不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
★自分用メモは、新聞・Webなどのノート書きです。

久田栄正――飢餓戦線体験が生んだ憲法観 その3完

2013-08-30 00:19:57 | Weblog


 ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その1』をご覧ください。


<凄惨苛烈な戦争体験の上に立つ久田憲法学>
 ――岩波現代文庫「戦争と戦う」p381――

元・東京都立大学総長の沼田稲次郎氏は、「久田憲法学と教授の社会的姿勢との神髄は、彼自身の凄惨苛烈な戦争体験の上に構築されていると私は思っている」と述べ、次のようにいう(沼田「平和憲法と戦争体験」p3~4)

「ルソン島での退却行の惨憺たる極限状態の中で、骨の髄まで戦争をにくみ、『人間の尊厳性を傷つけ合う人間関係』の醜さに憤怒したのだ。

いわば地獄の底で血涙を以て自覚させられたのが、平和と人間の尊厳の貴重な結合の論理である。

そこから湧き出る彼の実践的意欲が硬骨にして堅固なものであるのは当然であるといわねばならない。彼は戦後、わけても学界に身をおいてからは精力的に一貫して憲法の原点に立って活動してきている。彼自身の人事をめぐって生じた大学の自治への脅威に際し、彼が文部省に対して不屈に闘ったのは周知のことだ。

彼の研究が、憲法解釈学の域にとどまるのではなく、日本憲法史に踏みこんで行っているのは、彼の戦争体験を踏まえた日本国憲法論にとって不可欠の理論的要請だとするからだと、私は理解している。

のみならず、彼の、恵庭事件や長沼ミサイル基地事件の訴訟における彼の役割や判決の学問的批判、ざらに憲法教育(学校のみならず地域社会でも)への積極的努力などをみても、戦争地獄を体験した人間の魂から発する憲法の擁護と定着への執念ともいえる気迫を感ずるのは私だけではあるまい。

それらを総合して久田憲法学と久田教授の使命感とに私は魅力と共感とを感じているのである」


<本書では日本国憲法の平和主義の「原点」を見てきた>

久田栄正という一人の憲法学者の戦場体験を通して、日本国憲法の平和主義の「原点」を探る旅を行ってきた。

あの戦争の悲惨な国民的体験(個別的、特殊的体験)は、日本国憲法を経由することによって、平和的生存権として普遍化されたといえるだろう。

戦争体験を単なる「昔話」にしないためには、過去の体験と今日の問題とを、憲法を媒介にして結合することである。ここに、平和教育と憲法教育との有機的結びつきの必要性が生まれる。

久田栄正の理論と実践は、その一つのヒントを提供しているとはいえまいか。

本書は、久田栄正・水島朝穂『戦争とたたかう――一憲法学者のルソン島戦場体験』として、1987年に日本評論社より刊行された。岩波現代文庫版の刊行にあたって著者名とサブタイトルを変更し、本文の加除修正をおこなった。

----------------------------------------
◎『戦争とたたかう――憲法学者・久田栄正のルソン戦体験』
  岩波現代文庫 著者・水島朝穂


コメント

久田栄正――飢餓戦線体験が生んだ憲法観 その2

2013-08-29 16:45:17 | Weblog

 ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その1』をご覧ください。


<日本国憲法 前文>
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普通の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。



<われらは、……平和のうちに生存する権利を有する>
 ――岩波現代文庫「戦争と戦う」p377――

学生に対する憲法教育と一般国民の憲法意識の公用に全力を傾注してきた久田栄正。かかる教育者としての側面と同時に、久田が憲法学に大してなした理論的貢献も見逃せない。

まず、学位論文となった『帝国憲法崩壊史』をはじめとする一連の日本憲法史研究。そこでは、なによりも戦争を引き起こし、日本国民に甚大な損害を与えたところの帝国憲法体制。その崩壊過程が実証的に分析され、戦前の憲法学および憲法学者が、厳しい検証の狙上にのせられている。

その際、久田の分析のベースには、常に、天皇の戦争責任追及の問題意識が通奏低音を奏でている。

この日本憲法史研究と並んで、特筆すべきは、憲法の平和主義、とりわけ平和的生存権論への理論的貢献である。

日本国憲法は、比較憲法的に見ても、他に例を見ない徹底した無軍備平和主義を採用している。戦争を放棄しているだけでなく、その実現達成手段たるいっさいの軍隊および戦力の諸形態の不保持、交戦権の否認という周到さである。

なによりも、この憲法は、「平和のうちに生存する権利」(前文第二段)を謳い、平和を人権の問題としてとらえている点が重要である。


<平和の問題を人権の問題として考える>
 ――岩波現代文庫「戦争と戦う」p378――

わが国において平和的生存権が主張されるようになったのは、恵庭事件、長沼事件という憲法訴訟を通じてである。これらの訴訟を契機に、平和的生存権の法理は、久田を含む多くの憲法学者によって理論的に深められていく。

久田は、恵庭事件の特別弁護人として札幌地方裁判所の法廷に立ち、「憲法の平和主義と生活権」という弁論を展開する。

久田は、かねてから、平和の問題を人権の問題として考えることを主張してきた。この弁論では、戦争を「国民生活」から見る視点が強調される。

「戦争を起こざないことが個人を尊重し、生命、自由、幸福を追求する権利の尊重の基礎条件であり……戦後のわが憲法の平和主義は、戦争権力による戦争からの人権保障のための抑制原理として理解すべき」であるという。

国民主権の立場から見れば、自衛戦争は正当ということにもなるが、そうではなく、戦争の問題は、「個人の尊重、生命、自由、幸福追求の権利を尊重するという基本的立場」から考えなければならないとする。


