徳川時代の日本、『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』 ノエル・ペリン 著 中公文庫
2019-11-26
合戦、鉄砲量産、武器輸出国の16世紀日本~『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』
2019-12-06
鉄砲伝来32年で量産・大量実戦配備できた16世紀日本四つの理由~『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』
2019-12-30
鉄砲量産から製造制限へ 刀狩令~諸国鉄砲改め ノエル・ペリン『鉄砲を捨てた日本人日本史に学ぶ軍縮』
著者ノエル・ペリン氏は23歳のとき、陸軍中尉として朝鮮戦争に従軍しました。その経験が青年のノエル・ペリン氏を変えました。 ペリン氏は1951年に横浜近くの基地に着き、そこから佐世保まで汽車で輸送され、米軍艦に乗り換え、上陸部隊の一人として朝鮮半島に上陸しました。
私は朝鮮戦争時期の日本の世情の雰囲気を経験していませんが、この本を読みながら、ペリン氏や彼と同世代のアメリカ兵の部隊が何百人、何千人とアメリカから軍用船で神奈川県横須賀に着き、トラックか鉄道で順次、米陸軍基地キャンプ座間に着き、部隊編成が整いしだいに軍用列車にぎっしり乗り込んで長崎県佐世保に着き、上陸用艦に乗艦して朝鮮半島のどこかに上陸していくさまを思いました。
在日米軍基地は朝鮮戦争に参戦していました。そうした間、朝鮮半島は荒廃し、住民のうちの若い息子たちは軍で戦い、殺し殺され、住民の大多数が避難民として逃げまどっていました。
今回は『結び 日本史に学ぶ軍縮』という、まとめの章になります。
(上掲書P140)
大砲が姿を消し、鉄砲の製造が衰退し、甲胃、刀剣の輸出市場がなくなり、1637年(寛永14)の島原の乱以降は申し分のない平和を享受し、対外防衛費は無きも同然で、技術水準は落ちこみようのないほどに高かった徳川期日本、こういえば人は、そこにかえって退嬰的な雰囲気が漂っていはしないか、と訝いぶかるかもしれない。しかしそのような翳かげりは微塵もなかったのである。むしろ発展がみられたのであった。
(上掲書P136)
「人間は近代技術を乱用しかねない、信頼できない存在である。あたかもそれは、幼稚園児が機関銃で遊ぶのを安心してみていられないのと同じだ。もし過去300年の技術進歩を後戻りさせることの是非について、多数決が可能ならば、多くの者が賛成票を投じるであろう。社会道徳が今日のごとく立ち遅れた状態にあるなかで、人類の生存を守りぬくために」(Arnold Toynbee, 'Our Tormenting Dilemma,' p.8)
(上掲書P137)
「デュボス博士の場合は、西暦2000年までに人類は、資源保存の必要にかられて博士のいう技術の『停止状態期』に追い込まれるだろうと予言する。」(※この期待は全く当たらなかった)
(上掲書P137)
そうした学者の設定する選択というのは、社会のあらゆる分野における連続的な進歩をとるか、はたまた中世の暗黒時代に後戻りするのか、こうした類いの選択なのである。 言いかえれば、中性子爆弾と遺伝子工学とをもって前進するのか、または歯科医術も窓ガラスもあきらめて不便な生活に舞い戻るのか、という選択なのだ。 したがって、どれか特定の技術だけを選択すること、これはできないと彼らは想定しているのである。
(上掲書P137)
徳川期日本の歴史的事実は、そうした悲観的見解と相反する。日本人は技術選択のコントロールを実行してみせた。日本人は兵器の発達を完全に止めた。いや後退さえさせたのである。同時にその間に、日本人は兵器分野以外の多方面にわたって前進をとげたのである。
もとより、それはゆっくりとした歩みの前進ではあった。17世紀から19世紀の初期にかけての日本の技術変化は、西洋に比べると、まことにゆるやかに起こっていた。それは人間の精神によりふさわしい速度で生じていた、と言ってさしつかえないであろう。
徳川期日本には、急激な技術進歩の生むいわゆる「未来の衝撃フューチュアーショック」は存在しなかった。しかし、技術の進歩それ自体は生みだされていたのである。
だからといって日本は、退廃の淵に沈んだのでも、停滞に淀んでいたわけでもない。もちろん、退廃と停滞の袋小路も、さがせば存在したに違いない。しかしそうしたものは、どの時代、どの社会にもつきものである。徳川期の日本全体をみわたせば、そこには健全な生命力が息づいていたことが知られる。
