川本ちょっとメモ

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徳川期日本は兵器の発達を後退させると同時に民生用技術や学問を前進させた 『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』・終

2020-01-15 01:43:53 | Weblog
2020-01-15

 【お知らせ 2020.1.18.】 2020-01-05旧消失記事の差し替え分として、『鉄砲を
  忌避した徳川期日本  そうなるにはどんなことがあったのか…』 を掲載しました。
  興味がお有りの方は上記ピンク文字をクリック願います。

  ※『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』ノエル・ペリン著(中公文庫)を以下
 
   「上掲書」 と表記します。


  著者ノエル・ペリン氏は23歳のとき、陸軍中尉として朝鮮戦争に従軍しました。その経験が青年のノエル・ペリン氏を変えました。 ペリン氏は1951年に横浜近くの基地に着き、そこから佐世保まで汽車で輸送され、米軍艦に乗り換え、上陸部隊の一人として朝鮮半島に上陸しました。

 私は朝鮮戦争時期の日本の世情の雰囲気を経験していませんが、この本を読みながら、ペリン氏や彼と同世代のアメリカ兵の部隊が何百人、何千人とアメリカから軍用船で神奈川県横須賀に着き、トラックか鉄道で順次、米陸軍基地キャンプ座間に着き、部隊編成が整いしだいに軍用列車にぎっしり乗り込んで長崎県佐世保に着き、上陸用艦に乗艦して朝鮮半島のどこかに上陸していくさまを思いました。

在日米軍基地は朝鮮戦争に参戦していました。そうした間、朝鮮半島は荒廃し、住民のうちの若い息子たちは軍で戦い、殺し殺され、住民の大多数が避難民として逃げまどっていました。



 今回は『結び 日本史に学ぶ軍縮』という、まとめの章になります。

(上掲書P140)
 大砲が姿を消し、鉄砲の製造が衰退し、甲胃、刀剣の輸出市場がなくなり、1637年(寛永14)の島原の乱以降は申し分のない平和を享受し、対外防衛費は無きも同然で、技術水準は落ちこみようのないほどに高かった徳川期日本、こういえば人は、そこにかえって退嬰的な雰囲気が漂っていはしないか、と訝いぶかるかもしれない。しかしそのような翳かげりは微塵もなかったのである。むしろ発展がみられたのであった。


危険な兵器技術の進歩はコントロール(制御)しなければいけない、それは不可能ではない、徳川期日本の社会は兵器生産をコントロール(制御)すると同時に民生部門で躍進を見せた――これが、ノエル・ペリンが『結び』で言いたいことです。

(上掲書P136)
 「人間は近代技術を乱用しかねない、信頼できない存在である。あたかもそれは、幼稚園児が機関銃で遊ぶのを安心してみていられないのと同じだ。もし過去300年の技術進歩を後戻りさせることの是非について、多数決が可能ならば、多くの者が賛成票を投じるであろう。社会道徳が今日のごとく立ち遅れた状態にあるなかで、人類の生存を守りぬくために」
(Arnold Toynbee, 'Our Tormenting Dilemma,' p.8)


(上掲書P137)
 「デュボス博士の場合は、西暦2000年までに人類は、資源保存の必要にかられて博士のいう技術の『停止状態期』に追い込まれるだろうと予言する。」(※この期待は全く当たらなかった)


兵器や兵器に代表される危険な技術は、進歩させるべきではない。人類の生存のために停止ないし後退させなければいけない。――歴史学者アーノルド・トインビー(1989.4.14.~1975.10.22.)や生物学者ルネ・デュボス(1901.2.20.~1982.2.20.)はそう考えていました。 

しかし残念なことに、トインビーやデュボスと同じことを考える学者や実務家は少ない。進歩は良いことだという、あたりまえの価値観に染まりすぎている人が多いのです。

(上掲書P137)
 そうした学者の設定する選択というのは、社会のあらゆる分野における連続的な進歩をとるか、はたまた中世の暗黒時代に後戻りするのか、こうした類いの選択なのである。 言いかえれば、中性子爆弾と遺伝子工学とをもって前進するのか、または歯科医術も窓ガラスもあきらめて不便な生活に舞い戻るのか、という選択なのだ。 したがって、どれか特定の技術だけを選択すること、これはできないと彼らは想定しているのである。 