<憲法における平和的生存権と憲法13条>
 ――岩波現代文庫「戦争と戦う」p379――

久田にあっては、戦争の目的を問わずいっさいの戦争が否定されることになる。平和的生存権論における久田の議論の特徴は、平和的生存権の憲法上の根拠を、もっぱら憲法13条に求める点にある。

*憲法第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


憲法学上、平和的生存権の憲法的構成は、前文の第2段(「平和のうちに生存する権利」)、第9条、さらに憲法第3章「国民の権利及び義務」第10条~40条の具体的人権条項とのコンビネーションによってこれを行うのが有力である。

長沼一審判決の平和的生存権論も基本的に、このような構成をとっている。

*憲法第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


これに対して、久田はあえて憲法13条のなかに平和的生存権を読みとるべきことを主張する。


<憲法13条の基礎的権利を根こそぎ奪うのが「戦争」である>
 ――岩波現代文庫「戦争と戦う」p379――

《今日核兵器の出現によって人類滅亡まで予想される段階においては、個人の尊重は、人類社会を支える基礎としての意義をもつに至った。個人の尊重は 「平和の基礎」として承認されたのである。

憲法13条で保障される権利は、社会的生活過程を支えている基礎としての権利、人間の生存と尊厳に関わる基礎的な権利であって、この権利を根こそぎ侵害し、剥奪するのが戦争である。この権利を保障する意義は、戦争に対してである》

《一度武力が行使されれば、武装集団相互の死闘によって国民の生活基盤が根底から破壊され、「個人の尊重」に対する重大な侵害が生ずる。これを絶対に許さないというのが憲法13条の趣旨である……》


<一人の人間の生命も
かけがえのないものとして尊重する国家では
戦争は成りたたない>

 ――岩波現代文庫「戦争と戦う」p380――

ここでは、久田栄正はなぜ憲法13条にこだわるのか、が重要である。久田説のねらい・意図は、従来一般に「憲法第9条に依存し過ぎ、戦争を人権の問題としてあまり深く考えなかった」傾向が平和運動等に見られたとの認識のもとに、「人権論重視」の立場から問題提起をなすことにあったとみることができる。

「『個人の尊重』の徹底した国家、すなわち、一人の人間の生命もかけがえのないものとして尊重する国家では、戦争は成りたたない」

「戦争は、その動機や目的には無関係に、交戦状態が発生すれば、無差別に、大量の犠牲が強いられる」

この言葉に、久田の問題意識が凝縮されている。憲法9条中心に議論が展開されていた時期に、「平和の問題を人権論からとらえる」視角を強調しつづけた久田の先駆的意義は過小に評価ざるべきではないだろう。

かくて久田の議論は、他の憲法学者の平和的生存権論とともに、平和的生存権の裁判規範性を承認した長沼一審判決を生み出す前提を作り、この議論の発展に寄与したのである。


コメント

久田栄正――飢餓戦線体験が生んだ憲法観 その1

2013-08-28 02:07:25 | Weblog

 ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その1』をご覧ください。


<戦争放棄条項――飛び上がるほど嬉しかった>
 ――岩波現代文庫「戦争と戦う」p376――

ルソンの戦場から復員してきても、新たな米ソ戦争の不安に落ち着かない日々をすごしていた久田は、日本国憲法草案の戦争放棄条項を見て、「飛び上がるほど嬉しかった」。

「私の戦争体験は、旧憲法から新憲法への転換を何の抵抗もなしに、むしろ心からの歓迎の念をもって受けいれ、その後の私の憲法実践を決定づける要因となった」(久田『戦争と私』p220~221、同『帝国憲法史』p2~3)

反骨精神旺盛な父親から影響を受け、幼年期から、権威と暴力(それを体現した軍隊)を嫌悪し、軍隊から逃避し、ついに軍隊に取られても、軍隊に同化することを拒否しつづけた久田栄正。

彼はルソンの戦場でも、徹底的な「順法闘争」と「開き直り」の姿勢で生き抜き、「自分の生命を守るために、他人の生命をも尊重する論理」、いわば「戦場で生き残る権利」を探し求めた。


<軍の論理に対置する民衆の論理――何よりも生命が大切>
 ――岩波現代文庫「戦争と戦う」p376――

戦場という極限状況のもとで、この論理は一見背理のようにも思える。この「権利」は既存の軍法や軍紀と決定的に対立する。

しかし、沖縄戦の中でも、ドタン場に追い詰められた沖縄防衛隊(家族持ちの平均的沖縄人からなる)のかなりの人々が、「命(ぬち)どぅ宝」(生命こそ宝)と叫んで、雪崩をうって戦線を離脱して、妻子のもとに逃げ帰ってしまった事実があることに注目したい。

この「命どう宝」というのは沖縄民衆の中に古くからある言葉で、「瓦全」の思想(玉となって砕けるよりも瓦となって全うしたい)、「逃げる思想」「開き直りの思想」である(大城将保『沖縄戦――民衆の眼でとらえる戦争』p203~208)

人間の生命を何よりも大切にするこの論理は、目的達成のために生命を捨てることを要求する「軍の論理」と対立するところの「民衆の論理」である。

久田が追求した論理も、この沖縄民衆の論理に通底するものを持っていたのではないか。

そして、沖縄民衆が求め、戦争によって倒れた多くの人々が求めてやまなかった「平和のうちに生きる権利」は、日本国憲法によってようやく保障されるに至った。


<憲法研究者の道を歩む>
 ――岩波現代文庫「戦争と戦う」p377――

ルソン島の戦場から生還した久田は、日本国憲法9条との「出会い」を契機として、憲法研究者の道を歩むことになる。

1952年に北海道学芸大芋(後の北海道教育大学)助教授となり、教授、札幌分校主事を務めた(1979年定年退官)。その間に久田の憲法講義を聴いた学生は膨大な数にのぼる。その多くが北海道を中心として、小中高校の教員となって活躍している。

