晴れのち平安

源氏物語を中心に平安な日々♪
※文章や写真の無断転載は禁止!

【京都】「女子宮廷装束の華」展③ 平安十二単

2022年06月24日 | 京都・風俗博物館

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2022年 5月、

京都産業大学 むすびわざ館2階 ギャラリー (京都市下京区中堂寺命婦町1-10)での企画展「女子宮廷装束の華」を見学した時のこと。

いただいたレジュメをもとに印象的だったものと自分で少し調べたことを加えて個人的な覚え書きとして記事に残しておきたいと思います。

 

 ①十二単の変遷

 ②十二単[唐衣裳]の構成 

 ③平安十二単  今ココ

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

 

十二単[唐衣裳]

レジュメでは「平安十二単」として展示されていましたが、「平安時代に作られた十二単を再現」されているのであって、言わずもがな平安時代の遺品ではありません。

現代になって作られた十二単です。

 

こちらの十二単では、小袖と長袴が濃色(こきいろ)なので若年で未婚の女性であることを示されていますね!

※濃色=濃い紅(くれない)の色の意味。紫に近くなります。

 

胸もとに注目!

濃小袖、単(ひとえ)、袿(うちき)[衣(きぬ)]、打衣(うちぎぬ)、表着(うわぎ)、裳(も)、唐衣(からぎぬ)、といった構成です。

 

十二単の成立は平安時代中期…10世紀後半頃?

重ね袿は華美となり20枚以上着用することもありました。

平安末期から鎌倉時代にかけて重ね袿を五領まで(=袿を重ねるのは5枚まで)とする「五衣(いつつぎぬ)の制」が定められたのだとか。

現在は「五衣(いつつぎぬ)」と呼ばれています。

 

 

以下の写真は、「女子宮廷装束の華」展で撮影した十二単にそれぞれの名称を私が文字入れしたものです。

つ、伝わるでしょうか…

 

 

「唐衣裳」「女房装束」…俗に「十二単」と呼ばれるこの姿。

「十二単」の「十二」は「たくさん」や「多い」といった意味だそう。

 

 

展示の個人的覚え書き

 ①十二単の変遷

 ②十二単[唐衣裳]の構成 

 ③平安十二単  今ココ

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

 


京都産業大学むすびわざ館2階 ギャラリー

 第25回企画展「女子宮廷装束の華」

 2022年 5月18日(月)~ 7月 9日(土)


 

 

 

 

 


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【京都】「女子宮廷装束の華」展 ② 十二単[唐衣裳(からぎぬも)]

2022年06月22日 | 京都・風俗博物館

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2022年 5月、

京都産業大学 むすびわざ館2階 ギャラリー (京都市下京区中堂寺命婦町1-10)での企画展「女子宮廷装束の華」を見学した時のこと。

いただいたレジュメをもとに印象的だったものと自分で少し調べたことを加えて個人的な覚え書きとして記事に残しておきたいと思います。

 

 ①十二単の変遷

 ②十二単[唐衣裳]の構成  今ココ

 ③平安十二単

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

ギャラリーのウインドウでは、十二単(じゅうにひとえ)[唐衣裳(からぎぬも)]の構成がわかる展示となっていました。

女性の宮中での正装はいわゆる「十二単」の名で親しまれていますが、正式な名称や誕生の経緯について不明とのこと。

平安時代には「女房装束」や「唐衣裳」などと記されていたものの正式名称ではないそうです

 

このブログ記事では「十二単」の名称で統一して書きたいと思います。

 

以下、十二単[唐衣裳」として展示されていた 長袴(ながばかま)、単(ひとえ)、五衣(いつつぎぬ)、打衣(うちぎぬ)、表着(うわぎ)、唐衣(からぎぬ)、裳(も)を簡単にご紹介。

 

長袴(ながばかま)

この袴の色は「濃色(こきいろ)」と呼ばれ、若年で未婚の女性が身に着けたとされています。

「濃色」とは濃い紅(くれない)の意味。紫色に近いです。

※既婚の場合は、紅の袴(くれないのはかま)。

 

単(ひとえ)

裏地のない衣類。寸法は袿(うちき)よりも大きくできています。

 

五衣(いつつぎぬ)

袿(うちき)を五領重ねた呼び方。

四季折々、季節に応じた五衣で表現される「かさねの色目」が楽しまれました。

 

