ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

佐々並吟行・六軒茶屋です!

2019年11月27日 | 俳句

 昨日は最高気温16度、曇りのち晴れで、まあまあの吟行日和でした。

 このM教室にはとっても頼りになる人がいるんですよ。キャンピングカーを運転して全国を駆け回っているkさん。去年初めて乗せて貰って吟行しましたが、今年も快く引き受けて下さり…参加12人でしたので、この車に8人、もう1台の車に4人…

 9時集合して、さあ出発。目的地は萩市の佐々並地区なんですが、その前に途中にある萩往還の一ノ坂に設けられた休憩所、六軒茶屋跡に寄りました。

 萩往還というのは、慶長9年(1607)萩城築城後、その城下と三田尻(防府)をほぼ最短で結ぶ参勤交代道として開かれた陰陽連絡道で、延長52.7キロメートルの街道です。 萩往還には旅人の休憩の場として茶屋が所々に設けられていました。その茶屋の中で、萩往還最大の難所、一の坂(一番険しい坂の意味)にあったとされる茶屋が六軒茶屋です。 ここは昔六軒の農家があり、佐々並から山口に家があったのはここだけでしたので、往来の旅人の良い休み場となり、軒先を茶店にして旅人をもてなしていたことから六軒茶屋と呼ばれるようになりました。

 この六軒茶屋跡(一の坂駕籠建場跡)には、名前の由来となった6軒の茶屋の他、藩主の休憩所である駕籠建場(藩主の駕籠を降ろして休憩する場所)がありました。現在は、山口県文書館に残されている「山口一の坂御建場差図」を元に、平成22年(2010年)に一の坂駕籠建場や石垣・石畳などが復元されています。

 ここを過ぎて、もう少し萩往還の石畳を行くと、石で積み上げた一里塚があります。ここは萩往還の中間地点で、 萩、唐樋より6里、三田尻船場より6里と示されています。

 私たちは時間がないのでここで引き返し、また車に乗って、目的地の佐々並へ出発しました。このつづきはまた明日に…。

 


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2 コメント

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駕籠 (風の盆)
2019-11-28 19:26:51
>萩往還というのは、慶長9年(1607)萩城築城後、その城下と三田尻(防府)をほぼ最短で結ぶ参勤交代道として開かれた陰陽連絡道で、延長52.7キロメートルの街道です

52キロと言えば、1日では無理のようだが
途中の宿は設けていないのかな

写真で見る限りでは、車輌の通行は無理であろうかな
歩いて何百人の行列かな

駕籠に乗る人は、乗っかる人は楽なようだが、外は見れないし、狭いし退屈であったろうな

>(株)宇部日報社賞 バッハ聞く椅子にどっかと終戦日 保田 尚子
〈バッハ聞く…〉の句にはいろいろ意見が分れました…私は採れませんでしたが…。風の盆さんは?まさに気が抜けるとは?教えて下さい。

俺も色々想像したな
宇部日報とは新聞社かな
昔の地方の新聞社はふたつあったと
一つでは考えが偏るため、二つあったと

昔の新聞社と今の新聞社とは違うだろうが
いわゆるジャ-ナリズムが、情報とは情けを報じると
どうかな
ジャ-ナリストとは好奇心だと
好奇心が無くなったら終わりだと

宇部市には新聞社が何社あるか知らない

この俳句を見て、宇部日報だけが民間なんだな
宇部日報が協賛したのか、選者にいたのかは知らない
しかし、この区だけは異色な感じだな

最初見て、終戦日とは1945年8月15日かなと思ったな
あの、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍びの日にバッハを聞くとは
バッハを選曲して聞くとは、あるいはバッハの曲が頭を過ぎったのかとも思いを馳せたが
終戦の思いもあったろうが、やっと終わったか
あるいは負けたか、完全に負けたか
明日のことは頭にない
「椅子にどっかと」だな
がくっときたのだろうと思いをめぐらしたが

