※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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熊本に平安時代の歌人・清原元輔をたずねる
藤崎八旛宮
清原元輔 歌碑
●所在地:熊本市中央区井川渕3-1
●交通 :市営バス「藤崎宮前」下車 徒歩5分/市電「水道町」下車 徒歩15分
藤崎八旛宮(ふじさきはちまんぐう) 楼門
藤崎宮(ふじさきぐう)とも呼ばれます。
藤崎宮の回廊の外、北側に清原元輔の歌碑があります。
<案内より>
清原元輔歌碑
元輔は、寛和二年(986)京都から肥後守として着任し、永祚二年(990)まで肥後の国府(現在の二本木町)で政務を執った
ある年の正月、今の藤崎台球場の地にあった藤崎宮で「子の日の松」の行事を催し、この歌を詠んだので、それにちなんでこの歌碑が建てられた
書は藤崎宮 宮司 吉永千秋である。元輔は枕草子の作者、清少納言の父で、元輔を祀った清原神社は、横手町北岡にある。
藤崎の軒の巌に生ふる松
いま幾千代の子の日過ぐさむ
≪熊本市≫
※かつて藤崎宮があった「藤崎台球場」は現在の熊本城公園内にあります。 「子(ね)の日の松」の行事とは・・・
正月初めの子(ね)の日に、人々が野外に出て若菜を摘んだり、小松を引いたりして宴を催し、邪気を払い長寿を祝う行事。この日に丘や山に登って四方を望むと陰陽の精気を得て煩悩を除くという思想に基づく。松は延寿・若菜は邪気を払う意味がある。(源氏物語必携事典・角川書店より)
風俗博物館の過去の展示で「子(ね)の日の小松引き」があったのでその時の写真を以下に掲載します。
小松引きをする女童たち
小松を手にしています
【参考】
・『平安時代史事典』 角田文衞 監修/角川書店 発行
・『日本史大事典』 平凡社 発行
・新編日本古典文学全集50『宇治拾遺物語』 小林保治・増古和子 校注・訳者/小学館 発行
・『カラー小倉百人一首』島津忠夫・櫟原聰 編著/京都書房 発行
・『源氏物語必携事典』 秋山虔・室伏信助 編集/角川書店 発行
・『最新詳解古語辞典』 佐藤定義 編者/明治書院 発行
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熊本に平安時代の歌人・清原元輔をたずねる
清少納言の父・清原元輔は平安時代の歌人です。
熊本県熊本市に元輔を祀る神社や元輔の歌碑があると知り、2004年に訪ねました。
その時の簡単なレポです。
熊本で亡くなった清原元輔を祀る
清原神社
●所在地:熊本市西区春日1丁目6-33(北岡神社の北)
●交通 :JR「熊本」駅下車 徒歩15分/市電「祇園橋」下車 徒歩5分
<案内より>
清原神社
清原元輔は、肥後の国司として寛和二年(986)から正暦元年(990)までの間肥後を治めていました。清少納言の父でもあり、三十六歌仙に数えられるほどの歌人でまた当時の肥後の歌人桧垣とも交流があったと伝えられており、鼓ケ滝や藤崎宮の歌等が家集に残っています。正暦元年に亡くなったときは八十三才でした。
≪平成十年九月 熊本市≫
清原神社 遠景
住宅地の中にある小さな神社です。
入口には「清原神社」と書かれた看板が塀に掲げてありました。
(写真右側に鳥居が見えます。)
清原神社の鳥居・扁額
お社
中に数体の神像が鎮座していました。
男性の神像はご祭神の清原元輔?
女性の神像のひとつは肥後で交流があったという桧垣なのでしょうか?
次の記事では、熊本市の藤崎宮にある清原元輔の歌碑をご紹介します。
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清少納言(せいしょうなごん)
966年(康保3年)頃~?
