川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
★自分用メモは、新聞・Webなどのノート書きです。

母のこと――脳梗塞後くり返した入院

2007-11-20 19:15:00 | Weblog


私は母の記憶を明確に留めておくために、そうすることが母への鎮魂になるような気がして、母のことを書きとめています。

2004(平成16).12.24. 定期検診後第1回脳梗塞で県立病院入院
2005(平成17).01.05. 退院
2006(平成18).02.10. 第1回心不全、午前0時半救急車で県立病院入院
2006(平成18).04.15. 退院
2006(平成18).05.02. 深夜に息苦しさひどく県立病院救急室へ、第2回心不
           全再入院
 2006(平成18).06.05. 退院、以後、デイケアとショートステイのお世話にな
             る
2006(平成18).07.04.  夜、第2回脳梗塞発作起きる
2006(平成18).07.05.  朝8時、救急車で県立病院第2回脳梗塞入院
2006(平成18).07.24.  退院
2006(平成18).08.01.    服部病院で初検診、以後ここに通院
2007(平成19).02.19.  肺炎、服部病院入院
2007(平成19).03.27.  退院
2007(平成19).04.06.  デイケア先でけいれん昏倒、意識不明、救急車で友紘
            会病院入院
2007(平成19).06.15.  夜9時、意識不明のまま死去

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母のこと――脳梗塞を発症したときのもよう(3)

2007-11-10 11:34:43 | Weblog


■2004年(平成16年)12月24日入院

12月23日、母の状況は22日と同じようなありさまでした。

12月24日、県立病院の糖尿病定期検診日です。午前10時過ぎ、車で母を連れて行き、病院玄関で母を降ろしました。一人で歩かせることに不安を感じながら、玄関自動ドアを入ってすぐの待合所ソファで待つように、母に言いました。病院玄関はポーチまで三段の石段になっています。

母は石段をあがろうとして、まともに転びました。むこうずねを強く打ちました。私が車を降りて駆け寄るより早く、母を助け起こしてくれた女性がいました。強く打ったはずなのに、母はそれほど痛がりませんでした。

駐車場に車を置いて待合所に行くと、さきほどの五十前後と見受けられる女性が母のそばについてくれていました。私はその善意に感激して、何度もお礼を言いました。

内科で診察を受けたのは正午前だったと思います。すぐにいろんな検査にまわされて、夕方遅くまでかかりました。母は脳梗塞と診断されて、緊急入院となりました。

明らかに脳梗塞が発症したのは、12月21日の日暮れでした。しかし、身体部分の麻痺もなく言語障害も、それらしき兆候は皆無でした。トイレの位置関係がわからなかったりということもありましたが、私は脳梗塞という病気に思い及ばないで、痴呆症との関連に不安を感じていました。

医師は、来るのが遅かったねと言いました。これ以上の進行はないと思いますが、症状が安定するまで入院しましょう。医師はそう言いました。

母は、夜の間、3回から5回トイレに立ちます。入院中、これが問題になりました。母はトイレの場所が覚えられなかったのです。トイレに行っても自分の病室に帰ることができません。

入院して他人の中で生活するようになってはっきりわかったことは、母が記憶できなくなったということです。脳梗塞発症以前の記憶はほぼ確かです。発症以後の新しいことは5分前のことでも覚えていません。

翌年2005年(平成17年)1月5日、母は退院しました。



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母のこと――脳梗塞を発症したときのもよう(2)

2007-11-01 10:02:39 | Weblog


■2004年(平成16年)12月22日

この日、私は朝8時40分ごろに起きた。母が顔を洗いに起きてきました。しぐさも表情も常と変わりません。母が風呂場の手前にある洗面台のところで家内にこう話しかけました。

「顔洗うのは風呂場でよかったんやな」「私の歯ブラシどれやったやろ、これでよかったんやろか」

午前中に油絵クラブの松本さんから電話がありました。1月7日午前9時に初絵描きで、お昼は新年会とのことでした。母は覚える自信がないようで、何度かくり返して聞きながらメモを取りました。

電話のあと、しんどい、しんどいと言いながら、自室8畳間でやぐらごたつに足を入れて寝ました。午後は足腰がまったく立たなくなりました。麻痺症状ではなく、力が抜けた状態でした。自力でトイレに立つこともできません。私と家内とで抱きかかえてトイレに行きました。母はトイレの向かいにある洗面台に向かおうとしました。

母の自室の前は廊下、その向こうに玄関があります。廊下に出て右に茶の間、その向こうが台所になっています。廊下に出て左にトイレがあります。トイレの前が水場で、洗面台、次に洗濯機、その向こうに浴室と並んでいます。

この日、母は何も食べませんでした。かぜで38度を越える熱に苦しんでも、どんどん食べる性分の母でした。食べな元気でぇへん! しんどいときはそう言って、いつもお寿司を食べる母でした。それなのに、冷たいお茶のほか何も口にしません。

何も食べていないのに、母が2回吐きました。1回目は透明な液が少量、2回目は茶色がかった液が少量でした。微熱が前日から続いていました。かぜ熱だろうと私はたかをくくっていましたが、普通のかぜではなく流感かもしれないと見守っていました。

夜8時ごろ、母が自分でふとんをたたんで押入れに入れました。体力が少しもどったようで、私は少し安心しました。母はつづいて、茶の間の石油ストーブの前にすわりこんで火をつけようとしました。次にインシュリン注射をしようとしました。このころは、毎朝1回だけインシュリン注射をすることになっていました。朝と勘違いしているのです。

インシュリン注射をし、茶の間のストーブややぐらごたつをつけ、台所のガスでお湯をわかし、コーヒーを入れ、テレビのスイッチを入れ、朝刊を取り、茶の間か自室でコーヒーを飲むのが、母の朝4時か5時ごろの日課でした。


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