川本ちょっとメモ

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<ノモンハン捕虜帰還兵> 壊滅陣地 → チタ捕虜収容所 → 陸軍病院 → ソ満国境へ転属 → 兵役満期除隊 → 軍属徴用で奉天へ

2023-09-04 15:24:10 | Weblog




〇 歩兵第71連隊第1大隊第1機関銃中隊
  中隊長  中尉  光本岩登   戦傷 7・24
   〃(代)尉  館上侃一   戦傷 8・31
  小隊長  少尉  筒井福晴   戦死 8・30
   〃   中尉  三輪良市   戦死 8・28
   〃   准尉  新谷繁雄   戦死 7・03

 上の表は、アルヴィン・D・クックス著  朝日文庫1994.7.1.第1刷発行『ノモンハン④  教訓は生きなかった』P345記載のノモンハン戦争従軍将校名簿です。生死未確認の者は「戦死」の分類に入っています。 


 前回 8月22日付記事に書いたように、ノモンハン戦争の翌年春、1940年(昭和15年) 4月27日、ソ連のチタ収容所から日本軍捕虜77人と満洲国軍39人が釈放されて、日本側に引き渡されました。

 このときの釈放捕虜の中に、中山仁志上等兵(当時22才、歩兵第71連隊第1大隊第1機関銃中隊)がいました。この人のくわしい証言が『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇』(御田重宝著  徳間文庫1989年12月15日初刷)に掲載されています。


 中山仁志上等兵 (当時22才) は1939年 (昭和14年) 8月27日に重傷を負いました。中山上等兵の班長だった川崎英男伍長がそのときの状況を日記に書いていました。


 〈川崎英男伍長の日記から〉
  (※8月27日)午後2時、敵戦車約10台に包囲された。身辺に炸裂する砲弾に
  今度こそ、今度こそと幾度目をつむったかわからない。

   この戦闘で森田部隊(※歩兵第71連隊のこと)も相当やられた。機関銃中隊
  でもほとんど全滅かと思われるほどで、ことに指揮班は錯上1等兵戦死、中山
  上等兵重傷 …… 。 [引用終]   
  (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇  P237』引用)


 中山上等兵は意識不明であり、軍医は見込みがないと判断していました。陣地の残存兵は、戦車に包囲されて壊滅した陣地から脱出して、集結命令の目的地、23師団戦闘指令所めざして歩きました。川崎伍長は小銃と天幕で担架代用品を作って同僚と2人で中山上等兵を引っ張って歩きました。しかし8月30日、川崎伍長も負傷。中山を連れて移動はできなくなりました。
 (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇  P238』依拠)


 8月30日午後6時、23師団戦闘指令所一帯にソ連軍戦車と狙撃兵が来襲しました。狙撃と投げ込まれた手榴弾による犠牲が多数出ました。そのとき、師団参謀長岡本大佐も手榴弾で右ひざをつぶされました。すぐさま土盛りの手術台を作りカムフラージュテントの下で、師団軍医部長村上大佐が執刀して局所麻酔だけの右膝切断手術が行われました。


 23師団諸隊の陣地はどこでもソ連軍に包囲されており、このような近接戦闘をくり返して、陣地は次々と戦車に蹂躙されていきました。特に火炎放射戦車の接近攻撃を受けた陣地は、短時間のうちに抵抗力を失いました。


 陣地から退去できなかった負傷兵は中山上等兵のように殺されなかった者もいれば、銃剣突撃で飛び込んできたソ連兵につき殺された者もいました。また、火炎放射で焼かれた者もいれば、戦車のキャタピラでつぶされた者もいました。


 幾千という将兵が曠野に斃れて残されたままでした。伝令に出て帰らなかった将兵は同じ曠野のどこかで人知れず一人二人だけで斃れたのでしょう。


 このように破滅的な逆境の戦場に重傷兵を残して第23師団本隊はノモンハンめざして撤退してゆきました。ただ小松原師団長は片足切断したばかりの岡本参謀長を連れ帰るよう部下に指示していました。それに比して師団戦闘指揮所に集められていた残置重傷兵には捕虜にならぬよう自殺用手榴弾が置かれました。


