そぞろ神の物につきて―日本列島徒歩の旅の記録

  (2008年 日本海側)
  (2011年 四国八十八ヶ所)
  (2014・15年 太平洋側)

2015年 徒歩の旅 第21日  大船渡市・三陸峠へ

2016年04月16日 | 2015年太平洋側の旅-後半
2015年4月21日(火) 曇のち晴 (陸前高田市・マイウスユニウス
                               ~大船渡市・三陸峠)




出発前、30分ほど宿の管理人さん(取締役)の話を聞いた。彼の考えでは、①三陸の今の姿は、日本の地方の未来の姿であり、東日本大震災がそれを増幅させたに過ぎない。②その中でも、陸前高田が最もひどいし、それゆえに未来像をはっきりと示しており、我々が試されている、③小規模でも、構成員が楽しく日々を送れる社会を如何にして作るかが課題である、④震災ボランティアでこちらにきて、ここで自分の将来の道を見つけ、移住して活動している若者も何人かいる、⑤大手の新聞記者やカメラマンがたくさん来たが、彼らのものは他人を感動させようとするプロ意識が働き、地元ではすぐに飽きられる、等々。そして、素人の目で現状をよく見ていってほしい、帰ったらそれを周囲の人に伝えてほしい、と言われた。

8時10分、宿を出発。ひんやりとした弱い風。雲の隙間に青い空が見える。


昨日の道を国道45号線との合流点まで戻る。




昨日は雨のため気が急いていたが、今朝あらためて見ると、実に不思議な光景、異様な姿だ。「愚公山を移す」という言葉があるが、かさ上げによる新しい街づくりまで一体どれほどかかるのか見当もつかない。














9時、3.11以前は「道の駅高田松原」だった「タピック45」という震災遺構を見る。






中はぐしゃぐしゃになっていた。


「追悼施設」で犠牲者の冥福を祈り、


となりにある石川啄木歌碑、
「頬につたふ 
 なみだのごはず
 一握の砂を示しし人を忘れず」
を見てから、




「陸前高田復興街づくり情報館」を見学。被災前の陸前高田市の様子や、被災時、そのごの状況などが展示されていた。






















見学後、歩きはじめたら、後方から「川崎の人ですか?」との声。見ると中年男性がいて、「情報館の訪問者名簿にあったから。自分も神奈川で、横須賀から来た」、と。これまでも2回ほど来たのだが、気になってまた来た、と言っていた。記憶し考え続けることの重要さ。

工事現場の先に、


9時35分、「下宿定住促進住宅」。こちらも震災遺構で、津波が5階建ての4階部分までを突き抜けたことがよくわかる。5階は無傷。完成したばかりで入居者はまだなかった、とのこと。


陸前高田の工事現場に別れを告げ、


坂を上って通岡峠へ向かう。

10時30分、三陸道との交差点にある「箕石」。


10時45分、大船渡市に入る。


峠から少し下ったところの駐車場に通岡展望地あり。小休止。無人で、水あり、トイレあり、東屋あり、展望台あり、と野宿派のオアシスのような‥‥。




残念ながら、海側は前景の樹木が邪魔をしている。


東屋で小休止。国道45号線を走っている2人のドライバーと話。彼らの被災の順位では、高田が一番ひどい、次いで志津川、女川だ、釜石などはまだ部分的だ、と。

峠から下って、大船渡の市方面に向かう。分岐で、県道230号線へ。

11時45分、大船渡湾。




大船渡は湾の入口あたりで、家屋などに大きな被害が出たようで、「かもめの卵」というお菓子で有名なさいとう製菓も移転していた。ただし、大船渡市街は地形が複雑で、何段もアップダウンがあったので、湾の奥から盛川の方は比較的被害が少なかったのかもしれない、と思った。

12時20分、大船渡港。


盛橋を渡り、のんびり静かな坂を上り、


14時30分、五葉神社。


14時45分、大船渡北ICへの道との分岐。


15時40分、坂を上りきった先に三陸トンネル。


15時50分、トンネルを抜けたところに、適地あり。

当初は、道の駅で泊まろうかと思っていたが、道の駅は車がうるさいし、ここから3㎞ほどの距離だから、テント泊の強みを発揮して、今夜はここに決定。



大船渡への道の桜は、昨日の雨と今朝の風で大部分散ってしまった。ケータイの圏外なので家へのメールは明朝にする。


2015年 第21日(佐多岬より83日)

歩数  44833歩    (佐多岬より累計  4296674歩)
距離  31  km     (佐多岬より累計  2839㎞)
費用  310円      (佐多岬より累計  415227円)