そぞろ神の物につきて―日本列島徒歩の旅の記録

  (2008年 日本海側)
  (2011年 四国八十八ヶ所)
  (2014・15年 太平洋側)

2015年 徒歩の旅 第62日  羅臼町・「旅人の宿 とおまわり」へ

2016年05月31日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年6月1日(月) 晴 (標津町・民宿 モシリパ
                           ~羅臼町・「旅人の宿 とおまわり」)




3時過ぎにトイレにたったら、東天が明るくなってきたので、デジカメを取りに戻って写真を撮る。

3時15分、国後島。


3時25分、崎無異川。


3時45分、国後島から日の出。


3時47分、いっぺんに明るくなった。


朝日を浴びた民宿モシリパ。


その後、部屋に戻り、1時間ほど寝た。

7時30分、朝食時に、同宿者2人のうちの一人、郵便局の集配労働者の若者と話。当方、34年間ヒラの集配労働者だった故、営業活動のばかばかしさなど話がはずんだ。やはりヒラがいいということで意見が一致。郵便局の仕事ばかりにふりまわされないように、理不尽なことが多いがへこたれないようにと、柄にもなく先輩面してエールを送った。

宿の朝食のハラス焼きもとても美味かった。

8時、オーナー夫妻と同宿者2人に見送られて出発。奥さんから、途中で食べるようにと、行者ニンニクの生姜付けのおにぎりを貰った。ほとんど雲なし。国道335号線(国後国道)を北上する。

8時15分、元崎無異川、上流側。


少し遡行すると「元崎無異川さけ・ますふ化学場」がある(はず)。


8時25分、樹林の隙間から、国後島。




左右の樹林の間、前方に雪を頂いた知床連山。




8時45分、ここから国後島までの距離は20㎞余り。もしも歩いて行かれれば、6時間足らずだ。




8時55分、知床が近づく。


9時5分、植別川にかかる植別橋。羅臼町に入る。


植別川、上流方面。


9時10分、羅臼岳。


9時15分、峯浜の集落で、浜で羅臼岳の写真を撮っていたら、漁師のお爺さんがコーヒーを飲んでいきな、と言って冷たい缶コーヒーをごちそうしてくれた。今の季節は、定置網の準備で忙しいのだそうだ。これから秋に向けて最盛期になる、と。


少し行ったら、今度はお婆さんからお茶のペットボトルの差し入れがあり、有難くいただいた。

9時45分、陸志別川。上流側。


下流側。


陸志別橋。


9時50分、廃校になった植別小学校のあとに、羅臼町郷土資料館があり立ち寄る。入場は無料。










資料はきわめて充実していた。素晴らしい。

羅臼地方の、先史時代から近代までの出土物や、産業、アイヌ文化、生物等々。










かつてのニシン漁様子。








アイヌの生活。






松前藩家老の蠣崎波響が描いた『蝦酋列像』の12人のアイヌ酋長たち。彼らは寛政元年(1789年)の『クナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)で、松前藩に協力して蜂起したアイヌ人を裏切った連中。
















‥‥その他、載せきれず。

松浦武四郎と地図。




さらに、ヒカリゴケを見ることが出来た。知床ではヒカリゴケは絶滅寸前なので、見学などは立ち入り禁止にされおり、これは栽培されたもの(上半分はシェード)。




そして、懐かしい映画『地の涯に生きるもの』のコーナー。あれは中学1年のころだったか。当時は学校で映画を見に行くことが時々あって、その時に見た記憶がある。森繁久彌が扮した主人公が印象的だった。あれから約60年である。






しかし、このままでは、これらの貴重な資料に接することができる人間は、極めて限られているだろう。実にもったいない。「宝の持ち腐れ」と言っては悪いが、なんとかもっと多くの人々が見ることのできる機会を作ることが出来ないものか。あっという間の1時間だった。

10時50分、知床連山がどんどん近づいてくる。


両側が笹と樹林の一本道を羅臼峠に向けて徐々に上っていく。晴れて暑く、木陰もなく、高度を上げるとまるで太陽に接近していくようだ。


11時20分、茶志別川を大きく跨ぐ茶志別橋。ずいぶん上ってきた。


上流側。


下流側。


11時30分、残雪発見。木陰もあり、小休止。残雪をかじり、モシリパの奥さんにもらったおにぎりを食べる。


11時45分、幌萌小沢川にかかる鷗鳴橋。


幌萌小沢川、上流側は谷深し。


橋を渡った先は、知床峠まで31㎞、羅臼市街まで14㎞。


その後、4つのスノーシェルターを抜ける。中は日差しが遮られて涼しく快適。

12時5分、茶志別スノーシェルター。


幌萌スノーシェルター、


海望スノーシェルター、


12時25分、羅臼峠スノーシェルター。標高80m。


あとは、一気に幌萌の集落に向けて下っていき、

12時50分、春刈古丹川。上流側。


下流側。河口にカモメ。


川の名の由来――この地名の由来は、アイヌ語のシュム・カル・コタン(shum-karu-kotan)からきている。「鱒の油を搾りたる処」という意味、と。


海辺まで下りてきた。


あとは市街地をどんどん行く。

13時40分、あっ、あそにもカモメ。


13時50分、あまりに暑いので、セイコマで「野菜1日これ1本」を飲み、さらにアイスを食べていたら、車から降りてきた運転手が、「さっきシェルターのとこで見たけど、ずいぶん早ぇなあ。」と言った。するとセイコマの女店員も、「私もさっき見た。」と言う。――あまりダレた恰好して歩けないな。

14時35分、松法漁港。あと少し。


15時、宿に着く。宿泊、2食付き 4800円。

一休みの後、明日の行動食、夕食などをコンビニに買い出し。

宿のオーナーは、現役のトライアスロンの選手であり、また知床のガイドでもある。したがって、明日の知床越えに関する注意事項を聞くには最適の人。まず、鈴を鳴らしていくこと。もしであっても大声を出してはいけない。クマの目を見続けていればふつうは向こうが立ち去る。自分から逃げてはいけない。つまり、自らがヒグマのテリトリーの中にいるのだということを常に忘れないこと、等々。また、知床の自然環境保護のことなど教えてもらった。

宿の特筆事項は、その食事の量と内容。いろいろの魚の刺身、カレイのから揚げ、イカ焼き、なまこ、ホタテ、いかすみ、鮭のマリネ、さかな煮つけ、その他。終わりの方は満腹で手を付けることが出来なかった。


2015年 第62日(佐多岬より124日)

歩数  37527歩    (佐多岬より累計  6326128歩)
距離  23.5㎞     (佐多岬より累計  4233.5㎞)
費用  6021円     (佐多岬より累計  564527円)



2015年 徒歩の旅 第61日  標津町・民宿 モシリパへ

2016年05月30日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月31日(日) 雨のち晴 (標津町・ライダーハウス「クレイジーマッハ」~標津町・民宿 モシリパ)



5時30分、出発。一面の霧の中である。予報では、道東は午後から雨。雨が降ったら濡れればよいさ、「ただ一面にたちこめた 牧場の朝の霧の海‥‥」と歌いながら行く。


5時55分、国道244号線に合流し、羅臼方面に向かう。「斜里 60㎞ 羅臼 52㎞」の表示あり。

6時20分、この道は「知床ノサップライン」という愛称があるのかな。海沿いを歩いているが霧のため展望はイマイチ。


7時10分、標津港。霧晴れてくる。






7時25分、標津川にかかる標津橋へ。一時、青空が見え始める。


標津川、上流方面。


下流方面。




7時50分、ポー川史跡自然公園。まだ開園時間前で開いておらず、ちょっと見学。

開拓の村の農家と、


学校。


案内図など。




8時20分、ポー川は伊茶仁川が合流し、「サケ・マス増殖河川」に指定されている。




8時30分、忠類交差点。国道244号線は左に網走、斜里へ。新たに国道355号線(国後国道)が右に羅臼方面へ。


8時35分、国道335号線に入ると一気に展望が開け、正面右手に知床連山、右手海上に国後島が見える。曇っているので、写真では見えないが、肉眼では確認できる。


直後に、「知床峠 60㎞ 羅臼 43㎞」の表示あり。

8時45分、標津町指定文化財「旧藤野チシネ牧場の落葉松」。




9時ごろより雨が降り出し、ときどき小降りになりつつも午後まで降り続いた。ゴア雨具を着たり脱いだりして消耗。

9時35分、忠類川は大きく回り込んだ。上流。


下流。


川の名の由来――忠類川はChiuは水流、潮流。Ruiははげしい、甚だしり(い?)。Chiu-ruiで急流を意味する。道内の処々にある川名、と。


10時40分、古多糠川、上流。


古多糠橋。


11時20分、薫別トンネル(703.5m)。


トンネルを出たところで雨強くなり、ここまで来ればもう安心なので、薫別バス待合所で雨宿り小休止。

さらに両側が針葉樹や広葉樹に挟まれた単調な道を辿り、




13時、ようやく開けたところに出て、


13時10分、民宿モシリパに着く。宿泊、2食付き 5500円。


夕刻、一気に晴れて、宿の裏の木々の緑が輝いていた。


宿では、だいぶ早く着いたにもかかわらず、オーナー夫妻にとても親切にしてもらった。とくに奥さんには足のことでいろいろ気遣ってもらって有難かった。

夕食は、大きな鮭の切り身とたっぷりの野菜の甘味噌の焼いたものや、天ぷら、ホタテの刺身、行者ニンニク、その他、どれもみな美味かった。


2015年 第61日(佐多岬より123日)