ノエル・ペリンはそういった人たちは徳川期日本の歴史的事実を知らないからだと、説得をはじめます。日本人は兵器の発達を止め、民生分野の前進を遂げた。技術のコントロールはできる、と読者を説得します。
 

(上掲書P137)
 徳川期日本の歴史的事実は、そうした悲観的見解と相反する。日本人は技術選択のコントロールを実行してみせた。日本人は兵器の発達を完全に止めた。いや後退さえさせたのである。同時にその間に、日本人は兵器分野以外の多方面にわたって前進をとげたのである。

もとより、それはゆっくりとした歩みの前進ではあった。17世紀から19世紀の初期にかけての日本の技術変化は、西洋に比べると、まことにゆるやかに起こっていた。それは人間の精神によりふさわしい速度で生じていた、と言ってさしつかえないであろう。

徳川期日本には、急激な技術進歩の生むいわゆる「未来の衝撃フューチュアーショック」は存在しなかった。しかし、技術の進歩それ自体は生みだされていたのである。

だからといって日本は、退廃の淵に沈んだのでも、停滞に淀んでいたわけでもない。もちろん、退廃と停滞の袋小路も、さがせば存在したに違いない。しかしそうしたものは、どの時代、どの社会にもつきものである。徳川期の日本全体をみわたせば、そこには健全な生命力が息づいていたことが知られる。


ペリンは、徳川期日本で民生部門の技術が前進していた事実を次々に挙げていきます。まず水道について。
 

(上掲書P139 : 水道)
 
たとえば17世紀、鉄砲が姿を消しつつあったまさにその時にあって、水道工事が開始された。1640年代、江戸の人口が50万になりなんとしたとき、江戸に初めて水道がひかれた。

 *訳者注……「江戸初の水道」とは、神田上水のことか? それだと開設時期は若
 干早まる。堀越正雄『井戸と水道 の話』論創社、によれば、江戸に飲用を主とした
 水道が初めて開設されたのは1590年(天正18)のこと。小石川に水源を求めてつくら
 れたもので、この小石川上水は神田上水として発展した。神田上水の全工事が完成
  したのは1603年(慶長8)とも、1629年(寛永6)ともいわれている〕。


 第二の江戸の動脈となった水道(※玉川上水)は1654年(承応3)に完成した。その長さは約25マイル(※40.2km)。ニューヨーク最初の水路はこれよりわずかに長く、33マイル(※53.1km)であつたが、完成をみたのは日本に遅れること二世紀、1842年(天保13)のことであった。
1654年当時といえばニューヨーク市は手動のポンプで井戸から水を汲んでいたのである。


上掲書P139 : 水道)
 しかし、水道開設は江戸に限られた特殊ケースではなかった。というのは、同時期の日本には、国中のいたるところに大規模な潅漑用水路が出現しているからである。

日本は山がちの国であるから、そうした用水路は多くの箇所では堅い岩盤を貫通するトンネルを掘削しなけれはならなかった。つまり水道の建設は高度の技術のたまものである。

 初期の用水路の一つ、葛西用水は1660年(万治3)に開通したが、その一方で大砲の鋳造(※1615年大坂夏の陣で大坂城を砲撃している)はこの頃から200年余り止まったままであった。

 葛西用水は長さ40マイル(64.0km)、およそ2万エーカー(80.92km2=80,920ha=8,157町歩)におよぶ水田に水を供給したのである。

            
医学については、西洋にくらべて劣っていたが前進はしている、とペリンは言います。医学全般の平均的水準では西洋に劣っているけれど、限られた一部の分野ではなんとか西洋並みだということでしょうか。
              
日本の医者の中には18世紀に解剖学の研究をしていた者がいる。その一人、山脇東洋が『蔵志』という日本最初の解剖学の書物を1759年(宝暦9)に出版したと紹介しています。そして、「さらに驚くべきことに」と、華岡青洲に言及します。
             

(上掲書P144 : 医学・医療技術)
 さらに驚くべきことに、1805年(文化2)には外科の華岡青洲が麻沸散あるいは麻沸湯ともいう新しい日本独自の麻酔薬を使って手術を行なっているのである。西洋にはエーテルがまだ登場していなかったから、これはふつうの麻酔薬を使って行なわれた世界初の外科手術である。その青洲の病院からさほど離れてもいないところで、封建武士が弓矢の稽古をしていたとしてもおかしくない日本ではあったが。