平和主義を熱っぽく説く久田憲法学は、今も多くの教師の中に息づいている。また、北海道各地を行脚して、平和憲法擁護を説いた久田の講演を聴いた市民も相当数にのぼる。久田の憲法学は常に民衆とともにあった。



コメント

岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その18完 人間が人間として生きられぬ社会をつくってはならない

2013-08-25 09:17:33 | Weblog

<関連記事クリック>
2013/08/14
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から1
2013/08/16
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から2 米軍上陸前に司令官脱出(南方軍・第4航空軍)
2013/08/17
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から3 重傷兵の頭の傷口で蛆が動く
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から4 アブラ虫、みみず、山蛭も食べて生き延びた
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から5 トリニダット橋の惨状・傷病兵殺害処置
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から6 カヤパ道の惨状――死体、死体、死体
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から7 飢餓状態の旭兵団
2013/08/20
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から8 人肉を食べる飢餓兵
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から9 餓死戦線 方面軍山下司令部の食事は豊か
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から10 飢餓戦線から少将を救う転属、塩の配給にびっくり
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から11 旭兵団 約19600のうち戦没約17000
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から12 フィリピン方面戦没者50万人 なぜやめられなかったのか
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から13 国体護持 (天皇制の維持)の3週間にも大量死
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から14 丸々太って捕虜になった最高指揮官の責任
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から15 こんな戦争なぜ始めた――昭和天皇の命令があったから
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から16 日本軍はフィリピン住民を殺し日本人の子どもも殺した
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から17 中曽根元首相の戦争体験と改憲論
2013/08/25
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から18完 人間が人間として生きられぬ社会をつくってはならない


※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。


<人間として生きるために戦争とたたかった>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p383――

私は1985年に古稀を迎えた。私の70年の人生は戦争を抜きにしては考えられない。同年代の人は皆同じといえば、その通りである。しかし私の戦争との関わり方はやや違っていた。私は、戦争の中で、戦争を戦うのではなく、人間として生きるために戦争とたたかったのである。私は生まれた時から体があまり丈夫ではなく、心臓神経症という持病もあった。

また私は人一倍臆病で、意気地のない人間だった。私は軍隊とか軍人とかいうものを、人一倍嫌った。だから軍隊にとられても、上官から殴られ、蹴られても、軍隊に同化し、天皇の狂信的信者になることを拒否した。私は、「軍人とは天皇の狂信的信者で、命知らずの殺人者だ」と思っていたから、私のそれまでに得た知識からしても、到底そのような軍人にはなれなかったのである。


<中国民衆に対して殺害、破壊、略奪>
ところが戦場というところは、いやがおうにもそれを要求する所である。中国大陸では、日本軍という「殺人・破壊集団」が中国民衆に対して、殺害、破壊、略奪をほしいままにした。

そしてそれを、「大東亜新秩序建設」だとか「八紘一宇(はっこういちう)」など、中国民衆からすれば誠に勝手な理屈をつけて正当化していたのである。中国民衆は「皇軍」と称する日本軍を、「東洋鬼」「鬼(怪物)の化身」といって嫌悪した。

<ルソン戦場は日本兵の場>

しかし、圧倒的な物量で押してくる米軍相手では、日本軍の戦法はまったく通用しなかった。私の体験したルソン戦場は、まさに厚い「死の壁」(そこから逃げ出せば敵前逃亡罪、抗命罪で、日本軍の手によって殺される)によって囲われた「場」だった。

の順番は、上官の命令によって決まった。前線で戦っている将兵の生死の決定権は米軍ではなくて、日本作戦指導部、作戦指揮官が握っていた。

<幾十万の将兵の生命よりも天皇の命令を重んじて>

「上官の命は朕(ちん)が命と心得よ」をたぐっていくと、結局天皇に行き着く。戦争を始めたのも天皇。そして、一声天皇が戦争をやめるといっていれば、それで戦争は終わり。犠牲をそれ以上に出すことはなかったのである。

しかし天皇も大本営も、早々にルソンの日本軍を見捨てていた。現地の作戦指導部(山下奉文大将および参謀たち)は、天皇に忠実なこと下士官の如く、幾十万の将兵の生命よりも天皇の命令を重んじて、下級将兵の餓死と病死に目をつぶっていたのである。

<いったい誰がここまで追い込んだのか、その責任は?>
<人間が人間として生きられぬ社会をつくってはならない>

戦争の馬鹿らしさ、軍隊の馬鹿らしさ、軍隊的階級秩序の馬鹿らしさを目のあたりにして、兵たちは、「こんな馬鹿な戦争で死ねるか」、「こんな奴(上官)の下で死ねるか」、「何としても生きて故郷に帰りたい」と、生への執着(人間の原点)をはっきりと言葉にしていうのだった。そして戦わずに戦線離脱していった。

だが、戦線離脱しても戦場では生きていく条件はない。生きる条件のないところで、生きる戦いをせねばならなかった。生きるためにエゴイズムに走り、現地人の物を略奪し、日本兵同士が盗み合う。「皇軍」はまさに獣化していった。

この修羅場をいかに切り抜けてきたか。その中で何を学んだか。いったい誰がここまで追い込んだのか。その責任は。

人間が人間として生きられぬ社会をつくってはならない。人間が、人間として生きることの大切さを知る。戦場で見たポツダム宣言の意義。これらは私においては、すべて日本国憲法につながっていった。
             1986年8月15日 久田栄正

