川本ちょっとメモ

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梅原猛哲学者先生、法隆寺に怨霊はいないと西岡法隆寺棟梁がおっしゃっています

2024-07-09 04:43:33 | Weblog


 卒業高校の同期生が数年前に出版した「『日出処の天子』は誰か」を読み始めたところ、法隆寺絡みのところで横道にそれてしまいました。

  (注)日出処の天子とは聖徳太子のことですが、聖徳太子は諡号 (しごう) で、生前の
      称号は厩戸皇子。帝国書院のホームページ  (←クリック) では、くわしい解説
      付きで「厩戸王」を採用しています。


 聖徳太子 (厩戸王) 、法隆寺となれば、梅原 猛哲学者 (故人) 著書「隠された十字架 ─法隆寺論─ 」のことを思い出します。本書の新潮社単行本発売1972/5/1、改版新潮文庫発売1981/4/28ですから、わたしが本書のことを知ったのは改版新潮文庫の発売人気が話題になってからのことだったと記憶しています。

 わたしは書評を読んでも、何の感興もわかなかった。そもそも書名の「十字架」というのが気に入らなかった。古事記・日本書紀に始まる古代大和朝廷内の武力騒乱殺人事件という話題に、キリスト教イメージの「十字架」という書名はきちがい沙汰だという印象でした。

 そのうえ、本のテーマは「怨霊」と「たたり」です。古代のことは文字文献も発掘物証も、実に少ない。代々の研究者たちがその寡少な事実を積み重ねて積み重ねて、歴史を読み解いていく。どんなことでもどんな人生でも、そういう地道な姿がわたしの好みです。

 書名の十字架ということば。殺された人たちの怨霊、たたり、というテーマ。多くの人が不慮の死を遂げ、文献や物証が少なくてわからないことがたくさんあって、怨霊・たたりというテーマに合うような推論の根拠を集める。わたしは梅原猛哲学者に、地道な学者でなく、向こう受けねらいの派手な人を直感しました。


 そんなところへ、故西岡常一法隆寺棟梁の「木に学べ 法隆寺・薬師寺の美」(わたしのは小学館ライブラリー1991.8.1.初版1刷、初出は小学館1988年3月刊に出会いました。これはもう、わたしにとっては 学ぶところ多く、折々に読みかえす愛読書になって大事にしております。


           
                 法隆寺西伽藍配置図


〇〇 五重の塔は仏舎利の塔婆である 法隆寺棟梁 西岡常一「木に学べ」P91
 五重の塔がどんなものか、わかりますか? これは塔婆 (とうば) なんです。われ
われ俗人も、人が亡くなるとの塔婆をたてますな。あれと同じです。お釈迦さまの舎利 (仏陀の遺骨のこと) を埋めて、その上にたてた塔婆が五重塔なんですな。

 塔婆を長くもたせるために三重、五重の屋根でおおうているんです。ですから法隆寺でも薬師寺でも、古い時代の塔はちゃんと心柱の礎石の舎利孔に仏舎利が納めてあって、そこから塔婆がたっているんです。塔の形はいろいろあります。三重も五重もありますけど、塔の本体はあの心柱です。

 この下に、お釈迦さまの骨があるぞというしるしなんですな。
 実際に心柱の下に、舎利を入れてある容器があるんです。徳利型の小さなすきとおった瑠璃の壺に入ってますな。

「お釈迦さまの骨があるぞ」というのは、昔々の時代劇、水戸黄門の印籠をかざすようなものですね。怨霊なんぞと邪まなこと思うことなかれ、ということでしょう。


〇〇 西院伽藍の中門 法隆寺棟梁 西岡常一「木に学べ」P102、103
 中門を見てもらいますと、ふしぎな構造をしておるんですな。門の真ん中に柱が立っているんです。左右に入口がふたつあります。この柱を、梅原猛さんは、「聖徳太子の怨霊が伽藍から出ないようにするため、中門の真ん中に柱を置いた怨霊封じだ」というんです。ところが、そんなことはないんです。呪いとかそんなものはないんです。呪いとかそんなものは、仏法にはありません仏教は人の世の平和を考えるもんです仏教というもんを本当に理解せんと、ああいうことになってしまう

 わたしは、こう説明しとるんです。金剛力士 (仁王) は片方が赤く、片方が黒いでしょう。人間は煩悩があるから黒い。こちらから入るわけですな。それで中に入って仏さんに接して、ちゃんと悟りを開いて赤くなって出てくるということを表現してある、と思ってるんです。正面の左側が入口で、右側が出口ですな。

 といっても、こうした門は、本来は一般の人たちが通るもんじゃないんです。天皇から派遣された勅使がたったときとか、公式な要件のときだけ、使われたもんでしょうな。

 建造物を呪いだとか、そんなふうに考えてはいけません。建てるわたしらでも、平和を祈って仏法が広まるように思って、建てとるんですから。

 梅原怨霊哲学者のことを、「仏教というもんを本当に理解せんと、ああいうことになってしまう」と言い切る勇敢さは、痛快であります。


〇〇 西院伽藍 東の廻廊は西の廻廊より1間≒1.82m長いというバランス 
              法隆寺棟梁 西岡常一「木に学べ」P103
(建造物は)バランスや構造的なことを考えて建てておるんです。そのバランスということで言いますと、この東と西の廻廊ですが、中門を中心にして、東と西の廻廊は同じ長さじゃないんでっせ。ここの伽藍は、五重塔と金堂を囲んで廻廊がまわってます。ところが、五重塔と金堂は同じ大きさじゃありませんな。金堂の方が広い。今、中門から講堂まで石が敷かれてますが、この道を中心にすると、どうしても金堂の方が広くなる。左右を同じにしたら塔の方は広く、堂の方がせまくなる。そういう感じを起させないように、どうしたかいいましたら、東の廻廊を1間 (≒1.82m)だけ長くしたんです。

 こういわれましたら「なるほどそうか」と思いますが、ほとんどの人が気がつきません。気がつかないということは不自然やないということですな。長さを違わして、バランスをとってあるが、それが気にならんということです。

 法隆寺の中門の配置が不自然で怨霊絡みと言うなら、こちらの廻廊の長さもアンバランスになっています。でもこれは視点の異なる立場からバランスを取っています、と西岡棟梁が言っています。

 西岡法隆寺棟梁はこの点を訴えたかったのではないでしょうか。


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2024年 沖縄慰霊の日に

2024-06-23 11:43:02 | Weblog


 きょうは「沖縄慰霊の日」です。

 この慰霊の日は初め、米軍占領下の1961年7月24日に「6月22日」として施行され、1965年3月に「6月23日」へ改定されています。理由の根拠は、沖縄防衛第32軍司令官牛島満中将 (死後に大将) の自殺が22日未明説から23日未明説有力へと変化したことによります。

 しかし6月23日軍司令官自殺をもって日本軍組織的抵抗の終わりとし、沖縄戦終結の日と定めることには無理があります。牛島軍司令官は、自分の死をもって沖縄軍民に停戦を命じたのではありません。その逆に、自分亡き後もその場その場の階級上位者を指揮官として抗戦するよう命じていて、軍司令官自殺後にも多くの軍民が死んでいます。

 軍組織において上官命令に背くことは民間人の想像を超える重大事です。
 ノモンハン戦争では複数の連隊長が停戦後に拳銃自殺を慫慂(実態は強要に等しい)されて、その通りに拳銃自殺しています。

 米軍の作戦終了宣言が7月2日。
 日本軍が降伏文書に調印したのは9月7日。

 沖縄市は降伏文書調印の日を沖縄終戦の意味で「沖縄市民平和の日」と定めています。
 こちらの方が沖縄戦終了の事実に即していて、
 人々の平和への切実な願いを象徴しているようで、個人的にはしっくりきます。

 参謀を通じて徹底抗戦をするよう将兵に伝えた軍司令官の自殺記念日が、「人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰める」慰霊の日であることに、どうしても違和感を覚えるのです。



沖縄県慰霊の日を定める条例
                              昭和49年10月21日
                              条例第42号

 沖縄県慰霊の日を定める条例をここに公布する。

   沖縄県慰霊の日を定める条例

第1条 我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失っ
 た冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こる
 ことのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰
 めるため、慰霊の日を定める。

第2条 慰霊の日は、6月23日とする。

附 則
この条例は、公布の日から施行する。



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いま話題の議員パーティーに参加した経験があります

2024-06-02 06:13:22 | Weblog


 わたしは自民党衆議院議員の議員パーティーに参加した経験が2回あります。

 おおかた20年ほど前のことでしたが、当時は政治資金パーティーという呼称を知らず、そういう呼び名を聞いた覚えもありません。議員パーティーの収入がどれほどあって、それの会計処理がどういう具合になっているとか、そんなことに関心を持ったことなどこれっぽっちもありません。ちゃんとやっているものと思いこんでいましたから。

 今ニュースになっているように、議員パーティーの収支経理処理がいい加減なものであり、経理処理にケチくさい小細工をしているなどとは思いもしませんでした。知ってみるとあらためて、そんなに小ぶりの人間ばかりか自民党は、とあきれています。自由民主党ではなく、実態は小者悪党という政党なんですね。

 古くから自民党からは収賄議員が出つづけていて、ニュースになってきました。ですから、自民党議員はお金のつけ届けを普通に受けとっているのだろうくらいには思ってきました。

「あのな、金はな、ものを頼んで渡したらあかん。贈賄になる。そやから、ふだんからおつきあいしとくんや。盆暮れのあいさつ(中身入りの封筒などをさりげなく)や、選挙の時には「使ってください」と寄付をする、選挙が終わったら当選祝いや」

 私にこう話してくれた人がいて、聞いたときには、なるほど世の中はそういうものかと思ったことでした。話してくれた人は、もうだいぶ前にお亡くなりになりました。


 パーティー会場は大阪のホテルの大広間で、パーティーは椅子席でなくて立ちっぱなしであって、たしか千人くらい入ると聞いた覚えがあります。人数がどれほどかはわかりませんが、大広間はぎっしりの人人で満員で活気がありました。

 2回とも、営業取引先からパーティー券を2枚買えと言われて買いました。なぜ2枚だったか。取引先の人は親切にもこう案内してくれました。

「会場はいっぱいの人人やから中座して帰ってもとがめる人はいない。でもなあ、せっかくやから最後まで見とき。何事も勉強やさかい。ああそれからねえ、知らん人ばかりの中で一人で時間を過ごすのはきついから、誰か知ってる者と二人で来るのがええよ」

 1枚2万円のパーティー券を2枚、私に渡すときに親切にこう案内してくれました。営業取引先の人は、おそらくパーティー券を20枚、30枚と議員秘書から買っていい顔をして、それを私のような人間関係にある者相手に捌いていたのでしょう。

 わたしの経過からいうと、パーティー券は議員事務所や後援会事務所から買った人が、何かの人間関係ある人に転売していますから、議員側がパーティー券を買った人すべてを残りなく特定するのは難しいことと思います。

 自民党議員側はパーティー券を1枚1枚売っているのではなくて、何十枚単位でまとめ売りして、売り捌きの手抜きをしているものと思われます。だから1枚1枚の売り先を特定できない。

 そして、何十枚単位でパーティー券を引き受ける所とは懇意になり、頼まれれば議員側がそれなりの世話働きをするという関係ができあがるだろうと、しろうと考えに及ぶわけです。パーティー収入は全額課税対象にしない限り抜け道はあるだろうし、政治家の収支の中に免税特例があること自体が不自然です。

