今朝は昨日の雨も上がって、しっとりと…でも昨晩は結構風が強かったのかしら、柿の小枝があちらこちらに折れて散らばっていました。
コロナは予想通りとうとうクルーズ船抜きで1万人を超えましたし、死者も200人を超えて今日は236人とか。(これはクルーズ船を含む) これにどうやったら歯止めをかけられるんでしょうか。
ところで、昨日の〝都忘れ〟にちなんで、倉田紘文(こうぶん)氏のことを書きましたが、十分言い尽くせませんでしたので、もう少し書かせて下さいね。
私は今でも氏の顔がすぐに浮かびます。74歳というのは今ではまだ若いですよね。主宰された俳誌「蕗」は、2014年6月に氏が亡くなられると、その後10月には句会を発足させ、翌年の1月から「蕗の里」が継承誌として発行されました。実は「蕗」の最終号の発送を見届けてから、紘文氏は安堵されたかのように永眠されたんだそうな。それを知って私は胸が痛くなりました。
その「蕗」の最終号(平成26年3・4月号)に載った俳句…辞世の句といってもいいのでしょうか、その句と巻頭言をご紹介します。最後まで紘文氏らしい優しさのにじみ出た句で、まるでこれは〝仏様〟の境地のような気がしてなりません。季語は「明易し」で、短い夏の夜をいいますが、まるで夜明けとともに昇天していくような感じがしませんか。
てのひらをやさしく合せ明易し 紘文
「自然を大切にする」「写生を重んずる」「一人一人が皆平等」を標榜し、主宰・倉田紘文並びに誌友の皆様で、師・高野素十先生の提唱してこられた“写生俳句”の継承に精進してまいりましたが、今月号をもちまして廃刊の運びとなりました。43年間、誌友を始め多くの方々に支えていただき厚く御礼申し上げます。
ちなみに、「蕗の里」では、昨年の2019年6月に大分市で氏を偲ぶ俳句大会が催され、「ゆけむり忌」「紘文忌」を季語として詠み、みなが献句したのだそうです。また、今年の1月には創刊5周年の記念俳句大会も催されたのだと。よかったですね。 合掌
もう一つ、紘文氏のことで心に残っている事があります。それは、初心者に俳句の話をするとき、私はよく氏の句を例に上げて説明していたということ。その句は〈秋の灯にひらがなばかり母の文〉で、第一句集『慈父慈母』に所収の句です。この句にはもう一つ、〈秋の灯にひらがなばかり母へ文〉という同時作があって、この助詞の「の」と「へ」の違いによって、詠まれた場面ががらりと変わるということなんです。
これらは「芹」雑詠で初めて巻頭になった句で、病後、母からの短い手紙と母への返事を、〈母の文〉と〈母へ文〉と替えて詠んだもの。その時の主宰・素十の評の言葉には、「平仮名で書く母の文、それは全く悲母という言葉にふさわしいのである。あるものは只母と子との愛とその姿とだけである。この句々はそんな美しい感銘がある」と。
師素十の亡き後、その精神を引き継いだ「蕗」には、俳誌「芹」の会員たちも参加し、二千人という大所帯になっても、会員の一人一人皆平等という精神を貫いて、同人制はとっていなかったといいます。
また、氏の人柄を偲ばせるのによい、こんな話も伝わっています。
かつて会員への挨拶で呼びかけたことば、「さあ、自然を詠おう」が何だか気になり、「さあ、また自然に学ぼう」と、「を」を「に」とつぶやいたとき少し安堵の感を覚えた、ということを言われたんだそうです。
みなさん、この助詞の違い、お分かりになりますか。是非考えてみて下さい。
また、「蕗」最終号に載った氏の挨拶文と編集後記の一部を、参考のためにご紹介しますので、読んでみて下さいね。
小俳誌「蕗」終刊の御挨拶
蕗の葉の大きくなりて重なりし
いよいよ俳誌「蕗」誌も508号で終わりとなりました。
長い間、共に歩いていただきました誌友の皆様方、又、工藤隆子様(初代編集部)始め、編集にたずさわっていただきました皆様、只々感謝とお礼の気持ちでいっぱいです。有り難うございました。心より重ねてお礼申し上げます。
分刑印刷様並びに興栄社様、佐伯印刷様の長きに亘る毎月の印刷業務に心より厚く感謝致しますと共にお礼申し上げます。
貴社の今後の益々の御発展を心よりお祈りしています。
全国の誌友の皆様、これよりの日々をくれぐれもご健康で御健吟下さいますようお祈りします。さようなら
平成二十六年 皐月 「蕗」主宰 倉田紘文
《後記》
編集企画部
○万緑滴る美しい季節の中、「蕗」誌がとうとう終刊を迎えました。
この度も紘文主宰は、体調の思わしくない中、誠心誠意、選句の努めを果たされました。四月号分は全員二句を選ばれ、正に〝一人一人が皆平等〟の精神で終わりました。
○これから紘文主宰は、ご家族と共に、ゆっくり静養に専念されます。必ず快方に向かわれることを信じて、皆様と共にお祈りしたいと思います。(以下略)
ちなみに、氏の履歴を調べていると、びっくりすることがあったんですよ。私が初めて勤務した高校に氏も勤務されていたと…エエッ、とその時期を見ると、ちょうど入れ違いでした。私は1年で辞めましたので、もしそのままいたとしたらお会いして、一緒に働いていたんだと…。でも、その時はまだ私は俳句の〝は〟の字も知らない頃でしたからね~。〝縁〟なんてどこに転がっているのか分からないものですね。
写真は、先日の八重山諸島のお土産、島の特産品です。①は、沖縄西洋菓子〝ミルクくんぺん〟…波照間島産の黒糖と沖縄県産の牛乳を使い、琉球伝統菓子〝くんぺん〟をしっとりやわらかに焼き上げたもの。②は、西表島のおばあのおすすめ、〝あんだんすー〟…これは、沖縄の昔からの保存食。各家庭の、まさに〝おばあちゃんの味〟の味噌加工食品なんですよ。
涙が出てとまりませんでした・・・
きっと紘文氏もよろこんで下さっていることでしょう。