 敵軍包囲環の中で分断されたままの諸隊残兵もそれぞれに23師団本隊を探しつつ追随してノモンハンを目ざしました。

 (ここまでは朝日文庫  アルヴィン・D・クックス著  1994.6.1.第1刷発行 
  『ノモンハン ③  第23師団の壊滅  第26章 第23師団の壊滅』 に依拠 



 さて、23師団本隊が退去するのと入れ替わりに、ソ連兵が重傷兵くぼ地に進入してきました。手榴弾を次々に投擲して日本兵の抵抗がないことを確認してから、くぼ地の内や外周近くに斃れている日本兵を蹴飛ばして生死を確認していました。


 こうして中山仁志上等兵はほかの負傷兵といっしょに捕虜になりました。トラックに乗せられてあちこちモンゴル領内を移動している間に銃殺されるに違いないと思い、銃殺されるのを待っていたそうです。


 捕虜になることはとんでもない不名誉なことで、軍に戻っても故郷に帰ってもどのような扱いが待っているかわかりません。中山上等兵にはそれがわかっているので、死ぬことばかり頭にあったと言います。


 しかし銃殺はなかった。モンゴル領をトラックで移動し、シベリア鉄道のどこかで200人か300人かの捕虜といっしょに鉄道に乗せられてソ連領のどこかの収容所に送られた。その次に、チタの収容所へ移送されました。



 〈中山仁志上等兵の証言──チタの捕虜収容所〉
   乗せられた列車がシベリア鉄道だったことは確信があります。停車場には
  止まらないで白樺の林の中で止まったりしながら何日も走りつづけました。
  そしてチタについたのです。

   チタにはソ連の政治犯を一カ所に集めた町がありましたね。刑務所の町で
  す。そこの赤レンガの大きな2階造りの建物に私たちは入れられたのですが、
  監視つきですし、お互いに話す機会はなかったですね。何人いて、どうし
  ていたのか不明です。

   紀元2600年
(※1940年=昭和15年)を記念して全員が集まったことがありま
  したが、その時、数百人はゆうにいましたね。航空大佐がいちばん上で、少佐
  が一人いました。尉官は相当数いたように思います。
   (注)少佐は、前回2023-08-20記事に書いた飛行第1戦隊長原田文男少佐です。中山  
    上等兵と原田少佐は同じチタの収容所にいたのでした  

   集会の部屋に入るともう隣は何をする人ぞ、で全くわかりません。しかし、
  私たちの入っていたような収容所がほかにもあったことは事実ですから、捕虜
  の総人員は相当数にのぼると思います。百や二百ではききませんよ。

   捕虜になったのは重傷で動けぬままにつかまったのがほとんどですが、道に
  迷って20日間ほど戦場をさまよった果てに捕虜になったものがいました。

   共通していることは、捕虜同士はしゃべらないということで、お互いに捕虜
  になったことを内心では非常な不名誉と考えていたのです。私だって、終戦に
  なって、やっと幾分気が楽になったほどですから戦争中は全くいやでしたね。
  [引用終] 
   (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇  P243』引用)
 

 中山上等兵が原田少佐や大徳中尉と同じチタ捕虜収容所にいて、同じ1940年(昭和15年) 4月27日に日本側代表(第6軍参謀長藤本鉄熊少将 )に引き渡されました。



 『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇』P245に、中山上等兵の証言があります。

 〈中山仁志上等兵の証言──チタの捕虜収容所〉
  「捕虜交換で満洲里についたことは記憶にありますが日時は不明です。覚え
   ていません」
  (著者注記:昭和15年4月27日の捕虜交換と思われる。場所は満洲里駅前だった。)
  「捕虜交換用の幕舎があったことだけは記憶に残っています」
  「藤本鉄熊少将が委員長でした」 [引用終]     


 上の著者注記のうち「場所は満洲里駅前だった」というだけでは、日ソ捕虜交換が満洲国領土内で行われたという認識まちがいを生みます。

 満洲里はソ連・モンゴル・満洲の三国国境結節点至近の町であり、満洲里駅はシベリア鉄道につながっている国境の駅です。「ソ連軍による日本軍捕虜解放の場所が満洲里駅前だ」と注釈なしに聞けば、日本人なら単純に満洲領内の満洲里駅と思いこむことでしょう。