 今回、公明党が自民党にずいぶんつっぱりましたが、5万円以下という自公合意内容では政治家特権を完全に締め出すのはむりだろうと、多くの人たちと同じようにわたしも思っています。

 議員パーティー形式そのものは、政治家と支持者の間の交流のための一手段としてはあっても良いと、わたしは思います。

 ただ、会費を1万円以下に法規制しておかないと、大衆が参加できません。高い会費であれば大中小の企業と少数の富裕層しか参加できません。それでは民主主義の主旨に合いません。

 そして入金は現金不可として、振込みやカード決済にする。こうすれば入金の不透明さはなくなるでしょう。会費は1回1万円以下、現金入金は不可。こういう方式で氏名が表に出ることは困るという人は、議員パーティー参加を見送ればいいだけのことでしょう。議員事務所を訪ねて相談すれば、顔のささない政治参加方式もあることと思います。


 わたしは選挙については浮動票です。国政選挙ではその時々に自分で決めた争点に合う人に投票します。何党と固定していませんし、参議院と衆議院、小選挙区と比例区などの違いで投票先を変えることもあります。

 地方議員選挙では人間関係、すなわち信頼つきあいのある人に投票します。住民生活の困りごとに面倒見の良い人に投票しています。

 ですから、わたしの場合、パーティー券を買うという行為はつきあいであって、投票するという行為にはまったくつながっていません。


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元自民党幹事長 古賀誠氏の「憲法九条」守ろう語録

2024-05-13 17:11:28 | Weblog



  

日本国憲法前文(前段の一部から抜粋)
日本国民は、 
…略…  われらとわれらの子孫のために、 …略…  政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意しここに主権が国民に存することを宣言しこの憲法を確定する。 …以下 略… 
    



    自民党元幹事長  古賀  誠 氏の「憲法九条」守ろう語録
 

 あの大東亜戦争(※1) に対する国民の反省と平和への決意を込めて、憲法九条つくられています。憲法九条一項、二項によって、日本の国は戦争を放棄する、再び戦争を行わないと、世界の国々へ平和を発信しているのです。これこそ世界遺産だと私は言っているのです。
  ※1. 大東亜戦争 … 1941.12.8.真珠湾攻撃後に、日中戦争・日米太平洋戦争を併せて
          「大東亜戦争」と呼ぶよう当時の政府が決めた。


 戦後七四年(※2)、わが国は一度として、まだ他国との戦火を交えたことはありえません。平和の国として不戦を貫くことができています。これは憲法九条の力であり、だからこそ憲法九条は世界遺産なのです。これはどんなことがあっても次の世代につないでいかねばならない、われわれの世代だけのものであってはいけないと思っています。   
 ※2. 古賀氏の本稿執筆は2019年、昭和敗戦は1945年。


 あの大東亜戦争で、多くの人が無念の思いで命をなくし、その結果として、子どものために人生のすべての幸せを捨てた戦争未亡人はじめ多くの戦争遺族の血と汗と涙が流されました。その血と汗と涙が流されました。そう簡単に、この憲法九条を改正する議論をやってもらっては困るし、やるべきではないと思うのです。


 私の母親もそうですが、戦争で未亡人になった人が全国に何百万人といて、幼い子どもを抱えて苦労しておられた。そういう人たちが報われるような国にする道は何かといったら、平和憲法を守って戦争をしない国であり続けることが一番大事ではないですか。だからそのために私は国会に出てきたのです。

 (注)わが国沖縄全住民をまきこんで多大な犠牲者を生んだこと、日本内地で原爆、東
  京はじめ大都市空襲の多大な犠牲者、千島樺太・満洲・朝鮮半島・中国・東南アジア
  ・太平洋諸島で現地住民や日本居留民を戦争にまきこみ、多大な犠牲を強いたことも
  肝に銘じて、戦争犠牲者の列に加えておかねばなりません。


 憲法九条を私は守り抜くのだ、それを貫くのが私の使命だ、それが政治家として一番大事な志だとして、私は国会に来たわけです。だから選挙の度にずっと同じことを言ってきました。


 私はこれまでも、自衛隊が戦争することにつながるものには、すべて反対してきました。九〇年代 (※1990年代) に成立したPKO法(※3)は、人道支援に限ったものだし、また戦争地域でないところに限って出すのだということでしたが、それでも私は採決にあたって本会議を退席しました。  
 (※3)PKO法 … 国際連合平和維持活動(PKO)に対する協力に関する法律。1992年成
           立。これによって、昭和敗戦後初の自衛隊海外派遣が実現した。


 野中広務先生も言っておられましたけれども、やはり針の穴であっても一つ開いたら、ゆくゆくはおかしいところにいってしまうのです。
 後藤田正晴先生もおっしゃっていたように、戦争にかかわる風穴は小さな穴でもあけたらどんでもないことになってしまう危険性があるのです。

 案の定、PKO法が成立して約二〇年が経ち、次にはイラクに自衛隊を出すための新しい法案が国会に出されました。その国会での小泉純一郎さんの答弁を聞くと、自衛隊が派遣されているところは戦闘地域じゃないのだなんてバカげたことを言っていた。そして現在にいたっている。

 
 いくら歯止めをかけたつもりでも、一つ穴が空くと、運用が広がっていくのです。それが怖いから私はちゃんと反対をしたのです。

 
 自民党というのは憲法改正を党是としているのですが、─中略─ けれども憲法九条については一切改正してはダメだというのが私の政治活動の原点です。ここは曲げられません。九条一項、二項だけは一字一句変えないというのが、私の政治家としての信念であり、理念であり、哲学なんです。

 一九八七年、イラン・イラク戦争の余波でペルシャ湾に機雷がばらまかれ、船の航行が危険になったとき、アメリカから掃海艇を出せという要求があったのです。中曽根康弘首相はそれに応えようとしたのだけれど、官房長官だった後藤田さんは辞職願を懐に入れて、「国民にその覚悟ができていない」「できていないのに、総理がそんなことをやっちゃだめだ」と直談判したのです。それで中曽根さんも引っ込めざるを得なかった。

 憲法にも違反するのではないかと思われるのは、集団的自衛権の解釈変更の問題です。

 集団的自衛権の行使は憲法違反だ、日本は専守防衛でやっていくのだというのが、戦後の内閣がずっと維持し、国民も支持してきたことなのに、閣議だけでこの見直しを決めてしまった。


 日本の安全にとっても極めて危険なことだと思います。

(※集団的自衛権の解釈変更によって)専守防衛を乗り越えて、戦争ができる方向に進んでしまったのです。

 その上で憲法改正をやられたら、戦争をしないという九条によって宣言した誓いはどうなってしまうのか。 


(※憲法九条の)一項、二項とも残して自衛隊のことを書くと言いますが、少しでも憲法九条改正につながるようなことは針の穴程度でもやってはダメなのです。それが、九条一項、二項を守るということにつながると思うのです。



現行日本国憲法

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権
 の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する
 手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
 国の交戦権は、これを認めない。


 〇〇 自民党の憲法九条改正案について

(1) 自民党改正案で、自衛隊に替えて「国防軍」ということばが出てきます。
  自衛権行使という点では自衛隊の呼び名を国防軍に替える必要はありません。

(2) 九条の二1項の「総理大臣が最高司令官」というのは今の自衛隊でも同じ。
 
(3) 九条の三は、領土領海領空の保全で、これは今の海上保安庁や自衛隊もやって
  いる。わざわざ国防軍に衣替えさせる意義は無い。

(4)  九条の二2項3項の「法律の定めるところにより」は危ない、危ない。
  改憲後に姿を現す新法にはたいへん重要な役割が待っています。新法は複数本
  数になるでしょう。

   新法には、米国はもちろんのこと、そのほかの諸国との共同軍事活動の拡大、
  軍事活動の自由度を最大限に広げる役割が与えられるでしょう。兵器等の軍需
  品調達拡大の役割もあり、防諜関係ほかの新法なども考えられます。

   新法との整合性を調整する観点からは、波及的に既存の防衛関連法の改正もあ
  り得るでしょう。

   古賀誠氏は元自由民主党幹事長で宏池会という派閥の領袖であっただけに、
  自民党の手筋を明白に見通せるのだと思います。それだけ危機感が強い。

    古賀誠「けれども憲法九条については一切改正してはダメだというのが私の政
    治活動の原点です。ここは曲げられません。九条一項、二項だけは一字一句変
    えないというのが、私の政治家としての信念であり、理念であり、哲学なんで
    す。」

    古賀誠「(※集団的自衛権の解釈変更によって)専守防衛を乗り越えて、戦争
    ができる方向に進んでしまったのです。その上で憲法改正をやられたら、戦争
    をしないという九条によって宣言した誓いはどうなってしまうのか。 」 

    古賀誠氏「(※憲法九条の)一項、二項とも残して自衛隊のことを書くと言いま
    すが、少しでも憲法九条改正につながるようなことは針の穴程度でもやっては
    ダメなのです。それが、九条一項、二項を守るということにつながると思うので
    す。」 

(5)  九条の二3項の「法律のさだめるところにより」も「国際協調」も本心は
  軍事的なものを意味する。

   なにしろ、自民改憲九条は、平和憲法に不満があって改変しようとするもの
  ので、政権が戦争しやすくするためのものと腹をくくっておかねばならな
  い。

   それにしても、「安全保障」と聞けば「軍事直結型」の単純脳点滅政治家や
  単脳点滅街角スピーカーがやたらに反応するのが不思議です。

   彼らの特徴は、兵器武器にくわしいが軍事費膨張不感症。口うるさい「お国
  を守る」派の中から、隊員不足の自衛隊を助けるために息子が応募したとか、
  若者本人が応募して身をお国の盾にするというエピソードを聞いたことがな
  い。

(6)    九条の二4項は世論誘導、思想統制、秘密漏洩取り締まり。 
   これもこわい、こわい。 
   
(7)  国境紛争の始まりは、出先の軍人の跳ね返りで始まることが多い。武器兵
  器を持って強がって応酬して駆け引きをくり返して、やがて偶発事故が起きた
  かのような小規模な戦闘が起きる。そして当事国同士の意地やメンツの応酬の
  結果、実戦が広がる。

   軍事抑止力の争いは意地の張り合いで、どっちか先に切れた側が殴り込んで
  戦闘が始まり、戦闘休止のにらみ合いを経て、双方応援部隊を得て戦闘再開。
   経過によっては双方政治家や国民のうちの戦争囃子方が、後方の安全地帯か
  ら戦闘拡大を煽る。

(8)  歴史を見ると、戦争ストーリーのオンパレードです。それでも戦争のない
  平和ストーリーの時代の方が遥かに長い。「戦争の時代」より「平和の時代」
  が勝っています。


自由民主党日本国憲法改正草案 平成24年4月27日決定  

 (平和主義)
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権
 の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争
 を解決する手段としては、用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。

 (国防軍)
第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内
 閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところに
 より、国会の承認その他の統制に服する。
3 国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定
 めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調し
 て行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守る
 ための活動を行うことができる。
4 前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する
 事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍
  の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところによ
 り、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴す
 る権利は、保障されなければならない。

 (領土等の保全等)
第九条の三 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び
 領空を保全し、その資源を確保しなければならない。


   古賀誠氏の上記語録の出所は、古賀氏の著書『憲法九条は世界遺産』です。
   版元のかもがわ出版の所在地を見ると、わたしが卒業した滋野中学校の学区内です。
   一気に中学校生活の思い出がよみがえります。
   