平安時代中期の女流歌人。
清原元輔の娘。清原深養父(ふかやぶ)<曾祖父。祖父とも>、元輔と二代続いた名高いの歌人の家に生まれる。
橘則光と結婚、則長を天元5年(982年)に産み、則光とは離別。
正暦4年(993年)頃、中関白藤原道隆の娘・定子<一条天皇中宮・のちに皇后>に出仕。常に上臈女房とともに中宮定子の側近として仕えた。
定子が亡くなった長保二年(1000年)以降の動向については、いつ宮仕えを辞したか、その後何人と結婚したかなど、問題が多く謎である。
その中で、摂津守藤原棟世と結婚し、上東門院彰子に出仕した小馬命婦を儲けたことが確かである。
性格は、打てば響くような才気があり明朗快活。美しいものに敏感で感性豊かであった。宮中出仕時代を中心に著した『枕草子』が有名。
歌人としては、『清少納言集』の遺す。
『百人一首』に収められている歌は、以下の歌。
夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ
(まだ夜深いうちに、ニワトリの鳴き声を真似てだまそうとしても「逢坂(おうさか)の関」はそう簡単に開きませんよ!私は決して貴方に逢いませんからっ!)
中国の『史記』をふまえた歌。昔、孟嘗君(もうしょうくん)という人が捕らえられた時、同行の人に鶏の鳴きまねをさせると、門番がだまされて夜中にもかかわらず関所の門が開けられたので逃亡した、という故事がある。それを踏まえて詠んだ歌。
清原元輔の娘
清少納言から見た父像 『枕草子』第九十五段の一部より
一条天皇の中宮 定子様から清少納言に和歌を詠むよううながされて・・・
「~<略>~ いといかがかは、文字の数知らず、春は冬の歌、秋は梅、花の歌などをよむやうははべらむ。なれど、歌よむと言はれし末々は、すこし人よりまさりて、『そのをりの歌は、これこそありけれ。さは言へど、それが子なれば』など言はればこそ、かひある心地もしはべらめ。つゆとりわきたる方もなくて、さすがに歌がましう、われはと思へるさまに、最初に詠み出ではべらむ、亡き人のためにも、いとほしうはべる」と、まめやかに敬す~(略)~」
(「わたくしは、歌は三十一字で詠むものと知っておりますし、春に冬の歌を詠んだり、秋に梅の花の歌を詠んだりはいたしませんわ。けれども、私の先祖は歌人の家系と言われた者ですから、少しは人より優れた歌を詠んで『その時の歌は、これこそ見事な出来だった!さすがは清原の家の子だけのことはある!』などと言われればこそ、歌を詠む甲斐もある心地がいたします。
それが少しも優れたところがないのに、それでもいかにも歌のつもりでわたくしこそはと思い最初に歌を詠むのは、亡き父・清原元輔のためにも大変申し訳ないことです」とまじめに申し上げる)
この後、中宮様はお笑いになって「それなら好きなようにになさい。もう無理に歌を詠めとは言わないわ。」とおっしゃた。
『枕草子』には、上記のようなエピソードがあります。
清少納言にとって、清原の家が歌人の家であること、清原元輔の子であることは、少なからずプレッシャーでもあったようです。
このエピソードには、こんな続きがあります。 『枕草子』第九十五段つづきのエピソード一部
中宮様はちょっとしたお手紙を書いて、清少納言に投げてお下げ渡しになった。
見るとそこには一首の歌が書かれてあった・・・。
元輔が 後といはるる君しもや
今宵の歌に はづれてはをる
(歌詠みの元輔の子と言われる清少納言が、今宵の歌に加わらないでかしこまって控えているの?)
清少納言は、中宮様にこう申し上げるのだった。
「その人の 後といはれぬ 身なりせば
今宵の歌を まづぞよままし
つつむ事さぶらはずは、千の歌なりと、これよりなむ出でまうで来まし」
と啓しつ。
(「もしも私がだれそれの子と言われない身でしたら、今宵の歌を真っ先に詠むことでございましょうに!!
