2006年8月28日付朝日新聞(大阪本社)夕刊記事「戦争 未完の裁き⑮」大庭翻訳係証言のノートです。
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大庭忠男さん(90)は東京裁判の翻訳係をしていた。内大臣・木戸幸一(天皇の重臣、A級戦犯)の日記も翻訳した。翻訳係を1948年12月まで務め、その後は映画の字幕や推理小説を翻訳して過ごした。
彼は、逓信省の役人だった兄・俊雄のことが忘れられない。敗戦間近の1945年春、兄は37歳で召集され、中国戦線に送られた。敗戦は1945年8月15日である。
翌1946年の春、死亡通知と白木の箱が返ってきた。中にお骨はなく、黒ずんだ石だけが詰まっていた。戦友に聞くと、兄は1946年1月、山東省でアメーバ赤痢で死んでいた。
「降伏した日本の支那派遣軍総司令官・岡村寧次が、蒋介石の国民党と相談して、共産党軍に武器を引き渡すなとなったのです。日本軍は共産党軍と戦いながら退却した。そこで多数の戦死者や戦病死を出しているんですよ」
山西省の残留日本兵と同じ「戦後の戦死」。その責任者ともいうべき岡村陸軍大将は、蒋介石への協力のゆえか、中国の戦犯法廷では無罪になる。1949年、共産党が中国を支配する直前に帰国。すでに東京裁判は終わっていた。裁かれず、生き延びた軍幹部は大勢いる。