演出の大量投下。今年末、今年度末に登場するといわれる次世代機は基本的には任天堂も含めて、よりその方向に傾斜して行くようだ。
以前からささやかれていたが、物量勝負になるとゲームにおいても文化的グローバリゼーションが顕在化することになる。演出的物量ならば、ハリウッドを抱えるアメリカには現状の日本製ゲームは勝てるはずは無い。情緒的なものならいざ知らず、少なくとも娯楽性の高い映画では決して敵うまい。
このような危機意識のもとに送り出されたのが任天堂のニンテンドーDSである。発表時から任天堂が強調していたのはゲーム機であるということ。二つの画面、タッチパネル、音声認識、通信機能。これらすべて既存の技術でしかないが、今までゲーム機には、もちろん携帯ゲーム機にはデフォルトでは搭載されていない機能である。
新たなゲーム文法の提示。ハード、入力デバイス、両方での提示である。それも今まで行われたゲーム文法の提示と明らかに異なるのは、それらの提示が非常に意識的に行われた点である。しかしこれは大変に危うい。
これまでの文法の提示というものは必要性の必然なのである。横軸に、縦軸に動かすためにボリュームコントローラーがあり、より操作性の良い移動が求められたときに、十字キーがうまれ、3D表現に適した操作が求められたときに、3Dスティックが生まれ、より本格的な3D表現を行うために、デュアルディスプレイが求められ、横画面のみという家庭用ゲームにおいての既成概念の転倒のため、縦画面(横画面、縦画面両方使用可能)が生まれている。
だがニンテンドーDSには明確な必要性はなく、強いて挙げれば新たな文法の提示の必要性自体が必要性なのである。そのため私はニンテンドーDSに対しては懐疑的だ。確かにロングヒット中の『脳を鍛えるおとなのDSトレーニング』はニンテンドーDSの特徴を良く捉え、私にも非常に魅力的に映る。だが『DSトレーニング』はあくまで知育玩具の部類でしかない。
もちろん出自がどうだから、新たなゲームを提示できないとは思わない。ただ思うのは必要性が明確にならなければ、新たなゲームの提示は困難であると言いたいのだ。現にニンテンドーDSのタイトルの中にはニンテンドーDSの特徴を使い切れていないものが大半であり、持て余してしまっている。また過去の文法に囚われてしまっていて、かなり酷い出来のものも少なくない。
しかし物量の競争がゲームのメインストリームとなりつつある現在において、SCEやマイクロソフトに新たなゲーム文法の提示は期待できない。模索の中で新たな衝撃がゲームというものの中で現れることを期待する。
以前からささやかれていたが、物量勝負になるとゲームにおいても文化的グローバリゼーションが顕在化することになる。演出的物量ならば、ハリウッドを抱えるアメリカには現状の日本製ゲームは勝てるはずは無い。情緒的なものならいざ知らず、少なくとも娯楽性の高い映画では決して敵うまい。
このような危機意識のもとに送り出されたのが任天堂のニンテンドーDSである。発表時から任天堂が強調していたのはゲーム機であるということ。二つの画面、タッチパネル、音声認識、通信機能。これらすべて既存の技術でしかないが、今までゲーム機には、もちろん携帯ゲーム機にはデフォルトでは搭載されていない機能である。
新たなゲーム文法の提示。ハード、入力デバイス、両方での提示である。それも今まで行われたゲーム文法の提示と明らかに異なるのは、それらの提示が非常に意識的に行われた点である。しかしこれは大変に危うい。
これまでの文法の提示というものは必要性の必然なのである。横軸に、縦軸に動かすためにボリュームコントローラーがあり、より操作性の良い移動が求められたときに、十字キーがうまれ、3D表現に適した操作が求められたときに、3Dスティックが生まれ、より本格的な3D表現を行うために、デュアルディスプレイが求められ、横画面のみという家庭用ゲームにおいての既成概念の転倒のため、縦画面(横画面、縦画面両方使用可能)が生まれている。
だがニンテンドーDSには明確な必要性はなく、強いて挙げれば新たな文法の提示の必要性自体が必要性なのである。そのため私はニンテンドーDSに対しては懐疑的だ。確かにロングヒット中の『脳を鍛えるおとなのDSトレーニング』はニンテンドーDSの特徴を良く捉え、私にも非常に魅力的に映る。だが『DSトレーニング』はあくまで知育玩具の部類でしかない。
もちろん出自がどうだから、新たなゲームを提示できないとは思わない。ただ思うのは必要性が明確にならなければ、新たなゲームの提示は困難であると言いたいのだ。現にニンテンドーDSのタイトルの中にはニンテンドーDSの特徴を使い切れていないものが大半であり、持て余してしまっている。また過去の文法に囚われてしまっていて、かなり酷い出来のものも少なくない。
しかし物量の競争がゲームのメインストリームとなりつつある現在において、SCEやマイクロソフトに新たなゲーム文法の提示は期待できない。模索の中で新たな衝撃がゲームというものの中で現れることを期待する。