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東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その57>ホテル・ニュ―ジャパン

2019-09-04 02:03:51 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和57年2月8日未明、午前3時30分頃、地下鉄赤坂駅の正面に建つホテル・ニュージャパンから出火、およそ9時間燃え続け死者33名を出した。
出火原因は、宿泊客の酔った上での寝たばこ。赤坂の一等地にある当時有数の国際ホテルでもあったことから、死者の内13人が台湾国籍の中国人であり、11人が日本人、8人が韓国人だった。アメリカ人とイギリス人各1名も犠牲になった。

窓枠にしがみつく人、熱さに耐えかね飛び降りる人、そんな光景をテレビカメラが捉えていた。そして茶の間に流された。

このホテル火災が後々まで記憶されることになった理由の一つは、社長兼オーナーの横井英樹の傲岸不遜な態度が連日テレビで報道されていたからに他ならない。経費削減を理由に消防当局からの防火、安全・災害対策への指導を無視し、防災設備の稼働不備なども見て見ぬふりをしていたことなどが、次々と報道された。

なんにしても大惨事だった。

ボクが印刷会社系の出版部に勤めていた昭和50年頃、当時在籍していた雑誌「週刊時代」に、一世を風靡した「月光仮面」の原作者であり、当時人気の高かったテレビアニメ「日本昔し話」のプロデューサー的な存在であった川内康範先生が編集長としてこられた。

当時編集部は飯田橋と九段下の間にあったが、川内先生は編集部に顔を出されることはほとんどなく、定宿にされていたホテル・ニュージャパンの2階が、第二編集室のようになっていた。よくお邪魔をした。というより、良く呼ばれていった。

川内先生は韓国ロビーイストであったが、そのロビー活動の舞台となったのはホテル・ニュージャパンだった。

だから、ホテル・ニュージャパンのことはよく覚えていたのだ。入り口から入るとロビーが広がり、奥に各階に向かうエレベーターが何基かあった。

記憶では廊下は狭く、ホテルの構えとしては部屋が密集しているような印象を受けた。ホテルというよりは、アパートメントの部屋の入口を彷彿とさせるような各部屋の配置だった。

だから、ニュージャパン火災で多くの死者が出たという報を聞いた時、「あぁ、確かにな」と頷いた。

大きな被害を出したホテル火災は、ニュー・ジャパン火災以降起きていないと記憶する。

これほど記憶に残る現場に一時ではあるけれど、日常的に出入りしていたことが、なにか不思議な感じだ。

 以前に母の思い出の一つとして「2・26事件」に触れたことがあったが、このホテル・ニュージャパンは「2・26事件」に連座した将校が足を向けた料亭「幸楽」の跡地と、最近知った。そして元々のオーナーは鳩山一族と知って、色々な意味でなお驚いた。

ホテル・ニュージャパンは跡形もない。だが火災後10年以上は、まるで負の記念碑のように放置されていたのではなかったか。

だが、ボクの記憶の中では明瞭に輪郭をとどめている。

なぜ今頃こんな話を? と思われる方も多いでしょうが、過日の京都アニメーションの放火殺人の事件で亡くなられた方の数を報道で知り、かつて同じ数の方が亡くなられた火災があったような記憶をたどり、ここにたどり着きました。京都アニメーションの火災では、後にもうお一方亡くなられています。
合わせて、皆さんのご冥福をお祈り致します。
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