   
理論の分野では、ニュートン、ライプニッツに匹敵する偉大な数学者と形容して、関孝和1642年(寛永19)~1708年(宝永5)をくわしく紹介します。

(上掲書P141~142 : 数学)
 さらに対外的接触をも必要とすることなく、理論の分野でも日本は前進をとげた。数学を例にとってみよう。

 数学者には常識であろうが、数学の分野では17世紀には二人の卓越した数学者、アイザック・ニュートンとゴットフリート・フォン・ライプニッツとが余人を圧倒していた。イギリス人ニュートンは1642年(寛永19)から1727年(享保12)の人であり、ドイツ人ライプニッツは1646(正保3)年から1716(享保1)年の人であるから、二人は同じ世代の数学者であった。その二人は別個に研究をして、ともに微分積分法の発見者となった。

 同じころ、両者にまさるとも劣らぬ偉大な数学者がもう一人いたことは、数学者といえどもほとんど知る人はいない。関孝和 1642(寛永19)~1708(宝永5) である。彼は、実際、ニュートンと同じ年に生まれている。関孝和は純粋に日本独自の数学「和算」における大数学者であった。和算には、ヨーロッパの影響はまったくない。

 関孝和は、ニュートンやライプニッツを生涯知ることはなく、ニュートン、ライプニッツのほうも関孝和の存在を知る由もなかった。このことは関孝和が、和算によって三次方程式の解法や、負数・虚根ととりくむ上で、何の妨げにもならなかった。関はさらに、1683年には行列式の理論を初めて考案した。これは、ヨーロッパにおいてライプニッツが行列式論を展開するよりずっと先んじていたのである。

 関孝和のみが日本の数学を発達させたのではない。関に続く200年の間に荒木村英、松永良弼、安島直門、内田恭などすぐれた数学者が輩出し、和算の発達に寄与したのである。日本人が概して数学に強いということは、言い添えておいてよいであろう。


これらのほかに、 
① アメリカに最初に油田ができる30年も前に、今の新潟県に油田ができてい
 たこと。
 
② リサイクルが効率よく行われているので、山のようなゴミの集積が見られな
 いこと。 (現代の日本ではありません、徳川期日本のことです。) 
③ 1813年(文化10)には、日用品に値札を付け紙に包んで小売りをしていて、
 アメリカ の商店より進んでいること。 
 ――などなど、徳川期日本が、同時代西洋に劣らないと重ね重ね紹介しています。 

ここまで、くり返しくり返し、ペリンは徳川期日本史に事実あったことを欧米社会に紹介してきました。

『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』はもともと米国内向けに出版されたのであり、日本向けに書かれたものではありません。日本賞賛満載で読んでいると落ち着かなくなるほどですが、テレビで人気のある「ニホン、スゴーイデスネ」ではなくて米国人向けの啓蒙書です。

日本人は16世紀末から19世紀前半まで250年もの長い間、鉄砲を捨て、民生用技術を育てて、当時のヨーロッパに劣ることのない、見る側面によっては当時のヨーロッパに優れて、中身の豊かな生活を送ってきました。ペリンはそのことを米国人に訴えたかったのです。

「17世紀の日本と、現代の軍事大国をとり巻く状況とでは、その様相が著しく異なる」(ペリン) 。だから世界の人々が徳川期日本の鉄砲放棄をそのまま現代のプルトニウム放棄になぞらえることはできない、とペリンは言います。そして、次のように続けます。

(上掲書P149)
にもかかわらず日本の歴史的経験は、次の二点の証しにはなっているはずである。

第一、ゼロ成長の経済と、中身の豊かな文化的生活とは、100パーセント両立しうる、ということ。

第二、人間は、西洋人が想像しているほど受け身のまま自分のつくりだした知識と技術の犠牲になっている存在ではない、ということ。


原子力発電、核兵器、AI無人兵器、遺伝子操作による人間改変・農作物や食肉用動物の改変、化学物質製品による地球環境破壊、エネルギー消費による温暖化危機、などなど。人間の利欲や権力欲が際限なく消費する「悪い進歩」を適切に制限することが大きな課題になっています。

人間の利欲の凄まじさを見せてくれているカルロス・ゴーンのドラマは今進行中です。中国のウィグル迫害や北朝鮮一般国民の度を超した窮迫、ロシアの政府批判ジャーナリスト毒殺などは際限のない権力欲の顕われです。攻撃するという強迫と攻撃されるという恐怖がイラン領空飛行中のウクライナ旅客機を撃墜しました(2020.1.8.)。

