川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
★自分用メモは、新聞・Webなどのノート書きです。

健康ウォーカーが通り過ぎた

2005-08-27 06:39:08 | Weblog


おはようございます。私の住んでいる町は丘陵地にできた60万坪のニュータウンです。自宅は高台にあって、東と北は大きく視界が開けています。遠くの山並みとそれに連なる空がいつも見えます。今朝の風は涼しくさわやかです。東の窓と南の縁側を開け放つと風が抜けていきます。心地よい朝です。

新聞を取りに外へ出ると、たまたま70才くらいの老夫婦が通り過ぎました。このあたりは朝晩ともに健康ウォークする人が多いのです。二人ともウォークスタイルで背筋が通り、足はまっすぐに伸びて足早で、手を大きく降り出して通り過ぎました。

おかしかったのは、二人ともがきまじめな顔をしていて、主人がきまじめな顔を上向き加減にしてあごを引き、ちょっといかめしい雰囲気なのです。奥さんもまたきまじめな顔で、主人より1mほど後ろを追随します。住まいの近くで朝の健康ウォークをするにしては気合いが入りすぎているので、「昔人間だなあ」と一人笑いしたしだいです。…2人とも健脚で、老人という感じがしません。


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心はどこにあるのでしょう

2005-08-23 13:31:19 | Weblog


怒ることを「腹を立てる、立腹する」と言います。腹を立ててもっと興奮すると「頭に来た、頭に血が上る」と言います。カーッとなりますと、心臓がどきどきして頭の血圧が上がるような感じを私は経験しています。「怒り」は心とは別物のような感じで、心臓と頭で同時多発します。

苦しんでいる人や悲しんでいる人を見て、同情や共感の念が強くなると、「胸が詰まる」と言います。小説や映画に感動して「胸がいっぱい」になります。この感情は、「ああまさに心だなぁ」と思います。胸に心があるように感じます。

さぁ勉強しよう、仕事しようというように考えているときは、これも心とは別物のように頭に宿っているような気がします。

しかも上の気持ちの種類(心の種類ですかね)は、電灯のように「ついたり消えたり」します。心はどこにあるのでしょう。
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「生きていること」ほど尊く幸せなことはない

2005-08-21 21:30:33 | Weblog


朝日新聞8月21日投書欄から転載します。

◇「生きていること」ほど尊く幸せなことはない(福岡県・山内さん 男性23)
父が急逝した。世界中の名峰を制覇してきた父は、最後は小学生でも登れるような山で熱中症に陥り、そのままあっけなく帰らぬ人となった。

医学生の私はこれまでたくさんの患者さんに出会い、その「死」も何度となく見てきた。初めてのときは衝撃だったが「慣れ」とは怖いもので、今ではどんな患者さんに出会おうが、たとえ目の前で亡くなろうが、驚きもせず何も感じなくなった。

いつの間にか私は、「死」や「命の大切さ」に対しての感情、つまり、医師になる者として一番大切な「心」を失っていた。今回、私自身が大切な人を失い、残された家族の悲しみや苦悩を初めて知った。そして分かった。「生きていること」は当たり前ではないということが、これほど尊く幸せなことはない。


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死体焼却焼骨廃棄、死者選別差別

2005-08-18 18:26:55 | Weblog


◇死ねば焼却、遺骨・遺灰は廃棄処分
きのう書いたように、日本では一般に人間の死体(遺体)は焼却されます。わざわざ残るように焼かれた骨や灰は、その大部分が廃棄されます。小さな壺一杯の骨だけを大事に持ち帰って、墓石の下や納骨堂に収納されます。管理がずさんなお寺なんかの場合には、1カ所にまとめて積み上げているところもあるようです。

◇服喪が終われば遺骨とも永別
墓参りとか法事というものは、一家または一族の結束のための行事という意味合いがあります。ですから意識せずとも習慣的に、春秋のお彼岸、お盆、新年にそういう儀式をしっかり守っている家庭が大多数なのでしょう。

しかしその度に遺骨にお目通りする人は、まあ聞いたことがありません。いったん納められた骨自体は、何か事が起きないかぎり、それっきりです。実の父母兄弟姉妹あたりなら、その遺骨について何か事があれば守ろうとするでしょう。でも、祖父母となればけっこう忘れられてしまいます。配偶者方の父母なら、そういえば遺骨があったなあというくらいでしょう。

◇遺骨はモノ、死者は思い出に生き残る
人間は死ねば焼却処分になります。遺骨の大部分は廃棄物として処分されます。死んだ人と一番血縁の濃い人が、死んだ人の記念品として、ごく少量の骨を持ち帰ります。その少量の骨は服喪の日を終えると、保管していた肉親の家を離れて墓地や納骨堂その他に引き渡されます。それで終わりです。普通、再び肉親の家に帰ることはありません。

