ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

吟行は厚東氏の本拠地?

2021年04月18日 | 俳句

 昨日は4月の第3土曜日。ということは、午前中の〝きらら俳句教室〟と午後からの宇部馬酔木句会という、ダブル俳句ディーだったんです。普通は第2土曜日にも午後と夜の部の、連続日があるのですが、年度替わりということで4月は休み。久し振りのダブルだったのでちょっとバタバタしましたが、無事終了。ホッ…

 そういえば、3月最後の〝きらら俳句教室〟第11回目の報告もしないままでしたね。他のことにどんどん先を越されて…、とうとう1ヶ月が過ぎてしまったんです。それはまあ置いといて、先日の厚東への吟行報告がまだ途中で残っていますので、このきらら教室のことは次に回して、今日は吟行記の方を書きましょうか。

 さて、宇部市の厚東地区は、市街地が一望できる霜降山(250メートル)があり、そのふもとを厚東川が流れている自然豊かなところです。中世長門の国守護・厚東氏の拠点として発展し、多くの市指定文化財がここに所在しています。
 地区の中央には山陽本線と国道2号が走っており、市内外への交通アクセスにも恵まれていますし、霜降山の麓、厚東川の河畔に、古い歴史を持つ持世寺(じせじ)温泉もあって、その昔、傷を負った武士の療養に使われたという名湯を楽しむこともできるんですよ。

 前回の「千林尼石畳道」から次に向ったのが「浄名寺(じょうみょうじ)」。山門への両側は田圃で…今時珍しく紫雲英(げんげ)が咲いていました。

 この寺は、厚東氏14代武実が元応の頃(1319~1321年)に祈願所として建立し、歴応2年(1339年)に創建したとされています(諸説あり)。厚東氏の墓所は、浄名寺本堂裏の墓地の奥まった所に5基あります、そのうち右側の2基の五輪塔は形が良く整い優れていて、浄名寺由緒書にも、「古墓 但境内ニ五輪石塔四組のつら石塔十組有之 孰も厚東家之御石塔之由申伝候 年号月日法名 円無之候事」と記されています。

 …と説明が書かれていましたが、墓地周辺はちょうど整理されるための工事中で、結局分からずじまいでした。

 今度はそこから歩いて5分ほどにある「東隆寺(とうりゅうじ)」へ。行く途中に東隆寺山門礎石、三界萬霊地蔵菩薩像と道祖神の一種の「塞の神(さいのかみ)」なんでしょう、「幸神」と書かれている石祠がありました。

 また、何かびっしりと実が生っていて、何だろう?と見ると…あら梅の実。もうこんなに大きくなって…とビックリです。

 やがて東隆寺の山門が見えてきて、説明も次の…あら、これでは小さすぎて読めませんね。スミマセン!

 この東隆寺は、延元4年(1339年)厚東武実が南嶺子越禅師を招き開山、厚東氏の菩提所として建立されました。本堂裏山中腹の墓地の一画にも厚東氏の墓所があります。東隆寺由緒書には、「一、開基厚東武実公之墓 境内有之 但五輪之墓・・・申候」と記されています。

 …と、前の浄名寺と同じようなことが書かれていて???とは思いましたが、寺の裏の方へ廻ってみました。時間がなくてここも分かりませんでした。でも、五輪塔と宝篋院塔は南北朝時代の特色を留める優れたもののようで、由緒書に厚東武実の墓と残されているのですからこちらが本家ということなんでしょうか。


 国指定重要文化財2点、県指定文化財5点、市指定文化財6点のほか、多くの文化財が所蔵されているということでも、ここが厚東氏の本拠地であったということが分かります。

 ちなみに、厚東氏とは「厚東氏系図」によると、物部守屋を祖とし、その末裔(まつえい)である武忠が棚井(現・宇部市)に居館したのが始まりといわれる。なお、平安時代の長門守に物部宿弥本与という人物がおり、厚東氏はこの流れをくむと考えられる。初期には厚狭郡東部を支配した在地武士であったが、徐々に勢力を広げていった。

 治承・寿永の乱(源平合戦)において、初めは平氏方として一ノ谷の戦いに加わったが、後に源氏方に転じ、壇ノ浦の戦いでの軍功が認められ、厚東郡主となった。また、文永の役・弘安の役においては、鎌倉幕府の命令によって大内氏とともに出陣した。元弘の変に際しての軍功が認められ、厚東武実は建武元年(1334年)長門守護に補せられ、その嫡子である厚東武村は豊後国企救郡を拝領した。この後、厚東義武までの四代が長門守護職の地位にあった。…(Wikipediaより)

 その後大内氏によって滅ぼされる1358年(正平13・延文3)までは、この地区が厚東氏の本拠地として栄えていたのでした。この浄名寺と東隆寺のあるあたりに厚東氏の館跡で御東館と呼ばれている高台があったそうですが、現在は田畑や宅地となっていて、ただ「史跡 御東館跡」という立札が建っているだけで遺構はないようです。

 その後、厚東氏は歴史の表舞台に登場しなくなり、大内氏の時代を経て、毛利氏の時代へと時代は変わっていきましたが、現代でも、厚東川、厚東大橋、厚東川ダムなど、厚東という名前が付いており、やはり宇部の町は厚東氏ととても関わりの深い土地なのだということを改めて気づかされました。

 東隆寺には全く人気がなく、その代りに猫気がプンプン…見ると木陰に白い猫がジッと私たちを窺っていました。すると、あっちにもこっちにもと猫の目が…。呼んでも決して近づきはしませんが、逃げもしません。一定の距離を置いて…、まるでここの本尊〝延命地蔵〟を守るが如く。結局、黒、茶トラ、キジトラ。三毛2匹の、全部で6匹がいました。

 次は「恒石八幡宮」へ行ったのですが、また長くなりましたので、それはまた次回へ。

 最後にご報告!先日のおばあちゃんの歯は次の日に無事落下したと…笑い事ではありませんよ!大事なことなんで、看護師さんが確認されたんだとか。(笑)やっぱりおばあちゃんはミラクルだからウンにも強い!アハハッ…(^0^)

 ご心配して下さった皆さま本当にありがとうございました。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする