川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
★自分用メモは、新聞・Webなどのノート書きです。

メモ書き用紙に何を使っていますか?

2009-03-31 12:50:56 | Weblog


メモ書き用紙として、これまでにB5ノート、A6ノート、B5コピー紙半切り、A4コピー紙半切りを使ってきました。長く使っていたのは、用のなくなったコピー紙の裏紙でした。

裏紙の半切りは今でも使っています。サイズは、仕事で使うものがBサイズ主流の時代はB5半切りのB6サイズでした。Aサイズ主流の時代の今では、A4半切りのA5サイズにして、紙バサミに留めて使っています。紙バサミが台になってメモ書きがしやすいのです。時にB5サイズの不要紙が出ますが、これは今では使いません。半切りにした裏紙のサイズがA6、B6と不ぞろいだと使いづらくなります。

A6の裏紙は大きさも自分には合って書きやすい。気に入っています。筆記具としては0.9ミリ芯のシャープを常用していますので、このA6サイズを紙バサミで使うのがお気に入りです。この使い方だと、車の中にいても、トイレに入ってさえ、メモ書きができます。

これは便利です。特に、車の中で(もちろん停車して)メモ書きする時や、翌日や当日にしなければならないことをリストアップする時には、このA6裏紙ばかり使っています。リストアップ用にはぺんてるの赤サインペンを使っています。これはどこにでも売っています。

しかし、その結果のメモが、茶の間のやぐらごたつの上にあったり、2階自室のパソコンテーブルの上にあったり、小さいバッグの中や仕事かばんの中に入っていたり、組立て本棚に本を立てた手前のちっぽけなスペースに乗っていたりといろいろで、必要なときに探しまくるのが常となっています。

この問題は整理べたの私には、長い間解決できませんでした。整理や保管のしかたを考えてもうまくいきません。マメさがないので、できないのです。

試行錯誤を重ねた結果、ノートを使うことにしました。これなら散逸せず、参照が容易です。ノートサイズはB5とA6の間を行ったり来たりで、何年も一定できませんでした。少し長いものを書き留めるには、A6では役不足なことがあります。それでB5ノートばかり使っていた時期がありました。でも、B5ノートは、ハンドバッグ代わりの小さいメンズバッグに入りません。これが難でした。

そうした結果、今ではどうしているか?

A6ノート一本です。これならメンズバッグに入る。本日や明日の「やることリスト」や車中メモなどのA5裏紙メモは、二つ折りにしてA6ノートに挟みます。この二つ折りは10枚くらいならA6ノートに挟んでも大丈夫です。

書くメモの内容は、なんでもかんでも、です。仕事でも、私ごとでも、電話のメモでも、思いつきメモでも、なんでもA6ノートにメモ書きしています。このメモ書きはもちろん、手書きです。メモの日付は「3/31」と大きく書いて、その日付を横長の○で囲んでいます。ノートの表紙にサインペンで「自09210113、至09210331」などのように大書していますので、「年」は書きません。

かつてB5ノートに書いていたようなものは、ノートパソコンにテキストで書きこんでいます。日付は「09210331」などのように書きます。単語登録をしてあるので「あ」とキーボード入力すれば、日付が出ます。日付の書き方については、『09210330 メモ書きにつける日付の書き方』に書いています。

メモ書きはこうしてA6ノート(はがきサイズ)一本に定着しました。このA6ノートは24時間いつも携帯しています。自宅にいるときはトイレにも持ちこみます。寝るときは枕元に置いています。

たまたま手元にA6ノートがないという珍しいときや、車中メモ、やることリストを書くときだけ、A5裏紙を使っています。このA5裏紙メモは二つ折りにしてA6ノートに挟んでおきます。用がなくなってしまったり、パソコンのノートやメモに移転が終わったりすると、捨てます。


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09210330 メモ書きにつける日付の書き方

2009-03-30 04:07:50 | Weblog


<1> 日記でなくても、メモ書きノートに日付が入っていないと不便に思います。私の場合、日付を入れるようになったころは「3月30日」とか「3/30」とか書いていました。「3月30日」は手間がかかりすぎるので、いつのまにか「3/30」になりました。

<2> そのうちに、何年のことかわからないと落ち着かない、というようなことになりました。それで「H21.3.30.」「2009.3.30.」「H21/3/30」「2009/3/30」のいずれかを使うようになりました。そのときの気分しだいで、四つのどれかを書きこんでいました。

