さて、万倉の吟行もいよいよ最後になりました。
芦河内の薬師堂から今富ダムへ…最後は天竜寺にある「国司(くにし)家歴代墓所」へ行きました。
国司家は、代々毛利宗家の重臣を務め、この万倉地区を領有していました。なかでも、国司信濃(名は親相(ちかすけ))は、幼い頃から聡明で次第に頭角を現し、その手腕を認められて、幕末長州藩の家老の一人となりました。
しかし、第一次長州征伐の際、京都における長州藩の影響力を取り戻そうと挙兵して禁門の変を起こすものの大敗し、その責任をとって、家老の福原越後、益田右衛門介ともに切腹しました。享年23歳でした。
その国司家の菩提寺が曹洞宗の天竜寺で、そこに親相夫妻と国司家代々の墓があります。万倉護国神社には、切れ長の目で凜々しい親相の肖像画があるそうなんですが、まだ見たことがないので、機会があれば観に行きたいと思っています。(写真は、宇部市観光ガイドさんよりお借りしました。スミマセン!)
若い頃から詩歌や画を嗜み、文武両道に優れていた国司親相は心ある歌をたくさん残しています。
次の歌は、禁門の変の責任を取らされて切腹を命じられ、万倉の居館をあとにして幽囚の地、徳山への旅立ちの際に詠まれたもの…
跡たれて君をまもらむみどりそふ万倉の山の松の下かげ
歌意は…死んだ後も神となって未来永劫君を守ろう。この緑にあふれる万倉の松の下かげで…というようなものでしょうか。この〝君〟というのは多分奥方のことでは? だって親相は15歳で結婚し、亡くなったのが23歳だったんですもの。いうならばまだ新婚生活ですよね。ちなみに、奥方の名は和喜子(後の弥佐子、戸籍名サヤ)だとか。
寺の裏山の竹藪に囲まれて、二人並んだ墓は殆ど同じくらいの大きさで、左が親相、右が弥佐子。普通は男性が大きくて女性の墓が小さいんですって。こんな所にも親相の思いが残っているのでしょうか。
最後の2枚は国司家一族の墓の写真です。
ちなみに辞世の句は、「よしやよし 世を去るとても 我が心 御国のために なほ尽さばや」「君がため つくせやつくせ おのがこの 命一つを なきものにして」です。
この和歌からすると、ここでの〝君〟というのは、主君という意味でしょうか。この国司親相についてはまだ面白い話がありますが、また長くなりましたので、続きは今度…お楽しみ!