歩数  42010歩    (佐多岬より累計  6288601歩)
距離  28㎞       (佐多岬より累計  4210㎞)
費用  5723円     (佐多岬より累計  558506円)


2015年 徒歩の旅 第60日  標津町・ライダーハウス「クレイジーマッハ」へ

2016年05月29日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月30日(土) 曇 (別海町・民宿 みつばちの宿
             ~標津町・ライダーハウス「クレイジーマッハ」)




宿のテレビの天気予報では、今日は曇のち雨。その後は少し持ち直すような話。ここまで来れば、後の大物は知床越え。その日の状況が最大の焦点である。

3時55分、出発。曇、さほど寒くはない。今日は長距離。途中から道道363号線を行く42㎞、ということで早めに行動開始。国道243号線(パイロット国道)を行く。「パイロット」、ん?


4時、すぐに西別川。


川の名の由来――アイヌ語でヌーウシペツ(nu-ush-pet)豊漁川という意味。(nu-ush は「豊富・である」、pet は「川」)。この語源から「西別川」と名付けられた、と。西別川は、すでに通ってきた釧路川、別寒部牛川とならぶ根釧台地を潤す3大河川の一つなり。


直進すると道道8号線。満開の八重のツツジあり。


5時25分、床丹川にかかる床丹橋。霧が出てくる。




白樺や新緑の中を行く。


6時20分、路傍にオオハンゴンソウの黄色い花が鮮やかだ。霧雨は止む。


6時40分、中春別交差点のセイコマートで「伊藤園1日分の野菜」を飲み、バナナ、大福などを買って、交差点を右折、黄色線の道道363号に入っていく。

覚悟の上とはいえ、周囲の様子が一気に変わる。狭い道路で、上下左右と、アップダウンとカーブが小刻みに繰り返される。消耗だが、他の道はないのでいたしかたない。こういう道が楽しめるようになれば旅人としても一人前だが、足も痛いし、一人前でなくてもいいや。

途中で出会ったお爺さんから、尾岱沼までは17~8㎞あるよ、と言われる。中春別までが12㎞だから尾岱沼までで約30㎞、それからライダーハウスまで、結構ありそうだ。

7時30分、両側に広がる牧草地や小さい林を抜けていくと、牧場の前でなにやら‥‥。


牛の蹄を削っていた。


8時、さらに、オオハンゴンソウやタンポポの咲く牧草地。タンポポの季節も終わりに近づき、白い綿毛に代わっているところもある。緑の牧草の中の鮮やかな黄色の主役はオオハンゴンソウである。


霧雨がやんだので、両側の笹薮から無数の小虫が湧き出し、体にまとわりつき、目や鼻や口に入りそうになる。

9時45分、長い単調な道路を歩いていると、自動車が停まり、男性から歩きにこだわっているのかと聞かれる。よかったら乗っていかないか、と。お言葉に甘えた。彼は別海の人で、尾岱沼に釣りをしている人の様子を見に行く途中とのこと。さらに、土曜日で仕事は休みだし、特に用事もないから標津まで行ってやるよ、というわけで結局、野付半島のライダーハウスまで乗せてもらってしまった。
車内での話は主にシカのこと。昨日の朝6時ごろ、シカにぶつかられて車が破損、7万円で修理中。今乗っている車は修理工場の代車。友人に、去年50万円かかった人がいる。根室方面ほどではないが、この辺もかなりシカの事故が多いそうだ。シカは一般に車にぶつかっても、道に倒れることはなく、そのまま行ってしまう。路肩で絶命するか、林の中でするか。厚床から根室に向かう時に見た立派なネットは去年設置したもので、この辺ではまだないそうだ。

9時55分、尾岱沼のセイコマで、今夜の食料を調達。北海道メロンジュースを2本買って、一緒に飲んだ。

10時15分、ライダーハウス「クレイジーマッハ」に着き、運転手さんにお礼を言って別れた。宿泊、素泊まり 1000円。




ライダーハウスのオーナーは、真言宗のお坊さん。といっても一般のライダーハウスと特に変わらず。夫妻ともに気さくな人。ただし、寝処の横の部屋に不動明王がいた。それと、庭にたくさんの猫がいた。


昼食後、時間があるので、野付半島に出かけた(12時~14時)。




野付湾にそそぐ茶志骨川に沿って、フラワーロードという、左の根室海峡(野付水道)、右の野付湾に挟まれた釣り針のような形の野付半島を行き、






途中で丹頂鶴が2羽。




広い野付湾。


12時40分、「第2しべつ展望パーキング」。ここは野付半島の自然観察のための展望台ではなくて、国後島を見るための展望台だった。知床や国後がうっすらと見えた。






湿原に咲くセンダイハギ。




風が強く、寒くなったので、ナラワラの手前で宿へ戻った。






帰って、オーナーから、明朝の勤行の際にお願いをするから、ということで、不動明王の前のノートに何か望むことを書いておくように言われた。他の人のものを見たら、交通安全とか、無事帰宅などだったので、「足痛の軽減」と書いたが、仏さまへのお願いなのだから、もっと哲学的なことを書けばよかったかな、と後でちょっと思った。

2015年 第60日(佐多岬より122日)

歩数  49461歩    (佐多岬より累計  6246591歩)
距離  42㎞       (佐多岬より累計  4182㎞)
※ 一部自動車に乗せてもらった。
費用  2519円     (佐多岬より累計  552783円)

「パイロット国道」は、根釧台地において1956年から始まった、パイロットファームという機械導入による大規模な酪農経営実験のプロジェクトに由来するようだ。

2015年 徒歩の旅 第59日  別海町・民宿 みつばちの宿へ

2016年05月28日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月29日(金) 霧雨のち晴 (根室市・JR 厚床駅
                             ~別海町・民宿 みつばちの宿)




6時 夜来の霧雨の中を出発。ゴアの雨具に傘をさして、国道243号線を北上する。よく寝たので体調万全。足に関しては、靴の中敷きを二重にし、両足裏にバンテリンを張った。


歩き始めてすぐに、右手の林の中にエゾシカが3~4頭逃げていくのを目撃。ほとんど町中にも出没するものだ。

7時5分、霧雨にけむるゆるいアップダウンの道を辿る。


左右の新緑に染まりながら歩くうちに雨止む。




左右に風蓮川が蛇行しながらつくり出す広大な原野と湿原が続き、

7時30分、風蓮川にかかる風蓮橋。根室市から別海町に入る。


上流方面と、


下流方面。


川の名の由来――アイヌ語の原名はフーレ・ペツ(Hure-pet 赤い・川)であったろう。この川は「やち」の中を流れて来るので、「やち」の有機鉄を含んだ赤い(茶色の)「やち水」が流れているからだろう、と。


8時5分、「自然の宝庫 別海」。


8時40分、国道244号線との分岐を左折すると、トイレのあるパーキング。「奥行臼歴史の里」の案内板あり。


少し先のバス停にて大休止、散策を兼ねて1時間。

ザックをバス停に置き、表示板に従って、周囲を散策。


旧標津線 奥行臼駅へ。










木造駅舎の正面。


駅舎内。運賃表が見える。帯広まで1500円、札幌まで3600円。


平成元年(1989年)四月二十九日、標津線の廃線により廃止されたが、「昭和初期の建築様式の原形を留め、本町に五カ所を数えた駅の中で現在する唯一のもの‥‥」とあり。


旧奥行臼駅逓所。




「駅逓所とは、交通不便の地に駅舎と人馬等を備えて、人馬の継ぎ立てと宿泊、物資の逓送等に便宜を図るために設置された施設で、明治期以降北海道では独自の制度として存続し、北海道の開拓と連動して発展を遂げました。」、と。


さらにその先に、旧村営軌道風連線。


「地域唯一の交通機関であり地域住民の交通手段としてだけではなく、生活及び生産物資の輸送に大きく貢献した。道路網の整備等により昭和四十六年三月末をもって廃止となった。」、と。