<3> 次に「.」と「/」の視覚的な違いが気にかかるようになりました。「2009/3/30」の方が「2009.3.30.」より目に飛びこむ力が強い。知覚するのは双方ともに一瞬なのですが、それでも「/」の目から脳へ伝わる速度の方が速いような感じがします。テンキー付きのパソコンなら「/」の方が速い。手書きのスピードは「.」の方が速いのですが……。

<4> そんなやこんなやで、しだいに「H21/3/30」「2009/3/30」のどちらかを使うことが多くなりました。ところがこの「/」使いを多用するようになって、不便なことが出てきました。パソコンでファイルを保管するとき、タイトルに日付が入っていると「/」を受け付けません。

<5> それで「-」を使ってみました。「2009-3-30」のように、です。これを手書きで走り書きすると「-」の部分が右上がりにはね上がるようになって、どうも気持が悪い。パソコン画面やプリント出しを見ても、「2009-3-30」はなじめません。単純に好ききらいの問題で、好きになれません。

<6> どこかで日付を「20090330」と表記している人がいるのを見ました。これはいい。手書きでも「.」や「/」をヌキにすると、非常に速く書けます。キーボード入力でも速い。数字ばかり並んで知覚しづらいかなということもありましたが、私にはまったく違和感なく認識できます。

<7> 西暦は「20090330」を使うようになりました。それで使用回数が減りましたが、「H21.3.30.」「H21/3/30」も併用していました。年号表示が気にかかったり、年号記載が必要であったりする場合に使っておりました。

<8> 日常生活で使っている免許証、健康保険、住民票などみんな、年号表記です。しかし、明治・大正・昭和・平成と時代をまたぐと、年数勘定に手間がかかってわずらわしい。それに外国のできごとは西暦表示で伝えられることが多いので、日本のできごとと対比する場合にも西暦が便利です。

今年は西暦何年やった? 今年は平成何年やった? そのたびに、新聞(の日付)見て! こんなわけで、西暦と年号を同時に表示する工夫をしました。「09210330」。私はもう何年もの間、この表記を使っています。はじめの二桁「09」は西暦の下二桁、次の二桁は年号の年数、その次の二桁は月数、終わりの二桁は日数を表現しています。

<9> 今は、「09210330」ばかり使って便利になりました。パソコンでは更に単語登録で読み「あ」で「09210330」を登録しています。そして「あ」を毎日修正しています。私の場合、毎日毎日、日付を多用していますから、単語登録の修正は苦になりません。

しかし以前は、これも「092103」というように単語登録して、「あ30」とキーボード入力して「09210330」と表記していました。これですと単語登録の修正が月1回ですみます。

<10> ただ、年数表示の必要がないときで、なおかつメモを手書きするときは今でも「3/30」という日付を使うことが多いです。一番手っ取り早いうえに、視認性がいい。これについては後日にまた触れることにします。



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ことばにクエスチョン『グローバル化、ホワイトエグゼンプション、百年に一度の不況』

2009-03-19 10:58:02 | Weblog


竹中平蔵元大臣は、まだ大臣になる前のころ、慶応の大学教授の時からテレビによく出ていました。「経済のグローバル化に対応しなければいけない」とよく言っていました。「グローバル化」提唱者の派手な旗手でした。

そのころ、私は「グローバル化とは、単にアメリカ流というだけのことだ」と反発していました。

人間の欲望に応じて経済の発展があり、経済の発展に応じて交通の発達がある。交通の発達が経済の発展を促したということもあるでしょう。どっちがどっちだか今はさておいて、世界経済がより緊密になることはだれもがわかっています。

「世界経済の緊密化」という認識に立てば、東アジア、東南アジア、中南米、アラブ、アフリカと幅広くなります。

「経済のグローバル化」という認識に立てば、アメリカの顔色ばかり気になりますし、G7など先進経済諸国くらいしか目に入りません。

私は「ことば」には、時折、強く反応します。この「グローバル化」がそうでした。この言葉を聞くと、私は自動的に竹中平蔵氏の顔が浮かびます。「ホワイトエグゼンプション」という言葉の時は、御手洗冨士夫氏(キャノン会長、経団連会長)の顔が浮かびます。

今、私が気になるのは、「百年に一度の不況」という言葉です。未曾有の大不況だからと、国が躍起になってくれるのはありがたい。経済対策と雇用対策は大規模かつ緊急を要する、と庶民である私も同感しています。

でも、「百年に一度の不況」という流行語を誰が言い出したのでしょう? 誰かそれで特別に得をする人がいるのではないか? と、へそ曲がりな疑いを持っています。

亡き母は、大阪で米軍の無差別空襲に出会いました。戦闘機の機銃掃射も受けたと言います。昭和の戦争の終わる1945年夏の前後それぞれ2年間くらいは、食糧不足のために毎日の食事に苦しんだと言います。

本で読んだアメリカ発の大恐慌と昭和恐慌のこともあります。今は、昭和20年敗戦前後の経済崩壊と昭和恐慌とを超えるほどの大不況なのでしょうか?