 ※岩波現代文庫『戦争と戦う』の戦争体験抜き書きは今回で完了します。次回は引き続き本書から、久田氏の憲法観を抜き書きします。


コメント

岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その17 中曽根元首相の戦争体験と改憲論

2013-08-24 13:29:29 | Weblog

<関連記事クリック>
2013/08/14
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から1
2013/08/16
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から2 米軍上陸前に司令官脱出(南方軍・第4航空軍)
2013/08/17
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から3 重傷兵の頭の傷口で蛆が動く
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から4 アブラ虫、みみず、山蛭も食べて生き延びた
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から5 トリニダット橋の惨状・傷病兵殺害処置
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から6 カヤパ道の惨状――死体、死体、死体
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から7 飢餓状態の旭兵団
2013/08/20
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から8 人肉を食べる飢餓兵
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から9 餓死戦線 方面軍山下司令部の食事は豊か
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から10 飢餓戦線から少将を救う転属、塩の配給にびっくり
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から11 旭兵団 約19600のうち戦没約17000
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から12 フィリピン方面戦没者50万人 なぜやめられなかったのか
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から13 国体護持 (天皇制の維持)の3週間にも大量死
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から14 丸々太って捕虜になった最高指揮官の責任
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から15 こんな戦争なぜ始めた――昭和天皇の命令があったから
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から16 日本軍はフィリピン住民を殺し日本人の子どもも殺した
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から17 中曽根元首相の戦争体験と改憲論
2013/08/25
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から18完 人間が人間として生きられぬ社会をつくってはならない


<中曽根元首相の戦争体験と改憲論>
  ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p374――

戦争体験を次の戦争のための教訓として使う人々もいる。旧軍人(特に参謀クラス)の中には、「こうすればよかった」「ここがまちがっていた」式の議論をする者が多い。この立場は、今度やる時は「もっとうまくやる」ことを含意している。

自分の戦争体験について、盛んに語っている人がいる。中曽根康弘元首相である。中曽根氏はテレビ朝日の「総理と語る」 の中で、「われわれの世代は戦争で鍛えられている。あれだけの大悲劇のなかで、人生をじかに握ったり、触ったりできた。いまの若い人にそういう経験がないのはかわいそうだ」(『朝日新聞』1985年9月25日付)と述べた。

若くして衆議院議員となった中曽根氏が一貫して改憲論を展開してきたことは周知の通りである。彼の憲法論は、「高度民主主義民定憲法草案」(1961年1月1日)に凝縮されている。

その最大の特徴は、首相を直接国民投票で選び、「大衆本位の強力政権」をつくることにある。プレビシット(国民投票)型民主制の志向である。

討論と妥協、派閥論理が支配する議院内閣制から、大衆の直接的支持、大衆の歓呼(アクラマテオ)にもとづく強力な執行府(プレビシット民主制)への移行。

これがこの人の一貫した目標だった。そして、これはヴァイマール民主制を葬ったヒトラー政権が登場する際の論理と手法によく似ている。四分の一世紀前に出された中曽根氏の憲法構想は、今も彼の言動のベースにあって、これを規定しているのであろう。

では、当の中曽根氏はどんな戦争体験をしたのだろうか。この点に着目したのは、『月刊プレイボーイ』誌の編集者だった。若い編集者たちは、この「戦争大好き首相の原点=戦争体験を検証する必要がある」との問題意識から、中曽根首相の戦争体験を「徹底調査」した。その成果が、「中曽根海軍主計大尉殿、あなたの戦果はワニ1頭」(『PLAYBOY日本版』1986年4月号p50~57)というレポートとなった。

副題には、「ダパオ(フィリピン)、バリクパパン(ボルネオ)で敵前上陸を共にした坂口兵団の将兵が、ビルマで玉砕戦を続けていた頃、台湾で女子挺身隊員を引率して、海水浴をさせている。若き海軍主計大尉がいた……」とある。中曽根氏の戦争体験なるものの実態についてはこのレポートに譲る。

中曽根氏は、1941年3月東大法学部卒業後、内務省に入り、海軍経理学校 → 海軍主計大尉という道を歩む。そして、戦争中は台湾や日本国内勤務が長く、「大した苦労もせず復員した」。

<川本の聞書き――捕虜を逃がす>

私が聞いた中国派遣軍の兵隊経験者の中には、「中国軍に武装解除を受けたときでも、負けたこっちの方が立派なんや」という人がいました。

私の養父(故人)は京大出身で速成の少尉でしたが、武器弾薬・食糧に困ったという話を聞いたことはありません。

養父からは印象に残るこういう話を聞きました。捕虜を銃剣で刺殺するのがあたりまえの時代のことです。

「あるとき、中国人捕虜を預けられた。それが自分の弟にそっくりだった。放っておけば必ず銃剣で殺される。それで夜のうちに逃がした」。

中国の占領地において一般住民と兵士の判別が難しいという事情があったでしょう。加えて、そういう温情を生かせるほどの、南方ほど厳しくない戦場に居たということでしょうか。

養父はこんなことも言っておりました。

「士官学校出は危なくてしようがない。弾が飛んでこようが何しようが、行け行けや。みんなすぐに死んでしまう。ぼくはみんなに(部下に)、弾がどんどん飛んでくるときは、出るな出るなと言っていた。士官学校出の隊長に付いたら死ぬ奴が増える」

養父は当時の水筒を持っていて、1カ所だけ少しへこんでいました。私が中学生のころに、「大切な記念品や、おまえにやる」と言って、私にくれました。その後何度かの引っ越しをするうちに、どこかでそれを失いました。養父の気持ちを思いやると、後悔が深く残ります。


コメント

岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その16 日本軍はフィリピン住民を殺し日本人の子どもも殺した