 
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憲法九条は世界遺産

2024-05-11 23:31:18 | Weblog


  『憲法九条は世界遺産』
 血と汗と涙が憲法九条には込められている。


 いいことばですね。
 元自民党幹事長、元遺族会会長という経歴の古賀誠氏のことばです。
 血と汗と涙が憲法九条には込められている。
 ── まことにその通りだと思います。


 憲法9条を何としても守りたい、とわたしは思ってきました。
 そして『憲法九条は世界遺産』という古賀誠氏のフレーズに接して、
 憲法9条の評価を世界遺産にまで高めたいと思うようになりました。


 総理大臣は第一に国民の生活に責任をもたなければいけないと古賀誠氏は言い、その責任の一番大切な要諦は「平和」だと言います。

 単純明快、理屈抜き。わたしたちは「平和」の地盤に立ってこそ、太陽を仰ぎ見て暮らすことができます。戦争がもたらすものは、破壊、殺人、傷害、病害、身体しょう害、精神しょう害、飢え、渇き、不安 、死別、生き別れ。


 古賀誠氏2歳のときに父が招集兵として戦地に送られ、4歳のときにフィリピンのレイテで亡くなりました。戦死か戦病死かわかりません。古賀誠氏は1940年 (昭和15年) 生まれで、父親の記憶はありません。母親は姉娘と誠氏の2人の子を、乾物の自転車行商をして育てました。子ども時代、寝ている母を見たことがないと古賀誠氏は言っています。暮らしはずっと貧乏そのものでした。

 古賀誠氏の子ども時代は、父の記憶がない寂しさと母のたいへんな苦労と苦しい貧乏暮らしが戦争と直結しています。


 古賀誠氏 「私の世代ですと、9条を守りましょうという理想を持つのに、自民党の中でも特別な努力はいりませんでした。宮澤喜一さん(1919年~2007年総理大臣)も護憲論者、大平正芳さん(1978年~1980年総理大臣)も護憲論者、田中六助さん(通産大臣、内閣官房長官、自民党幹事長など歴任)も護憲論者、後藤田正晴さん(内閣官房長官ほか歴任)も護憲論者です。」  (古賀氏著「憲法九条は世界遺産」から)


 ──自民党の有力者に護憲論者が数々居るというのは、隔世の感ありですね。


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ノモンハン生還衛生伍長(4終) ノモンハン戦争生還の生き証人を3回も死なせようと試みた

2024-04-18 17:34:46 | Weblog


2023-07-10
1時間42分の戦闘で沈没した戦艦大和の戦死3056名 輸送船富山丸の魚雷沈没あっという間の2個旅団消滅
2023-07-20
<ノモンハン捕虜帰還兵軍法会議> 自決未遂で重営倉3日の上等兵、敵前逃亡で禁錮2年10カ月の戦闘機曹長 
2023-08-22
<ノモンハン捕虜帰還将校2名> 日本軍の自決システム──撃墜されて捕虜 → 帰還 → 陸軍病院 → 軍説得の拳銃自殺
2023-09-04
<ノモンハン捕虜帰還兵> 壊滅陣地 → チタ捕虜収容所 → 陸軍病院 → ソ満国境へ転属 → 兵役満期除隊 → 軍属徴用で奉天へ
2023-09-14
ノモンハン生還衛生伍長(1) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2023-09-18
ノモンハン生還衛生伍長(2) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2023-12-09
ノモンハン生還衛生伍長(3) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2024-04-10
ノモンハン1939年8月20日 日本軍の戦い、歩兵第71連隊の末期、歩兵第64連隊金井塚第3大隊
2024-04-17
(資料掲載) 勅令第百九十三号  金鵄勲章叙賜條例  明治二十七年十一月二十五日制定



 ノモンハン戦域図の出所は岩波現代文庫『ノモンハンの戦い』で、著者シーシキンは旧ソ連 (現ロシア) の人です。ノモンハン戦域図はソ連の資料に基づいて書かれていますが、地形図の上に地名が記されているので、戦場の地形と主要戦場名の位置関係が正確にわかります。

    ノモンハン戦域図  『ノモンハンの戦い P15』シーシキン他著(岩波現代文庫)
     
    ※1. ウズールノール …〈日本名〉ウズル水  ※2. ノモンハン・ブルド・オボー(上掲図 ●)
    ※3. 上掲図に地名記載がないが、〈日本名〉ノモンハン (日本軍中 継地点) は、ノモンハン・ブルド・
       オボーより北にあり、さらにその北方向に日本軍拠点の〈日本名〉将軍廟がある。
    ※4. 〈日本名〉 ハルハ河 … 上掲図。河流が西北西方向からほぼ北に向きを変え、上掲図の外へ出て
                 まもなく西方向に再び向きを変えて、ボイル湖という大湖に流入する。
                 ノモンハン関連記述では、流入方向の右側を「右岸」または「東岸」、左
                 側を「左岸」または「西岸」と呼ぶ。
    ※5. ハイラースティーン河 …〈日本名〉ホルステン河 … 東から西へ流れてハルハ河に流入する。
                 ノモ ンハン関連記述では、流入方側を「北岸」、南側を「南岸」と呼ぶ。
    ※6. 〈日本名〉川又 … ホルステン河がハルハ河に流入する合流地点。上掲図に地名記載なし。
    ※7. ノゴー高地 … 〈日本名〉ノロ高地 ≒ 742高地
    ※8. レミゾフ高地 … 〈日本名〉バルシャガル高地 ≒ 733高地 (バルシャガル高地の西部)
    ※9. フイ高地=721高地  ※10. バイン・ツァガーン … 日本側渡河点対岸の高地


  <ノモンハン周辺図>  『郷友連盟2007年6月海外研修  草原の戦跡を訪ねて(2)』から
                http://www.goyuren.jp/mongol/mongol21.htm
 

   ※1 お手数ですが、拡大鏡でご覧願います。
   ※2 数字表記は高さを示していてこれを戦場地名とし、多くの場合下2桁をカタカナ読みして地名呼称
      としています。
      たとえば三角山南の「744」高地は下2桁読みで「ヨヨ高地」と同一地です。
      その東の「747」高地は、下2桁読み「ヨナ高地」と同一地です。
      ニゲーソリモト北の「753」高地は二つあって、「西イミ高地」「東イミ高地」と同一地です。
   ※3 『ノモンハン戦域図』で、ハルハ河、ハイラースティーン河= (日本名) ホルステン河、フイ高地、
      ノロ高地の位置関係をよく見て、それから『ノモンハン周辺図』の同じ場所を確認すれば地図が
      躍動してくると思います。



 当ブログ 2023-09-04 <ノモンハン捕虜帰還兵> 壊滅陣地 中山仁志上等兵 (当時22才) → チタ捕虜収容所 → 陸軍病院 → ソ満国境へ転属 → 兵役満期除隊 → 軍属徴用で奉天へ に書いたように、捕虜釈放帰還後の中山上等兵は、兵役満期まで僻遠のソ満国境に転属していました。

 そして兵役満期除隊後は軍属徴用身分になり、奉天で従事しました。ノモンハン戦争従軍兵は遠隔地に追いやられるのが、隠された原則になっていたのです。


 さて、小野寺哲也衛生伍長のことです。

 小野寺哲也氏は1937年 (昭和12年) に徴兵検査を受け、1938年 (昭和13年) 1月、旭川7師団騎兵第7連隊に入営。  

 1938年 (昭和13年) 2月、  第7師団が北海道から満洲国チチハルに進出。騎兵第7連隊は3カ月遅れてチチハルの第7師団を追った。   

 初年兵教育2カ月を過ぎると衛生兵の募集があり、小野寺氏は応募して陸軍病院で研修を受けました。衛生兵教育が終わって後、彼はハルビンの下士官候補教育隊に入隊し1939年 (昭和14年)   6月に卒業して、衛生伍長としてチチハルの第7師団軍医部衛生隊に所属しました。   

 1939年 (昭和14年)       6月20日、第7師団歩兵第26連隊 (連隊長 須見新一郎大佐) に、第23師団配属命令が下りました。命令を受けた歩兵26連隊は、即日、ノモンハン戦域に向けて出動。

 7月20日、小野寺伍長に歩兵26連隊配属命令。 このころには、6月20日出動の歩兵26連隊が7月3日、4日の戦闘で全滅したという噂が流れていました。ノモンハンへ出たら生きて帰るのは難しいという、歩兵64連隊 (連隊長 山県武光大佐、8/29戦場自殺) 入院負傷兵の話も衛生兵の耳に入っていました。

 小野寺伍長22歳は、須見歩兵26連隊本部に8月1日到着。生田第1大隊に配属されました。この日はまだ、連隊の全兵力がノロ高地に集結して、兵員の補充中でした。ノロ高地は将軍廟から40kmほどで、ノモンハンはその中間くらいにある場所の地名です。

 そして8月5日、歩兵第26連隊生田第1大隊は、731高地から日の丸高地の一帯に展開します。大隊長生田準三少佐は陸軍大学入校がノモンハン戦争のために延期されていました。

 「ノモンハン生還衛生伍長 (1)、(2)、(3)、(4) 」は、伊藤桂一著『静かなノモンハン』講談社文庫に描かれた小野寺哲也氏の歩兵第26連隊生田第1大隊従軍経験から拾いだしたものです。

        2023-12-18 ノモンハン生還衛生伍長(4)


 小野寺氏伍長は、生田第1大隊に着任したときから激戦を生き抜き、悲惨な退却行軍を経て、8月30日、将軍廟にたどりついた。9月16日、ノモンハン戦争停戦。この間ずっと陸軍衛生伍長の身分です。陸軍では、伍長、軍曹、曹長が下士という分類に入ります。

 停戦後、ノモンハン戦争の戦功により、「功七級金鵄勲章」を受章しました。第7師団衛生兵の中で唯一人の金鵄勲章受章者という栄誉でした。准尉以下二等兵までの者のうち、初めての金鵄勲章受章者に与えるのが「功七級」です。

  〇 金鵄勲章叙賜條例  
  第四條 准士官下士及兵卒ノ初叙ハ功七級トス武功ヲ累ヌルニ従ヒ逐次進級
   セシメ准士官下士ハ功五級兵卒ハ功六級ニ至ルヲ得 

 ノモンハン戦争従軍者を日本内地へ帰さないという暗黙の不文律が貫かれていたのは明らかでした。文頭に紹介した中山上等兵は兵役満了時に、ひきつづいて軍属という身分で満洲国奉天に留められました。

 小野寺伍長はノモンハン戦争から生還すると軍曹に昇進して、出身師団である旭川第7師団の病馬廠に転属しました。

 生田第1大隊はソ連総攻撃初日の8月20日に第3中隊が全滅するほどの死闘を、8月29日生田第1大隊長が生死不明になるまで (停戦後に戦死体回収) 重ねてきて、ノモンハン戦でも最も厳しい戦闘をつづけた部隊の一つです。

 小野寺軍曹にはノモンハン前線で小指を切る盟約をした戦友がいました。第一大隊の命脈尽きんとするわずかな日々に、戦死体の後送もできず、戦場で土に埋めることもままならず、攻撃目標を敵に与える戦死体焼却はできるはずもなく、戦死体の姿を隠すていどに砂を盛るくらいしかできなかった。そんな追いつめられた短い日々の戦友間で、生き残った者が小指を切り取って遺骨を故郷に返すという盟約が自然のなりゆきで広がっていました。

