弘文天皇陵
■住所:滋賀県大津市御陵町3(大津市役所西側)
■交通:京阪「別所」駅下車
大津市役所の裏側(西側)に弘文天皇陵があります。
弘文天皇とは、天智天皇の息子である大友皇子のこと。
明治時代になって、大友皇子は「弘文天皇」の名を贈られました。
天智天皇の崩御後 672年、大友皇子は、皇位継承をめぐって叔父である大海人皇子と「壬申の乱(じんしんのらん」で争い、敗れます。
大友皇子は、「山前(やまさき)」の地で自害されたといいます。
「壬申の乱」の勝者である大海人皇子は、都を「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」に遷し、天武天皇として即位するのでした。
弘文天皇<大友皇子>と天武天皇<大海人天皇>
系図:弘文天皇<大友皇子>と天武天皇の関係は、甥と叔父。
それぞれの妻も複雑な立場に置かれました。
※大友皇子<弘文天皇>の正妻は、大海人皇子<天武天皇>の娘・十市皇女。
※大海人皇子<天武天皇>の正妻は、天智天皇の娘・讃良皇女(のちの持統天皇)。
*☆*―――――――――――――――――――――――――――*☆*
●柿本人麻呂(かきのもとのひろまろ)の万葉歌碑
大津市役所前にある大きな時計の真下に球体の歌碑があります。
最初、場所がわからなくて、市役所の案内所で教えていただきました。
ありがとうございました。
“さざなみの 志賀の大わだ よどむとも
昔の人に 亦(また)も逢はめやも”
かつてあった志賀の都<近江大津宮(大津京)>を懐かしむ歌です。
次は
大津市歴史博物館の企画展と常設展を見に行きます。
大津市歴史博物館へ続く!
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明治時代になって、大友皇子は「弘文天皇」の名を贈られました。
天智天皇の崩御後 672年、大友皇子は、皇位継承をめぐって叔父である大海人皇子と「壬申の乱(じんしんのらん」で争い、敗れます。
大友皇子は、「山前(やまさき)」の地で自害されたといいます。
「壬申の乱」の勝者である大海人皇子は、都を「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」に遷し、天武天皇として即位するのでした。
弘文天皇<大友皇子>と天武天皇<大海人天皇>
系図:弘文天皇<大友皇子>と天武天皇の関係は、甥と叔父。
それぞれの妻も複雑な立場に置かれました。
※大友皇子<弘文天皇>の正妻は、大海人皇子<天武天皇>の娘・十市皇女。
※大海人皇子<天武天皇>の正妻は、天智天皇の娘・讃良皇女(のちの持統天皇)。
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●柿本人麻呂(かきのもとのひろまろ)の万葉歌碑
大津市役所前にある大きな時計の真下に球体の歌碑があります。
最初、場所がわからなくて、市役所の案内所で教えていただきました。
ありがとうございました。
“さざなみの 志賀の大わだ よどむとも
昔の人に 亦(また)も逢はめやも”
かつてあった志賀の都<近江大津宮(大津京)>を懐かしむ歌です。
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