普通な生活 普通な人々

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人生不可解!?

2012-05-01 14:22:26 | 普通な人々<的>な
 「人生不可解」。この言葉をふと思い出してしまった。

 この言葉は明治36年5月22日、日光の華厳の滝に身を投げて16歳の命を絶った第一高等学校生(現在の東京大学)・藤村操の「厳頭之感」と題された辞世の言葉にある文言。

 若い頃にこの言葉を知り、若さゆえの自分自身の人生への不見識を嘆きつつも、なにをどうしてよいのかわからぬままに、予測も不可能な先行き、人生の不条理を嘆いてみたこともあった。
 ただ、今だから言えることは、これは当たり前のことであるということ。

 なにも哲学的命題にする必要などまったくない。この言葉自体がすでに「結論」だということである。ただし、自殺しなければならない「結論」ではない。

 それでも若い頃に知ったこの言葉のインパクトは相当だった。
 藤村が自死した後、後追いで180人以上の人々が華厳の滝に身を躍らせたという事実を、当時、何気に理解できた気になっていた。

 だが今となっては「不可解」というなら、「人生不可解」なのではなく「自分の意識そのものが不可解」と言うべきだと分かっている。

 「人生」といってしまうと、自分を取り巻くあらゆる環境や人間関係もすべて含みこんでしまって、あたかも「不可解」な責任は、自分ではなく環境にあるなどと責任転嫁しそうな塩梅。

 実はそうではなく、一切の「不可解さ」の根源は自分自身にあると考える方が良さそうだと、この歳になって初めて気付く。

 「不可解」が「分からない」ということならば、別の言い方をすれば「希望」でもある。人生を「暗い混沌」と理解するか、「光さす道」と理解するかで大いに違う。

 なにか夢も希望もない未来図を今の日本は指し示しているようだが、「そんなの関係ねぇ」とばかりに「光の道」を求めることは、正しい選択だったと、きっと爺になったときに分かるのではないか。

 突然思い出した言葉「人生不可解」だが、全文は意外に知られていない。以下に掲げておく。

<巌頭之感>
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。

(原文の表記は、文の切りどころが異なるが、読みやすくするために変えている)
                


コメント
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