 ノモンハン戦から帰還して在満洲国第7師団に落ち着いたころ、小野寺軍曹は、そういう約束をした戦友の一人の内地の実家へ、戦死の状況を手紙で知らせました。手紙にはノモンハン前線の悲惨な状況描写があり、そのことが師団司令部の検閲にひっかかりました。憲兵隊が担当して、営倉謹慎3日間の処罰を受けました。従軍した第一大隊の功績の裏打ちと小野寺個人の功績のゆえか、軽い処分で済みました。


 1940年 (昭和15年) 、小野寺軍曹は内地で父母だけで暮らしている両親に元気な顔を見せたく、帰郷休暇を軍医に願い出ました。軍医部長は大隊壊滅までの小野寺の戰働きをよく知っていたので、休暇ではなく、旭川留守師団に転属できるよう手配してくれました。軍医部長には、「ノモンハン従軍兵を内地へ帰さない」という不文律が通じなかったのです。

 小野寺軍曹は旭川留守師団、北海道浦河町の上陸用舟艇中隊勤務になりました。

 1941年 (昭和16年) 12月8日、大東亜戦争 (太平洋戦争) 始まる。
  ※「静かなノモンハン」の著者が「大東亜戦争」という呼称を使っているので、著者を尊重
   してこの呼称を使うことにします。


〇「樺太飛行場設営隊」転属命令 → 立ち消え
 大東亜戦争が始まると、小野寺軍曹に転属命令が出ました。行き先は、樺太の飛行場設営隊。所属の上陸用舟艇中隊が彼の転属を渋ったので、転属は立ち消えになりました。樺太に転属していたら、樺太で戦死したか、捕虜としてシベリヤ送りになっていたかもしれません。

「一木支隊編成要員」命令 → 出頭に間に合わず命令取り消し
 その後、旭川の連隊区司令部付に転属し、任務は「徴兵検査係」でした。この徴兵検査の任務で利尻島へ出張中に、一木支隊の編成要員に任ずる命令が出ました。後にガダルカナル島で玉砕した、あの一木支隊です。しかし、即日出頭というわけには運ばず、利尻島での徴兵検査任務を完了するまで、連隊区司令部に帰ることができなかった。事情やむなく、命令取り消し。

「山崎部隊編成要員」命令 → 出発に間に合わず命令見送り
 アッツ島へ行く山崎部隊の編制要員に加えられたが、この時も徴兵検査で遠方にいて、出発に間に合わず見送りになった。山崎部隊も後にアッツ島で玉砕しました。


 日本の陸軍は、ノモンハン戦争の戦功により金鵄勲章を受章した下士官を死なせようと、3回も試みたのです。樺太、ガダルカナル島、アッツ島。

 ノモンハン戦争では、停戦後に自殺に追いこまれた実戦部隊長のお話もよく知られています。


 小野寺伍長は旭川師団留守部隊で准尉に昇進して無事に軍歴を終えました。1986年 (昭和61年) 当時は保育園の園長や書道塾主宰をしておられると、『静かなノモンハン』著者の伊藤桂一氏があとがきで話しておられます。

コメント

(資料掲載) 勅令第百九十三号  金鵄勲章叙賜條例  明治二十七年十一月二十五日制定

2024-04-17 13:36:22 | Weblog


2023-07-10
1時間42分の戦闘で沈没した戦艦大和の戦死3056名 輸送船富山丸の魚雷沈没あっという間の2個旅団消滅
2023-07-20
<ノモンハン捕虜帰還兵軍法会議> 自決未遂で重営倉3日の上等兵、敵前逃亡で禁錮2年10カ月の戦闘機曹長 
2023-08-22
<ノモンハン捕虜帰還将校2名> 日本軍の自決システム──撃墜されて捕虜 → 帰還 → 陸軍病院 → 軍説得の拳銃自殺
2023-09-04
<ノモンハン捕虜帰還兵> 壊滅陣地 → チタ捕虜収容所 → 陸軍病院 → ソ満国境へ転属 → 兵役満期除隊 → 軍属徴用で奉天へ
2023-09-14
ノモンハン生還衛生伍長(1) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2023-09-18
ノモンハン生還衛生伍長(2) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2023-12-09
ノモンハン生還衛生伍長(3) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2024-04-10
ノモンハン1939年8月20日 日本軍の戦い、歩兵第71連隊の末期、歩兵第64連隊金井塚第3大隊


 書きかけているブログ記事「ノモンハン生還衛生伍長 (4終) 」の主人公は功七級金鵄勲章受章者です。功七級とはどんな位か確認したくて、関係の条文さがしをしてみました。今はありがたい時代のことで、ネット検索すれば完全な法令条文を読むことができます。

 けれども金鵄勲章の法文さがしは少し難儀しました。いろいろ検索してみても、活字の完全な法文が出てきません。あれやこれやでようやく行き当たったのが、国立国会図書館のデジタルコレクションでした。筆書きの原文画像。これを文字転写したのですが、この写真画像は部分的に張り付けられたシールがある画像でした。ところどころ、文字が隠れています。

 それでまたネット検索をやり直して、官報に掲載されているのを見つけました。国立国会図書館デジタルコレクションの中の『官報』から見つけました。そして、官報の「金鵄勲章叙賜條例」の文字画像を転記して、資料掲載することにしました。今後は探す手間が省けるし、文書とりこみの必要なときはコピー一発ですみます。


     ----------------------------------------------------------------



  官報第三千四百二十六號 明治二十七年十一月二十八日 水曜日 内閣官報局


      〇 勅 令

  朕金鵄勲章叙賜條例ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム


     御 名 御 璽


     明治二十七年十一月二十五日
        内閣總理大臣 伯爵伊藤博文


  勅令第百九十三号
     金鵄勲章叙賜條例


  第一條 金鵄勲章ヲ武功抜群ナル者ニ叙賜スルハ本條例ノ定ムル所ニ依ル
 
  第二條 將官ノ初叙ハ功三級トシ武功ヲ累ヌルニ従ヒ逐次進級セシム
   特旨ヲモッテ叙賜スルモノハ前項ノ限ニアラス

  第三條 佐官ノ初叙ハ功四級トシ尉官の初叙ハ功五級トス武功ヲ累ヌルニ従
   ヒ逐次進級セシメ佐官ハ功二級尉官ハ功三級ニ至ルヲ得

  第四條 准士官下士及兵卒ノ初叙ハ功七級トス武功ヲ累ヌルニ従ヒ逐次進級
   セシメ准士官下士ハ功五級兵卒ハ功六級ニ至ルヲ得

  第五條 陸軍見習士官海軍少尉候補生は尉官ニ準シテ擬叙ス

  第六條 將校相當官及軍属ハ將校若クハ下士ニ準シテ叙賜ス

  第七條 戦役間武功常ニ卓越ニシテ優賞スヘシト論定シタル者又ハ重要ノ職
   ニ當リ武功抜群ナル者ハ第二條乃至第四條初叙の例ニ拠ラス一等上級ニ叙
   賜スルコトアルヘシ

  第八條 戦役ノ景況ニ依リ特ニ軍司令官又ハ艦隊司令長官ニ金鵄勲章五級以
   下ヲ其ノ部下ニ授與スルノ權ヲ假スコトアルヘシ

  第九條 金鵄勲章叙賜規程ハ別ニ定ムル所ニ依ル



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ノモンハン1939年8月20日 日本軍の戦い、歩兵第71連隊の末期、歩兵第64連隊金井塚第3大隊

2024-04-10 23:57:16 | Weblog

<お断り> 「自決」という言葉は軍隊用語として多用されていますので、一連の当ブログ「ノモンハン戦争」記事においては、「自決」の代わりに日常語の「自殺」を使うよう心がけています。その理由については、川本ちょっとメモ2023.7.7.「『自決』は軍隊用語です  『自殺』なのに事柄によって『自決』と言うのはなぜでしょうか」をクリックしてご覧ください。

 ノモンハン戦域図の出所は岩波現代文庫『ノモンハンの戦い』で、著者シーシキンは旧ソ連 (現ロシア) の人です。ノモンハン戦域図はソ連の資料に基づいて書かれていますが、地形図の上に地名が記されているので、戦場の地形と主要戦場名の位置関係が正確にわかります。

    
ノモンハン戦域図  『ノモンハンの戦い P15』シーシキン他著(岩波現代文庫)
     
    ※1. ウズールノール …〈日本名〉ウズル水  ※2. ノモンハン・ブルド・オボー(上掲図  
    ※3. 上掲図に地名記載がないが、〈日本名〉ノモンハン (日本軍中 継地点) は、ノモンハン・ブルド・
       オボーより北にあり、さらにその北方向に日本軍拠点の〈日本名〉将軍廟がある。
    ※4. 〈日本名〉 ハルハ河 … 上掲図。河流が西北西方向からほぼ北に向きを変え、上掲図の外へ出て
                 まもなく西方向に再び向きを変えて、ボイル湖という大湖に流入する。
                 ノモンハン関連記述では、流入方向の右側を「右岸」または「東岸」、左
                 側を「左岸」または「西岸」と呼ぶ。
    ※5. ハイラースティーン河 …〈日本名〉ホルステン河 … 東から西へ流れてハルハ河に流入する。
                 ノモ ンハン関連記述では、流入方側を「北岸」、南側を「南岸」と呼ぶ。
    ※6. 〈日本名〉川又 … ホルステン河がハルハ河に流入する合流地点。上掲図に地名記載なし。
    ※7. ノゴー高地 … 〈日本名〉ノロ高地 ≒ 742高地
    ※8. レミゾフ高地 … 〈日本名〉バルシャガル高地 ≒ 733高地 (バルシャガル高地の西部)
    ※9. フイ高地=721高地  ※10. バイン・ツァガーン … 日本側渡河点対岸の高地

  <ノモンハン周辺図>  『郷友連盟2007年6月海外研修  草原の戦跡を訪ねて(2)』から
                http://www.goyuren.jp/mongol/mongol21.htm

   ※1 お手数ですが、拡大鏡でご覧願います。
   ※2 数字表記は高さを示していてこれを戦場地名とし、多くの場合下2桁をカタカナ読みして地名呼称
      としています。
      たとえば三角山南の「744」高地は下2桁読みで「ヨヨ高地」と同一地です。
      その東の「747」高地は、下2桁読み「ヨナ高地」と同一地です。
      ニゲーソリモト北の「753」高地は二つあって、「西イミ高地」「東イミ高地」と同一地です。
   ※3 『ノモンハン戦域図』で、ハルハ河、ハイラースティーン河= (日本名) ホルステン河、フイ高地、
      ノロ高地の位置関係をよく見て、それから『ノモンハン周辺図』の同じ場所を確認すれば地図が
      躍動してくると思います。


       【 1939年8月20日  
        アルヴィン・D・クックス著『ノモンハン③ 第23師団の壊滅』P.11~30

<歩兵71連隊>  (連隊長 森田徹大佐 8/8着任 8/26戦死) 
<歩兵71連隊  第1大隊> (大隊長 杉立亀之丞少佐 8/28戦死) 
・ ホルステン河 (上掲ノモンハン戦域図、ソ連名ハイラースティーン河) 南岸では71連隊主力
 ゲーソリモト確保杉立第1大744高を確保、その左でニゲーソリモト南方の
 747、748高地連隊少数の諸隊確保していた。

