川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
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大企業は自己責任と言って弱者を切り捨て、不況になれば政府の補助金頼み

2009-10-28 12:40:58 | Weblog


毎日新聞朝刊2009.10.28.読者投稿欄(62歳男性)から転載します。


 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

世界不況で各国が経済対策を実施している。日本ではエコをテーマとし、家電・自動車に補助金を給付し、それなりの効果で景気を下支えとしているという。

自動車会社は制度の延長を要望しているが、これらは大企業の製品に税金で補助し、安売りさせていることにいなる。安売りだから売り上げは上がるだろうが、いつも安売りしている近所のスーパーには政府からの補助金はない。

エコポイントは前政権からの政策だが、以前、これらの会社は派遣切りをして失業者をあふれ返らせた。好況時には膨大な献金もしてきた。

競争力アップと言って下請けの中小企業にコスト削減を要求し、最低賃金は零細企業の体力に合わせて低く抑えられたままである。自己責任と言って弱者を切り捨て、不況になれば政府の補助金頼みである。庶民の生活は軽視、無視されたままである。

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おかあちゃん、チイが亡くなったよ

2009-10-20 06:26:28 | Weblog


おかあちゃん、チイが亡くなったよ。土曜日の朝9時40分ごろ、亡くなったよ。

8時30分ごろ、上の子が家を出るときは、首をわずかに持ち上げて応えていたそうだ。9時30分ごろに、家内がストローで水を何滴か飲ませた。9時40分ごろ、息をしていないことに家内が気づいた。

ちょうど二十年生きたよ。上の子が五つのとき、おかあちゃんが真っ白の子猫3匹を拾って帰ってきた。2匹はまもなくもらわれていき、残ったのがチーだ。

それはエルが亡くなって、そんなに月日が経っていないころやった。おかあちゃん、埋葬した残りのエルの遺骨を死ぬまで持っていたね。

ヨークシャーテリヤのエルは十数年生きて、奈良の地の新しい家で亡くなった。おかあちゃんといっしょに、京都から移り住んできた。老衰だった。

エルが死んで「もうペットは飼わない」と、ぼくはおかあちゃんにきつく当たったね。家内がペットとの同居が不潔だと、きらっていたからだ。

おかあちゃんは、若いときからずっと犬ばかり飼ってきた。でも糖尿で体力が落ちたのか、エルのあとに犬を飼うのはあきらめていたね。猫なら、犬にくらべると手間がかからない。

おかあちゃんは白猫を自分の部屋の外の縁台で飼いはじめた。「絶対に家の中には入れないから」。おかあちゃんにきつく言ったね。

その外猫チイが、3カ月か4カ月のうちに、家の表の道路で車にはねられた。動物病院にかけこんで、右後脚を付け根から切り落とした。

三本足になった。誰がいうでもなく、動物病院から帰ってそのまま、内猫チイになった。家内も同意だった。

おかあちゃんは、子ども時代に暖かい家庭に恵まれなかったね。ぼくをお腹に宿してから、2回も大空襲に出会った。広島全滅の翌日8月7日に広島に行って、負傷者や死者だけの街を歩いたんやね。それに加えて、ぼくが幼いころに離婚した。

そんなだから、孫といっしょに暮らす平和な家庭生活はなによりの幸せやったでしょ。おかあちゃんの生涯で最も幸せな時期やったとぼくは思う。

だけど、姑一人の立場は、ぼくら四人家族から微妙に外れてもいる。生まれてから一度も飼ったことのない猫を、犬好きのおかあちゃんがかわいがっていたのは、そういう寂しさがあったからやね。

おかあちゃんが亡くなっあと、ぼくら家族は「遺猫チイはいつまで元気やねん」とからかっていた。おかあちゃんが生きているときは、おかあちゃんの部屋がチイのすみかやったね。夜はいつもおかあちゃんのふとんの中やった。ただし、それは真冬だけ。

おかあちゃんが亡くなってからは、玄関のドアの内側、踏み込みの土間にダンボールの箱を置いた。箱の中にざぶとんを敷いた。家の入口にいるものだから、家族4人ともチイとべったりの生活になった。家内も子どもも、チイをよくかわいがってくれた。

チイは必ず砂箱でトイレをしてきた。失敗はなかった。おかあちゃんが死んでから、砂箱の外ですることが多くなった。愛情不足があったかもしれないが、老化が主因だと思う。

毎日毎日、家内は玄関の拭き掃除をしたり、洗い流したりで大変やった。そんな日々のうちに、二人の子も家内もチイをかわいがった。

おかあちゃん、おかあちゃんが生きているとき、チイはおかあちゃんの子やった。おかあちゃんが居んようになってから、チイは家の子になったよ。

……しかし、いよいよチイも衰えてきた。ほとんど寝そべったままで一日過ごすようになった。痩せが目立ってきた。

ぼくがチイの写真を撮ったのは10月12日やった。天候が良かったから、チイを裏庭に出してやった。日差しが強い日やったから、家内と話して傘をかけてやった。チイは幸せそうだった。

最後の1週間ほどは、二人の子も家内も、とにかくよく世話をし、よくかわいがった。チイは穏やかにしていたが、ほとんど食べなくなった。16日は水も飲めなくなった。

17日朝、チイが息を引き取ったとわかってすぐ、ダンボールの中をきれいにして敷物を入れ替えて、チイを寝かせつけた。娘は出かけていなかった。

息子が裏庭の野草を摘んだ。白い花と赤紫の花とねこじゃらしを摘んで、小さな花束を作ってチイに添えてやった。息子のやさしい仕草にぼくは少し驚いた。

仏壇の前にチイを置いて、家族3人で枕経をあげた。最期の日々、チイは眠ってばかりいた。おかあちゃん、チイは平穏な寝顔やったよ。

娘の帰宅を待って家族そろって、午後一番で火葬場にチイを連れていった。係員が一人、人間の葬儀と同じ白手袋のいでたちで、ていねいにチイの遺体を受け入れてくれた。ちょうど火葬場にいる間だけ、さっと通り雨が降った。おかあちゃん、チイは大切に送ったよ。安心してよ。

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『ネタ』をもれなく集める『日記フォルダ』

2009-10-19 01:30:48 | Weblog


ぽっと浮かんでは消える切れ端思いをメモする――私なりの試行錯誤をぽっと浮かんでは消える切れ端思いをメモする(1/3)(2/3)(3/3)のブログで書きました。しかし、試行錯誤はあいかわらずつづいています。

目的は、画像を含めたあらゆる記録を、一覧性をよくするために、1カ所に収容しておくこと。

その1カ所を『日記フォルダ』と呼ぶことにします。画像を含めたあらゆる記録――たとえそれが、画像Jpeg1点だけ、また単語五つ六つのテキスト一点だけであっても、ひとつひとつの記録の量的大小に拘泥しないで、それらの一点を『ネタ』と呼ぶことにします。

ネタを日記フォルダに集めておきますと、ネタはすぐに増えていきます。増えてくると、ネタのファイル名の一覧性が損なわれます。日記フォルダを開いて、パッと見える範囲を『一覧』とします。フォルダの中身の見渡しができるのは、スクロールを3、4回、すなわち三覧四覧あたりまでです。

そのあたりを過ぎると、フォルダの中身を分割することになります。

私はいま、ファイル名の始めに『●0921-1018 』とつけるようにしています。この数字は2009年(平成21年)10月18日という意味です。これでフォルダの中のネタはすべて日付順に並びます。『●』は、ファイル名の一行一行を見やすくするためにつけています。視覚効果です。フォルダの分割は日付に従おうと考えています。たとえば『2009年1月~6月』とかを考えています。

ネタを1カ所に収容すること。私はまだ、これができていません。実際、恥ずかしいことに未だ、バラバラなんです。


……次回につづく


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私の世代から人の気持ちが変わった(4/4)――列島大移動世代の罪

2009-10-04 04:08:52 | Weblog


◇高度経済成長期と列島大移動世代

1950年代半ば(1955年=昭和30年)から日本の高度経済成長期が始まりました。1960年代はゴールデン・シクスティーズと呼ばれていたのを私は覚えています。昭和30年代の春の風物詩に「集団就職列車」がありました。「金の卵」ともよばれた中学・高校の新卒就職者を東京や大阪に運ぶ特別列車でした。

高度経済成長期は大都市や大都市域近縁の工業地帯で人手不足が顕著になった時代です。全国的に若い労働力の大移動が続きました。大移動の時代です。1955年に中卒15歳で故郷を離れて都市部に就職した人は今、69歳です。1970年に高卒18歳で故郷を離れて都市部に就職した人は今、57歳です。大卒はそれほど多くない時代でした。

グループとして見るなら、今の日本人の五十歳代後半から六十歳代いっぱいの人たちを「列島大移動世代」と呼ぶことができます。私もこの世代に入ります。列島大移動世代は、生まれ育った生活環境から離れて、すなわち故郷と遠く離れた別の土地で一人前になって家族を形成しました。


◇二つの社会的現象は結びついている

前回(3/4)で書いたように、新しい土地で家族形成をした人たちは、そうでない人たちにくらべて自己中心的で自己過信的です。そして、自分が所属していると信じている社会階層より下位の階層と自分が認定する人たちとの間に壁を立てます。また、生活スタイルや教養のうえで好みに合う人たちとそうでない人たちとの間にも壁を立てます。

そして、私が住んでいるニュータウンでは、①居住地近辺で仕事をしている人の家庭、②奈良県内に通勤している人の家庭、③大阪へ通勤している人の家庭、の順で、このタイプの人の数が多くなるというのが私の体験的な感想です。生活の場所と仕事の場所が離れていればいるほど、自己中心・自己過信の程度が強くなります。

これらは、1/4から3/4に書いてきたように、生活経験から得た私の結論です。「自己中心的」、「自己過信的」、「壁を立てる」という人の心の傾向性が、私の世代から社会的に大きな流れになったと私は思っています。これらの心の傾向性が家庭に蔓延していることと、今の日本社会に「心の病」が蔓延していること。この二つの社会現象は大きく関係していると、私は考えています。


◇列島大移動世代の罪

私の近所にうつ病の経験者が二人います。二人とも定年を終えた男性です。不登校の子の話は何人も聞いています。ほかに一人、発達障害の学童がいます。私の住まう校区内で知っているだけでも、心の病の人が年齢性別を問わず何人もいます。私の青少年期には「心の病」の人がこんなにありふれてはいませんでした。

もう七、八年前のことになりますが、生活指導担当の指導主事先生二人、生活指導で名の通った人だと聞かされた中学校長と私の四人で、一晩飲食歓談したことがあります。三人の先生ともに、「生徒のためには朝昼夜を問わず」といった仕事ぶりで感激しました。

先生方が、憤慨と嘆きとともに熱をこめて語っていたことがあります。補導対象の子どもたちについて、「生徒より親が悪い」、「生徒より家庭が悪い」、「どうにもやりようのない家庭が多い」というのです。

「親が悪い」、「家庭が悪い」。そして、社会に心の病がひろがっていること。これらは、私の世代が家庭のリーダーになり、職場でリーダーになっていった時代から社会的な趨勢になっているのではないか。自己中心的で、自己過信的で、個人主義と利己主義を区別できない私の世代が、「心の病」が蔓延する社会を生み出したのです。

列島大移動世代は罪の意識に目覚めなければいけません。


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