8t自走客車。


内燃機関車とミルクゴンドラ車。


転車台。


9時40分、駅舎に別れを告げる。何かじんとくるものあり。すべてのものは役割を果たし消えてゆき、時代は過ぎていく。


10時25分、ケネヤウシュベツ川にかかる奥行臼橋。空は晴れて暑くなってきた。


ケネヤウシュベツ川上流側、


下流方面。


11時20分、ヤウシュベツ川にかかる矢臼別橋。


ヤウシュベツ川上流側、


下流方面。


あとはただ歩く。両側のクマザサの中から湧いてくる小さい虫が体にまとわりつき五月蠅いことおびただしい。雨がやんで、彼らも活動中、ということ。

単調な一本道のアップダウンの後、ポンヤウシュベツ川にかかる克己橋を渡った先で人家が出てきた。

12時、レストラン「ロマン」にて、ツーリングマップルに紹介されていた「ポークチャップ」なるものを食べる。豚肉のかたまりのステーキにたれがかかったもの。700gと400gとがあり、どちらにするかときかれたので、早くできる400gの方を注文した。焼き上がりまで前者45分、後者25分。


いやぁ、400gの方にしておいてよかった。とても食べきれない。長旅の粗食で胃袋が小さくなってしまったようだ。


別海の町中に入っていき、

13時30分、宿に着く。宿泊、素泊まり 3800円。

すぐに風呂に入ることが出来て足のマッサージ、また衣類の洗濯をして、その後うたた寝。
夕刻、近くのコンビニで、当面の食料を調達。今日は国道を22.5㎞、明日は道道を42㎞だ。さてどうなるか。


2015年 第59日(佐多岬より121日)

歩数  36694歩    (佐多岬より累計  6197130歩)
距離  22.5㎞     (佐多岬より累計  4140㎞)
費用  6703円     (佐多岬より累計  550264円)



2015年 徒歩の旅 第58日  根室市・JR 厚床駅へ

2016年05月27日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月28日(木) 晴 (根室市・ライダーハウス インディアンサマー
                            ~根室市・JR 厚床駅)




予定では、今日はほぼ根室本線(花咲線)に沿って歩き、初田牛駅で泊まらせてもらうつもりでいたが、昨日の突発的な足痛のため、無理をせず状況のわかる道を戻り、再度厚床駅で泊まらせてもらうことに変更。足痛は、先に右足に来ると思っていたが、左足に先にズキンときた。ちょっと戸惑ったが、あの時も左足にもきたのでそれなりの覚悟はしていたつもり。状況は前年の旅の最終局面の痛みと同様の感じ。まぁ、無理せず行こう。

4時40分、バンテリンを両足裏に貼り、出発。

5時、明治公園でサイロを見た。


その後は、国道44号線を今度は西へ。単に来た道を戻るだけかと思っていたら、来るときは背中側だった景色が正面になるので、意外な発見。こんなに海が見えるところを歩いていたのか。

5時50分、根室湾。知床連山もよく見えた。






7時20分、同じく根室湾。


7時50分、温根沼大橋手前。


大橋の上から。透き通る水がさざ波に揺れていた。青空を映して、まるで宝石のようだ。


8時30分、東梅へ。




8時40分、第一トウバイ川。






直後に、車が停まり、乗せてもらった。ドライバーはニュージーランド人の中年男性、ミスター・グリーン。バードウォッチャーで、野鳥(とくに知床のクマゲラ)を見るために日本へ来た、とのこと。これから知床へ行く途中だから、と。
お礼を言っているうちに、「道の駅スワン44ねむろ」を過ぎてしまい、風蓮湖の写真が撮りたいのだ、と訳を行って戻ってもらった。

8時55分、風蓮湖。先日は曇で寒い日だったが、今日は、風はあるものの快晴で湖の青さが美しい。






彼も写真を撮ったり、双眼鏡であちこち眺めたりした。

インフォーメーションフロアーには、ガイドマップと野生動物のはく製が並んでいた。






その後、展望台で日向ぼっこをしつつ、アイスを食べながら雑談。とても陽気な人だ。日本へきて今日で4日目。路上に書かれている「シカ注意」の文字について聞かれる。こちらの歩き旅の話にも、驚きかつ喜んだ。こういうチャレンジが好きなのだ、と。

その後は、途中の新酪農展望台へ上った。ここも大変気に入って、双眼鏡で知床方面を眺めて、「ワンダフル」、だった。こういう無料の施設があるのはとてもよい、ニュージーランドではこういうのは必ず有料だ、とも言っていた。でも、ここはこのままではお金はとれないだろう。地面にはは大きな水たまりがあってぬかるんでいるし、草はぼうぼうだし、トイレットペーパーが落ちていたり‥‥。もう少し整備したらいいのになぁ、と思う。

10時、あとは厚床駅まで一気に走り、駅でお礼を言って別れた。

ひょんな具合で、ラッキーにも半日休養ということになった。向かい風だったし、左足の調子がかんばしくないということもあって、車に乗せてもらえたのは有難かった。


11時40分、駅前のラーメン屋にて昼食。

午後は、13時から14時まで、ホームの待合室にて昼寝。

その後、列車を待つ70代の女性と話。裁判所の調停員を20年、民生委員を3期(9年)やっているという献身的で魅力的な人。札幌に住んでいるのだが、別海町に200人以上の担当がある、と。田舎は親戚が多く、うかつに悩みを打ち明けるとどこへ話が流れるかわからないから、うちに秘めてしまう。民生委員は第三者で守秘義務があるから、心を割って話すので、訪問が長くなってしまうのだそうだ。地域も広いし大変だ。小生のごとき、都会の新米民生委員にとっては、本当に頭が下がる話。
厚床駅は、旧標津線の始発駅であり、根室本線との交点でもあったので昔はけっこう賑やかだった。キオスクもあったし、周辺に旅館もいくつかあったが、今は一軒もない、等々とも。
釧路行きが来たので、頑張ってくださいと手を振った。

あとは、往来する列車をとりとめなく撮った。








周りを見まわせば、確かに廃線前はさぞやと思わせるずいぶんと広い敷地だ。

旧標津線の解説。




夕刻、コンビニで食料を調達し、今回もホーム待合室で泊まらせてもらった。宿泊、無料。


2015年 第58日(佐多岬より120日)

歩数  29996歩    (佐多岬より累計  6160436歩)
距離  34.5㎞     (佐多岬より累計  4117.5㎞)
※一部、自動車に乗せてもらった。
費用  1566円     (佐多岬より累計  543561円)



2015年 徒歩の旅 第57日  根室半島一周

2016年05月26日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月27日(水) 晴 (根室市・ライダーハウス インディアンサマーに連泊)



4時、出発。夜間の雨は止み、予報が外れて晴天なり。やや寒い風が吹いている。

4時20分、道道35号線の長い坂を下っていくと、右手の遠方に海が見える。


自然環境保全区の案内板。


4時25分、左手は朝日があたる湖沼群。




4時35分、丹根沼。


4時40分、海岸沿いにトーチカ。太平洋戦争中に北方の防衛のために築かれた。


4時50分、温根沼。


2人の釣り人がいて、アメマスを釣ろうとしたが、風が強くて釣果無し、とのこと。水中の魚にとって、いつも吹いているであろう根室半島の風がどのような影響があるのかと思ったが、まぁ、釣りをやらない人間には分からないほどデリケートなものなのだろう。

5時、遠方は太平洋。


5時40分、2013年3月31日に閉校の共和小学校。


「陽光さんざめく太平洋を望み 風吹き渡るはまなすの丘に立つ共和小学校の一一四年にわたる歴史とここより巣立った多くの有為なる人材を永くとどめるために『校訓』を刻す‥‥
明るく つよく 美しく ‥‥」


7時45分、くるくる回る根室歯舞ウインドファームの小型風力発電設備。


7時50分、デジカメではよくとらえられなかったが、左に知床連山、やや右寄りに国後島。


遥かなたに納沙布岬のオーロラタワー。


8時、風車も勢いよく回っている。


突然、大津美子の「ここに幸あり」のオルゴールが鳴った。8時の合図のようだ。これまで通ってきたところでも、朝夕にオルゴールの合図があったが、ウェルナーの「野ばら」などが多かった。「ここに幸あり」は初めて。でも、根室半島で聞く「嵐も吹けば 雨も降る‥‥」は何故か納得がいった。