(上掲書P139 : 水道)
たとえば17世紀、鉄砲が姿を消しつつあったまさにその時にあって、水道工事が開始された。1640年代、江戸の人口が50万になりなんとしたとき、江戸に初めて水道がひかれた。
*訳者注……「江戸初の水道」とは、神田上水のことか? それだと開設時期は若
干早まる。堀越正雄『井戸と水道 の話』論創社、によれば、江戸に飲用を主とした
水道が初めて開設されたのは1590年(天正18)のこと。小石川に水源を求めてつくら
れたもので、この小石川上水は神田上水として発展した。神田上水の全工事が完成
したのは1603年(慶長8)とも、1629年(寛永6)ともいわれている〕。
第二の江戸の動脈となった水道(※玉川上水)は1654年(承応3)に完成した。その長さは約25マイル(※40.2km)。ニューヨーク最初の水路はこれよりわずかに長く、33マイル(※53.1km)であつたが、完成をみたのは日本に遅れること二世紀、1842年(天保13)のことであった。1654年当時といえばニューヨーク市は手動のポンプで井戸から水を汲んでいたのである。
(上掲書P139 : 水道)
しかし、水道開設は江戸に限られた特殊ケースではなかった。というのは、同時期の日本には、国中のいたるところに大規模な潅漑用水路が出現しているからである。
日本は山がちの国であるから、そうした用水路は多くの箇所では堅い岩盤を貫通するトンネルを掘削しなけれはならなかった。つまり水道の建設は高度の技術のたまものである。
初期の用水路の一つ、葛西用水は1660年(万治3)に開通したが、その一方で大砲の鋳造(※1615年大坂夏の陣で大坂城を砲撃している)はこの頃から200年余り止まったままであった。
葛西用水は長さ40マイル(64.0km)、およそ2万エーカー(80.92km2=80,920ha=8,157町歩)におよぶ水田に水を供給したのである。
(上掲書P144 : 医学・医療技術)
さらに驚くべきことに、1805年(文化2)には外科の華岡青洲が麻沸散あるいは麻沸湯ともいう新しい日本独自の麻酔薬を使って手術を行なっているのである。西洋にはエーテルがまだ登場していなかったから、これはふつうの麻酔薬を使って行なわれた世界初の外科手術である。その青洲の病院からさほど離れてもいないところで、封建武士が弓矢の稽古をしていたとしてもおかしくない日本ではあったが。
(上掲書P141~142 : 数学)
さらに対外的接触をも必要とすることなく、理論の分野でも日本は前進をとげた。数学を例にとってみよう。
数学者には常識であろうが、数学の分野では17世紀には二人の卓越した数学者、アイザック・ニュートンとゴットフリート・フォン・ライプニッツとが余人を圧倒していた。イギリス人ニュートンは1642年(寛永19)から1727年(享保12)の人であり、ドイツ人ライプニッツは1646(正保3)年から1716(享保1)年の人であるから、二人は同じ世代の数学者であった。その二人は別個に研究をして、ともに微分積分法の発見者となった。
同じころ、両者にまさるとも劣らぬ偉大な数学者がもう一人いたことは、数学者といえどもほとんど知る人はいない。関孝和 1642(寛永19)~1708(宝永5) である。彼は、実際、ニュートンと同じ年に生まれている。関孝和は純粋に日本独自の数学「和算」における大数学者であった。和算には、ヨーロッパの影響はまったくない。
関孝和は、ニュートンやライプニッツを生涯知ることはなく、ニュートン、ライプニッツのほうも関孝和の存在を知る由もなかった。このことは関孝和が、和算によって三次方程式の解法や、負数・虚根ととりくむ上で、何の妨げにもならなかった。関はさらに、1683年には行列式の理論を初めて考案した。これは、ヨーロッパにおいてライプニッツが行列式論を展開するよりずっと先んじていたのである。
関孝和のみが日本の数学を発達させたのではない。関に続く200年の間に荒木村英、松永良弼、安島直門、内田恭などすぐれた数学者が輩出し、和算の発達に寄与したのである。日本人が概して数学に強いということは、言い添えておいてよいであろう。
たこと。
いこと。 (現代の日本ではありません、徳川期日本のことです。)
(上掲書P149)
にもかかわらず日本の歴史的経験は、次の二点の証しにはなっているはずである。
第一、ゼロ成長の経済と、中身の豊かな文化的生活とは、100パーセント両立しうる、ということ。
第二、人間は、西洋人が想像しているほど受け身のまま自分のつくりだした知識と技術の犠牲になっている存在ではない、ということ。