そぞろ神の物につきて―日本列島徒歩の旅の記録

  (2008年 日本海側)
  (2011年 四国八十八ヶ所)
  (2014・15年 太平洋側)

2015年 徒歩の旅 第13日  相馬市・「道の駅そうま」へ

2016年04月08日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年4月13日(月) 曇のち雨 (飯舘村・もりの駅まごころ
                            ~相馬市・「道の駅そうま」)




4時45分、午後は雨との予報で、早出した。曇で暖かく、風もない。夜間のテント結露もほとんどなし。


暗い中を、ダウンジャケットを着用しヘッドランプを頼りに、県道12号線を東進すると、ここにもフレコンバッグのかたまり。今日は、その後もあちらこちらでフレコンバッグの山を見ることになった。また、5~6個おかれてある民家もいくらもあった。




5時40分、「飯舘村道路元標」と、


村の変遷が刻まれた石碑があった。


1時間で明るくなってきたが、村内には人の気配が全くなく、静寂そのもの。

5時50分、草野の交差点で、このまま南相馬に向かって12号線(ツーリングマップルの緑線)を行くか、県道31号線の少し先の大倉鹿島線という県道268号線(黄色線)に入るか、思案のしどころ。これまでも黄色の線にはずいぶんと苦労させられてきたので迷うが、結局黄色を選択し、はやま湖に向けて下っていく。


6時10分、ここにも放射能汚染物質が入った大量のフレコンバッグ。


6時40分、オレンジ色のベストを着て軽自動車に乗った2人連れの女性たちに出会い、いくらか様子を聞いた。それによると、飯舘村は放射能のため全村避難をしており、村には誰もいない。「人に会わなかったでしょう」といわれた。住宅が泥棒や野生動物にやられないように、定期的にパトロールしている、と。地震については、飯舘村は地盤が固いのでほとんど被害はなかった。一人の女性は、うちなんか神棚のお札が倒れただけだった、と言っていた。ところが、その後に思いもよらない放射能の被害をこうむってしまった。原発から遠いし、安全神話にとらわれていて安心していた。もう5年目に入っているのに全く先が見えない、と嘆いていた。月並みで気休めにもならないだろうが、頑張ってと伝えた。彼女たちから、歩きだから、この先、猪とサルに気をつけるようにアドバイスをもらった。

細くて急なジグザグの山道を行く。一度、犬の鳴き声らしきものが聞こえたが、それ以外はなし。ごくまれに自動車が過ぎる。


7時10分、木戸木のトチ。




カタクリの花が、早朝なのでまだ眠っている。


さらにジグザグの大下りでダム湖へ向かった。




8時40分、はやま湖に架かる大倉大橋。


橋の手前の広場で小休止。




はやま湖は波静か。




9時15分、真野川ダム。




9時20分、南相馬市に入る。ここは避難地域ではないので、高齢者たちがグランドゴルフをしている姿もあった。


ダム湖を迂回して、芽吹きの鮮やかな沢を下る。




10時40分、栃窪簡易郵便局。


先ほどまで時おり薄日がさしていた空に、急速に暗い雲が増え、風も冷たくなって、雨の近いことを知らせている。

11時30分、相馬市に入る。


さらにひたすら下って、高速道路の下をくぐると、日立木駅への道が分岐。

11時15分、そのまま進んで日立木駅で小休止。宿の都合上、仙台で3泊の予定なので、明日の夜に仙台へどう行こうかと考えていたが、常磐線が原ノ町駅まで通じていることを確認し一安心。


さらに東進し、

12時20分、国道6号線沿いの「道の駅そうま」に到着。雨はうまく回避できた。




あとは道の駅で食事をし、営業が終わるまで待って、どこかにテントを張らせてもらうだけ。

時間がたっぷりあるので、先ず、震災伝承コーナーの展示などを見た。
















ビデオでは、あの当時の様子をまざまざと知らされた。

















その後は、畳敷きの休憩室で、仮眠したり、持って行ったシャックルトンの『エンデュアランス号漂流記』を読んだりして過ごした。

昼過ぎに雨が降り出したが、予報の言うような強い雨にはならず、夕刻ではまだ弱雨。

17時45分に、休憩室が閉められたので、情報コーナー裏の庇の下にテントを張った。宿泊、無料。


2015年 第13日(佐多岬より75日)

歩数  49411歩  (佐多岬より累計  3905823歩)
距離  32km     (佐多岬より累計  2540.5km)
費用  1337円   (佐多岬より累計  371458円)