8時5分、珸瑤瑁の漁村を遠くに望みつつ、




8時10分、珸瑤瑁(ごようまい)地区に入る。生まれて初めて見る文字。「珸瑤」は勘で読めたが、「瑁」の読みが外れた。


8時20分、「日本最東端の郵便局 珸瑤瑁郵便局」。


8時30分、2013年3月31日に閉校の珸瑤瑁小学校。「日本最東端の学校」の木柱が寂しそうである。




納沙布岬のオーロラタワーが遠くに見えるがなかなか近づけず。

9時、納沙布岬に着く。


納沙布岬の碑。







晴れているので、知床から北方諸島もよく見える。






寛政の蜂起和人殉難墓碑。


「寛政元(一七八九)年五月、国後島とメナシ(現在の標津町付近)のアイヌの人々が、当時
この地域の場所請負人であった飛騨屋久兵衛の支配人らに脅されて、僅かな報酬で労働を強いられ、やむなく蜂起し和人七十一人を殺害した。
松前藩は、ノマカップ(根室半島オホーツク海側)にアイヌの人々を集め蜂起の指導者三十七人を処刑した。このできごとは、“寛政クナシリ・メナシアイヌ蜂起”と称されている。
この墓碑は、死亡した和人七十一人の供養のために文化九(一八一二)年に造られたと刻まれている‥‥」とある。そうか? 和人の殉難は不幸なことだが蜂起は正当であり、松前藩の処刑は不当である。これを「根室市指定文化財」とするのも、アイヌ人に対して片手落ちである。


その他にも、右翼が建てた碑などがいくつかあった。

海鳥が飛び交い、波が洗う岬のはずれ。




納沙布岬灯台。








「四島のかけ橋」


北方館を見学。入場 無料。










択捉島、


国後島、


歯舞色丹島、


北の野生動物の標本などもあり。

また、歴史的文書も展示されてあり、興味深い。
近藤重蔵、





最上徳内、




新井白石、




大黒屋光太夫、



その他。

北方領土問題対策協会というところが発行している「北方領土」というパンフレットがあったのでいただいた。


その後、オーロラタワーに上り96mの高さから周囲を展望した。500円。








北方館にも望遠鏡があったが、やはりここからだと格段に良く見える。ただし、択捉島や色丹島はよく見えなかった。
歯舞群島の貝殻島などはまさに足下という感じ。全くの荒野で島全体が枯草色。家も番屋のようなものが2~3軒確認できた程度。
ロシアの漁船や沿岸警備隊の船舶が見えた。だが、漁港があるわけではなく、国後方面に戻る。

館内の清掃をしていたお爺さんに話を聞いた。――以前、花咲で海産物の仲買人をしていた、と。ここら辺のカニは全部ロシアから買ったものだ、ということ。漁業の主体は昆布漁で、今頃から10月までが最盛期。特に、7・8月に沖で獲るのが上もの。その際、貝殻島灯台など国境線すれすれのあたりは、ロシアにお金を払って獲らせてもらっているのだそうだ。天気については、霧の日が多く、昨日は15時から霧が出て見えなくなったので、早々と閉館になった。今日は良い天気なので遠くまでよく見える、と。振り返ってみたら、岬での晴天率は8割だった。(オーロラタワーから写真を撮ればよかったのにすっかり忘れてしまった。)

10時30分、さて、後は宿へ戻るだけ。
海上の知床連山を見たり、


11時、たくさんの馬が草を食む。


11時30分、トーサムポロ沼。




12時45分、北方原生花園。


あいにく花期はまだで、残りの水芭蕉だけ。ハマナスもノカンゾウも咲いておらず。タンポポの中をポニーが駆け回っていた。


根室半島の北側からは、午後いっぱい、海上に知床連山がよく見えた。




途中で、急に左足裏が激しく痛みだし、とうとう来たか、という気持ち。そろそろ2000㎞、元ジャイアンツの江川の「100球肩」ではないが、去年に続いて「2000㎞足」である。

あとはだましだまし歩き、日本最東駅のJR東根室駅に行くのは諦め、途中にあった「みなと湯」で、入念にマッサージをし、さらに薬局でバンテリンを買って戻った。あと20日弱、なんとか大事にならないでいってほしいところ。

4時50分、宿に着く。今日も泊り客は小生一人。

夕食後、女将さんから、サービスだと言って花咲ガニを1杯いただいた。甘くて美味しかった。


花咲ガニは実はカニではなくてヤドカリの仲間なのだと、根室の情報誌で知った。



2015年 第57日(佐多岬より119日)

歩数  70096歩    (佐多岬より累計  6130440歩)
距離  45.5㎞     (佐多岬より累計  4083㎞)
費用  3280円     (佐多岬より累計  541995円)



2015年 徒歩の旅 第56日  根室市・「ライダーハウス インディアンサマー」へ

2016年05月25日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月26日(火) 曇のち雨 (根室市・JR厚床駅
              ~根室市・「ライダーハウス インディアンサマー」)




ホーム待合室の夜は相変わらず寒かったが、大きな北斗七星をはじめ星が降るようだった。ダウンジャケットを2枚重ね着してしのいだ。


4時、出発。コンビニで、おにぎりと菓子パンを買い、「野菜1日これ一本」を飲んで、今日も国道44号線(根釧国道)を行く。


4時50分、防雪柵の横を通る。こうした柵は、場所によっては、防雪、防風の他に、シカ対策も兼ねている感じ。




5時30分、はじめ晴れて涼しく、快適な歩行と思いきや、徐々に後方から雲が追いかけてきて、6時ごろには全天曇となった。道東の天気は、釧路が基準なので、根室に近づくとちょっと異なる。今日の予報は曇のち雨。


5時45分、道路わきに、車にはねられたのか、キタキツネの死がいがあり、


接近すると、群がっていたカラスが電線の上に逃げて、こちらが通り過ぎるのを待っている。あちこちにシカよけのネットが張ってあり、路面には「シカ注意」と書かれている。


6時5分、今度は道路横のくぼみの中に、エゾシカの死がいあり。おそらくネットを飛び越えて車道に出て、今度はネットがあるために林の中へ戻れずに、車にはねられたのだろうと思う。


同様に、接近すると、群がっていたカラスは電線の上にて通過待ち。


カラスは好きではないが、これも自然の摂理で、物質代謝というか、質料変換というか、輪廻というか。

6時25分、新酪農展望台へ。




こちらの展望台は、10mの高さ。上ってみると、てっぺんに案内表示板。


緑の牧草地が眼下に広がる。空気が湿っていて遠望はきかず、知床方面はよく見えなかった。




6時40分、シカ対策ネットと路面の表示。今日のルートは、昨日と違いカーブが多く、気分がまぎれるので、めげる気持ちが少ない。


こちらは、シカ用のネット出入り口。先ほどの死がいのようなケースがないように。


7時、エンレイソウあり。




7時15分、「別当賀川さけ・ます捕獲場」入口。


7時30分、別当賀川。上流側。


下流、河口方面。


別当賀橋。


7時50分、「野生動物の飛び出しに注意願います」。


8時、「シカ 飛び出し 注意!!」


8時10分、「道の駅 スワン44ねむろ」にて小休止。「11時オープン、15時30分クローズ」という張り紙がある、4時間半しか開いていないレストランである。まぁ、周囲を見渡せばむべなるかな。






展望台より風蓮湖。






ここは「野付風蓮道立自然公園」。


8時30分、「この先 エゾシカ 横断注意」。


8時35分、「シカの飛び出し 注意」。


8時55分、第一東梅川にかかる東梅橋からの風蓮湖。対岸は春国岱(しゅんくにたい)。


風蓮湖南端の湿地帯。




9時20分、「春国岱原生野鳥公園ネイチャーセンター」を20分ほど見学。








望遠鏡でのぞかせてもらったが、あいにく水鳥はとらえられず。さっき湿地帯を通った時にはあんなにいたのに。

貰ったパンフレット「野鳥の楽園 東北海道バードウォッチングガイド」。










「風蓮湖・春国岱 花・鳥カレンダー」。




一山越えて、


9時50分、温根沼(おんねとう)大橋。


橋の手前の湿原に、キタキツネ。




温根沼では漁をしていた。




10時、温根沼。


10時30分、根室市街まであと8㎞。柱の下部にはロシア語の表示。


11時10分、草原の先は根室水道。


13時、JR根室駅入口。




13時5分、JR根室駅にて小休止。観光案内所などをのぞいたりした。




根室市街のマップと根室半島の案内をいただいた。




(右下拡大)


13時20分、「ニューモンブラン」にて「元祖 エスカロップ」を食べた。1963年にここのシェフが考案したのだそうだ。バターご飯に薄切りトンカツをのせてデミグラスソースをかけたもの。女主人は「エスカー」と呼んでいた。根室のご当地料理。




13時40分、根室市役所。


14時、今日の宿、「ライダーハウス インディアンサマー」到着。宿泊、条件付き無料。すなわち、併設しているノサップ通商で、花咲ガニ(1300円)を買うと無料、ということ。根室といえば花咲ガニで、自宅と知人に発送してもらったので、宿代は2泊とも無料になった。