・ ソ連57狙撃師団がこれらを攻撃した。 
  この前線のソ連軍推定総兵力は、輸送車両200台に支援された歩兵1350人、戦車・装
  甲車200両だった。


<歩兵71連隊 第3大隊>   (大隊長 出射剛少佐 8/12着任、8/23戦死)   
・ ハルハ河の「東渡わたし」と呼ばれる渡河地点の東側で、ソ連軍は4地点で橋梁の構築
 を完了していた。このため744、747、757高地が特に猛攻撃に曝された。

・ 特に747高地が午後2時半ごろ深刻な状況に陥った。
  森田71連隊長 (8/8着任 8/26戦死) が747高地に急派した第3大隊主力 (大隊長出射剛少佐
   8/23戦死) は、高地と高地の間に浸透して日本軍防備線を突破した戦車20両、歩兵
  300 のソ連部隊に遭遇した。

・ 戦闘は終日苛烈を極め、747高地は午後6時ごろ最期の様相を見せていたが、野戦重
 兵第7連隊 (7/17参戦、連隊長 鷹司信煕大佐 8/8着任)  の10センチカノン砲の掩護砲撃のお
 かげで事態が好転した。ソ連軍は午後8時半ごろ退却した。


<第23師団 長谷部支隊 方面> 
(長谷部理叡大佐:第8国境守備隊第2地区隊歩兵隊長→8/3支隊編成→8/4支隊長着任→停戦後9/20拳銃自殺)      
・ 長谷部支隊 (支隊長 長谷部理叡大佐) は、ノロ高地ホルステン河 (上掲ノモンハン戦域図、ソ連
 ハイラースティーン河) にはさまれた歩兵71連隊 (連隊長 森田徹大佐 8/8新任、8/26戦死)   の右
 側に位置する地域、すなわちソ連82狙撃師団の攻撃目標地区を守備していた。長谷部
 支に対峙するソ連軍は兵力1500、戦車50~60両。


<歩兵28連隊第2大隊 (8/4 長谷部支隊配属)  
・ 8月4日に長谷部支隊に配属されていた歩兵28連隊 (8/20戦場進出  連隊長 芦塚長蔵大佐)  
 第2大隊 (大隊長 梶川富治少佐、8/25戦傷)が、長谷部支隊の左側面を確保していた。 

  長谷部支隊方面では、午前6時半からソ連機の空襲が始まり、午前7時からソ連戦車 
 歩28梶川第2大隊陣地を攻撃し、午前7時半からソ連砲兵部隊が野砲8門、15センチ
 榴弾砲4門、15センチカノン砲2門で砲撃した。砲撃の硝煙や着弾爆発の粉塵で視界 
  は悪く、あまりにも息苦しく防毒面を着けたいほどであったという。 

・ 午前9時、ソ連歩兵150ほどが歩28梶川第2大隊陣地200m手前まで接近、攻撃。大隊
 は100m手前で敵の前進を阻止した。ソ連軍はその後も砲撃や20~30人ていどの小規模
 攻撃を反復継続した。 

・ 一方、ソ連戦車十数両が754高地に浸透し、前線に散開する諸隊と歩28梶川第2大隊
 後衛の連絡を攪乱して、包囲攻撃の企図が見えた。長谷部支隊方面では8月20日昼ごろ
 から日本軍の糧秣、弾薬、水の補給が困難になってきた。

・ 午後5時前、ソ連軍戦車4両が第2大隊第7中隊 (中隊長 斎藤清吉中尉、8/26戦死)前面に接 
 近してきた。同中隊の高島少尉正雄少尉は、ソ連軍戦車に肉薄攻撃班が突進する姿を視 
 認した。ソ連戦車1両が肉薄日本兵の手榴弾で擱座し、残りは退却した。退却戦車3両 
 は狙撃兵百人を伴って数時間後にもどってきたが、梶川第2大隊はこれも撃退した。 

・ 梶川第2大隊長は上級司令部との連絡で、ソ連軍兵力2000、トラック300台、戦車
 400~500両が、ホルステン河南岸に進出していることを知った。また師団命令により
 71連隊の一部がニゲーソリモト方面に撤退していった。梶川少佐は死守するしかなかっ
 た。

<長谷部支隊第1大隊  (大隊長 杉谷良夫中佐)   
・ 長谷部支隊第1大隊は右側地区の中央部を守備していた。午前6時から1時間、ソ連軍
 航空隊の戦爆連合130機の空爆を受けた。第1大隊は陣地前方に1機、ソ連軍散開線の後
 方に1機撃墜した。

・ 午前7時20分、空爆に次いで、定石どおりソ連軍の砲撃が始まった。
  午前9時過ぎ、日本軍航空隊20機がソ連軍砲兵隊を爆撃。砲撃は小止みになった。
  午前9時30分、日本軍機が去るソ連軍の熾烈なじゅうたん砲撃が再開された。
  長谷部支隊杉谷第1大隊は壕や遮蔽物に身を潜めて、ソ連軍歩兵の来襲を待った。

・ 午前10時30分、杉谷第1大隊の3個中隊に対してソ連軍歩兵隊の攻撃が始まった。
  大隊を攻撃するソ連軍機関銃座は、確認できたものだけで18カ所。
  ソ連歩兵の支援火器は連隊砲8門と迫撃砲12門。これらの支援戦車7、8両。

・ 杉谷第1大隊へのソ連軍砲兵の攻撃は、15センチカノン砲12門~24門、野砲8門
 ~16門。

・ 杉谷少佐の回想によると、8月20日第1大隊の戦場におけるソ連軍の戦死傷は370人。
 対する日本軍は戦死8人、戦傷6人。めざましい戦いで守備陣地を守りぬいた。


<満洲国軍騎兵隊>  
・ フイ高地 (721高地) の近くに配置されていた満洲国軍騎兵第2団と、第2団から10km
 の距離に配置されていた満洲国軍騎兵第8団は、ソ連軍の支援砲撃、戦車、装甲車、  
 歩兵1000の攻撃を受けて、8月20日、早々と殲滅されてしまった。 ※満洲国軍の
 「団」は「連隊」日本軍の「連隊」に相当する。


<フイ高地  第23師団井置支隊> 
・ フイ高地を守っていた第23師団井置支隊  (支隊長 井置栄一中佐  井置第23師団捜索隊→7/3 
  第23師団井置支隊に編成、井置中佐は9/16日ソ停戦後の翌日9/17自殺) の編成は、速射砲4門、機関
 銃数丁、山砲2門をともなう自動車化騎兵1個中隊、騎乗騎兵1個中隊 (4個小隊のうち1個
 半欠) 、工兵1個中隊。第26連隊第2大隊第6中隊、第3大隊第9中隊、歩兵砲中隊。防戦
 する井置支隊の兵力は800人に満たなかった。

  これに対するソ連軍は第601狙撃連隊が正面に、第11戦車旅団が左翼に、第7装甲旅
 団が右翼に進出した。ソ連軍の総攻撃初日、8月20日中にフイ高地はほぼ包囲された。
 フイ高地の兵力差はあまりにも大き過ぎた。

・ フイ高地は8月20日午前5時ごろから終日、ソ連軍火砲数十門による砲撃にさらされ
 た。日本軍陣地では黒煙におおわれて、視界が2、3メートルしかなかったという。
  ある砲兵中隊長が砲弾の落下音で数えてみたところ、撃ちこまれる砲弾数は毎秒3発
 であったという。
  また、別の大尉の計算によると、落下榴散弾1発の破片が百個であると仮定して、
  ソ連軍の各砲1門当たり砲弾保有千発を掛け合わせると、
    落下砲弾数1秒当たり3発×60秒
    =1分間当たり落下砲弾数180発×砲弾1発当たり破片数100個
    =砲弾破片数1分間18000個、になる。
  榴散弾は名前のとおり、1発の砲弾の着弾周辺に破片が飛散する。兵は次々に倒れ、
 兵器は破壊され、壕も崩れ、陣地は穴だらけになった。

・ フイ高地には水源がなく、井置支隊は深さ5mほどの井戸を10本堀った。井戸水は飯
 盒ですくうくらいの水しか出ず、23師団給水車が毎日通ってきた。8月20日、10本の井
 戸すべて砲撃で崩れた。師団給水車は来なかった。陣地守備兵の飲み水が絶えた。

・ 午後8時、ソ連軍の砲撃が止んで塹壕から頭を上げて前方を見まわしたある中隊長は、
 30~40mという至近距離から前進してくるソ連戦車と歩兵を認めた。
  中隊の前方陣地守備の1個小隊が手榴弾で応戦。数十人のソ連歩兵が後退した。
  これに対してソ連戦車が火炎放射器で応戦し、小隊は陣地ごと火炎に焼かれた。
  前衛小隊が焼かれて、ソ連兵は勇躍突撃に移った。
  この戦闘でソ連戦車1両が日本陣地塹壕に突っ込んで動けなくなり、捕獲された。
  乗員は捕虜にされる前に自殺した。


<23師団直轄  歩兵第26連隊生田第1大隊> 
  (歩兵第26連隊長 須美新一郎大佐、大隊長 生田準三少佐 8/29戦死)     
・ 歩26生田第1大隊は8月5日、フイ高地南にある731高地から日の丸高地の線に布陣し
 た。 ──『静かなノモンハン』伊藤桂一著 講談社文庫P105  ──

・ 8月20日午前7時、ソ連軍戦車20両と歩兵200が生田第1大隊の防御線を突破し、白兵
 戦になった。
  予備兵力であった上村水那雄少佐 (歩26第2大隊長) は生田少佐と連絡を取るため伝令3
 人を出したが、200mほど進んだところで3人ともソ連軍の砲火に斃れた。ソ連軍の砲
 撃は量、密度ともに日本軍を卓越していた。

・ 8月20日夜11時、生田大隊第1中隊が必死の夜襲を試みたが、85人のうち65人を失っ
 た。※生田大隊については当ブログ2023/9/14、9/18、12/9、の「ノモンハン生還衛生伍長1~3」参照

・ この日、生田大隊は兵力千四、五百の敵を撃退した。(朝日文庫『ノモンハン③』P30 )


<歩兵第64連隊金井塚第3大隊> 
  (歩兵第64連隊長 山県武光大佐 8/29戦場自殺、第3大隊長 金井塚勇吉少佐)      
・ 8月20日午前7時以後3回、金井塚第3大隊陣地の左側面方向距離150m~200m地点
 からソ連軍歩兵八百が攻撃してきた。ヤナギの並木から連絡壕や掩体壕に機関銃を浴び
 せてきた。野砲や迫撃砲の砲弾も絶え間なく降ってきた。兵士たちは抗戦命令が出るま
 で掩体壕に身を隠していた。

・ 数か所の地点で、五、六十人のソ連軍歩兵が30m以内にまで進出してきたときには、
 双方から無我夢中になって投げ続ける手榴弾が飛び交った。ソ連軍の大部隊が南側から
 投入され、夕方には第一線との連絡に苦しむようになった。

・ 金井塚第3大隊の兵力は、一時的に配属された者を含み将校27人、兵671人で、その
 うち8月20日の戦死者は12人(うち将校1人)、戦傷者は20人だった。


 ジューコフ中将指揮下のソ連軍第1軍団の総攻撃初日8月20日の日本軍は、ソ連軍の猛攻によく耐えました。ホルステン河南部の戦場でソ連軍は計画通りの進撃を達成しましたが、ホルステン河北部では、進撃計画は予定通りに進みませんでした。ソ連軍が特にフイ高地の奪取に手間取ったことは、よく知られています。

