2015年6月1日(月) 晴 (標津町・民宿 モシリパ
~羅臼町・「旅人の宿 とおまわり」)
3時過ぎにトイレにたったら、東天が明るくなってきたので、デジカメを取りに戻って写真を撮る。
3時15分、国後島。
3時25分、崎無異川。
3時45分、国後島から日の出。
3時47分、いっぺんに明るくなった。
朝日を浴びた民宿モシリパ。
その後、部屋に戻り、1時間ほど寝た。
7時30分、朝食時に、同宿者2人のうちの一人、郵便局の集配労働者の若者と話。当方、34年間ヒラの集配労働者だった故、営業活動のばかばかしさなど話がはずんだ。やはりヒラがいいということで意見が一致。郵便局の仕事ばかりにふりまわされないように、理不尽なことが多いがへこたれないようにと、柄にもなく先輩面してエールを送った。
宿の朝食のハラス焼きもとても美味かった。
8時、オーナー夫妻と同宿者2人に見送られて出発。奥さんから、途中で食べるようにと、行者ニンニクの生姜付けのおにぎりを貰った。ほとんど雲なし。国道335号線(国後国道)を北上する。
8時15分、元崎無異川、上流側。
少し遡行すると「元崎無異川さけ・ますふ化学場」がある(はず)。
8時25分、樹林の隙間から、国後島。
左右の樹林の間、前方に雪を頂いた知床連山。
8時45分、ここから国後島までの距離は20㎞余り。もしも歩いて行かれれば、6時間足らずだ。
8時55分、知床が近づく。
9時5分、植別川にかかる植別橋。羅臼町に入る。
植別川、上流方面。
9時10分、羅臼岳。
9時15分、峯浜の集落で、浜で羅臼岳の写真を撮っていたら、漁師のお爺さんがコーヒーを飲んでいきな、と言って冷たい缶コーヒーをごちそうしてくれた。今の季節は、定置網の準備で忙しいのだそうだ。これから秋に向けて最盛期になる、と。
少し行ったら、今度はお婆さんからお茶のペットボトルの差し入れがあり、有難くいただいた。
9時45分、陸志別川。上流側。
下流側。
陸志別橋。
9時50分、廃校になった植別小学校のあとに、羅臼町郷土資料館があり立ち寄る。入場は無料。
資料はきわめて充実していた。素晴らしい。
羅臼地方の、先史時代から近代までの出土物や、産業、アイヌ文化、生物等々。
かつてのニシン漁様子。
アイヌの生活。
松前藩家老の蠣崎波響が描いた『蝦酋列像』の12人のアイヌ酋長たち。彼らは寛政元年(1789年)の『クナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)で、松前藩に協力して蜂起したアイヌ人を裏切った連中。
‥‥その他、載せきれず。
松浦武四郎と地図。
さらに、ヒカリゴケを見ることが出来た。知床ではヒカリゴケは絶滅寸前なので、見学などは立ち入り禁止にされおり、これは栽培されたもの(上半分はシェード)。
そして、懐かしい映画『地の涯に生きるもの』のコーナー。あれは中学1年のころだったか。当時は学校で映画を見に行くことが時々あって、その時に見た記憶がある。森繁久彌が扮した主人公が印象的だった。あれから約60年である。
しかし、このままでは、これらの貴重な資料に接することができる人間は、極めて限られているだろう。実にもったいない。「宝の持ち腐れ」と言っては悪いが、なんとかもっと多くの人々が見ることのできる機会を作ることが出来ないものか。あっという間の1時間だった。
10時50分、知床連山がどんどん近づいてくる。
両側が笹と樹林の一本道を羅臼峠に向けて徐々に上っていく。晴れて暑く、木陰もなく、高度を上げるとまるで太陽に接近していくようだ。
11時20分、茶志別川を大きく跨ぐ茶志別橋。ずいぶん上ってきた。
上流側。
下流側。
11時30分、残雪発見。木陰もあり、小休止。残雪をかじり、モシリパの奥さんにもらったおにぎりを食べる。
11時45分、幌萌小沢川にかかる鷗鳴橋。
幌萌小沢川、上流側は谷深し。
橋を渡った先は、知床峠まで31㎞、羅臼市街まで14㎞。
その後、4つのスノーシェルターを抜ける。中は日差しが遮られて涼しく快適。