まだシーズン前なので、利用者は小生一人。


夕方から雨が降り出した。女将さんは明日の天気は雨の予報だと。でも、ここまで来たらもう雨だろうが霧だろうが、納沙布岬まで行くしかなかろう。

部屋に貼ってあったポスター。根室に関係した人々。松浦武四郎、ラクスマン、高田屋嘉兵衛、リンドバーグ。前の3人はわかったが、リンドバーグは、飛行艇で世界一周中に根室港に寄港したのだそうだ。



2015年 第56日(佐多岬より118日)

歩数  54795歩    (佐多岬より累計  6060344歩)
距離  34.5㎞     (佐多岬より累計  4037.5㎞)
費用  2791円     (佐多岬より累計  538715円)


別当賀橋にいくつも掲げられていた黄色い幟旗は、道東に生息するシマフクロウやエゾフクロウが、夜間、川辺で狩りをする際に車にぶつかる事故を防止するため、だそうだ。

2015年 徒歩の旅 第55日  根室市・JR厚床駅へ

2016年05月24日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月25日(月) 晴 (浜中町・JR茶内駅~根室市・JR厚床駅)



今日は距離も短いし、しかも駅寝の予定なので、ゆっくり出ればよい。

3時45分、起床。


一晩お世話になったホームの待合室。


早朝散歩のお爺さんと話。天気は、今週中はにわか雨程度で大きな崩れはない、との予報だ、と。職業は「ばぐや」さんと「はんぷや」さんをやっていたそうだ。分からずに聞き返したが、「馬具屋」さんと「帆布屋」さんだった。ずっと当地に住み、昭和30年ごろまでは、親の跡を継いで馬具屋をやって、鞍をつくったり、車と馬との連結器を作ったりした。だんだん需要が減ってきて、その後は厚岸の漁師を相手に、帆布や漁網などを商いしてきたのだそうだ。北部の酪農と南部の漁業という浜中町の中心産業にかかわった、時代の生き証人のような人の話で、引き込まれ、1時間近く話し込んだ。

浜中町は、モンキー・パンチの出身地で、あちらこちらに、いろいろなイラストが描かれている。




6時、茶内駅を出発。


まず、駅前通りを国道44号線(根釧国道)まで戻る。今日も快晴。歩き日和。


交差点のセーコマで、「野菜1日これ1本」を飲み、菓子パンを買って、国道を東進する。

6時20分、「根室 56㎞ 厚床 24㎞」の表示あり。

6時45分、浜中町農協青年部の看板あり。


7時、ゆるい上り坂の先に酪農展望台(20m)がある茶内パーキングエリアへ。この辺りで標高70m位。




花壇にオダマキの花が咲いていた。


トイレ清掃のお爺さんが、釧路から歩いているのを2回見ているよ、と話しかけてきた。向こう1週間は良い天気だ、とのこと。今日は天気が良いから国後も見えるはずだ、と。

展望台に上れば、北に残雪の知床連山をはじめ


東、根室方面、海上に黒っぽく国後島らしき影も見えた(デジカメではとらえられないが)。


南、


西、茶内方面と360度の大展望。


近くには樹林もあって、確かにこれではテント泊は危なそうだ。お爺さんもそう言っていた。一昨日「ライダーハウスあっけし」に泊まらなければそういう情報も得られなかったかもしれず、ぎりぎりセーフ、といったところ。


時間調整を兼ねて、銀マットを敷いて超大休止。昼寝(朝寝?)をたっぷり。9時まで。

9時15分、ゆるやかな斜面の牧草地。


その後も、時々、牧草地の先や樹間から知床の山がよく見えた。道東を歩いているという感を強くする。




9時30分、防雪柵。


10時、牧草ロールを満載した大型トラック。


10時45分、タンポポの手前に、「ファームデザインズ」の看板があり、


牧場の中の一軒家、レストラン「ファームデザインズ」に入る。


とろとろベーコンオムライスと飲み放題のミルクで早めの昼食。美味かった。1188円也。


女性従業員に、出勤途中で見かけた、リュックを背負っているので山菜取りをしているのかと思ったら、歩いて旅をしているんですね、わぁ―、と言われた。

11時40分、道路は続くよどこまでも。今日の行程は、ところどころのカーブ以外は、アップダウンの多い、見通しのきく長~い直線道路の組み合わせ。遥か前方の上り坂などを見ると、ちょっとめげる。あそこまで行ってあの坂を上るのか、と。まぁ、実際はそれほどでもないのだが。


12時40分、姉別駅入口。


平成24年(2012年)3月31日で浜中小学校に統合され廃校になった姉別小学校の別れのメッセージ。


13時30分、根室市に入る。北海道最東端の自治体である。


右手は、タンポポ咲く牧草地。歩いていると、ときどき牛舎からの強烈なにおいがして、酪農王国通過中である。


左手に、「北方領土は日本の領土」「ようこそ根室へ」の看板。


13時40分、厚床まで3㎞。あと少し。

14時5分、「択捉・国後・色丹・歯舞 世代越え心に願うは四島返還 根室市」の看板あり。


14時15分、国道のコンビニで食料を調達し、JR厚床駅へ。




駅で一休みしていたら、同年配の奈良のトホダーがダブルストックでやってきた。根室に宿泊していて、今日は空身で根室本線(花咲線)に沿って歩いてきた、と。宗谷岬から歩いていて、ブログに載せたいから写真を撮らせてもらっていいか、と。了承。知床横断道路の状況を聞いた。

ここも、茶内駅と同じく、先のホームに待合室があり、今夜はそこに泊まらせてもらうことにする。宿泊、無料。


2015年 第55日(佐多岬より117日)

歩数  40951歩    (佐多岬より累計  6005549歩)
距離  25.5㎞     (佐多岬より累計  4002㎞)
費用  2016円     (佐多岬より累計  535924円)




2015年 徒歩の旅 第54日  浜中町・JR茶内駅へ

2016年05月23日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月24日(日) 晴 (厚岸町・ライダーハウス あっけし
                         ~浜中町・JR茶内駅)




6時30分、出発。今日も晴れて涼しく歩き日和。国道44号線(根釧国道)を東進。


7時10分、カーブして北進。両側にエゾシカ対策のネットが張ってある広々とした平らな道を行く。この辺りにも路傍にクロユリの群落あり。


7時50分、右手に小さな池。


8時25分、左手のJR根室本線(花咲線)としばらく並進。




8時30分、JR門静駅近く、昨日とは別の尾幌川。昨日の尾幌川は厚岸湾にそそぐ一級河川。こちらは別寒辺牛川に合流する二級河川。紛らわしい。
上流。


9時、「あっけし望洋台」へ。


ガイドマップ。


左奥が厚岸湖。


昨日の、ライダーハウスのオーナーの話では、宿泊予定地にしていた茶内パーキングエリアは、すぐ後ろは林だし、夜間に他に車が停車している可能性は低いから、ヒグマの出没の可能性があるのでテント泊は危険だ、ということだった。
ここのパーキングも場合によっては、ということで宿泊予定地だったが、後方は林だし、自動販売機もあるしで、さらにパーキングといっても昼間でもこの程度では、夜間に駐車している車もありそうになく、やはりテント泊は避けるのが賢明なところ、といってよいだろう。

9時20分、足元を厚岸湾に沿って伸びる鉄路。先方に、厚岸大橋。


10時、初めて知った「北海道八十八ヶ所霊場」というものの、第三十九番 高野寺。


そういえば、九州にも「九州八十八ヶ所霊場」というのがあったっけ。

10時15分、「道の駅 厚岸グルメパーク」にて35分休憩。「蒸し牡蠣」を食べ、牛乳を飲む。


11時、国道44号線に戻り、別寒部牛湿原方面に向かう。


奥は厚岸湖。


11時15分、湿原の中、別寒部牛川を渡る根室本線。左は厚岸水鳥観察館。


厚岸水鳥観察館へ。




2階へ上がり、観察用の窓から望遠鏡でのぞいてみたが、あいにく鳥をとらえることはできなかった。


パンフレットをいただいた。






12時35分、ふたたび、湿原を行く根室本線(花咲線)。


その後は、根室本線(花咲線)に沿って進み、小さなアップダウンを繰り返す。

15時20分、熊出没注意!の看板を見て、


すぐに浜中町に入る。道路の両側に、シカ対策のネットが続く。小生の神奈川県丹沢山地でも、登山道の両側にネットが張ってある場所があるが、それはシカによる樹林への食害対策。こちらはシカの飛び出し防止用。同じネットでもところ変われば‥‥。


15時25分、タンポポの咲く牧草地を経て、


茶内駅との交差点のセイコマで、今夜と明朝の食料を買って、駅へ。

16時、茶内駅着。駅待合に浜中町出身の漫画家モンキー・パンチの「ルパン3世」のイラストが飾ってあった。


茶内駅は無人駅で、向こう側のホームに小さな待合室があったので、そこで泊まらせてもらうことにした。宿泊、無料。


2015年 第54日(佐多岬より116日)