 ノモンハン戦80余年後に何冊かの関連書を読んだに過ぎない私でさえ、第23師団、第6軍、関東軍の頑なで視野の偏った作戦指導が腹立たしいものに見えます。総攻撃10日後には、早くも日本軍は壊滅状態になっているのです。連隊以下の実戦部隊将兵の死闘は日ソ総合戦力差の大きさの前に潰えました。 


    【歩兵第71連隊の末期】 8月30日

・ 8月26日正午ごろ、接近するソ連軍を前にして、壕から立ち上がって双眼鏡で敵情を
 見ながら号令をかけていた歩71森田連隊長が機関銃弾3発を頭と胸に受けて戦死した。
 形勢不利な戦況のさなかであり、小野塚大尉森田大佐の遺体を倒れた場所からくぼ地
 に引きずりこみ、その場で土に埋めた。直ちに東宗治中佐歩71連隊長(代理)に任命さ
 れたが、8月30日戦死。 

・ 8月30日午前遅く、第6軍司令部に到着した第23師団将校伝令の報告を受けた関東軍
 作戦参謀辻正信少佐「主として歩71、72連隊からなる小松原23師団の500人は山県支
 隊の旧陣地付近で最後の死闘を行っている」と、関東軍に報告した。この時23師団の余
 命は終わりつつあった。

・ 8月30日、東連隊本部第1大隊23師団戦闘指令所との距離は200m~300mくら
 いだが、通信連絡が途絶えた。東連隊長は師団に2回、伝令を送った。伝令は全員がソ
 連軍戦車の砲火で戦死。うち一人は顔に直撃弾を受けて、鉄兜もろとも頭部を吹き飛ば
 された。陣地間を自由に動きまわるソ連軍戦車が見えた。

・ 8月30日午後5時近く、連隊旗警護隊長戦死。東宗治連隊長(代理)は遂に軍旗奉焼を決
 意した。午後6時15分、くぼ地の端に掘ったかなり大きな掩蔽壕で奉焼を終えた。 

・ 8月30日午後6時40分ごろ、連隊本部総勢17名の将兵は最期の突撃をした。東中佐
 軍刀を振りかざし壕から飛び出して敵戦車に突進しながら「東宗治中佐、本年49歳」と
 叫んだ。17名の将兵は「わあっわあっ」と喊声を上げながら前方に駈けだして10mも走
 らぬうちに、機関銃と手榴弾で一人残らずなぎ倒された。自殺行為そのものだった。

  東中佐の当番兵曾根辻上等兵は突撃直前に手榴弾を左大腿部と左人指し指に受けて倒
 れたが、陣前10mほどまで這って大声で中佐を探した。東中佐は腹部に手榴弾の傷が大
 きく開いていたが、意識も言葉もはっきりしていた。そして曾根辻上等兵に伝令とし
 て、軍旗奉焼と最期の突撃の状況を師団に報告するよう重ねて命じた。曾根辻は師団に
 報告し、戦後まで生き残った。

  花田第1大隊本部では、東中佐以下17名の突撃を見ていた。喊声も聞こえた。軍旗奉
 焼を報告する伝令も到着した。花田大尉は全中隊に銃剣突撃を命じた。敵陣に飛びこん
 で日本刀と銃剣で白兵戦になったが、敵兵は重機関銃を幾つも置いたまま逃げた。花田
 第1大隊23師団本部と共に生き延びた。

 
     【歩兵第64連隊金井塚第3大隊】 8月24日 

・ 8月23日から24日にかけて、歩兵第64連隊 (山県武光大佐 8/29戦場自殺) 第3大隊 (金井塚  
 勇吉少佐) 731高地に進出するよう命令された。歩兵第26連隊 (須美新一郎大佐) から抽出
 した脆弱な生田第1大隊を助けるためであった。

・ 8月24日午前4時、生田大隊の戦闘区域に到着。731高地生田大隊の北西2km~5k
 m、危機に瀕しているフイ高地井置支隊の南10kmという、ホルステン河北岸の最右翼
 に金井塚第3大隊の陣地を設置することになった。

  金井塚第3大隊が到着した地区のソ連軍兵力は歩兵数千、1個機械化旅団、重火器20
 門とみられていた。早朝、師団級のソ連軍部隊がフイ高地の方向から前進しているのが
 見られ、午前10時、金井塚第3大隊北東4キロの地点に到達し、第23師団の後方に向
 かって進撃を続けていた。金井塚大隊に対するソ連軍兵力はごくわずかで抑えに過ぎな
 かった。

・ 8月24日、歩兵64連隊長山県大佐がトラックで金井塚第3大隊陣地視察、将兵激励に
 やってきて、即日、連隊戦闘指揮所に帰った。これが山県連隊長との最期の別れになっ
 た。 ※山県武光大佐は8月29日、ホルステン河北岸新工兵橋に近い草原で、ソ連戦車群の皆
     殺し攻撃に遭遇して自殺した。

 9月16日ノモンハン戦争停戦、9月22日~28日の1週間、停戦協定に基づいてソ連軍監視下のホロンバイル平原を掘り戦死体収容を行い、4386体を収容することができた。山県武光大佐、伊勢高秀大佐、東宗治中佐、生田準三少佐らの戦死体もこの期間に発見・収容された。またハルハ河左岸にあった航空将校ほかの遺体59体がソ連側から返還された。収容された以上の遺体がノモンハン戦場となったモンゴルのホロンバイル平原の土となっていると思われる。(御田重宝著『人間の記録 ノモンハン戦 壊滅篇』徳間文庫P261 )       

コメント

ノモンハン戦争 1939年8月20日 ソ連・モンゴル軍総攻撃始まる

2023-12-28 17:37:49 | Weblog
 
   <ノモンハン戦域図>  『ノモンハンの戦い P15』シーシキン他著(岩波現代文庫)
    
     ※1. ウズールノール …〈日本名〉ウズル水  ※2. ノモンハン・ブルド・オボー(上掲図        
     ※3. 上掲図に地名記載がないが、〈日本名〉ノモンハン (日本軍中継地点) は、ノモンハン・ブルド・
       オボーより北にあり、さらにその北方向に日本軍拠点の〈日本名〉将軍廟がある。
     ※4. 〈日本名〉 ハルハ河 … 上掲図。河流が西北西方向からほぼ北に向きを変え、上掲図の外へ出てま
        もなく西方向に再び向きを変えて、ボイル湖という大湖に流入する。ノモンハン関連記述では、
        流入方向の右側を「右岸」または「東岸」、左側を「左岸」または「西岸」と呼ぶ。
     ※5. ハイラースティーン河 …〈日本名〉ホルステン … 東から西へ流れてハルハ河に流入する。ノモ
                 ンハン関連記述では、流入方向の北側を「北岸」、南側を「南岸」と呼ぶ。
     ※6. 〈日本名〉川又 … ホルステン河がハルハ河に流入する合流地点。上掲図に地名記載なし。
     ※7. ノゴー高地 … 〈日本名〉ノロ高地 ≒ 742高地
     ※8. レミゾフ高地 … 〈日本名〉バルシャガル高地 ≒ 733高地 (バルシャガル高地の西部)
     ※9. フイ高地=721高地  ※9. バイン・ツァガーン … 日本側渡河点対岸の高地

<戦域図余談>
1.ノモンハン … 岩波新書 田中克彦 著『ノモンハン戦争 モンゴルと満洲国』P4,5, に
  
(上図赤丸)  よれば、日本軍がノモンハンと呼んだ地の由来は、ノモンハーニー(ノ
        モンハンの)・ブルド・オボーという塚 (オボー) があったことによる。

         モンゴル人は山を越えてゆくときの峠道とか、牧地の境界などに石を積
        み上げて塚 
(オボー) を作り、そこを通り過ぎていく旅人たちは、旅の安
        全を祈って、思い思いに、オボーに建てた樹木の枝に布帛を結んだり、
        たばこを置いたり、時には馬の毛のしっぽの毛を一つまみ抜いて供えた
        りして通り過ぎていくのである。今日ではそのほかに小銭や、ときには
         紙幣も置かれている。ブルドとは、水が湧き出して、小さな湿地や沼が
         できるような場所をいう。

2.ハイラースティーン河(日本名 ホルステン河)… 田中克彦氏は2005年、ノモンハー
  (上図青線)  ニー・ブルド・オボーを訪ねた。一帯にはいくつかの沼や湖水があっ
          て、ブルドの名にあたいする所だった。これらの水源としてハイラー
        スティーン河が東から西に向かって流れ、ハルハ河に流入する。

4.ハルハ河 … 南から北へ北流している。戦域図上端の外、図外へ少し北流したところ
        で西に向かい、まもなくボイル湖に流入する。

5.ボイル湖 … ハルハ河は戦域図上端より少し北流したところで西方向に向かい、まも
        なくボイル湖に流入する。ボイル湖 (ブイル湖) の面積は615k㎡で、琵琶
        湖面積670k㎡の9割という大きさ。豊富な水のおかげで、モンゴル高原
        のうでは歴史的に栄えてきた地域である。

6.ソ連・モンゴル側主張の国境線 … オレンジ色線、ノモンハン戦争の結果、確定し
                  た。

7.日本・満洲国側主張の国境線 … ハルハ河=青線、ノモンハン戦争の結果、取下げ。


<戦場の範囲と地形の特質>
1.戦場範囲 … オレンジ色線とハルハ河との間、
         東西方向へ20km。南北方向へ60km~70kmの範囲。

2.ハルハ河西岸の地形 … 上の戦域図を見ると、皺のような等高線がハルハ河西岸 (左
              岸) に沿って南北に長く伸びている。等高線の間隔がこのよ
              うに狭いことは急斜面や断崖の地形を示し、西岸高地に布陣
              するソ連軍にとって実に有利、日本軍には甚だ不利な地形で
              ある。ソ連軍は、主戦場であるハルハ河とノモンハンライン
              の間の日本軍の動向をつぶさに監視できた。高台からの自由
              自在な火砲つるべ撃ちは日本軍に大きな打撃を与えた。


 ジューコフ中将指揮下の第1軍団司令部は1939年8月17日、指揮下の南方兵団、中央兵団、北方兵団に総攻撃開始を8月20日とする命令を下した。
    ※この項はシーシキン他著『ノモンハンの戦い』P57~62の「ソ・モ軍司令部作戦計画」による。

<南方兵団> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P58
 傘下部隊は、第57狙撃師団、モンゴル人民革命軍第8騎兵師団、第8装甲旅団、第6戦車旅団 (1個大隊欠) 、第11戦車旅団 (2個大隊欠)、第185砲兵連隊第1大隊、第37対戦車師団、T130型戦車中隊。
 任務は、ノモンハン・ブルド・オボー方向を攻撃し、中央軍・北面軍と協力して、ハイラースティーン河 (ホルステン河) 南北の日本軍部隊を包囲し、殲滅すること。

<南方兵団正面の日本軍部隊> 五味川純平著『ノモンハン(上)』P242
 ・ノロ高地 … 長谷部支隊 (第8国境守備隊から8・3支隊編成 ) 
         梶川大隊 (7師団歩兵28連隊第2大隊、8・4長谷部支隊に配属)
 ・ノロ高地南東要地 … 森田徹部隊 (23師団歩兵71連隊) 
 ・森田徹部隊の左翼 … 満洲国軍