12時5分、茶志別スノーシェルター。
幌萌スノーシェルター、
海望スノーシェルター、
12時25分、羅臼峠スノーシェルター。標高80m。
あとは、一気に幌萌の集落に向けて下っていき、
12時50分、春刈古丹川。上流側。
下流側。河口にカモメ。
川の名の由来――この地名の由来は、アイヌ語のシュム・カル・コタン(shum-karu-kotan)からきている。「鱒の油を搾りたる処」という意味、と。
海辺まで下りてきた。
あとは市街地をどんどん行く。
13時40分、あっ、あそにもカモメ。
13時50分、あまりに暑いので、セイコマで「野菜1日これ1本」を飲み、さらにアイスを食べていたら、車から降りてきた運転手が、「さっきシェルターのとこで見たけど、ずいぶん早ぇなあ。」と言った。するとセイコマの女店員も、「私もさっき見た。」と言う。――あまりダレた恰好して歩けないな。
14時35分、松法漁港。あと少し。
15時、宿に着く。宿泊、2食付き 4800円。
一休みの後、明日の行動食、夕食などをコンビニに買い出し。
宿のオーナーは、現役のトライアスロンの選手であり、また知床のガイドでもある。したがって、明日の知床越えに関する注意事項を聞くには最適の人。まず、鈴を鳴らしていくこと。もしであっても大声を出してはいけない。クマの目を見続けていればふつうは向こうが立ち去る。自分から逃げてはいけない。つまり、自らがヒグマのテリトリーの中にいるのだということを常に忘れないこと、等々。また、知床の自然環境保護のことなど教えてもらった。
宿の特筆事項は、その食事の量と内容。いろいろの魚の刺身、カレイのから揚げ、イカ焼き、なまこ、ホタテ、いかすみ、鮭のマリネ、さかな煮つけ、その他。終わりの方は満腹で手を付けることが出来なかった。
2015年 第62日(佐多岬より124日)
歩数 37527歩 (佐多岬より累計 6326128歩)
距離 23.5㎞ (佐多岬より累計 4233.5㎞)
費用 6021円 (佐多岬より累計 564527円)
~羅臼町・「旅人の宿 とおまわり」)
3時過ぎにトイレにたったら、東天が明るくなってきたので、デジカメを取りに戻って写真を撮る。
3時15分、国後島。
3時25分、崎無異川。
3時45分、国後島から日の出。
3時47分、いっぺんに明るくなった。
朝日を浴びた民宿モシリパ。
その後、部屋に戻り、1時間ほど寝た。
7時30分、朝食時に、同宿者2人のうちの一人、郵便局の集配労働者の若者と話。当方、34年間ヒラの集配労働者だった故、営業活動のばかばかしさなど話がはずんだ。やはりヒラがいいということで意見が一致。郵便局の仕事ばかりにふりまわされないように、理不尽なことが多いがへこたれないようにと、柄にもなく先輩面してエールを送った。
宿の朝食のハラス焼きもとても美味かった。
8時、オーナー夫妻と同宿者2人に見送られて出発。奥さんから、途中で食べるようにと、行者ニンニクの生姜付けのおにぎりを貰った。ほとんど雲なし。国道335号線(国後国道)を北上する。
8時15分、元崎無異川、上流側。
少し遡行すると「元崎無異川さけ・ますふ化学場」がある(はず)。
8時25分、樹林の隙間から、国後島。
左右の樹林の間、前方に雪を頂いた知床連山。
8時45分、ここから国後島までの距離は20㎞余り。もしも歩いて行かれれば、6時間足らずだ。
8時55分、知床が近づく。
9時5分、植別川にかかる植別橋。羅臼町に入る。
植別川、上流方面。
9時10分、羅臼岳。
9時15分、峯浜の集落で、浜で羅臼岳の写真を撮っていたら、漁師のお爺さんがコーヒーを飲んでいきな、と言って冷たい缶コーヒーをごちそうしてくれた。今の季節は、定置網の準備で忙しいのだそうだ。これから秋に向けて最盛期になる、と。
少し行ったら、今度はお婆さんからお茶のペットボトルの差し入れがあり、有難くいただいた。
9時45分、陸志別川。上流側。
下流側。
陸志別橋。
9時50分、廃校になった植別小学校のあとに、羅臼町郷土資料館があり立ち寄る。入場は無料。
