川本ちょっとメモ

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岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から その9 餓死戦線 方面軍山下司令部の食事は豊か

2013-08-21 03:31:36 | Weblog

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  ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。


<餓死戦線 山下奉文陸軍大将司令部の食事>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p256――

久田 戦後、栗原(第14方面軍参謀)の書いた『運命の山下兵団』を読んだ時、私はびっくりした。戦闘中なのにバギオの司令部では、ウイスキーを飲み、牛肉の缶詰を食べ、「アルコールも酔いがまわり、食卓もデザート・コースに入って、やはり缶詰の果物が出たころ……」などという記述があるでしょう(同書新版p174)

それから、6月中旬にキヤンガンの司令部の食糧部屋が土砂崩れで埋もれた時の記述も驚いた。「樽沢副官が何より困ったのは、缶詰、ウイスキー、米など最後の虎の子の食糧が、すっかり潰れて埋まってしまったことである」(同書p240)

私たちはもうとっくの昔に飢餓状態にあり、芋の根やヘビ、昆虫などを食っていた頃、山下大将の司令部ではウイスキーまであったということでしょう。8月になっても、彼らは「三度の食事は採っていたが、次第に分量は減じてきた」(同書p276)という。

私たちは司令部も自分ら同様、ひどい食事をしているとばっかり思っていたから、体がカーッと熱くなりました。

水島 「食い物の恨みは恐ろしい」ですね。それにしても、栗原参謀が書いたものを読んでいると、前線の壮絶な話とはうってかわって、なにか別世界の話のような感じがしたことを覚えています。

高木俊朗『ルソン戦記』にも、1945年4月に旭兵団の吉原中尉が山下大将の司令部へ連絡に行った時の話が紹介されています(同書p480以下)。吉原中尉はそこで、スペイン風の豪華な邸宅で昼間から幾皿の料理を食べて、ウイスキーをあおっている管理部長に会う。

ベンゲット道で死闘が繰り広げられ、「斬込み」で多くの兵隊が死んでいるまさにその最中である。中尉は腹が立ってきて、「ぶった斬ってやろうか」と思った。食堂で出されたカレーライスを我を忘れて口に運ぶ。しかし、食べ終わり、気持が落ち着くと、カレーの味が苦いものに変わった。「なんという、ばかばかしさだ」。吉原中尉は大声でどなりたかった。

再び司令部に行った時、山下大将の当番兵が顔色を変えて走りまわっている。「閣下の夕食のお膳がかっぱられたのです」。吉原中尉は大声で笑いたかった。日本軍の堕落、崩壊はここまで来た。

4月15日に方面軍司令部はパンパンに移動するが、吉原中尉はそこで、アメリカ風の邸宅の地下倉庫に山積みになっているスコッチ・ウイスキーを見つけた。ウイスキーはドラム缶二本に満たしても、まだ残っていた……。こんな話です。

久田 ひどいね。堕落だね。移動する時というのは命がけなんですよ。いつ砲撃や爆撃を受けるかわからないからね。なのに移動の度に、高級ウイスキーを運ばせていたわけでしょう。

山の中に入ってからもそれがあったということは、徒歩で兵隊たちが担いで行ったはずです。最も必要なのは食糧でしょう。満足に食事もとれない兵隊たちに重いウイスキーを運ばせる神経が憎い。私は栗原の本を読んだ時、もう腹が立って、体が震えました。

旭兵団の高級主計の兒玉實少佐は自分の当番兵に食糧を運ばせて自分だけ食べ、この当番兵を餓死させています。

つまり、高級将校と兵隊とでは、死は平等ではなかった。餓死にも階級による差があったといわざるをえない。

水島 この点を最も劇的に示したのが、メレヨン島のケースでしょう。「メレヨン部隊死没者及び生還者状況表」というのをもとに計算してみると、栄養失調死を含む「戦病死」の率は、将校30.3%に対して、下士官は60.4%、兵に至っては77.6%になる(『戦史叢書・中部太平洋陸軍作戦(2)』p588)。これは、餓死に歴然とした階級差があったことを示しています。


<部下を裏切る上官>

久田 自分の当番兵を餓死させた師団高級主計の兒玉實少佐については前述しましたが、師団長クラスにもそういう人間がいた。旭兵団長(第23師団長)の西山福太郎中将です。彼は、自分の居所近くに兵隊がうろうろすると危険だといって寄せつけず、兵隊たちは師団長の居所を避けて、ぐるりと遠回りして任務を遂行しなければならなかった。“師団長閣下”といえば、兵隊から見れば雲の上の人ですからね。

水島 西山中将はどうして兵隊を近づけなかったのですか。盗みでもするからですか。

久田 そうではなく、米軍はフンドシ一つ干してあっても砲撃目標にする。壕を掘ってその土が外に出ているだけで、そこに徹底的な砲爆撃を加えてくる。“アブ”と呼んでいた観測機がすぐ上から監視しているので、兵隊がウロチョロしているだけで、自分の近くに砲弾が落ちてくる。だから、自分のいる周囲をうろつかないようにと、兵隊を遠ざけたわけです。勝手なもんだね。

水島 まさにエゴイズムが軍服をまとつて歩いているという感じです。撃兵団(戦車第2師団)通信隊(長・菅野六郎少佐)にいた河村一朗氏は、1945年6月中旬ルソン島の山中で、「所持品そのまま全員集合」の命令で点呼や柔軟体操をやらされている間に、隊長らが兵隊の所持品をあさり、米や塩を奪って部下をそのまま置き去りにして逃走した事実を証言しています(『朝日新聞』1986年8月2日付「テーマ談話室・戦争」)

もうこうなると、上官の命令=「朕の命令」は高級将校の私利私欲の手段でしかないですね。

久田 こうした事例は偶然的なものではない。軍隊における官と部下の関係は本質的に民主主義と無縁です。だから、腐敗した高級将校を生む根源は、実は帝国軍隊の構造そのものに根ざしていると思うのです。


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