父・元輔に遠慮する事がございませんなら、千首の歌でも、こちらから進んで出て詠むことでございましょう♪」と申し上げた。)
定子とのやりとりが微笑ましいです。
【原文引用・訳 参考】
「新編日本古典文学全集18 枕草子」 松尾聰・永井和子 校注・訳者/小学館 発行
【参考】
「ビキナーズ・クラッシックス 枕草子」 角川書店 発行
「平安時代史事典」 角田文衞 監修/角川書店 発行
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『今昔物語』・『宇治拾遺物語』の同一エピソード
驚愕!笑撃!?清原元輔、賀茂祭で落馬!
今となっては昔のことだが、歌人の清原元輔(きよはらのもとすけ)が内蔵助(くらのすけ)になって、賀茂祭<※注1>の奉幣使を務めた折、都の一条大路を通った時に、殿上人(でんじょうびと)が牛車をたくさん並べて見物している前にさしかかったところ、元輔の馬はもの静かに行進せずに、しかるべき人々がご覧になっているのだからと思って、馬を鐙(あぶみ)で強く蹴ったため馬が狂ったように暴れ、元輔は落馬した。
年老いた者である元輔が頭を真っ逆さまにして落ちたのである!!
見物していた公達が「ああっ大変だ!」と見ていると、元輔はいとも素早く起き上がったのだが、冠<注2>が脱げてしまっていた・・・。
あらわになった頭には、髻(もとどり)が全くない。(シーン。。。)
まるで素焼きの瓶(かめ)をかぶったような頭だった・・・!!(つまりハゲていたのね。)
馬の口取をしていた従者がうろたえてあわてふためき、冠を拾ってかぶせようとするが、元輔はその冠を着けようとせず、後ろのほうにかきやって、
「ああ、騒がしい!しばし待て!公達に申し上げたいことがある!」
と言って、殿上人たちの牛車の前に歩み寄った。
日のさしたるに頭きらきらとして、いみじう見苦し。<原文そのまま>
(ちょうど日が射していたので頭がキラキラと光ってまことに見苦しい。)
大路の者は、人だかりをして笑いののしる事限りない。牛車に乗った者たちや桟敷席の人たちも笑いののしったが、元輔はその内のひとつの牛車の方に歩み寄って言った。
「君たち、この馬より落ちて冠を落としたのを愚か者と思われるのかな?それは思い違いというものですぞ。そのワケは、慎重で心用意のある人でも、物につまずいて倒れる事は常のことでしょう。まして馬は分別のあるものではない。この大路は実に石が出てゴツゴツしている。馬は口もとを手綱で引っぱられているために、歩こうと思っても思うように歩けない。そこをああ引きこう引きして、口取の男がぐるぐる引き回すから、どうしても倒れるようなことにもなるのだ。馬を悪いと思うべきではない。
唐風の鞍は皿のように平らで、鐙(あぶみ)には足を踏み掛けることもできない。しかもその上に、馬がひどくつまづいて私は落ちたのだ。それは悪いことではない。
また冠の落ちた事は、冠は紐などで結びつけておくものではなく、冠の巾子(こじ)の中にかきいれた髪で留めてあるわけだ。それなのに、私の頭の両側の毛が抜けてなくなってしまっているので、髻(もとどり)が全くない!だから冠が落ちても、冠を恨むべきではない!( ̄^ ̄)
~~~(略。以降、うんちくが続きます。/笑)~~~
されば、事情も存じ上げないこの頃の若い君たち!お笑いになるべきではありませんぞ。お笑いになるのはそれこそ愚かというものですぞ。」
と言って、牛車ごとに指を折って数えて言い聞かせる。
こんなふうに言い終わってから、「冠を持って来い」と言って、元輔は冠を受け取りかぶった。その時に、ドッと声があがってその場にいた者たちが一斉に爆笑した。
口取の従者曰く、「馬から落ちなされた直後に冠をかぶられずに、どうしてこんなどうでもよいことをおっしゃっておられるのです!?」と問えば、