五衣の裾あたりを撮ってみました。

このかさねの色目は「花橘(はなたちばな)かさね」で旧暦4月頃に着用するとされます。

緑の葉をつけ、白い花が咲き、橙色の実ができるという、1年を通じて橘を表現した色目。

 

打衣(うちぎぬ)・表着(うわぎ)

 

 打衣:砧で生地を打って光沢を出した袿のこと。儀式の際には必ず着用。

    展示されているこの打衣は濃色。

 表着:一番表側に着る衣(きぬ)のこと。

    展示されている表着は、鶴岡八幡宮の御神宝を参考に製作されたのだそうです。

 

唐衣(からぎぬ)

奈良時代の「背子(からぎぬ)」が変化したものといわれ十二単の一番上に着ます。

(余談ですが、むかしむかし私は唐衣の襟がどうなっているのか不思議でなりませんでした。襟を折って裏地を見せていると知って驚いたのでした。)

 

裳(も)

奈良時代の女官が着用した巻きスカートのような形の裙(も・うわも)が変化したもの。

裳は成人女性の象徴であり、女性の成人式にあたる儀式は「着裳(ちゃくも)」あるいは「裳着(もぎ)」と呼ばれました。

(巻きスカートのような形状だったのが、この形の裳になるのは本当に不思議です。)

 

 

裳と唐衣は目上の人に仕える際に身に着けるものです。

(『源氏物語絵巻』を見ますと、貴族の私邸での女房たちは唐衣を着用しないことはあっても裳はつけていたようです。)

 

 

展示の個人的覚え書き

 ①十二単の変遷

 ②十二単[唐衣裳]の構成  今ココ

 ③平安十二単

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

 


京都産業大学むすびわざ館2階 ギャラリー

 第25回企画展「女子宮廷装束の華」

 2022年 5月18日(月)~ 7月 9日(土)


 

 

 

 

 


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【京都】「女子宮廷装束の華」展 ① 十二単の変遷

2022年06月21日 | 京都・風俗博物館

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2022年 5月、

京都産業大学 むすびわざ館2階 ギャラリー (京都市下京区中堂寺命婦町1-10)での企画展「女子宮廷装束の華」を見学した時のこと。

いただいたレジュメをもとに印象的だったものと自分で少し調べたことを加えて個人的な覚え書きとして記事に残しておきたいと思います。

 

 ①十二単の変遷  今ココ

 ②十二単[唐衣裳]の構成 

 ③平安十二単

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

 

十二単の変遷

 

奈良時代

 ー大宝律令の完成、唐の文化を取り入れ日本の服制の大綱(たいこう)が確立ー

  養老の衣服令(いふくりょう)による女官礼服(らいふく)

大宝元年(701)成立の大宝律令を継承した養老2年(718)の衣服令によって定められて女官の礼服(らいふく)です。

男性の文官礼服と同様、毎年正月元日に行われた朝賀や即位式など限られて儀式でのみ着用。

礼服に対して、ふだん朝廷に出仕する際に着用する装束は朝服(ちょうふく)と呼ばれたそうです。

奈良時代から平安時代初期にかけては、最も中国風であった時代でした。

裙(も)は巻きスカートのようになっており、裙の下には褶(ひらみ・したも)をつけ、紕帯(そえおび)を締めています。

さらに肩には領巾[比礼](ひれ)をかけています。

 

 

平安時代

 ー遣唐使停止(894年)を機とした日本文化のめばえ 国風装束への変化ー

  公家女房、裙帯比礼(くんたい ひれ)の物具装束(もののぐ しょうぞく)

女房装束の晴れの姿はいわゆる十二単と呼ばれ、これが最高の服装のように思われていますが、さらに厳儀(げんぎ)の時には裙帯(くんたい)、領巾[比礼](ひれ)をつけ、髪を垂らした後、結い上げ、宝冠(ほうかん)をつけていました。

奈良時代の礼服の形を残したもので、これを物具装束(もののぐ しょうぞく)といいます。

 

 襪(しとうず)

 張袴(はりばかま)※多くは紅(くれない)の袴

 単(ひとえ)

 衣(きぬ)[袿(うちき)]

 打衣(うちぎぬ)

 表着(うわぎ)

 裳(も)

 唐衣(からぎぬ)

上記の通常の晴れの装いに、裙帯(くんたい)をつけ、比礼(ひれ)を肩にかけています。

※裙帯は奈良時代の紕帯(そえおび)の変化?