歩数  56442歩    (佐多岬より累計  5964598歩)
距離  35.5㎞     (佐多岬より累計  3977.5㎞)
費用  1486円     (佐多岬より累計  535924円)




2015年 徒歩の旅 第53日  厚岸町・「ライダーハウス あっけし」へ

2016年05月22日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月23日(土) 晴 (釧路市・「民宿 休坂」
                 ~厚岸町・「ライダーハウス あっけし」)




4時、出発。天気は晴で、やや肌寒く、歩き日和。


宿の前の坂で、朝日を撮る。


4時50分、昨夜、宿の主人に聞いた通り、国道44号線に向い、釧路川支流の別保川。
上流側、


下流、釧路市街方面。


別保川あたりが釧路市と釧路町との境だったが、両者が別の自治体であることにはまだ気づかず。その先で右折、国道44号線(根釧国道)へ。

5時55分、別保公園は桜まつりの準備中。


6時、釧路町役場入口。「えっ、釧路町?」と、この表示板を見て、初めて釧路市と釧路町が別の自治体であることに気づく。釧路町の花はクシロハナシノブ、鳥はエゾフクロウ、木はエゾノコリンゴ、と裏側にあり。長靴ホッケー発祥の地、とも。


少し先に、JR根室本線(花咲線)の別保駅あり。駅前広場にて小休止。

6時25分、オビラシケ川。
川の名の由来――アイヌ語で、オ(川尻)ビラ(崖)ウシ(あるところ)シケ(・・・中の川)で、川尻に沿って崖がある所という意味です、と。


左手前方の上部に、釧路外環状道路のオビラシケ橋工事中。


7時5分、木々の緑の中、一気に坂を上っていく。




8時25分、「熊出没注意!!」の看板あり。


約1カ月前の夜間か。念のためクマよけのカウベルをザックにぶら下げることにする。


このあたりから、両側にエゾシカ対策の防御ネットが目立つようになる。

8時35分、上りきった台形の上底といった部分から、谷を見下ろす。標高100m以上。


9時5分、厚岸町に入る。‥‥で、「ルークシュポール」ってなんだ?


路傍にサクラソウ。


10時10分、道道221号線との交差点近くで大休止。順調に来たため時間の余裕があり、天気もよいので、1時間ほど昼寝。


11時15分、千島桜、と思うが‥‥。


11時25分、路傍にクロユリの群落。はじめはまさかと思ったが、やはりクロユリ。こんな道端にまとまって咲いているとは驚き。こういう発見はトホダーの特権なり。




12時35分、尾幌川。
上流方面。


川の名の由来――アイヌ語で、オ・ポロ・ペッ(О-poro-pet 川尻の・大なる・川)という意味です、と。


13時15分、宿に着く。宿泊、素泊まり 500円。

ひと段落して、JR尾幌駅前のコンビニにて買い物をし、その後オーナー手製の五右衛門風呂に入った。快適、よく温まった。

夕刻、自衛隊の若者のライダーが2人、休暇中とかで同宿。厚岸で買ってきたという牡蠣をご馳走になった。彼らからは東日本大震災の捜索活動のときの話を聞いた。


また、オーナーから、エゾシカのロース焼き肉をいただいた。


オーナーは親切。団塊の同年で、60歳で仕事を辞め、後は趣味中心の生活、というのも共通。話がはずんだ。ライダーハウスをやっているが、改造バイクは大嫌いで、そういう人はお断りする、とのこと。

小生の今後の行程についても、いろいろとアドバイスをもらった。
① 道東は霧や雨の日が多いこと、② ヒグマに注意すべきこと、③ 夕刻はシカにも注意が必要なこと等々。
① ②から、明晩予定していた茶内PAはやめて、JR茶内駅に変更することにした。また、基本的には知床半島を越えるまでは、屋根と囲いのある場所で泊まるようにすることにした。さらに行動中はなるべくクマよけのカウベルを着けることにした。実際、釧路以東は自動車の往来が一気に減っている。
その他、ヒグマやエゾシカの習性や対処方法などを教えてもらった。

4人で、楽しく有意義な時間を過ごした。


2015年 第53日(佐多岬より115日)

歩数  49135歩    (佐多岬より累計  5908156歩)
距離  34㎞       (佐多岬より累計  3942㎞)
費用  2248円     (佐多岬より累計  532422円)


「ルークシュポール」――アイヌ語地名で、由来は、知里真志保によれば、rukusi が通路(ru=道、kus=通行する、i=~する所)、poru が岩窟の意、と。
また、松浦武四郎『東西蝦夷山川地理取調図』に、「ルウクシウホロ」という名前で(川の名前として)記されていて、「ルウ・クシ・ウホロ」ru-kus-{o-poro(-pet)} で「道・通る・尾幌(川)」となる、との説もあり。







2015年 徒歩の旅 第52日  釧路市・「民宿 休坂」へ

2016年05月21日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月22日(金) 晴 (白糠町・パシクル パーキングエリア
                              ~釧路市・「民宿 休坂」)




3時頃からすでに周囲が明るくなってくる。統計144度、夏至まであと1カ月。
夜間、霧雨から本降りになったので、テントは今日もびしょ濡れだ。

3時30分、起床。出発の用意をしてから、日の出の写真を撮る。

雲があり太陽が顔を出すのがやや遅れるが、きれいな朝日がパシクル沼に反射する。

4時25分、


4時26分、


4時27分、


4時40分、出発。空は晴れて無風。国道38号線(釧路国道)を行く。

パシクル湖畔に「パシクルの由来」あり。
「昔、この島を支配していた神様が、舟に乗って各地を見廻っておりました。この沼に来たところ濃霧を吐く魔神が、海上一面濃霧で包んでしまいました。舟を岸に着けることが出来ず困っていると、霧の中から烏の鳴き声がしました。その声を頼って舟を寄せたところ、無事に岸に着けることが出来ました。それ以来、ここを烏(パシクル)と言うようになったそうです。」


4時45分、馬主来橋にて白糠町へ。


パシクル沼。


5時30分、小さな丘を一越えした中腹に、М7.8パネル館。
「釧路沖地震の被災状況や地震の恐ろしさを後世に残す為にパネルで展示した施設」。一休みがてら中をのぞく。





釧路沖地震(1993年1月15日、М7.5)の概要。


北海道東方沖地震(1994年10月4日、М7.3)の概要。


十勝沖地震(2003年9月26日、М8.0)の概要。


被害状況の写真パネルなどを見る。

6時、白糠町の表示。


6時10分、白糠アイヌ文化保存会の「白糠ポコロモシリ・チセ」。


6時20分、茶路川。下流方面。




6時50分、白糠漁港。昨日の撮り鉄さんが言ったように、白糠は漁業が盛んな町。停泊中の漁船も多し。




7時10分、JR根室本線。


7時50分から30分間、今日もテント干し休憩。

8時45分、庶路川。


下流方面。


9時、恋問川。


下流方面。交通量もそこそこあり、道路の右側を歩いているので、上流側はなかなか撮れず。


9時30分、1両だけの根室本線。


一直線に続く道。


9時35分、右手の浜辺の草地では、大々的に清掃をしている。結構溜まった白い大きな袋を持った人もいる。こういう地道な行動がなければ、浜はどんどん汚れて荒れていってしまう。


「ごくろうさま」と声をかけると、高齢の女性たちに、「どこから来たの?」「どこまで行くの?」と質問攻め。「お気をつけて。」「はい、有難うございます。」で別れた。


9時55分、「道の駅 しらぬか恋問」。売店をちょっとながめて通過。


10時30分、ふたたび釧路市に。平成の大合併時に、釧路市、白糠町、阿寒町、音別町の4者の合併構想のうち、白糠町が住民投票で合併反対となったため、釧路市は、阿寒町、音別町という飛び地を持つことになった。


海側の草の中に、空を映した池あり。


11時20分、市街地に入っていき、阿寒川。


下流側。川岸に、コロボックルでもいそうな大きな蕗の葉多し。


11時35分、大楽毛駅にて小休止。大楽毛は王子製紙の街、とは例の撮り鉄さんの言。




駅前広場に、「日本釧路種」馬像。小型で持久力のある輓曳(ばんえい)馬として開発され、農耕や軍用に活躍したが、戦後は急速な交通網の整備と農業の機械化の進展のため需要がなくなり姿を消した。


13時45分、郊外型店舗の並ぶ道を行き、途中で近道(のつもり)。新釧路川へ。下流方面。


川の名の由来――アイヌ語で「クスリ-薬、温泉・トゥ(湖)」の意味。クスリトウ(屈斜路湖の原名)を水源とする川としてクスリ川と呼ばれ、これが「釧路川」に転訛したと考えられる。岩保木から太平洋までのこの新水路を「新釧路川」という、と。