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私の生活現場で「不況聞き書き」

2009-03-15 11:58:19 | Weblog


私の身のまわりには、建築関係の職人、建築・建設業関連の設備関係会社、製造業など、自営業・零細会社の人たちがたくさんいます。その人たちは、「仕事が1/3になった」「1/2になった」と一様に言います。

それほど、アメリカに発する不況が深刻なんです。こんどの不況の特徴は、ほんとうに急激に沈んだことです。そしてその幅が非常に大きい。

私が初めて、こんどの不況の事実を聞いたのは、昨年9月でした。仕事上の知り合いに零細会社の社長がいます。製造メーカーの大きな工場の設備メンテナンスが大黒柱の仕事です。昨年9月、出入りしている工場について彼が言っていました。

「5本ある製造ラインのうち3本が、8月から止まった。仕事がドカンと減って商売にならへん。まあ、かつかつ食べてはいけるけどな」

その時は「へえ、そんなんですか……」ということで、話は終わりました。テレビも新聞も、クローズアップされているのは国政批判と衆院解散を求める声ばかり、という時期でした。すでに、仕事の現場、生活の現場で、大不況が始まっていました。

新聞もテレビも、社員や関係者は生産現場とは縁がありません。おそらく広告営業にはね返って来るころに、まず営業社員が現場で苦労をし、番組作りや紙面作りに関わって世論に影響を与える人たちは、その後で事態を知ろうとし始めます。それでも実際に苦闘している人々のことをどれほど理解できるのか、私は常々疑問に思っています。

……そのうちにリーマンショックが伝わり、株価も落ちました。師走には、受注が半分に減ったとか、1/3に減ったとかの報道がつづきました。そんなニュースが伝わるようになってから、私は「お宅どうですか?」と仕事で出会う人たちに聞きました。

驚いたことに、また偶然でもありましょうが、私が聞いた数人の人は、みんな「半分以下や」ということで一致していました。そのうえ、銀行などの融資も、突然厳しくなりました。

先週のこと、ある人は運転資金の融資について、こう言っていました。「借りてくれ借りてくれ言っていたのが急に変わって、貸してくれまへんわ」

そばにいたもう一人の人がこう口をはさみました。「三井住友はあきません、きついですわ。知り合いの会社も三井住友があかんで、UFJから借りたと言ってました。UFJがいいみたいですよ」

すると先に話した人が、「うちはUFJなんですけど、あきまへんわ」と答えました。

大阪で土木設計会社を営む知人から2月に聞いた話はこうです。「景気対策の緊急融資で1千万円借りられることになった。これで設計以外の仕事を手がけるつもりやねん」

別の屋根工事に関係する五十代の職人が言っていました。2月下旬のことです。「年明けから仕事に出たのは6日だけです。この何年というもの仕事が減って減って。手間賃も安うて安うて。仕事やめよと思います。さいわい、大阪で警備の仕事を紹介してもらいました。大手なんで守衛なんかできればええなと思うてます」

別の住宅建築の内装職人は、朝早くから夜10時を過ぎるまで働いています。仕事のあるときにどんどん仕事をしなければ、必要な生活収入が確保できません。手間賃がほんとに安いそうで、時間を多く働かねば生活がやっていけないと言います。建築の内装関係は、電灯がつくので夜遅くでも仕事ができます。彼の年齢は五十代で、「若いときと違って体にこたえる」と言いつつ、「仕事があるだけ幸せ」と自分に言い聞かせています。

以上、手ざわり生活実感的な、不況の報告です。私としては、首相は頼りないとか、小沢さんはアブナイとか、衆院選は早いか遅いかよりも、とりあえずは目先の仕事や生活に追われている人たちが気になってしかたありません。もちろん、私だって、仕事や生活に追われている渦中の一人です。





