネルを抜けて、八幡橋で海に出る。


ここは越前加賀海岸国定公園。今日はこの後ずっと、「漁火街道」と名づけられた305線を北上していく。


6時25分、河野漁港。


さらに北前舟主の館・右近家の前を通っていく。
北前船は、おもに蝦夷地と大坂を結ぶ西廻航路を往復し、各地の特産物を輸送した。


真っ青な日本海がはるか彼方まで見渡せる。


小船に乗った漁師が、岩の間の澄んだ海中を覗きながら魚介を採っている。


おだやかな海を眺めつつ歩く。


6時55分、甲楽城(かぶらき)漁港通過。


7時、下長谷洞窟史跡。


南北朝時代に、後醍醐天皇の王子恒良親王が一時身を隠した所と書かれてある。


7時30分、長島を通過。海岸通りに食事処の店や民宿などがずらっと並んでいる。


海上遠く彼方には定置網の仕掛けが太陽に輝いて見える。


小岩が点在する澄んだ海を眺めながら行く。


8時、越前町に入る。


9時15分~35分、スーパーで買い物と食事休憩。牛乳、食パン、のり巻き、おはぎ、トマト、きゅうり、バタピー。
スーパー前のベンチで、牛乳、のり巻き、おはぎで腹ごしらえ。
9時45分、長須浜海水浴場通過。


10時、厨郵便局で昨日の「難関突破お守り」を家に送る。
10時45分、国道365号線との交差点先の恵比寿宮で、越前・若狭海岸全景の説明写真などを見ながら休憩。


越前海岸の岩は、おもに砂岩や礫岩で構成されている。


深く澄んだ淵の色が神秘的なり。


岩の先に操業中の漁船を見つつ、


複雑な岩場の海岸線を辿る。


玉川トンネル(952メートル)、その他の短いトンネルをいくつか抜けて行く。


12時05分、越前海岸が「く」の字に折れ曲がった地点の越前岬に到着。
左右海水浴場を通過。


断崖の先端の白い岩は、「鳥糞岩」という実に即物的な名前がつけられている。海鳥の糞で白くなっているとのこと。「鳥糞岩」も礫岩から成っている。


さらにトンネルをくぐって「呼鳥門(こちょうもん)」方面へ行くと歌碑があり、そばには「このボタンを押してください。五木ひろしの『越前有情』の歌が流れます。」というプレート。何気なく押してみると、あたり一面に響き渡る大音量で歌が流れ出す。びっくりしたが止めようもなく、とうとう4番の歌詞までたっぷり轟き渡ってようやく歌は終わった。ふぅ~。


ハマナスの花壇を見、


「呼鳥門」や


海と岩場の写真を撮ったりして、


暫時休憩。


12時30分、福井市に入る。


13時10分、「越前水仙の里公園」で小休止。
14時、越廼(こしの)海岸。海産物を吊るして干物を作っている店が何軒もある。


14時20分、大味漁港。今日の行程もおおよそ目鼻がつき気が楽になったが、足も痛い。
14時50分、「弁慶の洗濯岩」で休憩、食事。コロッケ、きゅうりなどを食べる。


「弁慶の洗濯岩」は砂岩や泥岩でできており、源頼朝からの追討の身になった義経・弁慶一行が、ここで衣類を洗い長旅の疲れを癒して安宅方面に向かったとの説明がある。午後の太陽が照りつけ非常にまぶしい。


15時15分、「神の足跡」という岸壁を見たりしつつ、
16時10分、鮎川園地のキャンプ場到着。キャンプ場を管理しているレストランで届けを出す時に、暑さに耐えかねてついにアイスクリームを買ってしまう。
テント場は快適な草むらで、他には誰もいない。設営後、衣類の洗濯をして、のんびり食事。幕営料600円。

経費  2,443円     累計  159,303円
歩数  68,650歩    累計  2,039,863歩(二百万歩を越える)
距離  46km       累計  1,327km

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徒歩の旅 第42日 敦賀市  道の駅河野へ

2009年04月02日 | 2008年日本海側の旅
5月22日(木) 快晴のち曇 (「野坂いこいの森キャンプ場」~南越前町 「道の駅河野」)



キャンプ場は、夜は暖く適度に風もあって、左側のベンチ横の草の上に張ったがテントの結露なし。


6時、出発。
朝日がさす中を、昨日の坂を下り、粟野駅を通過して水田地帯を敦賀市街方面へ向かう。


7時10分、コンビニで買い物と食事。牛乳、おにぎり。
7時25分、西野神交差点で左折、日本海さかな街の角を右折、「松原公園」方面へ。途中で、大勢の敦賀高校生徒の登校に遭遇。
8時05分、「松原公園」に着く。