「この進歩なるものが、あたかも、半ば神聖なるものにして、人間のコンロールを超えた仮借容赦のない力の体現者のように用いられている。もちろんそれは妥当性を欠いている。進歩の道しるべを立て、その道筋を管理し、場合によってはその進行を止めることのできるのは、わたしたち人間である。」
(ノエル・ペリン 上掲書P150)



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鉄砲を忌避した徳川期日本 そうなるにはどんなことがあったのか 『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』

2020-01-05 12:42:22 | Weblog
2020-01-15

 【お知らせ 2020.1.18.】 2020-01-05旧消失記事の差し替え分として、『鉄砲を
  忌避した徳川期日本  そうなるにはどんなことがあったのか…』 を掲載しました。
  興味がお有りの方は上記ピンク文字をクリック願います。


  ※『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』ノエル・ペリン著(中公文庫)を以下
 
   「上掲書」 と表記します。

 著者ノエル・ペリン氏は23歳のとき、陸軍中尉として朝鮮戦争に従軍しました。その経験が青年ノエル・ペリン氏を変えました。 ペリン氏は1951年に横浜近くの基地に着き、そこから佐世保まで汽車で輸送され、米軍艦に乗り換え、陸軍将兵の一人として朝鮮半島に上陸しました。

 私は朝鮮戦争時期の日本の世情の雰囲気を経験していませんが、この本を読みながら、ペリン氏や彼と同世代のアメリカ兵の部隊が何百人、何千人とアメリカから軍用船で神奈川県横須賀に着き、トラックか鉄道で順次、米陸軍基地キャンプ座間に着き、部隊編成が整いしだいに軍用列車にぎっしり乗り込んで長崎県佐世保に着き、上陸用艦に乗艦して朝鮮半島のどこかに上陸していくさまを思いました。

 在日米軍基地は朝鮮戦争に参戦していました。そうした間、朝鮮半島は荒廃し、住民のうちの若い息子たちは軍で戦い、殺し殺され、住民の大多数が避難民として逃げまどっていました。



■徳川幕府による「鉄砲・火薬製造集中管理」政策

ペリンはイングランド王ジョージ八世(在位1509~1547)とフランス王アンリ四世(1572~1610)の鉄砲管理策を取り上げています。

ジョージ八世は戦争等の政情に応じて、鉄砲対策がめまぐるしく変転します。アンリ四世は40年にわたったユグノー戦争を終結させた苦労人の良王ですが、鉄砲を集中買入れするという市場対策を取り、鉄砲製造の集中管理をできなかった。これには英仏ともに戦争が絶えなかったという事情があります。

英仏二人の王にくらべて、徳川幕府は歴代、鉄砲・火薬製造の集中一元管理を続けたと、ペリンは高く評価しています。

「一方、徳川家康の場合は、鉄砲・火薬製造を集中させる措置をとり、後代の将軍も、19世紀半ばすぎの徳川最後の15代将軍慶喜に至るまで、その政策を撤回しなかった。」(上掲書P111)


■1607年(慶長12) 徳川家康 国友鉄砲鍛冶統制を始め、鉄砲代官を置く                   

(上掲書P106)
 家康の時代、日本には鉄砲鍛冶の二大中心地があった。一つは国友の鉄砲鍛冶、もう一つは大坂の南に位置する堺の鉄砲鍛冶。これ以外にも、地方大名に服属する鉄砲鍛冶や火薬製造者は各地に相当数をかぞえていたとみられる。

   

(上掲書P106)
 大砲(大筒)は、国友と堺で鋳造されたにとどまるが、国友が主流で、たとえば1600年(慶長5)には銅砲一貫目玉五門、八百目玉十門が徳川家康の注文で製造されて引き渡されている。 
⁂1600年は関ヶ原の戦の年です 

     

(上掲書P107)
 1607年(慶長12)、徳川幕府は鉄砲鍛冶の統制を開始した。国友の鉄砲鍛冶年寄の四名が家康に召出され、家康は彼らに帯刀を許して――つまり侍身分にとりたてて――、それと同時に鉄砲鍛冶の管理にかかわる法度を申し渡したのである。

 
 徳川家康が直々に「帯刀を許す」という言葉を、平伏する年寄四人はどんな気持ちで聞いたでしょうか。武士身分への取り立てはこのうえない喜びだったでしょうか。その代償は、自由に製造販売する鉄砲メーカー業から、徳川幕府の厳重な管理下に指定された軍需工場への転換です。しかも、急激な減産政策を実行するための軍需工場です。すべて幕府の言いなりに届け出、作り、修繕するだけの軍需工場ですから、国友鉄砲鍛冶年寄の地位は工場長でさえなく、その実質は現場長か職長ていどの地位だったのでしょう。


■1607年(慶長12) 国友鉄砲鍛冶への御定め
 
① 上様(徳川家康)より仰せ付けある鉄砲は入念に作ること
② 急な鉄砲納入の御用があっても、間に合わせるよう常から受入れ態勢を整え
  ておくこと 
③ 御用の事柄に関して、年寄職から惣鍛冶に申し渡したことに従わない者があ
  れば、速やかに鉄砲代官へ届け出ること (鉄砲鍛冶職に対する組織管理)
  
   (注) 惣鍛冶‥‥国友鉄砲鍛冶の業界組合とその成員、と思えばわかりやすい
④ 惣鍛冶内で、諸国から多くの鉄砲注文を受けた者並びに新品鉄砲を受け取
   った者あるとき、速やかに鉄砲代官へ届け出ること (製造管理、製造統制)
⑤ 鉄砲鍛冶職人が他国へ出向くことを堅く禁じる 
(製造技術の移転防止)
⑥ 鉄砲に関する製法・メンテナンス技術を国友鉄砲鍛冶の部外者に教えるこ
  を禁じる(製造技術の移転禁止)
⑦ 鉄砲の弾薬製造や試し撃ちを年寄以外の者に他見他言することを禁じる
  (製造技術の移転防止)

1607年の「家康御定め」以後、国友鉄砲鍛冶の年寄四名と平鍛冶四十余名は徳川幕府鉄砲代官の差配に完全に服属することになり、幕府が国友鉄砲の支配権を握りました。国友鉄砲鍛冶は幕府発注分と幕府許可分しか鉄砲製造できません。ところが幕府発注分は激減してほとんど無いに等しい。そして幕府以外の発注があっても製造許可が出ません。


 ■国友鉄砲鍛冶への注文激減 / 平鍛冶が困窮
 ■新鋭武器鉄砲製造の技術者である平鍛冶の多くが刀鍛冶へ転職

 
国友鉄砲鍛冶の生活が一気に苦しくなりました。1608年(慶長13)には、鉄砲鍛冶職人のうちから国友村を出て長州ほかへ出働きに行く者が現れました。

1609年(慶長14)、徳川家康は、惣国友鉄砲鍛冶全員に鉄砲代官から扶持米支給させることを決めたうえで、国友村を離れた者に戻るよう命令しました。いうなれば失業対策ですが、無職鍛冶への扶持米が少なくて生活が苦しく、そのうえに無職をかこつことにも耐えられません。

鉄砲鍛冶にはその時代の新鋭武器製造技術者としての誇りがあったことでしょう。しかし、貴重な鉄砲技術者の多くが、生活打開のために刀鍛冶へ転職していきました。徳川家康の国友鉄砲統制開始からわずか二、三年のうちに、幕府の鉄砲統制策が全国に波及し、幕府自体の発注激減につれて鉄砲鍛冶職人も激減したのです。


 ■徳川幕府の極端な鉄砲軍縮
 

(上掲書P114) 
 しかるに1706年(宝永3 ※富士山宝永大噴火の前年)、幕府は財政緊縮の結果、毎年の注文をさらに削減し、それ以後1786年(天明6)に至る80年間は、偶数年は大筒35挺、奇数年は小筒250挺をもって国友の上納枠とした。

 この期間を通じ武士人口が50万を優に上回っていたことを考えると、国友の鉄砲はもはや戦闘の重要な要素ではなくなったといえる。

 換言すれば、1637年(寛永14) 島原の乱以後は事実上戦争がなかったので、鉄砲はもはや兵技訓練の重要部分ではなくなったといえる。


島原の乱では 「反乱軍は多くの鉄砲を持っており、その中には島原の領主松倉重治の兵器廠から奪った鉄砲530挺も含まれていた。」 (ペリン上掲書P117) 1637年の島原の反乱軍はこのように、数多くの鉄砲を持っていました。

一方、1706年から1786年の期間、徳川幕府の鉄砲(小筒)発注数は2年に1回250挺、すなわち1年あたり125挺です。

1750年の日本の推定人口は約3000万人。日本全体の幕府の鉄砲発注数1年125挺が異常に少なく、無きにひとしいほどのものであることがわかります。その一方、刀・槍・弓は徳川幕府時代を通じて、一貫して大量に製造されていました。


■堺鉄砲鍛冶の統制はどんなであったのか
 

堺の鉄砲鍛冶への統制は緩く、幕府発注は1667年以降ゼロになり、1697年以降は他からの注文もゼロになりました。したがって1697年以降は、わずかな数ですが、全国で国友鉄砲鍛冶だけが鉄砲を製造していたことになります。ただし、幕末動乱期のありさまから察するに、西国雄藩では幕府に隠れて鉄砲少数を製造していたかもしれません。

(上掲書P114) 
 堺の鉄砲鍛冶を統制するのは、江戸時代の当初には難しい面があった。他の地方の鉄砲鍛冶と異なり、人数が多いうえに、攻めるには堅牢な地の利をもち、全員を国友に移動させるわけにはいかなかったからである。また、堺には有力な後ろ盾も存在した。

 さらに堺は長く日本の自由都市といってよい状態にあった。イエズス会士は堺をベニスと比較したほどである。堺には入り組んだ水路が走り、地形的にも政治的にもベニスに似たところがあった。堺の鉄砲鍛冶は長年にわたり江戸の徳川将軍家と地方の半独立諸侯とを張り合わせて漁夫の利をしめ、17世紀を通じてかなりの殷賑いんしんを誇ったのである。      

 
 
堺にいたイギリス東インド会社のリチャード・ウィッカムは1617年、シャム向け輸出用に軍需品を取りまとめ、鉄砲20挺を輸出しました。すでに鉄砲輸出が禁止されている時代になっていましたが、堺の奉行は「1回につき3~4挺くらい買うのならよい」と認めたそうです(上掲書P115)。 ただ、鉄砲を5回買って計20挺を輸出することを許可したかどうか、ペリンはそこに触れていません。しかし鉄砲20挺を輸出したのは確かな事実です。
 
リチャード・ウィッカムの鉄砲20挺輸出の後、数年のうちに日本からの鉄砲輸出は無くなりました。それでも、堺の鉄砲鍛冶が国内の鉄砲商いを1695年(元禄8)までうまく続けていた記録が残っています。
 

■堺鉄砲鍛冶の記録

(上掲書P114)
 堺は国内的にはうまく立ち回っていた。1623年(元和9)から1695年(元禄8)の鉄砲製造記録が現存している。

【堺鉄砲鍛冶 鉄砲製造記録】

  Х 1623年(元和 9) ~ 1633年(寛永10) 10年間  計 2,895挺
  Х 1634年(寛永11) ~ 1644年(正保 1) 10年間  計 2,647挺
  〇1645年(正保 2) ~ 1655年(明暦 1) 10年間   計 8,507挺
  〇1656年(明暦 2) ~ 1665年(寛文 5) 10年間   計25,596挺
  〇1666年(寛文 6) ~ 1675年(延宝 3) 10年間   計14,301挺
  △1676年(延宝 4) ~ 1685年(貞享 2) 10年間   計 8,540挺
  △1686年(貞享 3) ~ 1695年(元禄 8) 10年間   計 4,225挺

             Х印は幕府注文の分のみ
             〇印は幕府注文と諸侯注文の分を併せたもの
             △印は諸侯注文の分のみ


この記録によれば1620年代初期には年平均290挺とひかえめであったが、1660年代には年平均2,500挺となって最高を記録し、その後は一貫して減少したことが知られる。

  1667年(寛文7)以降、幕府の注文はみられなくなったが、有馬成甫によると、1669年(寛文9)年以後は他からの注文もなかったという。  (注) ペリンが多く引用している『火砲の起原とその伝流』の著者

  いずれにせよ、次世紀にかけて鉄砲鍛冶はしだいに減少して15名ばかりとなり、この一握りの鉄砲鍛冶は、各藩主よりの注文、江戸または駿府備付鉄砲の修理、古鉄の無料払下げ、鉄細工日用品の製作等で生活の主な資を支えた。