モノ(遺骨)との密接な関係はそれで終わりです。しかし、思い出はいつまでも残ります。夢に見ることもあります。私は、父が死んだときのその年齢を越えました。でも、父の顔・姿・声や体から発散するぬくもりまで、今ここで話をしているような感じで、いつも私といっしょにいます。

◇死者への所得差別は生者の虚栄
墓地はその墓園の格式や立地によって土地価格に差があります。面積の大小によって格差があります。墓石の種別によって価格差があります。墓石の大小によって格差があります。墓地へ行くのが不便であったり、値段が高かったりという理由で、納骨堂を利用する人もいます。それさえ叶わない人のために、都市部の寺院や墓園によっては合葬供養してくれるところもあります。

要するに、死んだ本人には関係ありませんが、死んだ後まで所得による格差、すなわち差別があります。生きている間にはいろいろあるでしょうが、死んだ後の処遇に格差があるのは、すなわち所得収入による差別があるのは納得ができません。

◇靖国神社による死者の選別
生者による死者への差別ということで思い出しましたが、靖国神社による死者の選別も大胆でした。敗戦後、占領政治の間隙を縫って、100万人だか200万人だかの軍籍戦没者をエイヤッとばかりに一括合祀しました。名簿だけでお祀りしました。名簿は当時の厚生省が提供したようです。

靖国神社で祀っているのは「国のために働いた英霊、御霊」とうやうやしく話しますが、もとはといえば名簿だけの一括合祀、すなわち名簿で一丁上がりというやり方です。……これでやっていけるのですね。

宗旨が違うのに知らないうちに肉親が靖国神社に祀られていた、外してほしい、と裁判を起こした人もいます。

一方で国内外合わせて100万人単位の民間人戦没者は祀られていません。対象外です。
  ※参考 2006/7/29 昭和天皇自身の戦争責任――戦友は靖国にはいない、故郷の墓にいる

徴兵されて敵に殺されたり、戦地で病死したり、餓死した人は祀る。 ひどい負け戦(軍や国の責任です)で敵に殺された民間人は祀らない。

靖国神社は天皇のために戦をした人のための神社なのです。もっとも大多数の兵士にとって、「戦場に否応なく送りこまれた人」という表現が正確だと思います。

◇葬儀不要、墓に入れるな
人体は死ねば焼却処分、焼却後の残余物(遺骨・遺灰)は廃棄処分になります。死んだ人は、私と私の父の関係のように(母は今私と暮らしています)、親愛の気持ちを持っている人と共にいつまでも生きています。私自身は墓の有無にこだわらず、儀式としての葬儀にもこだわっていません。しかし、それを始めるのは私からで、今実行しているわけではありません。私が死ぬときは、葬儀不要、わが家の墓にも入れるなと、子どもに言うつもりです。


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頭の骨や肋骨や…、焼き場からどこへ行くのか?

2005-08-17 03:19:32 | Weblog


きのうは墓地陥没のニュースがありました。美しい京都五山送り火のニュースも見ました。お盆が終わりました。

さて、遺骨のお話です。告別式が終わると棺は焼き場に搬送されて、焼却されます。焼き場では引き出し式の鉄製特大トレーに遺体入り棺を乗せて、そのトレーを焼却炉に入れます。2時間か3時間して遺族が焼き場に戻ります。

焼却炉から引き出されたトレーには砕かれた遺骨や灰が乗っています。それらは人体の形をしていません。頭の骨や肋骨や骨盤や、手のひらや足の甲や、人間を思わせる形をした骨が見あたりません。

焼き場で拾う遺骨は小さな骨壺1杯分だけです。残りの大部分の遺骨はどのように処分されるのでしょうか? インターネットで検索してみましたが、解答は見つかりませんでした。

遺骨の扱い方が丁寧であるかどうかは別にして、廃棄処分されているのではないでしょうか? 私は、量の多い人骨を廃棄処分するのはしかたないことだと思います。


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医療費抑制は高齢者の健康増進策と高額医療費の低価格化で

2005-08-16 14:33:58 | Weblog


医療費最多の31兆4千億円、高齢者4割超す 昨年度 (朝日新聞) - goo ニュース

厚生労働省がまとめた04年度の概算医療費が、前年度比6200億円増(2.0%増)の31兆4000億円になり、過去最高を更新したことがわかった。そのうち、70歳以上の高齢者の医療費は同4700億円増(3.8%増)の12兆8000億円で全体の40.6%に達し、初めて4割を突破した。

1人あたりの医療費は同2.0%増の24万6000円。高齢者だけで見ると、同0.3%増の73万9000円となっている。

◇川本の感想
全年齢つっこみの医療費増加は2%、高齢者だけなら0.3%です。全年齢つっこみ分の増加が目立ちます。これに対する行政施策について聞いた覚えがありません。どうしたらいいんでしょうか?