 <中央兵団> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P59 
 傘下部隊は、第82狙撃師団 (601狙撃連隊欠) 、第36自動車化狙撃師団、第5狙撃機関銃旅団。これら諸部隊は、第1軍団の直接指揮下に入った。
 任務は、日本軍の両翼を包囲する任務を担う南方兵団と北方兵団の間の中央で、中央兵団諸隊による正面攻撃によって日本軍の主勢力を牽制し、日本軍が両翼に作戦をしかけるのを阻止すること。
 
<中央兵団正面の日本軍部隊>  五味川純平著『ノモンハン(上)』P242  
・バルシャガル高地北部の右翼隊 … 須美部隊 (7師団歩兵26連隊、6・20 23師団へ配属)  
                  一部その他 ※バルシャガル高地はソ連名「レミゾフ高地」 
・バルシャガル高地西部の左翼隊 … 小林部隊(小林歩兵団) は山県連隊 (歩64) と酒井連隊 
                 (歩72) とで構成していたが、20日ソ連軍の総攻撃開 
                     始を受けて、山県連隊長指揮下に歩兵3個大隊、迫 
                  撃砲、速射砲10門、工兵1個中隊を左翼隊として残 
                  し、酒井連隊ほかは20日日没後からホルステン河  
                   (上掲地図ソ連名 ハイラースティーン河) 工兵橋北  
                 方地区へ配置換えされた   

<北方兵団> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P60
 傘下部隊は、第82狙撃師団第601狙撃連隊、モンゴル人民革命軍第6騎兵師団、第7装甲旅団、第11戦車旅団のうち2個大隊、第82榴弾砲連隊、第87対戦車師団。
  任務は、「廃墟」より北東方向8kmの線に出発位置をとり、ノモンハン・ブルド・オボー北西6kmの無名の湖沼群の方向を攻撃し、第36自動車化狙撃師及び南方兵団と協力して、ハルハ河北方の日本軍を包囲、殲滅すること。 

<北方兵団正面の日本軍部隊>  五味川純平著『ノモンハン(上)』P242  
・フイ高地 … 井置支隊 (23師団捜索隊、7・10井置支隊編成) を主力とする混成部隊 
 
<歩兵支援砲兵隊> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P61
 ・南方兵団第57狙撃師団支援 …  第57砲兵連隊、第57榴弾砲連隊 
 ・中央兵団第36自動車化狙撃師団支援 … 第175砲兵連隊 
 ・中央兵団第82狙撃師団支援 … 第82砲兵連隊、第5狙撃機関銃旅団のうち砲兵大隊
 ・北方兵団歩兵支援 … 第82榴弾砲連隊
 任務は、前縁においては日本軍の火器を破壊圧倒する。攻撃ゾーンにおいては攻撃時の師団防御、攻撃時の歩兵と戦車の掩護砲撃。特に砲兵中隊は、歩兵の後に速やかにつき従って前進するよう、前もって命じられていた。 

<遠距離作戦砲兵隊> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P61 
・南方兵団 … 第185砲兵連隊第1大隊
・中央兵団 … 第185砲兵連隊第2大隊、第3大隊、第175砲兵連隊のうち1個大隊、
        122ミリ遠距離砲兵中隊
  任務は、ホルステン河 (ソ連名 ハイラー・スティーン河) 北岸地区、南岸地区の日本軍砲兵隊を圧倒する。ノモンハン・ブルド・オボー地区とホルステン河南東7kmの砂地にある日本予備軍を圧倒し、さらに、将軍廟地区及びノモンハン・ブルド・オボー地区からの日本備軍の接近を抑える。

 
<8・20払暁  ソ・モ軍総攻撃布陣整う> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P55  
 
 ソ・モ軍(ソ連・モンゴル軍)は1939年8月18日までに、ハルハ河東岸から3km~5km東進したあたりに、モンゴル第8騎兵師団、ソ連第82狙撃師団 (1個連隊を除く) 、ソ連第5狙撃・機関銃旅団、ソ連第36自動車化狙撃師団を配置した。
 
 ソ・モ軍のほかの部隊は、8月19日夜、すなわち総攻撃の開始一昼夜前に、ハルハ河西岸から東岸へ渡河を開始した。8月20日払暁には、第6戦車旅団を除く全部隊がハルハ河東岸に布陣を終えた。
 
 ソ・モ軍司令部は決定的攻撃作戦のために、歩兵35個大隊、騎兵20個中隊、機関銃2255挺、軽砲・重砲合わせて216門、対戦車砲と大隊規模の砲286門、迫撃砲40、戦車498、装甲車346を集結させた。
 

ソ・モ軍と日本軍の兵力格差大> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P57 
 ソ・モ軍の歩兵は日本軍に対して1・5倍、機関銃は1・7倍、砲の数はほとんど2倍、戦車は4倍。日本軍は8月作戦では戦車を用いなかったので、戦車・装甲車については絶対的優勢があった。とりわけ火炎放射戦車は食糧、衣料、人、兵器、弾薬を一気に焼き尽くす効果が甚大であった。

 勝てるわけがないこんな戦争を、勝てるつもりで始めた関東軍植田謙吉司令官、関東軍服部卓四郎作戦主任参謀、同辻正信作戦参謀、荻洲立兵第六軍司令官、小松原道太郎第23師団長らが、一人一人の苦楽哀歓が詰まった人間生命を使い倒した果ての戦死戦傷。その数をノモンハン戦争後の第6軍軍医部が公表している。 

 戦死者数は7696人、戦傷者数は8647人。大方が二十歳代の青年。生き残るため人を殺した末に、運拙く自らも殺されて戦地に斃れた青年は、時空を超えて家族のもとへ還ったでしょうか。母のもとへ還ったでしょうか。戦死公報で帰郷した子の親はいつまでも子を思って、悲しみ慈しむのでありましょう。 


<8・20ソ・モ軍総攻撃の戦術> シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P90、91 
 ハルハ河における日・満軍の防衛陣地は、戦術的に好都合な高地や小丘を利用した
抵抗結節点と拠点システムに沿って構築されていた。
 
 ソ連側の戦闘経験によれば、そのような防御システムを打破する効果的な方法は、それら拠点と拠点との中間を撃つことである。
 
 ソ連軍は抵抗拠点と拠点の割れ目に進攻し、
 日本軍拠点相互の共同作戦を打ち砕き、 
 日本軍の全防衛陣地を相互に連絡のとれないばらばらな地域に分断したうえで、
 個々に包囲封鎖し、
 そして日本軍の抵抗拠点を一つ一つ潰していった。
 

 1939/8/20快晴 ソ連軍総攻撃始まる 破竹の勢い】 
   アルヴィン・D・クックス著『ノモンハン③ 第23師団の壊滅』P.9
05:45 ・ ソ連軍砲兵部隊が自軍航空部隊の襲撃目標表示のために発煙弾打ち上げ
     ・ 航空支援砲撃 … 日本軍の対空火器と機関銃陣地に連続砲撃
     ・ 9機1編隊、150機以上の爆撃機と護衛戦闘機数百機が日本軍散兵線、高射砲
       や火砲の放列、後方予備部隊も至るまで猛爆を加えた。これはソ連航空軍の歴 
       史上初の戦爆連合攻撃だった。 
08:15 ・ ソ連軍全砲兵部隊が、あらゆる口径の砲を技術的極限まで駆使して、陸上部隊
       出撃準備集中砲撃を開始した。 
08:30 ・ ソ連航空隊第2波空爆で、日本軍陣地を痛打。
08:45 ・ ソ連軍、15分後に総攻撃開始する旨の暗号電文で命令下達
09:00 ・  野砲による熾烈な掩護砲撃のもと、歩兵と装甲部隊が攻撃開始。

 戦爆連合空軍の大規模空襲と全砲種の全力準備砲撃によって、8月20日ソ・モ軍の総攻撃開始までに、日本軍砲兵部隊の通信、観測所、火砲の放列が大打撃を受けた。高射砲部隊も位置を露呈して沈黙させられた。火の手が上がっていないところはなかった。日本軍砲兵部隊は、ソ・モ総攻撃が始まってもすぐに応射できなかった。 
  

8・20  ソ・モ軍南方兵団 アルヴィン・D・クックス著『ノモンハン③ 第23師団の壊滅』P.10、11
     ・ 8・20戦闘では、南方兵団が最大の成果を上げた。モンゴル騎兵第8師団が満
     洲国軍 (以後「満軍」と称する) の騎兵部隊を殲滅して、モンゴルの主張する国  
     境線 (※上掲地図のオレンジ色線) に進出した。

     ・ ノロ高地の南と南東からソ連57狙撃師団、293連隊、127連隊が前進。127
     連隊は東北へ向かい757高地方向に進出した。293連隊は日本軍防衛陣地
     への前進を強行し、主要拠点の前衛を制圧しようとしたが失敗した。

     ・ ソ連127連隊の右翼では、80連隊が「大砂丘」と呼ぶ780高地から791高地に 
     至る高地帯に向かって進撃し、午後7時にはその先端にとりついた。

     ・ ソ連第8装甲旅団は20日夜、進撃困難な砂丘を突破し、ノモンハン西南3~4 
     kmの地域に進出した。偵察部隊は東南方面でモンゴルが主張する国境線 (上  
      掲 地図のオレンジ色線) に到達した。

     ・ ソ連第57狙撃師団、127連隊、第8装甲旅団は、8月20日に最も近い日本軍目 
       標まで約12km前進した。

8・20  ソ・モ軍中央兵団 アルヴィン・D・クックス著『ノモンハン③ 第23師団の壊滅』P.10、11
     ・ ソ連82狙撃師団はホルステン河 (ソ連側呼称 上掲地図ハイラースティーン河) 
     岸のノロ高地側に進出した。

     ・ ソ連602連隊は、西側のクイ高地方面から742高地に向けて攻撃した。

     ・ ソ連603連隊は南方兵団ソ連57狙撃師団の左翼に隣接して展開し、西南方向か
     ら754高地に向けて攻撃した。

     ・ ソ連82狙撃師団 (601狙撃連隊を除く) は奮戦したが、602連隊、603連隊とも
     に、日本軍の強い抵抗に遭い、夜半までに500~1500m前進できたにすぎ
     ず、752高地、754高地ともに制圧できなかった。 

8・20  ソ・モ軍北方兵団 シーシキン他著『ノモンハンの戦い』P.67
     ・ 北方兵団は猛烈な襲撃によって、満洲国軍バルガ騎兵隊2個連隊をソ連・モン
     ゴルが主張する国境線の向こうに撃退し、日本軍の前哨線を占拠し、ただちに
     フイ高地地区に敷かれていた日本軍の強力な抵抗拠点に接近した。
     ・ しかしフイ高地の日本軍はすさまじい抵抗を示し、ソ連・モンゴル軍北方兵団
     諸隊のあらゆる攻撃を跳ね返した。



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ノモンハン生還衛生伍長(3) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
  

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ノモンハン生還衛生伍長(3) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった

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〇 旭川第7師団歩兵第26連隊 (1939・6・20  第23師団へ配属)
  連隊長    大佐  須見新一郎
 