2013-08-24 00:21:07 | Weblog

<関連記事クリック>
2013/08/14
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から1
2013/08/16
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から2 米軍上陸前に司令官脱出(南方軍・第4航空軍)
2013/08/17
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から3 重傷兵の頭の傷口で蛆が動く
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から4 アブラ虫、みみず、山蛭も食べて生き延びた
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から5 トリニダット橋の惨状・傷病兵殺害処置
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から6 カヤパ道の惨状――死体、死体、死体
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から7 飢餓状態の旭兵団
2013/08/20
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から8 人肉を食べる飢餓兵
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から9 餓死戦線 方面軍山下司令部の食事は豊か
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から10 飢餓戦線から少将を救う転属、塩の配給にびっくり
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から11 旭兵団 約19600のうち戦没約17000
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から12 フィリピン方面戦没者50万人 なぜやめられなかったのか
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から13 国体護持 (天皇制の維持)の3週間にも大量死
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から14 丸々太って捕虜になった最高指揮官の責任
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から15 こんな戦争なぜ始めた――昭和天皇の命令があったから
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から16 日本軍はフィリピン住民を殺し日本人の子どもも殺した
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から17 中曽根元首相の戦争体験と改憲論
2013/08/25
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から18完 人間が人間として生きられぬ社会をつくってはならない

 ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。

<日本人の子どもを殺した日本軍>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p409――

第14方面軍野戦貨物廠の一部隊は敗走途上で、足手まといになった日本人の子ども21人(うち13人は10歳以下)を毒物と銃剣で殺害した。

その資料がフィリピン国立公文書館で発見され、大きく報道された(共同配信、『中国新聞』1993年8月14日付、『朝日』『毎日』同日付)

「子供たちが泣き声を上げたりすると敵に所在地を知られるため」という理由を部隊指揮官が供述したという。


<フィリピン住民を殺した日本軍>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p409――

前著で十分でなかったのは、「帝国と植民地」の視点だろう。久田氏が帝国陸軍の一員であり、フィリピンの人々を支配する側にいたことは否定しようがない。前著で私はその点を久田氏に質問したが、私の関心が日本軍隊の内部構造の問題にあったため、フィリピン側からの視点が弱いと言えば、その通りだろう。

その点、上田敏明『聞き書きフィリピン占領』(勁草書房、1990年)は、26歳の若い業界紙記者がフィリピン各地で、日本軍に家族を殺されたり、拷問を受けたりした約70人に取材してまとめた力作である。

「この間題は他人事でも過去の事でもありえない。そして軍命を第一とし無抵抗の住民を死に追いやった個々の兵士の士責任は、国家と人間とどちらを優先するかという意味合いで戦後の世代にも問われていく問題であろう」と書いている。

戦争犠牲者を心に刻む会編『日本軍はフィリピンで何をしたか』(東方出版、1990年)は、バダンガス州リパやラグナ州カランバなどでの住民虐殺の当事者たちの証言である。

コメント

岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その15 こんな戦争なぜ始めた――昭和天皇の命令があったから

2013-08-23 16:00:22 | Weblog

<関連記事クリック>
2013/08/14
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から1
2013/08/16
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から2 米軍上陸前に司令官脱出(南方軍・第4航空軍)
2013/08/17
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から3 重傷兵の頭の傷口で蛆が動く
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から4 アブラ虫、みみず、山蛭も食べて生き延びた
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から5 トリニダット橋の惨状・傷病兵殺害処置
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から6 カヤパ道の惨状――死体、死体、死体
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から7 飢餓状態の旭兵団
2013/08/20
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から8 人肉を食べる飢餓兵
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から9 餓死戦線 方面軍山下司令部の食事は豊か
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から10 飢餓戦線から少将を救う転属、塩の配給にびっくり
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から11 旭兵団 約19600のうち戦没約17000
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から12 フィリピン方面戦没者50万人 なぜやめられなかったのか
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から13 国体護持 (天皇制の維持)の3週間にも大量死
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から14 丸々太って捕虜になった最高指揮官の責任
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から15 こんな戦争なぜ始めた――昭和天皇の命令があったから
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から16 日本軍はフィリピン住民を殺し日本人の子どもも殺した
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から17 中曽根元首相の戦争体験と改憲論
2013/08/25
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から18完 人間が人間として生きられぬ社会をつくってはならない

 ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。


<山下奉文大将 絞首刑>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p361――

水島 山下奉文大将の裁判は、マニラの軍事裁判所で1945年10月29日に開始され、12月7日に絞首刑の判決が下されています(絞首刑執行は1946年2月23日)。マニラやルソン島各地で行われた日本軍によるフィリピン住民に対する残虐行為の責任を問われたものです(詳細は、宇都宮直賢『回想の山下裁判』、ローレンス・テイラー『将軍の裁判』他参照)

<本間雅晴中将 銃殺刑>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p362――

水島 山下大将の死刑判決の法論理にはかなり無理がありますよね。特に、フィリピン人に 対する犯罪行為について山下大将の責任を立証できなかったので、「指揮官がそのような犯罪行為を摘発し制御するための効果的努力をしなかった場合」には責任を負うという論理をとった。「指揮官責任論」です。

また、開戦当時の第14軍司令官の本間雅晴中将も「バターン死の行進」の責任を問われ、死刑(銃殺)判決を受けたのですが(1946年1月3日裁判開始 → 2月11日死刑判決 → 4月3日処刑)、これもかなりみせしめ的要素が強かった。

日本軍がフィリピンでやったさまざまな犯罪行為の責任はなんら免罪されるべきではないが、両将軍に責任を収斂させて、これを性急に処刑したというのは、やはり「マッカーサーの報復」的側面があったことは否定できないのではないでしょうか。

<真の戦争責任はどこにあったのか>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p362――

久田 だから、私がいいたいのは、こんな戦争なぜはじめたのか、それは天皇の命令があったからだろう。

山下は、「天皇の忠実な下士官」でしかなかったから、自分の判断で戦闘をやめる決断さえできなかった。私は山下や本間を無理に処刑したのは、やはり戦勝国の裁判という面を否定できない。