「バカなことを言うな。こうして道理を言い聞かせてやったからこそ、この公達は後々にも笑わないだろう。さもなくば、口さがない公達はいつまでも笑い続けるだろうに。」と言った。
元輔は、折につけて人を笑わせることをする人物なのであった。
<『今昔物語集』巻第二十八と『宇治拾遺物語』巻第十三 より>
※ストーリーはほぼ同じです。
注1 賀茂祭(かもまつり)
賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)の祭り。葵祭(あおいまつり)のこと。
奉幣使一行の行列は華麗で多数の見物客が訪れた。
注2 冠(かんむり)
巾子(こじ)の中に髻(もとどり)を入れて、笄(こうがい)で留めることで、冠を着けます。
元輔さんは、髪の毛がなかったので、髻(もとどり)も当然なかったわけで…。落馬した際、冠がツルリと落ちてしまったのです。
(上の写真は、京都の風俗博物館で撮影。)
【参考】
「日本史大事典」 平凡社 発行
「平安時代史事典」 角田文衞 監修/角川書店 発行
【本文引用・参考】
「日本古典文学全集24 今昔物語集 4」 馬淵和夫・国東文磨・今野進 校注・訳者/小学館 発行
「新編日本古典文学全集50 宇治拾遺物語」 小林保治・増古和子 校注・訳者/小学館 発行
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清原元輔 (きよはらのもとすけ)
908年(延喜8年)~990年(永祚2年・正暦元年6月)
平安時代中期の官人・歌人。
歌人・清原深養父(ふかやぶ)の孫。清原春光の子。(一説によると深養父の子ともいう。)
『枕草子(まくらのそうし)』を書いた清少納言の父。
951年(天暦5年)、源順・大中臣能宣・坂上望城・紀時文とともに内裏の昭陽舎<梨壺>に設けられた撰和歌所(せんわかしょ)の寄人(よりうど)となり、初めて『万葉集』に訓点を付け、『後撰和歌集(ごせんわかしゅう)』を編纂する仕事に就いた。この仕事に携わった彼らを「梨壺の五人」という。
また、元輔は、高貴な身分であった藤原実頼・藤原師輔・源高明などの邸宅に出入りして、和歌を詠むこともあった。
『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)』以下の勅撰和歌集に107首入集し、家集『元輔集』を遺す。
百人一首では、以下の歌が収められている。
契りきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 波越さじとは
(決して心変わりはしないと約束しましたよね。互いに涙に濡れた袖をしぼりながら、どんなに波が荒れようとあの“末の松山”を波が越えることがないように、私たち二人の心も変わりますまい…と。)
従五位上肥後守に任ぜられ、都から遠く離れた熊本で990年6月に死去。83歳であった。
『今昔物語』では、此ノ元輔ハ、馴者ノ、物可咲ク云テ人咲ハスルヲ役トスル翁ニテナム有ケレ
(この元輔は世慣れた人物で、おかしなことを言って人を笑わせることばかりするおじいさんだった)
と書かれ、
また『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』では、人笑はする事役にするなりけり
(折につけて人を笑わせるようなことをよくする人物であった)と書かれるような陽気な人柄であったらしい。
⇒ 驚愕!笑激!?清原元輔、賀茂祭で落馬!
【参考】
「日本史大事典」 平凡社 発行
「平安時代史事典」 角田文衞 監修/角川書店 発行
【本文引用・参考】
「日本古典文学全集24 今昔物語集 4」 馬淵和夫・国東文磨・今野進 校注・訳者/小学館 発行
「新編日本古典文学全集50 宇治拾遺物語」 小林保治・増古和子 校注・訳者/小学館 発行