 しかし優勢に戦争を終わらせたソ連軍が、数多の友軍将兵の命と引き換えに捕獲した日本軍捕虜を解放するのです。そうした事情から、おまえんとこの捕虜を返してやる …… ありがたく思って取りに来い、という形になるのは仕方ありません。劣勢の日本側が辞を低くして、ソ連領土内で日本軍捕虜を受け取るのがあたりまえの形だろうと思います。



 『ノモンハン戦④ 』P114では以下のように記述しています。
    (注)上記の一、二、①、②、はkawamotoが付しました。            


一、 [『ノモンハン④』P114引用]     午後1時、国境のソ連側の駅前広場で、第六軍参謀長藤本鉄熊少将と幕僚はトラックを待たせたまま、ソ連軍代表と握手し、日本軍捕虜77人(停戦後抑留された加藤大尉らを含む)と満軍39人を一人ずつ確認しながら受け取った。その際、日ソ合意に基づきソ連軍捕虜2人が引き渡された。[引用終]  

   ノモンハン戦争で日本軍を叩きつぶしたソ連軍は、優勢な立場で日本に応対できる
  立場にあります。戦場はモンゴル領内でした。幾千の将兵が曠野に斃れたままです。
  停戦後に、日本軍はソ連軍・モンゴル軍の監視下で戦死遺体の収容作業を実施しまし
  た。そして1940.4.27、ソ連側は捕虜116人を解放し、日本側は捕虜2人を解放した
  のです。

   こうした事情を知るならば、ソ連側がソ連領内の駅前広場で日本軍捕虜を解放した
  ことは外交常識に合っています。ソ連が満洲国領内に来て日本軍捕虜を解放すること
  は、なかなか考えづらいことです。

   満洲里駅はシベリア鉄道につながっていますから、上記一の「国境のソ連側の駅前
  広場」ということであれば、満洲里駅にはソ連・領内駅前広場があるのかもしれませ
  ん。


二、 [同じく『ノモンハン④』P114引用]  
 ① 引き渡された捕虜を運ぶ日本軍のトラックは、満洲里を迂回して市外の駅に向
  かった。
 ② その途中、歩兵が訓練をしているのが見えたが、その指揮官は部下に対して、
  視線を落とし、みすぼらしい捕虜を見ないよう命令した。[引用終]  

   上の①と②共に、陸軍がノモンハン戦争の実態をできる限り隠そうとしていること
  がわかります。そのために、ノモンハン戦争従軍将兵を国民からできる限り隔離して
  おきたいという政府・軍の方針が露わになっています。



 ソ連から引き取った捕虜を護送するトラックは、満洲里を迂回して市外の駅に向かい(※駅名はわかりません)、その駅で捕虜専用列車に乗り換え、吉林にある新站陸軍病院分院に護送されました。これは『ノモンハン④』P114~P116に詳しく書かれています。

 一方、『ノモンハン戦 壊滅篇』P245で、中山仁志上等兵はトラックを降りて「列車に乗せられ新京まで行ったんですが」、「新京陸軍病院の分院があって、そこで私たちは藤本少将の取り調べ受けたと思うんですが」と証言しています。

『ノモンハン④』では、捕虜は新站陸軍病院分院に収容されたとなっています。「站」という字には中国語で「駅」という意味があります。そうなれば、新駅陸軍病院分院ということで、どうもしっくりしません。

 したがって、ここでは吉林にある新京陸軍病院分院としておきます。

 これを整理すると、帰還捕虜護送列車は満洲里市外の駅から出発し、新京駅を通って吉林駅で捕虜をトラックに乗せ換えて陸軍病院分院に到着したことになります。負傷兵は歩くことは困難でありましょうし、軍は捕虜の姿を市中に見せたくありません。捕虜は、吉林駅から病院までトラックで運ばれたと考えます。