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母と離れて暮らした思い出

2009-03-07 13:11:59 | Weblog


私が京都の小学校に入学してまもなく、母が離婚をしました。そして、私は1年生2学期から、二つ年下の弟といっしょに大阪の祖母の家で暮らすことになりました。

母や祖母は、私たち兄弟に事情を説明したと思います。でも、私たちは小さかったので事情を理解できなかった。夏休みに母といっしょに京都から大阪に行き、母は子どもを置いて一人で京都に帰っていきました。私には、そのときの光景が記憶にありません。

記憶にあるのは、それから母が毎月1回日帰りで会いに来て、祖母に仕送りを置いていったことです。そのときはうれしくてうれしくて。そして、母が帰っていくのを泣きながら見送りました。母もまたつらくて泣きたい思いをしていたでしょう。

学期末の休暇に入ると、私たち兄弟はJR(当時は「国鉄」、祖母は「省線」と呼んでいました)に乗って京都に帰りました。京都に向かうときはうれしくてうれしくて。休暇が終わって母と別れるときは、また泣きました。京都への行き帰りは、母がいっしょのときもあれば、私たち兄弟だけのこともありました。

中学1年が終わって、再び母といっしょに暮らせるようになりました。私は中学2年から、弟は小学6年から京都の学校に転入しました。それからは母とともに幸せに暮らすことができました。

それらの寂しかった日々は7年間。母は毎月、ぜいたくなお土産をいっぱい持って来てくれた。預けられたとはいえ、そこは祖母の家で他人の家ではありません(ただし祖母が非常に厳しくてしばしば折檻を受けた)。それなのに、寂しかった7年間の生活や、「おかあちゃん、おかあちゃん」と弟と共に泣いたことを思い返すごとに、亡き母の思い出とともに、今も涙にじむ思いがします。何十年も昔のことになったというのに……。

この思い出は、際立って不幸なお話というものではありません。他人に預けられたのでもなく、母に捨てられたものでもありません。それなのに、そのことを思い起こすと寂しく切ない思いに駆られます。幼少から思春期くらいまでの間の寂しい思い出は、いつまでも影を落とすもののようです。


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天下り規制を妨害したのは誰か?(渡辺喜美代議士)

2009-03-05 13:35:17 | Weblog


毎日新聞(大阪)3月3日夕刊。異業種交流組織「毎日21世紀フォーラム」(2月19日開催) での渡辺喜美(元行政改革担当相)代議士の講演記事から抜書きしました。


<事務次官会議が大臣答弁を制限する>

私は天下りを根絶するためにまず、各省あっせんをやめさせようと考えた。議論の中で、「押し付け的な天下りはだめだが、そうでないものは認めよう」という話もあった。しかし、相手先から依頼書を出させるほど、天下りは巧妙である。

その時、江田憲司議員(無所属)から「押し付け的なあっせんとは?」と問う質問主意書が届いた。私は「国民の目から見て押し付けに映るものを指す」と答弁しようとしたが、それが大問題になった。

閣議前日には事務次官会議が開かれ、そこで了承されない案件は閣議に出せない慣行がある。事務次官会議は私の答弁書を認めない、と決めた。最後は安倍さんが「答弁書を閣議にかける」と決断したが、このようなバトルを経て天下り規制は第一歩をしるした。


<官僚による抵抗――リーク、悪口、サボタージュ>

大臣に就任した時、官僚のリーク、悪口、サボタージュに気を付けるよう、ある人が忠告してくれた。その洗礼をいきなり受けた。

就任直後、何も決まっていないのに、新聞1面トップに「公務員制度改革の概要固まる」の記事が躍った。メディアを使ってたくみに議論を方向づけるたくらみで、これを撤回させることから私の仕事は始まった。

方々で私の悪口を吹き込み、孤立させようともした。行革推進本部の専門調査会で、5年をかけて出口のない議論をするシナリオも作っていた。頼んでいた(調査会)座長への電話連絡さえ2週間、ほったらかしにされた。これが官僚である。

あぜんとしたのは07年5月末、安倍さんがこの問題を「国会を延長してでも」と公言した途端、年金記録改ざんの不祥事が次から次に噴き出た。支持率は急落し、参院で敗北。退陣に追い込まれた。中川秀直さんは「官僚の自爆テロだ」と評した。安倍内閣では霞が関の守旧派、民主党、メディアのトライアングルに天下り規制を阻まれた。


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「かんぽの宿」売却劇を新聞社説はどう見たのか?

2009-03-03 13:06:29 | Weblog


「かんぽの宿」売却劇を吉本新喜劇の舞台に見立てれば、竹中平蔵大臣(当時)が仲介の不動産屋さん、財界トップリーダーの一人である西川義文氏が売り手、もう一人の財界トップリーダーである宮内義彦氏が買い手です。庶民である観客から見れば、三人とも「しめしめ」と目で示し合わせている情景です。

これを新聞社説はどう見たのか?「社説ウオッチング:『かんぽの宿』売却」(毎日新聞朝刊 2009年2月15日) 記事を以下に整理し直しました。


<第1期> 1月6日、鳩山総務相が、オリックスへの譲渡見直しを表明。109億円という譲渡金額、オリックスへの一括譲渡、小泉政権下の規制改革・民間開放推進会議議長がオリックスの宮内義彦氏であることに注目が集まった。

毎日1回目社説は、「売却などの際の手続きを国民に広く示し、そのプロセスもできる限り公表することが望ましい」と主張し、与党に民営化企業の資産売却について考え方を示すよう求めた。

朝日1回目社説は、「理由が不明確で納得できないのは、鳩山氏の『待った』の方ではないのか」「西川社長が説明した内容は、しごくもっともに思える」などと、総務相批判に終始した。

日経1回目社説は、「総務相の姿勢は到底納得できない」「所管大臣が入札結果に堂々と介入するのは常軌を逸している」と、総務相批判に終始した。

産経1回目社説は、総務相批判に力点を置きつつ、日本郵政の説明不足も指摘した。


<第2期> 70施設の施設費が約2400億円だったこと、旧日本郵政公社が1万円の評価で売却した物件が6000万円で転売されていたことも判明した。

毎日2回目社説は、「政治問題にまでなっている現状では、オリックス不動産への売却凍結は、当然の措置だ」と主張し、施設の査定や譲渡方法を見直し、結果を国民に公表するよう改めて要求した。

読売、東京1回目社説と産経2回目社説も、入札経緯の公開、情報開示などを日本郵政に求めた。

朝日2回目社説は、引き続き総務相に対する批判姿勢を維持しつつ、「日本郵政にも注文がある。売却が問題視されてからも、入札についての情報をきちんと出さず、疑念を膨らませる結果になった」と、日本郵政側も批判した。第1期の主張から論調をやや修正したように映る。

日経2回目社説は、「総務相の主張は説得力を欠く」と、相変わらず明確な根拠を示さない総務相を批判し、日本郵政が譲渡凍結を表明したことについて「何とも不可解だ」「『公明正大な手続きだ』といいながら、満足な説明もなく簡単に折れた日本郵政の西川善文社長の姿勢にも問題がある」と批判した。合理的説明のないまま総務相の意に沿う決断をしたのが問題だという主張である。現在の契約を維持すべきだとの姿勢だ。


<第3期>2月に入り、最終入札で応札したのはオリックス不動産1社だけで、2社目の金額は日本郵政の推計値だったこと、売却対象だった東京都世田谷区の「レクセンター」が入札の最終段階で除外されていたことなどが判明し、一連の入札に対する疑惑が深まった。最終的に譲渡の白紙撤回が決まる。

毎日3回目社説は、譲渡契約の白紙は「当然」とし、国民への情報公開とともに、70施設の「個別施設ごとの譲渡」や、法律で決められている12年9月末までの廃止・売却の「期限延長」の検討などを提言した。

朝日3回目社説からは、総務相への批判が消えた。代わって、入札に「謎めいた部分が出てきた」とし、入札への「疑念」や白紙撤回の経緯などについて「納得できる説明」を日本郵政と西川社長に求めた。

読売2回目社説は、「契約を撤回したのは当然」とし、入札の経緯や売却価格などについて「日本郵政は洗いざらい報告し、説明責任を果たす必要がある」と主張した。


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人と生まれた以上は道端で寝かせてはいけない

2009-03-01 11:07:07 | Weblog



毎日新聞3/1朝刊、「紙面研究会」記事の発言から、ノンフィクション作家・今井美沙子さんのことばをピックアップしました。

どんなにその人の努力が足りないとしても、人として生まれた以上は道端で寝かせてはいけないと思う。小泉純一郎元首相や竹中平蔵元経済財政担当相らが進めた弱肉強食の新自由主義の結果、どうなったか。人間を不幸にする経済は絶対にいけない。



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