静岡の「三保の松原」、秋田の「風の松原」と並ぶ、日本三大松原の一つ「気比の松原」。


ここには17000本の松がある。


海も空も青く、砂白く、松は緑。


今日の行程も30キロほどの予定なので、ゆとりの気分である。砂浜のベンチに腰掛けて景色を堪能。
今日は、右手方面へ敦賀湾を回り込んでいく。


9時、公園を出て市街地へ。松原公園の文字は、初代満鉄総裁の後藤新平のもの。


9時05分、敦賀松栄局のATMで2万円を下ろし、
敦賀港を眺めつつ氣比神宮に向かう。


9時30分、「氣比神宮」へ。


「氣比神宮」は、「北陸道総鎮守 越前国一之宮」で、702年に建立されたといわれている。


高さ11メートルの大鳥居は重要文化財。


境内には芭蕉の像があり、台座には『奥の細道』にある「月清し遊行のもてる砂の上」の句が刻まれてある。


さらに、「芭蕉翁月五句」の句碑がある。境内の様子が反射して見づらいが、右から、
国々の八景更に気比の月
月清し遊行のもてる砂の上
ふるき名の角鹿や恋し秋の月   
月いつく鐘は沈る海の底
名月や北国日和定なき(この句も『奥の細道』にある。


こちらは中鳥居と拝殿。


境内で、長命水を教えてもらった地元の老婦人に少し話を伺う。


彼女は、子供の頃この近くに住んでおり、境内は遊び場だったと。空襲で家が焼かれ引っ越したが、近くの病院に来る折には、なつかしくて必ず寄っていくのだ、とのこと。
長命水をペットボトルにつめて出発。
10時15分、金崎宮へ。


このあたりは、南北朝時代や戦国時代の古戦場である。「金ヶ崎城址」についての案内板。


「金ヶ崎の退き口」から、


金崎宮へ。


帰りに、7月の息子の就職試験のため、小豆袋の両端を縛った形になぞらえた、お市の方に由来する「難関突破お守り」を買う。
戻る途中にも芭蕉の句碑があり、「月いつこ鐘は沈るうみのそこ」と刻まれている。


10時35分、曙交差点から、敦賀街道と名を変えた国道8号線に入りゆるく上っていく。
金ヶ崎トンネル(291メートル)を抜け、鞠山トンネル(623メートル)の中で、東京から来たという徒歩の旅人に会うが、場所柄ゆっくり話もできず、エール交換で別れる。
11時、新港口のバイパス合流点。以後敦賀湾に沿って北上する。
11時35分、赤崎海水浴場付近。晴れた空の下、おだやかな海である。


暑くなってきたので、自販機でジュースを買う。
12時、江良海水浴場で食事休憩。シーズン中は賑わうのだろうが、今は誰もいない。気温は25℃になっている。
12時45分、短い黒崎トンネル(97メートル)を抜ける。
13時、阿曽(あぞ)の町を通過。「区民の指標」という看板がある。読んでみると、今ではだいぶ失われてしまった、情緒豊かな美しい伝統のようなものを感じさせられる。もちろん上から押し付けられるのはゴメンだが。


13時30分~14時20分、大比田のコンビニのそばで、国道を南下してきた小柄なホームレスの男性と出会い話。この先の福井県と石川県の道の駅の情報などを教えてもらい、お礼にコンビニで、菓子パン2個とあんずジュースをプレゼントする。かわりに「今こそ出発点」という京都大仙院の尾関宗園師の言葉のコピーをいただく。孔子のような髭をはやしているので理由を尋ねると、街で若い連中に馬鹿にされないため、と。少し話でもしていこうということになり、コンビニの車止めに座って彼の話を聞く。59歳で、バブル崩壊時に東京で自己破産、離婚して、自殺しようと思ったが死に切れなかった、と言う。主にバス停で寝て、歩き旅をしながら自販機の下の硬貨を拾って生活している、とか。先の曲がった針金を見せてくれ、1日400箇所を目途に、これで拾うのだと言う。いつか娘に会うのが夢だということなど、彼の人生についての話を聞く。どこまで本当かなぁ、という気もしたが、そういう人生もあるのかとも思う。


コンビニで自分用にも、牛乳、食パンを買う。
14時50分、手前の敦賀半島と奥の丹後半島に挟まれた若狭湾をを見ながら行く。


15時25分、敦賀トンネルの中でちょっと困難な状況に陥る。歩道のないトンネルの右側を通行中に、対向車の大型トラックが来、すれちがおうと思ったところへ、今度は後方からも大型トラックが来て、三者が狭いトンネル内で横一線に並ぶような形になって立ち往生してしまう。壁面に張り付くも効果なく、結局、後方から来たトラックがバックして回避するが、こちらとしては気が気でなかった。
15時25分、敦賀トンネル(735メートル)を抜けると、南越前町へ入る。


その後、第5から第2まで4つの危険な大谷トンネルをヒヤヒヤしながら抜けて、
16時10分、「道の駅河野」に到着。今日はここで泊まらせてもらう。
休憩所で、大阪から来たドライバーの男性が話しかけてくる。徒歩日本縦断の計画について興味を持ったらしく、あれこれと質問され、いろいろと講釈される。
夕方は雲が出てきてしまい、せっかくの夕陽の名所なのに残念。
ウォーキングシューズの底を見ると、右足の外側が大分磨り減ってきている。やはり歩き方の問題だな、きっと。


夜間、遅くまで点いていたテレビの音が騒々しくて眠りづらく、どこかで耳栓を買おうと思いつついつしか寝入ってしまう。

経費  1,246円     累計  156,860円
歩数  47,798歩    累計  1,971,213歩
距離  32km       累計  1,281km

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