私はこの戦争で最も被害にあったフィリピン民衆(私はデソンやデックスマン、その家族たちのことが頭にあった)。それと無理やり戦争に駆り出され、ぼろきれのように死んでいった高柳ら兵隊たち(日本の民衆)の立場から、真の戦争責任の追及をする必要があると考えています。

<昭和天皇の戦争責任>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p363――

水島 つまり、山下や本間を処刑した論理を突き詰めていけば、大本営やさらには天皇にまで責任を遡及させることができる。

しかし、天皇の戦争責任は問わないというアメリカ側(特にマッカーサー)の方針があったから、結局トカゲの尻尾切りで誤魔化したところに問題があった。そういうことですね。

久田 そう。これは東京裁判についてもいえる。天皇の戦争責任の問題を曖昧にしたところに、日本の民主主義の出発点にとっての最大の不幸があった。

だから、私が戦後、『帝国憲法崩壊史』や『帝国憲法史』を書いたのは、実は天皇の責任問題を明らかにしたかったからなのです。その一念から、憲法史の研究をやってきた。


コメント

岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その14 丸々太って捕虜になった最高指揮官の責任

2013-08-23 10:55:30 | Weblog

<関連記事クリック>
2013/08/14
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から1
2013/08/16
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から2 米軍上陸前に司令官脱出(南方軍・第4航空軍)
2013/08/17
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から3 重傷兵の頭の傷口で蛆が動く
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から4 アブラ虫、みみず、山蛭も食べて生き延びた
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から5 トリニダット橋の惨状・傷病兵殺害処置
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から6 カヤパ道の惨状――死体、死体、死体
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から7 飢餓状態の旭兵団
2013/08/20
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から8 人肉を食べる飢餓兵
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から9 餓死戦線 方面軍山下司令部の食事は豊か
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から10 飢餓戦線から少将を救う転属、塩の配給にびっくり
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から11 旭兵団 約19600のうち戦没約17000
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から12 フィリピン方面戦没者50万人 なぜやめられなかったのか
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から13 国体護持 (天皇制の維持)の3週間にも大量死
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から14 丸々太って捕虜になった最高指揮官の責任
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から15 こんな戦争なぜ始めた――昭和天皇の命令があったから
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から16 日本軍はフィリピン住民を殺し日本人の子どもも殺した
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から17 中曽根元首相の戦争体験と改憲論
2013/08/25
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から18完 人間が人間として生きられぬ社会をつくってはならない

 ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。


<飢餓戦線にあって丸々太って捕虜になった山下奉文陸軍大将>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p320――

久田 私は捕虜収容所で、山下大将の姿を見ました。我々の痩せ衰え、骨と皮だけの体とは対照的で、丸々太って、出腹の堂々たる体格をしていた。

彼は「終戦」の詔勅が出てから自決することなく、「ルソンにいる兵隊を一人でも多く内地に帰す大任が残っている」といって、「おめおめと」米軍の捕虜になった。

一人でも多くの兵隊を帰すというなら、天皇の命令が出るまで、なぜそのことに気づかなかったのか。数個師団を動かす権限を持っていた司令官だったのだから、ルソンにおける日本軍隊の崩壊が決定的になった時に、司令官の権限で降伏することだって出来たはずです。

天皇の命令が出てから自決することなく、敵手に入るくらいなら、なぜもっと前に降伏する決断が出来なかったのか。死んでいった部下たちのことを考えると、この点がなんとも悔しくてたまらないのです。

<最高指揮官(山下大将)の責任――ルソン戦没者の多くが病死・餓死>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p321――

水島 先生はどの時点に、ルソン島の日本軍の崩壊を見るのですか。

久田 上陸時点ですでにもう勝負ははっきりしていたが、少なくともバギオ陥落以降は、もはや軍隊同士の戦闘でない。飢餓線上の敗残兵の群れにすぎない。日本軍隊は崩壊していた。

私はバギオ陥落時点で降伏しても、けっして不名誉ではないと考えていた。ルソンの戦没者の多数は、バギオ陥落後の病餓死者です。この段階で降伏しておれば、何万もの兵隊を救うことができ、文字通り「ルソンにいる兵隊を一人でも多く内地に帰す大任」を果たせたはずです。

私は、軍人としての「軍事的合理性」から戦闘継続が無理と判断すれば、降伏を決断するのが真の大将軍だと思うのです。だが彼は天皇の命令があるまで、自分の判断でそれが出来なかった。だから私は、山下は大将軍でも何でもなく、「天皇の忠実なる下士官」でしかなかったというのです。

水島 山下大将は「マレーの虎」といわれ、「猛将」タイプの人というイメージが一般には強い。しかし、野戦型の将軍というよりも、「事務に精通した細心の幕僚タイプ」という評価もあります(今西英造『昭和陸軍派閥抗争史』p173)

いずれにしても、帝国軍隊には、兵隊や民間人の命を救うために、自分の意地とメンツを捨てることのできる将軍はいなかったのではないでしょうか(インパールで抗命した佐藤幸徳第31師団長のケースを例外として)。

久田 本当の勇気はやめることです。降伏したら汚名だと思うのはその時だけで、多くの兵隊や民間人を生還させたら、本当の大将軍です。降伏して死刑になっても、数万の兵士や民間人の命を救えていれば、気の狂うほどに「停戦」を待っていた兵士たちは、永久に彼のことを感謝したはずです。

水島 陸軍刑法第41条に、「司令官野戦ノ時二在リテ隊兵ヲ率イ敵二降りタルトキハ其ノ尽スヘキ所ヲ尽シタル場合卜雖六月以下ノ禁錮二処ス」とある。敵軍に降伏した場合、司令官は、理由の如何を問わず六カ月以下の禁錮刑に処せられる。こんな軍隊、他にないでしょう。米軍は、フィリピン帰還捕虜を一階級昇進させているのに。

