民話と仏教の違い *
私、
「日名子さん、民話に出てくる甲弁護士と息子は幸せだったと思いますか。
それに乙弁護士は甲弁護士の策略に見事にはまって不幸になりましたが、
それについてはどう思いますか。」
日名子さん、
「もちろん、甲弁護士はとても頭が良くて、財産の誘惑にも負けず見通しが
当たって幸せだったと思います。
一方、乙弁護士は甲にはめられて息子をダメにし、不幸に陥ったと思いま
すが、先生はどう思われます ? 」
私
「この民話は財産があるから幸福ではなく、逆に財産があったから不幸に
なった。例をあげて幸福はカネではないことを教えています。
日名子さんのご指摘どおり、甲弁護士は頭が良くて、息子が遺産を相続し
て堕落するかもしれない危惧を未然に防ぎました。
しかも自分のライバルの息子を相続人にして、結果的に乙を失敗させたの
ですから勝利したと言えるでしょう。
しかしこれは世間一般の見方で、
十年後、二十年後に甲と乙がどうなっているかはダレにも分かりません。
乙の息子が落ちるところまで落ちて人生の辛酸をなめ、それを契機に信仰
に目覚めて人間的に大成長し、父親を喜ばすということもありうることです。
反対に甲の息子はとんとん拍子で、たいした苦労もなく成功路線に乗り
ましたが、人生にはどんな落とし穴があるか分かりません。
本来は自分が、乙弁護士の息子がたどった人生を送る運命を持っていた
かもしれないのに、父親の機転でその難を免れたのです。
でも父親がいなくなった後とかに、
大きな試練に出会うと、鍛えていないだけにもろくて、あつけなく自分を破
滅に追いやることも考えられます。
仏法の因果の法で見ますと、甲弁護士は自分を信頼して遺言状を預けた
依頼人を裏切り、法律上はともかく、道義上大きな罪を犯したことになりま
す。
ナゼ甲はそんな行為をしたのか、それはどんな手段を使ってでも乙に勝ち
たいという勝他の念(因)、つまり修羅界の命が現れたのです。
修羅界の特徴は、いつたんは勝ったように見えても、最後は自分より強い
者が現れて、それにやっつけられる(果)のが果報として決まっています。
法律や、道義上の責めは逃れても、因果の法則を免れることは出来ませ
ん。これが生命の因果律です。
つづく