川本ちょっとメモ

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岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から その5 トリニダット橋の惨状・傷病兵殺害処置

2013-08-18 18:44:11 | Weblog

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   ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。



<トリニダット橋の惨状>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p230――

久田 1945(昭和20)年4月26日は米軍がバギオを完全に占領した日です。この日、私たちはバギオから10キロ離れたトリニダットの町はずれの林の中にいた。米軍がボントック道を進撃すれば、戦車で1時間とかからない距離です。早くここを脱出しなければならんが、私たちの先にはトリニダット橋があって、そこは4月15日頃に砲撃で破壊され、米軍が昼夜わかたず、5分間隔で、その橋の前後200メートルほどの区間を砲撃しっづけており、そこを通る部隊は必ずといってよいほど被害を受けているという。私はその難所に近づくにつれ、緊張で体が固くなるのが自分でもわかりました。

水島 そのトリニダット橋が破壊される瞬間を目撃した人がいます。日本赤十字救護班(第343班)の看護婦・石引ミチさんです。石引さんは、バギオの第74兵站病院から、1月28日にヴィクウィッチ金鉱の坑内に作った「病室」へ移って看護にあたっていました。そして、金鉱からボントック道90キロ地点に移動中、4月16日夜、このトリニダット橋に差しかかる。

「トリニダットの橋が見えます。たくさんのトラックや馬や、兵隊さんや、人びとがうごめいています。と、突然大爆音とともにトリニダットの橋が爆破されました。トラックのタイヤが舞い上がりました。だれかがしきりに『看護婦さあん』と呼んでいます」

「流れの早い川の中へ工兵隊の裸の肩が並び、丸太棒をつないだ橋が渡されました。……一列になって丸太橋を、おそるおそる渡りはじめました。流れで声が聞こえません。ようやくむこう岸まで渡り終えました」(石引『従軍看護婦!日赤救護班比島敗走記』p95~97)

久田 私がそこを通過するのは、それから10日ほど後ですね。4月26日朝4時頃、一番砲撃が少ないときを見計らって、私たちは出発しました。200メートルほど行ったところに馬が一頭倒れている。私の部隊は馬部隊でしたから、久しぶりに見る馬に懐かしくて近づくと、馬も首だけ持ち上げて、フウフウと白い息を吐いている。よく見ると、腹から腸が1メートル以上も外に出てしまっており、死にきれないでもがいていたのです。私たちの方に一所懸命すりよろうとして、「連れていってくれ」といわんばかりに、悲しい目をして私のことを見る。私も馬が好きでしたから、もう肉親みたいな愛おしさがこみあげてきた。でも、ぐずぐずしていると私たちがやられる。目をつぶってそこを離れました。今でも、その馬の悲しい目を思い出し、なんともいえん気持になることがあります。

トリニダット橋はそこから500メートルくらい行ったところにあった。道路脇にトラックが突っ込んでいて、運転席から黒焦げの兵隊が体半分ぶら下がっている。見ると、道路に死体がゴロゴロしている。

道路の左側の壕の中にも死体がたくさんある。物凄い死体の臭い。橋の下には10台以上のトラックが落ちていました。朝の4時で薄暗く、全体がどうなっているのかわかりませんでしたが、私が見ただけでも数十の死体があった。砲弾でやられた兵隊が一人、道端でうめいている。それに気を取られていると、足もとの死体につまずいた。

私は気がすっかり動転してしまい、一目散に駆け出してしまった。背中の背嚢は上下左右にパタパタ揺れ、腰の軍刀が足にからみつき、図嚢が腰を打つ。軍刀の柄を手でおさえて先端を上げて走った。どう見てもぶざまな格好です。橋と橋の前後200メートルの危険な箇所を一気に駆け抜けました。ホッとする間もなく、砲撃がはじまり、私が走ってきたあたりに着弾している。

トリニダット橋から少し先に行くと、道路脇に1人の兵隊がいる。「何をしているのか」と尋ねると、「あの砲撃されたトラックは海軍のトラックで、たくさんの食糧を積んであるので、砲撃の合間をみて、トラックに近づき食糧を取ってくるのです」という。「どこかの部隊の命令でやっておるのか」と聞くと、「自分は食糧がほしいからやっているのです。砲撃の間隔を調べて知っているから、むしろ敵中に斬込みにいくより安全です」とはっきりいいました。


<動けぬ傷病兵を殺害>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p233――

久田 トリニダット橋からしばらく行くと、一人の衛生兵長と一緒になりました。彼は自分がバギオで行った恐ろしい話を、歩きながら私にしてくれました。記憶にあるのは彼の次の言葉です。

「バギオが予定より一日早く陥落したので、野戦病院ではあわてて、病兵のうちで歩ける者は徒歩で脱出させ、歩けない兵隊は静脈注射をして殺害し、それでも間に合わなかったので、病院に火を付けて、病院もろとも焼き殺したのです。中には、何で殺すんか生かして内地へ帰してくれといって泣き叫ぶ兵隊もいました。私は見るに堪えず、逃げ出してきたのです」と。

水島 でも、将校である先生に、兵長が気軽に話しかけてくるというのは不思議ですね。普通、将校だと緊張して、そんなことおよそ話せないと思うんですが。

久田 私が主計であり、しかも軍隊に対して批判的だから、普通の将校に対するのとは違って、安心してしゃべってくれたのかもしれませんね。彼の話を聞いて、いずれ私も日本軍隊によって殺されるのか、と思い、暗い気持になったのを覚えています。

米軍戦史に次のような記述がある。「市の郊外沿いにいる少数の敵のグループがいつもの頑強さで抵抗したが、日本軍の完全な崩壊の証拠はまぎれもなかった。日本軍は、組織など殆どない状態で大急ぎでバギオを去った。補給品や資材の大量の貯蔵が夏の首都に隠されたままだった。日本軍の負傷兵はその病院のベッドの中で彼らの軍医に殺されるか、または看護もつけずに死ぬままに放置されていた」(『米陸軍第33歩兵師団戦史』p225)

別の箇所には、「(米)130歩兵連隊の斥候は、地下の平坦部が敵兵(※日本兵)の死体で一杯に覆われているのを見ることの方がもっと多かった。これらの死体のあるものは降伏よりも死を選んで自決したものだったが、大多数はバギオからの撤退を容易にするために、無情にも(※味方に)虐殺されたものだった。逃走する縦列の足を引っ張らないように、敵(※日本軍)は行動の鈍い(※自軍)傷病兵を殺して竪穴の中に投げこんだのだった」(同書P226)とある。

この傷病兵の殺害が行われたのは、第74兵站病院(病院長・久保隆三中佐)である。





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