久田 終戦でも、敗戦でもない。あれは帝国軍隊の崩壊だと、私は考えています。なぜもっと早くやめなかったのか、とルソンの山中で思いました。

<フィリピン住民をまきこみ日本国民も守れず>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p322――

水島 民間人の問題でいえば、マニラをオープン・シティにして、民間人を巻き添えにしないこともできた。いくら海軍との関係があっても、やるという姿勢さえあれば可能だったはずです。その決断が出来なかったために、フィリピン市民を虐殺し、マニラを廃墟にしてしまった。

また、マニラ・バギオを追われ、アシン河中流地域で自活した邦人は、マラリア、栄養失調、悪疫に倒れた。乳飲児の埋葬箇所を離れえない保障した母親、息を引きとった母の遺骸にすがりつく女の子……。

米軍投降勧告ビラを見て、米軍側に行くことを希望する邦人があらわれ、そのことを西副領事が山下大将に訴えると、山下は、「非戦闘員が個人として米側に走るものは致し方がないが、軍として米軍と交渉するのは、今のところ不可能である」といったそうです(栗原・前掲書p277~278)

小川氏は、「米軍と交渉して、彼らをその保護下に引き渡す方法が絶無だったとはいえない」 として、非戦闘員の多くを死に至らしめた山下の責任は免れないと述べています(小川・前掲書二七頁)

久田 山下だけの責任ではないが、彼が最高指揮官である以上、やる権限はあったし、やれたわけです。

コメント

岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その13 国体護持(天皇制の維持)の3週間にも大量死

2013-08-22 18:10:45 | Weblog

<関連記事クリック>
2013/08/14
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から1
2013/08/16
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から2 米軍上陸前に司令官脱出(南方軍・第4航空軍)
2013/08/17
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から3 重傷兵の頭の傷口で蛆が動く
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から4 アブラ虫、みみず、山蛭も食べて生き延びた
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から5 トリニダット橋の惨状・傷病兵殺害処置
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から6 カヤパ道の惨状――死体、死体、死体
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から7 飢餓状態の旭兵団
2013/08/20
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から8 人肉を食べる飢餓兵
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から9 餓死戦線 方面軍山下司令部の食事は豊か
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から10 飢餓戦線から少将を救う転属、塩の配給にびっくり
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から11 旭兵団 約19600のうち戦没約17000
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から12 フィリピン方面戦没者50万人 なぜやめられなかったのか
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から13 国体護持 (天皇制の維持)の3週間にも大量死
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から14 丸々太って捕虜になった最高指揮官の責任
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から15 こんな戦争なぜ始めた――昭和天皇の命令があったから
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から16 日本軍はフィリピン住民を殺し日本人の子どもも殺した
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から17 中曽根元首相の戦争体験と改憲論
2013/08/25
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から18完 人間が人間として生きられぬ社会をつくってはならない

   ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。



<戦争の美化――本土地上戦阻止に役立った>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p316――


久田 私の部隊は、「満洲」を出るとき1738名いたが、生存者は331名にすぎない。わずかな違いで、私はルソン島の土になっていたかもしれない。この331名のうちの一人に入ることが出来たのは、まったくの幸運だとしかいいようがない。

私の部下であった丸山、高柳、酒井、みんな死んでしまった。戦闘というより、一方的屠殺です。しかも、最後は山の中で病気と飢餓で死んでいった。

これは戦争とはいえない。なぜ、早くやめなかったのか。これがずっと私がこだわってきたことです。

水島 でも、ルソン戦関係の書物を読むと、きまって、米軍の本土上陸のための決戦師団を長期にわたってルソンに拘束した意義は大きい、といった叙述が出てきます。たとえば、鈴木昌夫氏の『米軍日本本土上陸を阻止せよ――歩兵第72聯隊(旭128部隊)ルソン島戦闘記録』などはその典型です。

日本本土上陸予定師団29個師のうち、ルソン島に拘束した師団は10個師(旭兵団が交戦したのは7個師)。「比島全戦域に於ける戦没者は約50万名であるが、この戦没者は全員が『米軍の日本本土強襲上陸阻止』という方面軍の最終目的のため犠牲となった。

 不幸にして戦は破れたとはいえ、結果として祖国の同胞を悲惨なる本土地上戦の惨禍を被らしめないよう米軍主力を最後まで拘束したことは、その目的を達成したものと考えるべきであり、戦没者の執念は達成されたものと信ずる次第である」(同書p122)と。

<終戦先延ばしは国体護持(天皇制の維持)のため>

久田 たしかに山下(方面軍)はルソン島に出来るだけ米軍を「拘束」して、本土上陸を遅らせるという「持久戦」の方針だったが、本土上陸を阻止できたといえるのか、きわめて疑問ですね。東京、大阪をはじめ主要都市はB29の空襲でほとんど廃墟になっていた。

また、7月26日にポツダム宣言黙殺声明を出してから約3週間の間に、広島、長崎の原爆投下、ソ連軍の参戦による「満洲」や北方地域等での悲劇……。これでどれだけ多くの日本人が死んだか。

国民は一日も早く戦争が終わることを望んでいたわけです。「持久」をやって、「終戦」を遅らせたのは、「国体護持」(天皇制の維持)のためだった。国民のためではけっしてない。

<戦争の美化を死者は喜ばず>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p318――

 水島 「米軍の日本上陸を阻止せよ」ということを信じ、ルソン島の日本軍は飢死の代償とした。だが、日本本土は米空軍の重爆撃機B29の執拗な爆撃を受け、東京、大阪、名古屋の三大都市は焦土となり、「日本本土は、すでに空から“上陸”されていた」(高木・前掲『ルソン戦記』p532)というわけですね。