高齢者人口増による高齢者医療費抑制策として、高齢者の健康保持増進対策や振興運動が有効で、持続すれば効果が大きいと思います。

医療費抑制策として、高額医療費の低額化はどうなっているのでしょうか? MRIなどは大変ありがたいものですが、このごろではどの病院でも多用されています。日常的に多用されるようになれば価格低下するのが常識です。しかし、医療費のように単価が保険診療点数として国の管理下にあるものは、下方硬直しているのが実態です。


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憲法の「戦争放棄」条項、日本側の白鳥元大使が進言

2005-08-15 23:33:36 | Weblog


◇朝日新聞8月14日
改憲論の有力な論拠に「アメリカから押しつけられたから」というものがあります。アメリカのことは別にして、日本側の「戦争放棄」提案が明らかになりました。朝日新聞8月14日から転載します。

◇日本側の白鳥元駐イタリア大使、憲法に「戦争放棄」条項を進言
日本国憲法制定前の1946年1月、後にA級戦犯として終身禁固刑を受けた白鳥敏夫・元駐イタリア大使=服役中に病死=が、9条の原型となる戦争放棄や軍備撤廃を新憲法の条項に盛り込むべきだとする提案をまとめた書簡を、当時の吉田茂外相を通じて幣原喜重郎首相に送っていた。

ドキュメンタリー番組製作者・鈴木昭典さん(76)が憲法制定に関わった関係者の証言テープや極東軍事裁判の記録を調査し、一連の経過をまとめた。9条の基になる考えが日米どちらから出たのかについては議論が分かれているが、非軍事国家を目指すことを憲法に明記する構想が、日本側にあったことになる。

◇白鳥書簡-国民を外戦に赴かしめず、国家資源を軍事目的に充当せざるべき
鈴木さんが国立国会図書館憲政資料室にある約800冊に上る「極東国際軍事裁判記録」を調べ、書簡を見つけた。書簡は1945年12月10日付。原文は英文で書かれており、戦犯の指名を受けて入所した巣鴨拘置所から吉田外相あてに出された。末尾には、検閲のため1946年1月20日ごろまでマッカーサー司令部に留め置かれたことが付記されている。

それによると、「将来この国民をして、再び外戦に赴かしめずとの天皇の厳たる確約、如何なる事態、如何なる政府の下においても、(略)国民は兵役に服することを拒むの権利、および国家資源の如何なる部分をも軍事の目的に充当せざるべきことなどの条項は、新日本根本法典の礎石」になると位置づけ「憲法史上全く新機軸を打ち出すもの」とした。

そのうえで、「天皇に関する条章と不戦条項とを密接不可分に結びつけ(略)憲法のこの部分をして(略)将来とも修正不能ならしむることに依りてのみこの国民に恒久平和を保証し得べき」と延べ、戦争放棄の条項を天皇制条項と結びつけることで、天皇制を守ることもできると強調した。

◇白鳥書簡-幣原首相に渡る
極東軍事裁判で白鳥元地脚の弁護をした広田洋二氏が1947年12月に作成した吉田茂の陳述書によると、「私は白鳥氏の要請を容れ当時首相にも写を一部手交しました」とある。

戦争放棄を新憲法に盛り込む発想は1945年1月24日のマッカーサー・幣原会談で出たとされる。幣原が言い出したとされるが論争があり、決着はついていない。

1月20日ごろに検閲が解除され、吉田外相を通じてマッカーサーとの会談前の幣原喜重郎首相に届けられた可能性が高い。


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後藤田官房長官、中曽根総理を制止する

2005-08-13 18:21:39 | Weblog


朝日新聞8月12日夕刊「国家再建の思想(15)」から転載します。

◇中曽根内閣には後藤田がいた
中曽根内閣と小泉内閣は似通っているところが少なくない。「大統領的首相」を目ざした中曽根、「自民党をぶっ壊す」と宣言した小泉。中曽根は国鉄、小泉は郵政、それぞれ「小さい政府」をめざす「民営化」に挑んだ。が、中曽根はそれを成功させ、小泉はつまずく。小泉は、反対派を党から追い出すという、のるかそるかの勝負に出た。

どこが違っていたのか。中曽根には後藤田正晴(91)という人物がいた。中曽根内閣の5年間、官房長官、行政管理庁長官、総務庁長官、再び官房長官とつねにそばにいた。

◇後藤田の役割
「友人から『よく中曽根なんかとつきあっているな』と言われたけど、政治と個人の好き嫌いは別だと答えていたよ」と後藤田。内務省で中曽根の先輩。警察官僚のトップ。田中角栄の懐刀。中曽根にこわれて就いた役回りは、官僚ににらみをきかせることと、肝心なとき政権が走りすぎないように抑えることである。