 〇 第1大隊   (1939・8・1  第23師団長直轄へ配属 )
  大隊長    少佐  生田準三  着任 7・13   戦死 8・29    
   副官    少尉  渡部一雄  戦死 8・20
    付    軍医中尉  中村芳正
   第1中隊長 中尉  青木 香  転出 6・27
    〃    中尉  坂本竹雄  戦死 7・3
    〃(代) 准尉  能登与八郎
    〃(代) 少尉  野坂鉄男
    小隊長  少尉  前田正義  戦傷 7・3
     〃   中尉  牧野義勝  戦傷 7・3
     〃   准尉  井上喜一  戦傷 7・3
   第2中隊長 中尉  相田重松  戦死 7・4
    〃    中尉  中森光長  戦傷 8・25
    小隊長  少尉  古川一男  戦傷 7・5
     〃   少尉  岩崎咲雄  戦死 7・3
     〃   准尉  藤井亀次
   第3中隊長 中尉  鶴見筆上  着任8・1   戦死 8・20 
    〃    中尉  平野義雄
    小隊長  少尉  安達吉治  戦傷 7・3
     〃   少尉  古川義英
     〃   准尉  伊良原義晴
   第1機関銃中隊長 中尉 近藤幸治郎 転出 7・3
    〃(代) 少尉  秋野英二  転出 8・1
    〃    中尉  小林司郎  戦死 8・25
   連隊砲小隊長 中尉 長尾雄次

   歩兵第25連隊連隊砲中隊(8・5出動 歩兵第26連隊第1大隊に配属 ) 
   連隊砲中隊長 中尉 海辺政次郎  戦死8・29
      小隊長 少尉 沢田八衛   戦傷8・20  
       〃  少尉 山田四郎   戦傷8・25
     通信隊長 少尉 片岡義市

   *ソ連軍包囲下の死守陣地消耗戦闘で隊長・隊長代理もめまぐるしく替わっています。上
    掲表は将校だけですが、この表から、戦争がいかに多くの招集兵を死なせ、い かに多く
    の健常招集兵に身体障害者として生きる人生を強いるものか、お察しください。

 上の表は、アルヴィン・D・クックス著  朝日文庫1994.7.1.第1刷発行『ノモンハン④  教訓は生きなかった』P355, 356 記載の第26連隊第1大隊のノモンハン戦争従軍将校名簿です。生死未確認の者は「戦死」の分類に入っています。 


1939年
6月  ・小野寺哲也(22才)、半年間の下士官候補者教育隊卒業
     ・ 〃 チチハル待機第7師団軍医部衛生隊所属伍長勤務
6・20  ・チチハル待機中の第7師団に出動命令 歩兵第28連隊は待機
            ・歩兵第26連隊に第23師団配属命令、即日出動
7月  ・チチハルで、26連隊がソ連軍との対戦車戦で全滅したと噂が流れた
7・3  ・歩兵第26連隊第1大隊長安達千賀雄少佐、川又攻撃中に戦死 衛生兵も
      戦死、第1大隊兵員半減して731高地に退却
      ※川又 …… ハルハ河にホルステン河が流入する合流点、ソ連軍渡河施設がある
7・13  ・生田準三少佐が歩兵第26連隊第1大隊長に着任
7・20  ・歩兵第26連隊衛生兵欠員補充のため、小野寺伍長に26連隊配属命令
8・1  ・小野寺伍長、7月戦闘の痛手を補充中だったノロ高地の歩兵第26連隊
(須見
     部隊)本部に出頭。第1大隊本部付に配属。

8・5  ・第1大隊、本隊の歩兵26連隊指揮下から第23師団長直轄へ配属
    ・第1大隊、日の丸高地(ホルステン河北側=右岸)に向けて展開命令
    ・当日現在の第1大隊(生田大隊)兵力は第1、第2、第3中隊、連隊砲小
     隊、第1機関銃中隊、歩兵26連隊連隊砲中隊

8・7~8・20 鶴見第3中隊壊滅までは、9月14日付け記事「ノモンハン生還衛生伍長
(1) 」、8・20~8・25の生田第1大隊の状況は、9月18日付け記事「ノモンハン生還衛生伍長(2) 」  をご覧ください。 

  
8・25  ・この日から、敵戦車は榴散弾を使い始めた。この砲弾1発は、地上から10
     メートルくらいの高さで炸裂、10メートル四方くらいの面積に直径1セン
     チくらいの弾丸の雨を降らす。これは兵員の被害が大きく広がる。榴弾砲
     がこの方式だし、現代のクラスター爆弾がこの方式です。

    ・生田大隊の戦場出動時戦闘要員は約850名だったが、この日の戦闘可能人
     員は約120名に減っている。

    ・小野寺伍長は故郷北海道厚岸の鴨撃ちの光景を思い出した。猟師が散弾銃
     で鴨を撃つ。戦車砲の榴散弾はそれの大規模なもので、小野寺たちは水も
     食糧も戦車に対抗できる武器もない鴨だった。戦車砲や機銃掃射から逃れ
     るために走った。小野寺はもはや、死ぬことを恐れてはいなかった。衛生
     兵として多くの負傷者を見てきた彼は、負傷だけはしたくなかった。

8・28  ・生田大隊長は未明に、残兵を率いて731高地前面の敵陣へ肉弾夜襲を決行
     しようとしたができなかった。生き残り兵は手分けして負傷者の世話をし
     たり、わずかに水の出る柳の 根もとを掘りに出向いた。夜もない昼もない
        忙しい陣中生活のうちに夜が明けて、対戦車戦がまた始まった。

    ・大隊本部の鳴瀬・外山上等兵が大隊長の身をかばって戦車群の先頭車を擱
     座させたが、他戦車の機銃弾を浴びて二人とも戦死した。この後に敵の一
     部が陣地内に入ってきて、戦闘中に生田大隊長は大腿部に重傷を負った。

    ・大隊には戦う手立てが残っていない。夜襲しかなかった。生田大隊長の傷
     は重かったが、聯隊砲の海辺中尉と近藤曹長に介添えされて指揮をとるこ
     とになった。大隊の生き残り将校は、大隊長を含めて3名のみ。使える重
     火器は、10分しかもたない弾薬残量の重機1挺、擲弾筒1筒のみ。彼我の
     距離は50メートル。重機が射撃を始め、擲弾筒が榴弾と手榴弾を撃った。
     敵側から沸き立つような激しい応射が始まった。

    ・先頭に立つ海辺中尉の「突っ込めぇ」という叫び声で、死に物狂いの突撃
     が始まった。激しい混戦の後に敵が後退した。夜襲兵は敵の遺棄死体など
     から水筒や食料を奪い陣地に戻り、喉と腹を癒した。この夜、大隊兵は3
     度突撃をくり返し夜襲を終えて、陣地に落ち着いた。敵の包囲網は後退し
     たが、海辺中尉が戦死。生田大隊長は生きて陣地にもどった。この日、
     100名ほどの大隊残兵が60名に減った。

      ※歩兵第25連隊連隊砲中隊長 海辺政次郎中尉
       この連隊砲中隊は 8・5出動、 歩兵第26連隊第1大隊(生田大隊)に配属された。

8・29  ・午前1時、山県支隊(23師団歩兵64連隊)から伝令着。撤退命令を伝えた。
      ※生田大隊の原隊は旭川第7師団歩兵第26連隊(連隊長・須美新一郎大佐)。
       1939・6・20  第23師団へ配属。 同年8・1 小松原第23師団長直轄へ。 

    ・御田重宝著『ノモンハン戦壊滅篇』P164には、「29日午前2時、山県連隊
     長は独断で撤退命令を下した」とある。

    ・五味川純平『ノモンハン下』P182には、
      「山県大佐は野砲兵第13連隊長伊勢大佐と相談して、師団主力に合流する
     ためノモンハンに向って後退する決心をした」
      「8月29日午前2時、撤退命令を下達した」
      「撤退開始は8月29日午前3時であった」 ──とあります。

8・29   ・生田大隊は現在地731高地から4km南の山県支隊に合流することにな
     り、砂に埋めるゆとりのなかった遺体を浅く砂で覆って出発した。重傷者
     は体力の残っている者が交代で背負った。大隊の傷病者は全部で120名余
     り。

    ・山県部隊陣地には1000名ほどの兵員がいたが、半数は負傷兵だった。生田
     大隊を収容した山県部隊は闇の中を、ただちに満洲国領内の「将軍廟」目
     指して出発した。

    ・五味川純平著『ノモンハン下』P182には、行動を共にした部隊は、山県部
     隊(歩兵64連隊)本部、同第2大隊、同第9中隊、生田部隊(歩兵26連隊生田第1大
     隊の生き残り)、伊勢部隊(野砲兵13連隊)本部、同第2大隊(第4中隊欠)、同第8
     中隊、工兵2個小隊と記されている。この撤退行軍の中には、山県、伊勢両
     連隊長もいた。

8・29  ・ホルステン河からハルハ河にさしかかるあたりで、まだ昼にならないうち
     だったが、山県退却部隊はソ連軍戦車約50台の攻撃を受けた。戦車50台に
     対峙できるはずもなく、山県退却部隊は蹂躙されつくした。抵抗する兵士
     たちは刻々に死に絶えた。砂上に置き去りになった重傷者は戦車のキャタ
     ピラで轢きつぶされた。戦車隊は日が暮れるまでその場所を離れず、徹底
     的に日本兵を掃討した。「山県、伊勢部隊の末路は悲惨であった」と『ノ
     モンハン戦壊滅篇』P165が記している。、

    ・『ノモンハン下』P184
     「山県(歩64)、伊勢(野砲13)両連隊長、歩兵連隊副官、同連隊旗手代理、命
     令受領の工兵軍曹、兵1名とともに新工兵橋に近い元日本軍の野砲陣地
     の掩体壕内孤立し、敵歩・戦の包囲攻撃を受けた」

    ・『ノモンハン下』P185 連隊長自決
    「軍旗は焼かれ、両連隊長は自決した。8月29日午後4時半ごろであったら
      しい。他の2名の将校もこれに殉じた。下士官と兵は脱出して、両連隊長
      の自決を報告したという」

8・29午後~日暮れ
    ・夜になるまで身をひそめることができた者だけが、生き残った。小野寺伍
     長は数々のノモンハン戦闘を生き抜いてきたが、これほど無惨な犠牲を生
     んだ戦闘を見たことが無いと戦後に語った。

    ・小野寺伍長はたこつぼを見つけて、夜が来るまで一人そこにもぐってい
     た。少しでも頭を出せば執拗に銃撃される。しらみつぶしに掃討されてゆ
     く時間のなんと長いことだったか。耳には断続して聞こえる銃声砲声。近
     くを駆け回る戦車のキャタピラの音が遠のいたり近づいたりする不気味
     さ。ほかの人のことはまったくわからずに、無抵抗で身ひとつ隠れている
     つらさ。


8・29夜  戦場離脱
    ・日暮れまで身をひそめていた者たちが這い出して「将軍廟」への引き揚
      げを開始することになった。集合した人員は、歩行可能な負傷者を含め
      て300名ほどに激減した。うち生田大隊生き残りは8月5日戦場出動時
      850名のう36名だった。生田大隊長はいなかった。


 2015年8月9日、生田大隊長の子息まこと氏が731高地ほかの戦跡を訪れ、次のように語っています。(十勝毎日新聞2010年8月)

生田まこと氏 父の最後の場所は,旧工兵橋付近と思います。戦死公報では731高地となっています。遺体は停戦後発掘され、血染めの軍靴(皮の将校長靴)が遺骨とともに戻ってきました。


   ※「ノモンハン生還衛生伍長(4終)」は小野寺伍長の北海道帰国後の兵役を
      伝えます。出典は、伊藤桂一著『静かなノモンハン』です。



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