 〈中山仁志上等兵の証言──取り調べ、監視〉

   陸軍病院で私たちは藤本少将(関東軍第6軍参謀長)の調べを受けたと思
  うんですが、「陛下の特別のお言葉でお前たちは罰しない。しかし本当のこ
  とは言え」ということで、まず捕まった状況の説明から取り調べを受けまし
  た。

   判決は、「勲功ゼロ。重謹慎20日間。ただ降等をせず、軍隊手帳にも記入
  しない」とのことでした。それから20日間分院で謹慎していたのですが、毎
  日軍人勅諭を言って座禅を組むだけでした。作業なんか一切無しです。です
  が、ここは一種の地獄で自殺者がかなりありました。将校は全員自殺したの
  ではないでしょうか。原隊から面会に来てピストルを置いて帰るのです。

   新京陸軍病院の分院では、憲兵が衛生兵に化けて私たちを監視し、ささや
  きに注意していました。

   将校が自殺を強いられたことは前にも申しましたが、死ぬと分院内がどう
  しても騒々しくなりますから、「またやったな」とわかります。曹長以下は
  助かったのですが、いかに将校とは言え、投降したわけではないんですから、
  自殺を強要するなんて、ひどい陸軍だと思いましたね。 [引用終]   
  (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇  P245』引用)



 〈中山仁志上等兵の証言──退院 → ソ満国境へ転属〉

   20日間の謹慎が済むと関東軍憲兵司令官が精神教育をやります。
  「捕虜になったことは秘密にせよ。親兄弟にも内証にせよ。捕虜になったも
  の同士の文通もダメ。道で出会ってもあいさつもするな。それに違反すれば
  軍機保護法で処罰する」という内容のものでした。

   新京の分院を退院して、私は関東軍の浜田隊と言っていたソ満 (ソ連・満
  洲) 国境の陣地構築舞部隊に入れられました。捕虜だった兵隊は私一人です。
  二人一緒ということは絶対になく、全員バラバラにして各隊に配属されたの
  です。浜田隊は牡丹江から北に入った、石炭層のある鶴崗かくこうという山の
  中にありました。

   軍属でもなし、警備隊でもなし、といった、妙な立場に置かれました。部
  隊長は少将か中将でしたが、
   「お前は何もせんでもよろしい。満期までここでやれ」
  と言われました。部隊の任務はソ満国境のトーチカを構築する秘密部隊です
  から私たちのような身分の兵隊にはもってこいの隠れ家だったわけです。

   日記などの記録を一切つけなくなったのは捕虜になってからで、できるだ
  け忘れたい気持ちでいっぱいでした。全くいやな毎日でした。

   そこで現地満期になりました。大東亜戦争の始まるちょっと前だったと思
  います。 [引用終]     
  (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇  P247』引用)



 〈中山仁志上等兵の証言──兵役満期除隊後まもなく軍属徴用 → 奉天へ〉

  (ソ満国境で兵役満期になってからほどなく)軍属の徴用令が来て、奉天
 (※満洲国、現在は中国瀋陽市)にあった南満洲兵器補給廠879舞台に入りました。
  すると部隊長が私だけを呼び、
  「君の前歴は知っている。ひがまないようにしっかりやってくれ」
   と言うのです。どこまでいったも前歴がついて回っていましたね。

   879部隊で終戦を迎え、昭和21年7月に舞鶴に上陸したのですが、終戦で
  少しは気が楽になったというものの今もって古傷にさわられるのはイヤなん
  です。教育とは不思議なものですね。

   今でもソ連に残っている捕虜がいることを私は信じます。収容所にいる時
  に、何人かは部屋に戻って来なかったですからね。その人たちはソ連に居残
  った人たちのはずですから。 [引用終]      
 (ここまで、徳間文庫  御田重宝 著『人間の記録  ノモンハン戦  壊滅篇』P248 引用) 

 ノモンハン戦争従軍将兵に対しては「口封じ」人事が行われました。

※登場人物の証言はもちろん、1945年無条件降伏後に相当の年数を経過したあとのものです。そうなのですが、ブログ文中では昭和戦前の従軍当時の位階で呼んでおります。ご了解よろしくお願い致します。



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