◇自衛艦ペルシャ湾派遣に反対する
1987年夏から秋口、中曽根や外務省はイラン・イラク戦争で機雷がまかれたペルシャ湾の安全航行確保のため「自衛艦を派遣したい」と強く主張した。後藤田は
「あそこは交戦海域。戦争の覚悟はあるんですか。私はサインしません」と立ちはだかり、断念させた。


◇中曽根の憲法改正案に注文をつける
中曽根が会長を務める世界平和研究所は今年1月、憲法改正案を発表した。後藤田は研究所の講演会でこんな注文をつけている。
前文で日本の歴史伝統をうたうなら、聖徳太子の『和をもって尊しとなす』を入れてほしい。自衛隊の国際活動を認めるならば、海外で武力行使はしないことを明記してもらいたい」


※川本のコメント
後藤田さんが言うように、法案に注文をつける場合は条文に明記しなければ安心できません。国会の政府答弁などの議事録に留めて了解事項とする方法がありますが、これの拘束力は当てになりません。5年、10年、20年と時が過ぎれば、時代の雰囲気や権力者である政府指導者や上層官僚の考えも変わります。

条文に明記されていない法案成立当時の了解事項の類は尊重されず、年月を経ると忘れ去られてしまいます。明記された条文でさえ、その時代の政府の都合に合わせて運用解釈が変化していくと覚悟しておいた方がいいくらいです。

国会で審議される法案については、まず法案原文を読むのが一番です。…もっともそれがわかっていても、生活費稼ぎに追われる私には、それだけ勉強している時間がないのですけれど。

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女学校時代の級友、二十歳そこそこで戦争未亡人になった 自衛隊イラク派遣に思う(84才女性)

2005-08-13 15:33:59 | Weblog


朝日新聞8月13日「声」欄の読者投書から転載します。


「戦争未亡人」をつくらないで 京都府・上野さん(女性84)

イラクに派遣されている自衛隊は、12月の期限が来れば必ず帰国させてください。宿営地付近に砲弾がおちたというニュースを聞く度に、身の縮む思いをしているのです。

私の高等女学校時代から戦時色が濃くなりました。当時は学校を卒業するとすぐに結婚する人が多く、級友の1人は相手に赤紙がきた翌日に結婚式をされ、何年か後にご主人の戦死の公報が届きました。

別の級友は軍人と結婚され、みんなにうらやましがられたのですが、その軍人さんも男の子1人を残して戦死されました。お二人ともはた目にも寂しい一生でした。

また戦時中のある日、たまたま出会った級友が人目もはばからず私に抱きついて、夫が戦死したと大声をあげて泣かれました。彼女は先方の親と折り合い悪く、2人の子どもを育てるのに苦労が絶えなかったようです。

「戦争未亡人」は一人もつくってほしくないのです。自衛隊の方は無傷のまま帰国していただきたいと、切に願っています。

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敗戦の北朝鮮から危機乗り越え帰国

2005-08-12 15:20:29 | Weblog


朝日新聞8月12日「声」欄の読者投書から転載します。

◇敗戦の北朝鮮から危機乗り越え帰国 大阪府・渡邉さん(女性69)
終戦記念日が来るたび、苦しかった幼い日の出来事が断片的によみがえる。父が満鉄に勤めていた関係でソ連国境に近い北朝鮮の港町羅津に住んでいた。ある朝、ソ連軍が奇襲。美しい街は戦場と化した。

両親ときょうだいの一家6人は、戦火を受けて北へ向かった。無蓋の貨車に乗せられ中国との国境を越えた図們駅まで来たところ、列車が爆撃を受けた。多くの人が亡くなったが、私たちは奇跡的に助かった。「日本が負けた」と知ったのは延吉まで逃げてきたときだった。

炭鉱の街撫順で1年を過ごした。食糧事情は悪く、栄養失調で乳幼児が次々と亡くなり、「次は3才の妹の番だ」と覚悟していた。母がどからか手に入れたピーナッツを食べさせ、妹は命拾いをした。

一方私は、首に大きな箱を掛け、炭鉱でまんじゅうやあめを売り歩いて稼いだ。こうした苦労を重ね、翌年、一家は誰一人として欠けることもなく帰国できたのだ。

いま憲法9条を見直す議論が進んでいる。たしかに「国を守る」という限りでの防衛は必要だと思う。しかし私たちが経験したような、多くの一般人を犠牲にする戦争は二度と繰り返してはならないと思う。

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