14時30分、幣舞橋手前で、ツーリングマップルに出ていた「レストラン泉屋」にて、スパカツを食べる。すごいボリュームで熱々。美味かった。928円也。


14時50分、釧路川の河川敷に、美川憲一の「釧路の夜」の曲の音響装置があったが、以前(2008年5月23日)、越前で五木ひろしの装置に手を出して失敗しているので、ちらっと見て過ぎる。


釧路には、「釧路の駅でさようなら」という三浦洸一の名曲(1958年=昭和33年)がある。釧路の歌といったら断然こっちだな。
「さらば無事でと 身を寄せる
 二人をはなす 夜の汽車
 いのちの炎 燃やしつつ
 海ある町よ さいはての
 釧路の駅で さようなら あぁ さようなら」

幣舞橋を渡る。




上流側。


下流方面。


15時15分、今日の宿の「民宿 休坂」に着く。宿泊、素泊まり 2500円。
夕、朝の食料を近くのスーパーに買い出し。その後、宿の主人のパソコンで、翌日の宿泊予定である厚岸尾幌のライダーハウスの位置や、その先当面の宿泊予定地を調べたり、経路を主人に聞いたりした。
風呂は20時から、とのことだったので、明日の早出を考えて温水シャワーにした。


2015年 第52日(佐多岬より114日)

歩数  61136歩    (佐多岬より累計  5859021歩)
距離  39.5㎞     (佐多岬より累計  3908㎞)
費用  4933円     (佐多岬より累計  530174円)



2015年 徒歩の旅 第51日  釧路市・パシクル パーキングエリアへ

2016年05月20日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月21日(木) 晴 (浦幌町・農林水産直売所横
                     ~釧路市・パシクル パーキングエリア)




夜間、降雨。雨と結露でテントはびしょびしょ。

4時30分、ゴア雨具を着用し出発。国道38号線(十勝国道)を行く。風弱く、霧深し。雨上がりなので深呼吸の空気がうまい。


5時10分、早朝から家畜飼料車が頻繁に通る坂を上っていくと、エンレイソウあり。


5時30分、右手の樹林帯に朝日が差す。


5時35分、浦幌トンネル(327m)。


6時20分、霧が晴れてくる。JR根室本線としばらく並行する。


7時30分、上厚内駅の先でテント干し。40分間でほぼ乾いて軽くなる。


7時55分、根室本線としばし別れ、蛇行する厚内川にかかる高映橋より。


すぐに上厚内トンネル(255m)。


8時20分、さらに上り、直別トンネル(315m)。


8時50分、峠のトンネルを抜けると、今度は二号沢に沿ったゆるく長い下り坂。下り坂側の「ゆずり車線」は初めて見た。理由は何かな、などと考えながら歩く。 
後方、


前方。


9時20分、下ってくると牧草地。


牧草のロールがたくさん並んでいる。隣の畑地は、太陽の熱で湯気が立ちこめていた。


9時45分、JR直別駅手前に、「チュクベツ渡船場跡」の案内。「‥‥トカチ場所とクスリ場所の境で‥‥東蝦夷地の交通の要衝となった‥‥」、と。


9時55分、釧路市に入る。ここより国道38号線は十勝国道から釧路国道へ。


浦幌町と釧路市との境の直別川。


川の名の由来――チュク・ペッ(Chuk-pet 秋・川)と訳されている、と。


10時、直別駅にて休憩30分。


撮り鉄さんが一人いて、跨線橋の上で、10時19分に通過する札幌発の特急を待っていたので、しばらく雑談し、一緒に写真を撮った。


やや雲が広がってきた感じ。


駅の東側は湿原になっていた。


11時、路傍にエンレイソウ。




11時35分、尺別川。


川の名の由来――〔松浦氏「東蝦夷日誌」〕シャクベツ。名義は夏川也。或は曰く、夏になるや水乾く故なづくと。無(シャク)別とも云。乾(サツテ)別とも、夏(シャク)別なりとも云。
〔永田地名解〕サツ ベツ(涸川)。


11時45分、釧路原野の先に根室本線の鉄路。その向こうは太平洋。


12時、路傍に桜あり。エゾヤマザクラか?




12時5分、音別川。
上流側、


下流側。


川の名の由来は記されておらず。


12時50分、撮り鉄さんが言っていた、音別は大塚製薬と大塚食品の企業城下町、と。


大塚食品釧路工場。


根室本線特急が通過。


13時50分、ゆるいアップダウンがあり、パシクル沼を遠望。パシクルとはカラスのこと。


14時5分、馬主来(パシクル)沼。




14時30分、パシクル パーキングエリアの隣の潮騒が聞こえる草地にテント設営。宿泊、無料。



2015年 第51日(佐多岬より113日)

歩数  52960歩    (佐多岬より累計  5797885歩)
距離  34㎞       (佐多岬より累計  3868.5㎞)
費用  1853円     (佐多岬より累計  525241円)



2015年 徒歩の旅 第50日  浦幌町・農林水産直売所横へ

2016年05月18日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月20日(水) 霧のち晴 (大樹町・晩成温泉
                         ~浦幌町・農林水産直売所横)




4時40分、出発時は霧雨。晩成温泉は霧の中。ゴア雨具と傘で行く。温泉はよかったが、2度入ったのでちょっとのぼせたか、やや寝不足。今日は長丁場ゆえ焦らずに行こう。


雨はすぐに止んで、霧の中、道道881号線を歩く。


道なりに、生花苗沼(オイカマナイトー)の湿原に沿って行くと、


5時40分、湿原の中に丹頂鶴が一羽いた。


5時55分、ゆるく上っていくと、牧場の近くにこんな標示あり。


6時10分、霧が徐々に晴れるはじめる。依田橋より生花苗川。上流。


下流。


6時15分、小高い丘の上に並ぶ白樺。


こちらは何の木か? 何かの境界線になっているようだが。


6時30分、ふたたび丹頂鶴。


6時45分、国道336号線に入る。この辺り、国道336号線は「ナウマン国道」と呼ばれている。幕別町にあるナウマン象発掘の地の傍を通っているから、だそうだ。

6時55分、先ほどの生花苗川の上流。
アイヌ語河川名:オイカ・ナイ
意味:またがり越えられる川、と。


川の隣の土の上に、今度は3羽。




途中、自動車で来て川エビを獲っている親子3人と出会った。

7時40分、豊頃町に入る。


8時30分、湧洞川。上流。


下流。


「アイヌ語河川名:ユ・ウン・ドー(Yu-un-do)
意味:十勝川の川口、大津から少し南に下った海岸に湧洞沼があり、その沼に注いでいる川」、と。
釣屋の男性が2人いた。橋の上からのぞいたら、20センチ位の魚影が動いた。


9時、見晴らしの良い丘陵地を行く。


9時30分、晴れて日が差すと滴る緑。


11時25分、十勝河口橋(928m)にて大河十勝川を渡る。


下流の河口側が見たかったのだが、道路をわたれず、上流側のみ。


広すぎて、24mmの広角レンズでも1枚にはおさまりきらず。


川の名の由来は
「アイヌ語でトカプウシイ(乳房・ある・所)
・河川が東西二口に分れ、乳が出る如く、流れが途絶えることがなかったため。諸説あるが、これが有力な説である。」、とあり。


11時40分、強風の十勝川を渡れば、浦幌町。


13時、満開のタンポポ。


13時30分、国道336号線は、浦河から151㎞にて、国道38号線(十勝国道)に吸収される。国道38号線は、たまに乗用車が通るものの、ほとんどが大型の家畜飼料車。その他に、牛乳運搬車や木材運搬車が少々。まさに帯広平野の一端を歩いている、ということを実感する。


13時55分、道は根室本線に沿っていく。


14時30分、浦幌川。


川の名の由来――アイヌ語の「オラプ・ホロ」の急言で山シャクヤクの群生地の意味か、とあり。


15時、浦幌駅近くにて、今夜の泊まり場をどこにしようかと考え、周囲を回ってみたが、浦幌森林公園のキャンプ場はオートキャンプ場、道の駅はまだ営業中。
結局、道の駅手前のパーキングにあった売店にたのんで、17時の店の終了後に、横の空き地に一晩テントを張らせてもらえることになった。売店の正式名は、「農林水産直売所 ザ・ベジタブルショップ21」。
時間が来るまで、ソフトクリームなどを買って食べながら、店の女店員と話したりした。

17時30分、設営完了。宿泊、無料。


そばに大きなエゴの木があり、満開の花びらが揺れていた。





2015年 第50日(佐多岬より112日)

歩数  62663歩    (佐多岬より累計  5744925歩)
距離  46㎞       (佐多岬より累計  3834.5㎞)
費用  1293円     (佐多岬より累計  523388円)