 
 ■徳川期軍縮日本のエピソード  

 徳川期日本が鉄砲・大砲といかに縁遠い社会であったかを示すエピソードをペリンが紹介しています。                   

(上掲書P124)
 あるときゴロウニン艦長は函館の砲台を見る機会があった。ゴロウニンはそのとき、まるでピョートル大帝の時代に逆戻りしたかのようであった、と語っている。

 砲座が「お粗末きわまりないところからして、日本人は技術の法則をまるで理解していないばかりか、おそらくは発砲経験も完全に欠いていることがわかる」

 ともあれゴロウニンは、旧態依然たるものとはいえ、少なくとも実際の大砲を見ただけでもましである。日本はそのような古色蒼然たる大砲にも事欠いたことがあった。

 ※ (注) [1811年(文化4)ゴロウニン捕縛] ゴロウニンは、千島列島以南の調査測量任務を持つロシア海軍ディアナ号艦長。1811年(文化4)5月26日、国後島泊に入港して停泊。翌5月27日、湾内水深測量を始めたところ、測量作業を視認した南部藩守備兵の砲撃を受けた。上陸してゴロウニンは測量調査任務を隠して日本側と話し合いをしたが、不審を感じた日本側がゴロウニン一行を捕縛。捕縛後函館に護送され、函館で50日ばかり監禁されたのち、福山(現在の松前町)に送られて2年間囚われの身となって過ごした。1813年(文化6)、函館で釈放されることになりロシア海軍の軍艦が函館に迎えた。 (以上函館市史による)――ゴロウニンが函館の砲台を見たというのが1811年か1813年か、函館市史の記述にはない。しかしゴロウニンは『日本幽囚記』(岩波文庫)を書いているので、そこには書かれてあるのでしょう。

              

(上掲書P125)
  ゴロウニンが釈放されて30年後、ニューヨーク州の都市パキプシを出た捕鯨船が、ゴロウニン幽囚の地からさほど遠くない海域で座礁して沈没したことがある。ジョージ・ハウという若い二等航海士と水平数名はエトロフ島の主港に避難した。1846年(弘化3)6月4日のことである。後日、ハウはそのときの模様をこう綴っている。

「港に近づくと、要塞のようなものが見えた。しかしそれは、さらに近づいていくと、4分の3マイル(=1.2km)ほどに広げられた1枚の布であることがわかった。布には絵が描かれていて、銃を装備した要塞にみせかけてあった。その地に上陸するや、刀と槍で武装した60人ばかりの男たちがこちらめがけて駆け寄ってきた」

 武田勝頼や織田信長がその場に居合わせたならば、さだめし目を疑ったに相違あるまい。


 

■ゴロウニン、ハウが生きた時代環境  

1789年 バスティーユ監獄襲撃、フランス革命始まる
1792年 フランス王制廃止、フランス共和国樹立宣言
1793年 ナポレオン・ボナパルト、エジプト遠征に出発
1799年 ナポレオン・ボナパルト、第1統領になる
1804年 ナポレオン・ボナパルト、皇帝に即位
1811年 ロシア海軍士官ゴロウニン、国後島泊で日本の捕囚となる
1812年 ナポレオン・ボナパルト、ロシア遠征
1813年 ロシア海軍士官ゴロウニン、函館でロシア軍艦に迎えられる 
1815年 ワーテルローの戦い、セントヘレナ島へナポレオン・ボナパルト配流

1842年 アヘン戦争で清がイギリスに降伏、香港割譲
1846年 アメリカ捕鯨船座礁、二等航海士ハウが択捉島に避難
 〃   アメリカ、メキシコと戦争

フランスはヨーロッパでは大国ですから、フランス革命が起きてからヨーロッパ中に戦争が続きます。諸国から対仏反革命戦争が起きるし、国内でも反革命勢力との紛争が絶えません。ナポレオンは大砲の作戦運用に長けていると評判ですが、積極的に対外戦争をくり返します。

要するにフランス革命、国王処刑という事態で、ヨーロッパ中が動乱時代にまきこまれていきました。戦争が身近な時代、激しい大砲の撃ち合いがある戦争の時代に、ゴロウニンもハウも北海の日本砲台を見たのです。徳川平和を迎えた日本の大砲は、大阪落城以後、進歩するのをやめていましたから、これが大砲か、これが砲台かと、彼らが呆れたのは無理もありません。

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