不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
★自分用メモは、新聞・Webなどのノート書きです。

岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から その3 重傷兵の頭の傷口で蛆が動く

2013-08-17 08:58:39 | Weblog

<関連記事クリック>
2013/08/14
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から1
2013/08/16
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から2 米軍上陸前に司令官脱出(南方軍・第4航空軍)
2013/08/17
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から3 重傷兵の頭の傷口で蛆が動く
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から4 アブラ虫、みみず、山蛭も食べて生き延びた
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から5 トリニダット橋の惨状・傷病兵殺害処置
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から6 カヤパ道の惨状――死体、死体、死体
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から7 飢餓状態の旭兵団
2013/08/20
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から8 人肉を食べる飢餓兵
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から9 餓死戦線 方面軍山下司令部の食事は豊か
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から10 飢餓戦線から少将を救う転属、塩の配給にびっくり
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から11 旭兵団 約19600のうち戦没約17000
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から12 フィリピン方面戦没者50万人 なぜやめられなかったのか
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から13 国体護持 (天皇制の維持)の3週間にも大量死
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から14 丸々太って捕虜になった最高指揮官の責任
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から15 こんな戦争なぜ始めた――昭和天皇の命令があったから
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から16 日本軍はフィリピン住民を殺し日本人の子どもも殺した
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から17 中曽根元首相の戦争体験と改憲論
2013/08/25
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から18完 人間が人間として生きられぬ社会をつくってはならない

   ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。


<米軍、マニラ占領>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p187――

久田(当時主計少尉)がポソロビオ東方丘陵陣地にいた頃、米軍はマニラめがけて急進していた。クラーク方面を守っていた日本軍約3万は、1945年1月25日から1週間ほどで米軍によって撃破されてしまった。生き残った者はわずか1100名にすぎなかったという。

1945年2月3日、マニラ市内に米軍の一部が進入。以来、突入した米軍とマニラ守備隊との間で激しい市街戦が展開され、多くの市民が巻き添えになり、市内は焦土と化した。司令官・岩淵少将も自決。2月26日に組織的戦闘を終了。米軍は3月3日にマニラを完全占領した(『ルソン決戦』p172~258参照)。

マニラ攻略と並行して、米軍はバターン半島に上陸してこれを制圧。コレヒドール島の日本軍は2月27日までに壊滅した(同書p268~273)。ルソン島の中心であるマニラの占領により、ルソン戦の大勢ははぼ決定されたが、久田のいた北部ルソン地区では、血みどろの戦闘が続いていた。


<退却始まる>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p188――

久田の所属した旭兵団野戦重砲兵第12連隊第2大隊の方面でも、迫り来る米軍との間で激しい砲撃戦が展開されていた。

旭兵団正面に展開していたのは、米陸軍第33歩兵師団(特に第36歩兵連隊)である。米軍指揮官たちは、ワシントンの誕生日である2月22日払暁に総攻撃を開始することを決定(『米陸軍第33歩兵師団戦史』p25)、この日、旭兵団の歩兵71連隊陣地のある488高地、その東側丘陵(ラバユグ陣地)方面に猛攻撃を加えている。

水島 陣地はいつ撤退することになったのですか。
久田 2月22日か23日頃だったと思います。

久田の所属する第2大隊の第4中隊第2砲車小隊長の三橋由雄少尉はいう。
「2月20日頃私達中隊に、後方の山に向い夜の間に転進するよう、夕方に命令が来た。何時の日か帰って来るべく見取図を書いて、夜明前に山に入った。山中は敵に発見されないよう夜行軍となった。地形の悪い細い道を歩いた折など途中転落して不明となった者も3名あり、マラリアにかかった兵員も多く、皆疲労していた。第1回の戦闘では負傷者はあったものの戦死者は1名もなかったのに、転進となるや急に落伍者が出て来た」(三橋「緒戦の思い出(1)」『成高子会』2号7頁)

こういう状況の中で、久田の退却行がはじまる。

久田 夜になり、陣地前方の川を渡って少し下ると、そこは米軍が集中砲火を浴びせている地点でした。先へ進むにはどうしてもその場所を通らなければならない。あたりは自動車や大砲が破壊されて散乱し、くすぶっている。死体の腐乱臭がムワッと鼻にきました。

私はマラリアのせいで心身ともに弱っている。でも、そこを無我夢中で走り抜け、山を駆け上がり、谷を越えて、走れるだけ走りました。突然、私の心臓が痛みはじめ、そのまま道端に倒れてしまった。心臓神経症の持病があり、しかもマラリア患者の私が、なぜあんなに走ったのか。走らなければ不安でたまらなかったのです。暗闇の中で弾がどこから飛んでくるかわからないという恐怖が、私を体力の限界まで駆り立てたのだと思います。

しばらくすると、あれだけ激しかった心臓の鼓動がやや治まってきました。夜通し歩いて、夜中に竹薮に囲まれた一軒家にたどり着いた。その後ろの山は、ずーつと杉の木立におおわれていました。私たちはそこの物置で休むことにした。

どんどん退却してくる兵隊たちも、私たちの所で一息入れていくのですが、ある兵隊は、米軍の兵士が日本軍の壕の一つひとつに馬乗りになって、火炎放射器で中の人間を焼き殺すのを目前で見たと話してくれました。

水島 その兵隊はおそらく71連隊の兵隊でしょう。488高地を攻めた米陸軍33師団の戦史は、2月22日の戦闘についてこう書いています。

「恐ろしい弾幕射撃の後に心の落着を回復しようとしても、敵はこのすさまじい殺戮を阻止する如何なることも出来なかった。手榴弾が機関銃座に投げこまれM1小銃が丘の頂きをよろめいて行く日本兵を射ち倒し、火焔放射器が日本軍の洞窟を火を吹く溶鉱炉と化した。文字通りであった。発煙弾が落ちてちょうど30分後に、488高地の上で生きているのは、すごみのある顔をし満足した米兵のみであった。1人の日本兵も生きて高地を逃げるのが見られなかったし、1人の捕虜もなかった」(『米陸軍第33歩兵師団戦史』p27)

久田 とにかくすごい戦闘だったのです。私たちがその物置で休んでいると、外で人の声がする。出てみると、兵隊が四、五人いて、木の下に一人を横たえているのです。聞いてみると、歩兵砲を引いてきたのだが、途中、砲弾の破片で一人が後頭部を削られ、砲を捨ててかついできたそうです。

兵隊はすでに虫の息で、包帯の中から蛆が出てきて、傷口のまわりを動きまわっています。蛆が動くので、その痛みでうめき通しでした。私は物置に入って眠ろうとするのだけれど、うめき声がひどくて眠れない。明け方になってやや静かになったと思ったら、その兵隊は息を引き取っていました。


コメント