2015年 徒歩の旅 第49日  大樹町・晩成温泉へ

2016年05月14日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月19日(火) 雨 (広尾町・広尾キャンプ場~大樹町・晩成温泉)



4時40分、キャンプ場を出発。予報は雨ゆえあらかじめゴア雨具着用。さっそく霧雨が飛んでくる。




野塚集落まで、ただただ霧雨の中を歩く。

6時少し前より、霧の粒が大きくなり、傘使用。交通量は余りなく、時折の大型車通過の際だけ傘の扱いを注意する。

神社にて、小休止。コンビニのレジ袋で、スパッツ風のインスタント足ごしらえ。

5時50分、野塚小学校は、平成27年3月で廃校になっていた。2カ月半前までは子供たちの歓声が聞こえていた校舎は、寂しそうなたたずまい。




6時50分、豊似川。
上流と、


下流。


「アイヌ語河川名:Toi Toi-an-i
意味:土・泥ある・川」、とあり。


7時10分、豊似の防災ステーションで小休止。前回の旅の時、大別狩の防災ステーションで一息つけた記憶があり、その気でいたが全く別物。ただ、ザックを下せただけでもよしとするしかない。

その後、雨は本降りになる。

ダンプカーや輸送車が時々通る程度だが、歩道がなくなったため、すれ違う際に巻き起こす旋風に振り回される。中には、親切に反対車線にまで大きくふくらんで、被害を軽減してくれるドライバーもいる。

8時、広―い牧草地帯を行く。


8時30分、紋別大橋。広尾町から大樹町へ。


紋別川、上流。


下流。


「アイヌ語河川名:モ・ペッ(Мo-pet)
意味:静かな川、又は遅流の川」、とあり。


8時40分、牧草地の他に野菜畑も。


9時15分、歴船川は大きな川で川幅も広く、内陸部なので、上流と下流の区別がつけづらい。
上流、


下流。


「アイヌ語河川名:Pe-rupne Pe-rupne-nai
意味:水大なる処、水・大きくなる・川」、とあり。


9時30分、林の奥に、オオバナエンレイソウ。


アップダウンを越えて、両側が牧場の地帯を通過。

11時、当縁川。
上流。


下流。


「アイヌ語河川名:トープイ(Tō-pui)
意味:沼口の川、又は沼の草の名」、とあり。


道道55号線との交差点にあった自販機のところでようやくザックを下ろし、肩をぐるぐる回す。

11時20分、幕別町に入る。いったん雨が止むが、下はどこも濡れており、ザックを下ろすのに適当な場所がないので、背負ったまま。



12時、ふたたび大樹町へ。


晩成温泉への入口の自販機のところで、もう一度ザックを下ろせた他は、ずっと背負ったまま。
約5㎞の道を再び強まった雨足の中を歩き、

13時30分、晩成温泉に到着。当初計画では温泉の先のキャンプ場で、と思っていたが、雨が強く、明日の行動と濡れたテントの処理を考えて、温泉に泊まることにした。宿泊、素泊まり 3000円。


さっそく温泉に入り冷えた体を温めた。お湯の色はヨード成分のため茶色がかっていた。晩成温泉は、湯に浸かりながら海が見られる、というのが売り文句なのだが、あいにくの雨で見通しはきかず。露天もただ雨に濡れるだけなので、そうそうに引き上げ、中でゆっくり浸った。
宿泊者は、何度温泉に入ってもよいとのことなので、夕食後もう一度入りに行った。
衣類の洗濯をした。


今日の行程の特徴は、時々曲がる以外は、両側が樹林や牧草地帯の一直線の道路が1時間くらい続く。それが5~6回組み合わさったもの、という感じだった。


2015年 第49日(佐多岬より111日)

歩数  40335歩    (佐多岬より累計  5682262歩)
距離  36.5㎞     (佐多岬より累計  3788.5㎞)
費用  3380円     (佐多岬より累計  522095円)



2015年 徒歩の旅 第48日  広尾町・広尾キャンプ場へ

2016年05月13日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年5月18日(月) 晴 (えりも町・民宿 仙庭~広尾町・広尾キャンプ場)



6時40分、民宿の女将さんと連泊の同宿者に見送られて、出発。


旗を振って見送られたのは初めて。むかしのユースホステルの名残かな。女将さんからおにぎりを貰った。女将さんの話では、冬はほぼ半年の間お客は来ない。吹雪と強風で建物が壊れるのではないかと怖くなってしまう。シーズン中も若い人はほとんど来ないし、相部屋は好まれない。そもそも若者が昔のようには旅をしなくなっているのではないか。遠からず、宿を閉めようと思っている、大分県に戻って小さな宿をやってみたい、と。一つの時代が過ぎ去っていく、ということか。寂しいかぎり。

晴れて、風弱し。「海岸緑化造成地」や、クロマツやハンノキの人工林、保安林など、両側が防風林に挟まれた道道34号線を行く。










7時15分、道路上にキタキツネ。


(拡大)


自動車はほとんど通らず。空は抜けるように青く、左手の日高山脈の山々(山頂の建物は自衛隊日高駐屯地)、


右手の海もくっきり見える。








牧場もあり。こちらを見つめる牛たち。


8時、北緯42°地点の碑。


観音堂(左)と、一石一字塔(右)。


一石一字塔は、海難事故犠牲者の供養と航海の安全祈願のため一八〇六年に建立された、と。


右手の百人浜の展望台は、修繕工事のため使用不可。


真下まで行って見たが、案の定上れず。


左、悲恋沼というロマンチックな名前の沼と、日高山脈南部の山々(山座同定はできず)。


悲恋沼は、和人の若者とアイヌの娘の悲恋の伝説による。

振り返れば、稜線に自衛隊駐屯地遠く。


8時55分、こんどは馬の牧場。


国道336号線(襟裳国道)に合流し、庶野漁港を見て行く。襟裳岬の東側にも昆布乾燥場あり。


10時10分、回り込んだところに「これより黄金道路」の碑。




前方に、断崖絶壁ゆえ巨額建設費投下の「黄金道路」。




10時15分、フンコツトンネル、


10時20分、白浜トンネル(622m)、


岩礁。


咲梅トンネル(473m)過ぎて、


「北海道で一番長い道路トンネル」の、えりも黄金トンネルへ。




4941mを62分で通過。1時間以上トンネルの中にいると、体は冷えきってしまうし、


気晴らしに懐メロを歌いながら行くが、ちょっと気分が変になる感じ。

出たところのバス停で、おにぎり休憩。

しばらく日に当たりながら歩くことの有難味を感じつつ行き、

12時5分、猿留川。


川の名の由来――永田地名解によると、サロルン・ウシ(鶴多き処)あるいはシャリオロ(湿沢の処・葦原の処)が語源であろうとされている。


落石・崩壊防止のネット状の補強と「津波注意」警告板。


12時20分、荒磯トンネル。


12時30分、目黒トンネル。トンネルは舗装中で、隣の覆道を行く。


覆道内で、チャリで日本一周中の京都の大学生に出会い、キャンデーをあげた。お互い頑張ろうとエール交換。

さらに行くと、車が停まり、男性が、帯広に行くから広尾まで乗せてくれる、とのこと。甘える。
彼は昆布専門の漁師。他の人は昆布の他にカレイ、エビ、ツブガイなどの漁をする。黄金道路が開通する以前は内地に出稼ぎに行ったが、開通後は地元で食べていかれるようになった、とのこと。

13時、広尾町に入る。


13時30分、フンベの滝で停まってもらい写真を撮る。彼の話では、昔はナイアガラの滝のように一面に流れ落ちていたのだが、徐々に水量が減ってしまった、と。






13時40分、黄金道路終点で降ろしてもらい、お礼を言って別れた。




炎天下の広尾の町中を行き、途中の歯医者で差し歯を直してもらう。運悪く昼休み中で1時間ほど待たされたが、自動車に乗せてもらったので埋め合わせ。暑い中を歩いてきたので、待合室の冷房も気持ちよかった。今日は北海道中で広尾が一番高温だった、と事務員の女性が言っていた。(※歯科治療費は計算外)

15時30分、十勝神社にある、北海道に初めてできた道の記録「東蝦新道記・彫字板」。


その後は、楽古川を目指し、

16時5分、楽古川上流側、


河口側。


川の名の意味――猟虎(らっこ)が流れ寄りつく川


川の先の表示に従って右折。キャンプ場へ。

「日本一のエンレイソウの群落地」で、大木の根元に白い大輪のエンレイソウが盛りだった。




16時30分、キャンプ場はまだ営業しておらず、キャンプ場横の草地に設営。宿泊、無料。


2015年 第48日(佐多岬より110日)

歩数  51163歩    (佐多岬より累計  5641927歩)
距離  48.5㎞     (佐多岬より累計  3752㎞)
※途中、一部自動車に乗せてもらった。
費用  674円      (佐多岬より累計  518715円)