 小川氏も、米軍を8カ月拘束したことは特記に値するが、「一国の戦略としては、このような局部的、消極的成功が讃えられてよいはずはない。軍上層部の前近代的思想と感覚と野心と思い上がりのため、これ程多くの人命が犠牲になったことをどうして誇ることができようか」(小川・前掲書p175)と書いています。

久田 私も同感です。ただあえていえば、ルソン島で死んだ兵士たちは無駄死だったという視点が必要だと思うのです。

本土上陸阻止の目的を達成したから無駄死ではないといっても、死者はけっして喜びません。私のまわりで死んでいった兵隊は、こんな馬鹿な戦争で死ねるかといって死んでいった。

「本土上陸を阻止した」という形で、あの戦闘を美化することは許されない。戦争目的からすれば無駄死だったという事実をおさえ、そういう無駄死に追い込んでいった者たちの責任、指導者たちの戦争責任の問題を追及しなければならない。

そのうえで、ルソンのあの多大な犠牲は、平和憲法を生み出す大きな礎になったのだ。こう考えるべきだと思うのです。ルソンで死んだ私の部下や、多くの兵士たちの死は、平和憲法のためには無駄ではなかった、と。私はこの点を戦後、ずっと訴えて、憲法学の研究・教育に関わってきたのです。


<『国土防衛』はルソン島の惨状を日本国土にもたらすだろう>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p319――

水島 鈴木氏は、ルソン戦について、①自衛隊の任務である「国土防衛」 の前哨戦としての性格を持つこと、②ルソン島は地形、地域の広さが日本本土に類似しており、自衛隊と近似の兵力で「対上陸作戦」を戦った数少ない貴重な戦史であること、を指摘しています(前掲書「著者よりのお願い」)。つまり、ルソン戦を、対ソ防衛戦闘のための「戦訓」 にするという立場です。

久田 同じ戦場で苦労したのだろうが、その戦場体験をどう活かすかという点で、私とはまったく異なります。ルソン島の惨状を、自衛隊は日本の国土で展開しようとしている。ルソン島でも民間人が道づれになって大勢死んでいるが、今度は日本の国土ですからね。守るものは何か。自衛隊は「自由を与え得る国家体制」(昭和56年版防衛白書p102)を守るといっておるが、これは戦前の「国体」と同じですよ。


コメント

岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その12 フィリピン方面戦没者50万人、なぜやめられなかったのか

2013-08-22 11:55:28 | Weblog

<関連記事クリック>
2013/08/14
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から1
2013/08/16
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から2 米軍上陸前に司令官脱出(南方軍・第4航空軍)
2013/08/17
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から3 重傷兵の頭の傷口で蛆が動く
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から4 アブラ虫、みみず、山蛭も食べて生き延びた
2013/08/18
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から5 トリニダット橋の惨状・傷病兵殺害処置
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から6 カヤパ道の惨状――死体、死体、死体
2013/08/19
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から7 飢餓状態の旭兵団
2013/08/20
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から8 人肉を食べる飢餓兵
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から9 餓死戦線 方面軍山下司令部の食事は豊か
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から10 飢餓戦線から少将を救う転属、塩の配給にびっくり
2013/08/21
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から11 旭兵団 約19600のうち戦没約17000
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から12 フィリピン方面戦没者50万人 なぜやめられなかったのか
2013/08/22
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から13 国体護持 (天皇制の維持)の3週間にも大量死
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から14 丸々太って捕虜になった最高指揮官の責任
2013/08/23
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から15 こんな戦争なぜ始めた――昭和天皇の命令があったから
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から16 日本軍はフィリピン住民を殺し日本人の子どもも殺した
2013/08/24
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から17 中曽根元首相の戦争体験と改憲論
2013/08/25
岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から18完 人間が人間として生きられぬ社会をつくってはならない

  ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。



<フィリピン方面戦没者50万人>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p315――

水島 先生が参加された「ルソン決戦」は9月3日の降伏調印で終わったわけですが、「レイテ決戦」を含む比島(フィリピン)方面での戦没者の総数は、陸海軍合わせて49万8600名(8月15日以降の戦没者12000名を含む)という膨大なものです(厚生省1964年3月発表数字・『ルソン決戦』p687)

つまり、「満州事変」以来の15年戦争期間中の中国戦線の戦没者総数50万2400名(「満洲」+中国本土、8月15日以降7万1300名を含む《『日本の戦争・図解とデータ』p21より》)に匹敵する数の将兵がフィリピンで戦死したわけです。

しかも、いわゆる「損耗率」――人間を機械か物みたいにみるこの表現は嫌いなのですが――という点から見れば、比島(フィリピン)方面作戦の全参加兵力が63万0967名(陸軍50万3606名、海軍12万7361名)ですから、それは79パーセントにも達します。

先生が参加された北部ルソン戦を戦った「尚武集団」(山下大将直率)は全兵力15万2000名に対して、「終戦」時、5万5000名しか生存していませんでした。

小川哲郎氏は、先生も最後に立て籠った尚武の復廓陣地内の戦没者数を12万7300名、その九割が餓死・病死だと述べています(小川・前掲『北部ルソン戦・後篇』p174)

一方、マニラ方面の振武集団は全兵力8万に対して、生存者は6300名(「損耗率」92パーセント)。クラーク東方の建武集団は3万に対して、生存者はわずか1500名(同95パーセント!)です(前掲書データ59)。

久田 私の部隊は、「満洲」を出るとき1738名いたが、生存者は331名にすぎない。わずかな違いで、私はルソン島の土になっていたかもしれない。この331名のうちの一人に入ることが出来たのは、まったくの幸運だとしかいいようがない。

私の部下であった丸山、高柳、酒井、みんな死んでしまった。戦闘というより、一方的です。しかも、最後は山の中で病気と飢餓で死んでいった。

これは戦争とはいえない。なぜ、早くやめなかったのか。これがずっと私がこだわってきたことです。


コメント