資料はきわめて充実していた。素晴らしい。
羅臼地方の、先史時代から近代までの出土物や、産業、アイヌ文化、生物等々。
かつてのニシン漁様子。
アイヌの生活。
松前藩家老の蠣崎波響が描いた『蝦酋列像』の12人のアイヌ酋長たち。彼らは寛政元年(1789年)の『クナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)で、松前藩に協力して蜂起したアイヌ人を裏切った連中。
‥‥その他、載せきれず。
松浦武四郎と地図。
さらに、ヒカリゴケを見ることが出来た。知床ではヒカリゴケは絶滅寸前なので、見学などは立ち入り禁止にされおり、これは栽培されたもの(上半分はシェード)。
そして、懐かしい映画『地の涯に生きるもの』のコーナー。あれは中学1年のころだったか。当時は学校で映画を見に行くことが時々あって、その時に見た記憶がある。森繁久彌が扮した主人公が印象的だった。あれから約60年である。
しかし、このままでは、これらの貴重な資料に接することができる人間は、極めて限られているだろう。実にもったいない。「宝の持ち腐れ」と言っては悪いが、なんとかもっと多くの人々が見ることのできる機会を作ることが出来ないものか。あっという間の1時間だった。
10時50分、知床連山がどんどん近づいてくる。
両側が笹と樹林の一本道を羅臼峠に向けて徐々に上っていく。晴れて暑く、木陰もなく、高度を上げるとまるで太陽に接近していくようだ。
11時20分、茶志別川を大きく跨ぐ茶志別橋。ずいぶん上ってきた。
上流側。
下流側。
11時30分、残雪発見。木陰もあり、小休止。残雪をかじり、モシリパの奥さんにもらったおにぎりを食べる。
11時45分、幌萌小沢川にかかる鷗鳴橋。
幌萌小沢川、上流側は谷深し。
橋を渡った先は、知床峠まで31㎞、羅臼市街まで14㎞。
その後、4つのスノーシェルターを抜ける。中は日差しが遮られて涼しく快適。
12時5分、茶志別スノーシェルター。
幌萌スノーシェルター、
海望スノーシェルター、
12時25分、羅臼峠スノーシェルター。標高80m。
あとは、一気に幌萌の集落に向けて下っていき、
12時50分、春刈古丹川。上流側。
下流側。河口にカモメ。
川の名の由来――この地名の由来は、アイヌ語のシュム・カル・コタン(shum-karu-kotan)からきている。「鱒の油を搾りたる処」という意味、と。
海辺まで下りてきた。
あとは市街地をどんどん行く。
13時40分、あっ、あそにもカモメ。
13時50分、あまりに暑いので、セイコマで「野菜1日これ1本」を飲み、さらにアイスを食べていたら、車から降りてきた運転手が、「さっきシェルターのとこで見たけど、ずいぶん早ぇなあ。」と言った。するとセイコマの女店員も、「私もさっき見た。」と言う。――あまりダレた恰好して歩けないな。
14時35分、松法漁港。あと少し。
15時、宿に着く。宿泊、2食付き 4800円。
一休みの後、明日の行動食、夕食などをコンビニに買い出し。
宿のオーナーは、現役のトライアスロンの選手であり、また知床のガイドでもある。したがって、明日の知床越えに関する注意事項を聞くには最適の人。まず、鈴を鳴らしていくこと。もしであっても大声を出してはいけない。クマの目を見続けていればふつうは向こうが立ち去る。自分から逃げてはいけない。つまり、自らがヒグマのテリトリーの中にいるのだということを常に忘れないこと、等々。また、知床の自然環境保護のことなど教えてもらった。
宿の特筆事項は、その食事の量と内容。いろいろの魚の刺身、カレイのから揚げ、イカ焼き、なまこ、ホタテ、いかすみ、鮭のマリネ、さかな煮つけ、その他。終わりの方は満腹で手を付けることが出来なかった。
2015年 第62日(佐多岬より124日)
歩数 37527歩 (佐多岬より累計 6326128歩)
距離 23.5㎞ (佐多岬より累計 4233.5㎞)
費用 6021円 (佐多岬より累計 564527円)