しかし、終戦日とは終戦記念日であり、季語としてあると
そうすると、1946年でなく、今年でも昨年でも良いのだな

それは、選にするかもめただろうな
強く推した者もいれば、それは駄目だと否定した者もいただろうな

あるいは、宇部日報が強く推したのかも知れない
いずれにしても、選者のありさまは面白みがあろうな
作者の説明はないが、選者のあるいは読者の想像はあるな

1945年でなければ、意識してバッハを聞いたのだろうな
聞こえてきたのでなく、聞いたんだろうな
作者はバッハじゃなくては駄目なんだろうな

>負うた子の寝息の重さ榠樝の実
カリンとは花梨が多く使われると思ったが、「榠樝」とは俳句では結構詠われているようだ
何故、カリンでなくてはならないかは、分からないが

作者の意図は想像するしかないな
「寝息の重さ」は気が付かなかった

やはり、「ちわき」さんは俳句となると熱が入るな
子守唄は世界各国にあるようだが、日本では南が知られている
五木の子守唄、竹田の子守唄、島原の子守唄とか
南だな
南だけ残っているのかは知らない
原始宗教と同じで、南だな

子守とは一種の職業であったな
まあ、子でも頭は重かろうが


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Unknown (ちわき)
2019-11-29 10:06:50
お早うございま~す!
萩往還は約53キロですから、普通は山口で一泊して三田尻まで…以前防府の「英雲荘」を紹介しましたが、あそこでまた宿泊。次は船で行ってたようですからね。
だから萩と山口の間では明木(あけらぎ)や佐々並で休憩。でも佐々並から山口までは約15キロありますし、一番の難所で坂がきついので、六軒茶屋で休憩したんですよ。ここの石畳は急勾配で、特に一ノ坂は曲り山道が多く「降りて下され旦那様」と駕籠かきに唄われたほどの難所だったらしいです。だから参勤交代も本当に大変だったでしょうね。
でも、志士たちは駆けって行き来していたとか…。なら一日でもできますよ。だってマラソンは約42キロを早い人は2時間ちょっとですもの。龍馬が脱藩のとき山径を駆けって1日?で愛媛の大洲長浜に着いたとか…
まあ、昔の人は健脚でしたものね。私も以前萩往還ウォークで、佐々並から明木までの10キロをなんとか歩きましたが…えらかった!
宇部の高校生などはこの萩往還ウォークを学校行事として実施しているところもあります。コースはいろいろあるようですが、大体半分の20キロ以上を歩くようですよ。
新聞社ですが、宇部にはもと「宇部時報」と「ウベニチ新聞」がありましたが、それが合併して「宇部日報」になりました。もちろん協賛ですからどの句でもいいわけです。だって名前を貸すだけで賞品とか出すわけではないので。
〝終戦日〟は季語ですから、今年の終戦記念日に詠んだと考えれていいわけで…ただそれが詠める人は終戦を経験していないと、もし若い人が詠んだとすれば感動がどこにあるのかということになります。
私は話を聞いたりドラマで見たりでしか分かりませんので、実感は詠めませんね。
結果的にこの方は年配の方でしたので、それなりの思いがあったのでしょう。バッハはいいとしても〈どっかと〉をどう受止めるかで意見が分れたんですが…。
榠樝の句…子どもに対する思いは男と女ではつまるところは同じでも、体感的には大きく違うと思いますね。実際は起きているより寝た子の方が重いでしょうから、寝息を聞いて重くなったと考えたんでは…面白くない。科学的実証的に解明するとそれはもう〝詩〟ではないのでは?
作品というものは作者の手を離れてしまえば、どう鑑賞されてもいいんですから。読者の自由ですもの。
子守唄は北海道とかには本当にないんですかね?アイヌなどではありそうな気がするけど…
五木も竹田も島原も哀調を帯びたメロティーと方言のもつ効果でしょうか。私はどの子守唄もよく歌いましたし、大好きです。
昔の…〝おしん〟の頃のような貧しいが故に小さい頃から働いた苦労が感じられるからでしょうか。なみだものですね。
風の盆さんも俳句に興味が沸きました?
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