 

 

平安時代中期

 ー唐様(からよう)を変化させ日本独自の十二単の完成ー 

  公家女房 晴れの装い

平安時代に入り、服制も国風化が進むと、男性の装束と同様に女性の装束も奈良時代の朝服(ちょうふく)から和風に変化。

宮中における成人女性の正装であるこの姿は「女房装束」「唐衣裳」姿と記されていましたが、現在ではいわゆる「十二単」と呼ばれています。

 

 張袴(はりばかま)

  ※多くは紅(くれない)の袴。

  ※若年で未婚の場合は濃色(こきいろ=濃き紅)の袴を着用

 単(ひとえ)

 衣(きぬ)[袿(うちき)]

  ※後に「五衣(いつつぎぬ)の制」が定められ、重ね袿は五領までに。

 打衣(うちぎぬ)

 表着(うわぎ)

 裳(も)

 唐衣(からぎぬ)

 

 

江戸時代前期

 ー応仁の大乱以来の有職(ゆうそく)の乱れー

 儀式服と化した十二単、伝承の混乱

  江戸時代前期の正装の公家女房

室町時代の応仁の乱(1467~1478)の後、しきたりが不明に…。

この姿は桃山時代前後から天保14年(1843)、平安朝の裳再興までの姿。

裳には唐衣と共裂(ともぎれ)の刺繡入りの掛帯(かけおび)が用いられ、小腰(こごし)はありません。

この裳の下には纐纈(こうけち)の裳と呼ばれる裳がつけられていたもよう。

※纐纈(こうけち)の裳は享保7年(1722)の「御再興女房装束」の際に廃止。

 

 

(勉強不足過ぎて、よく理解できていません 視覚的に十二単の変遷がわかる展示でとても感動しました。)

 

 

 ①十二単の変遷  今ココ

 ②十二単[唐衣裳]の構成 

 ③平安十二単

 ④『源氏物語絵巻』で見られる直衣や唐衣

 

 


京都産業大学むすびわざ館2階 ギャラリー

 第25回企画展「女子宮廷装束の華」

 2022年 5月18日(月)~ 7月 9日(土)


 

 

 

 

 

 


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【平安あれこれ】紫式部の墓

2022年06月16日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

2022年 5月のこと。

 

京都市北区、北大路堀川の南にある紫式部と小野篁のお墓参りへ行きました。

 

堀川通に面して墓所の入り口があります。

整備され以前より雰囲気が明るくなりましたね✨

 

墓所 入り口

 

参道を進むと

高さ1メートルほどの土盛りがふたつ並び、それぞれ五輪塔があります。

西側が紫式部のお墓、東側が小野篁のお墓です。

 

紫式部墓

 

室町時代に四辻善成(よつつじのよしなり)によって著された『源氏物語』の注釈書『河海抄(かかいしょう)』

式部墓所在 雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり

という記述があるのだそうです。

 

室町時代には、紫式部と小野篁のお墓の場所について雲林院の塔頭 白毫院の南にあると伝わっていたのですね!

 

ちなみに

雲林院(うんりんいん・うりんいん)は、元は平安時代の淳和天皇の離宮「紫野院」と称し、のちに「雲林院」に改められ、かつては広大な境内を誇る天台宗の寺院でした。

「雲林院」は『源氏物語』にも登場しますがそれはまた別の機会に…。

今は廃寺となり往時のおもかげはありません。

(現在ある雲林院は、臨済宗の大徳寺の塔頭で名を継承再興したもの。)

 

小野相公墓(小野篁の墓)

小野篁は、野相公(やしょうこう) とも呼ばれた人物で平安時代前期の公卿。漢詩人。歌人。

 

紫式部が亡くなってから後に

『源氏物語』という壮大なフィクション(嘘・作り話)を書いた咎により紫式部は地獄に堕ちて苦しんだだろう、と考える人々が出てきました。

 

そこで、この世と冥界を行き来した小野篁が閻魔大王にとりなして、紫式部が救われたという伝説が生まれたようです。

そのため、紫式部と小野篁のお墓は並んでいるのだとか。

 

『人物叢書 紫式部』によると

 ”この塚について、民俗学者は院政期ごろから紫野には小野篁を祖先とする語部(かたりべ)の集団が住み、「紫式部」の名の関連から、式部と篁との塚を並べたものだろうといっている。おそらく真相はそれに近いだろう。

とあります。

 

実際に紫式部と小野篁が眠っているのか真偽はともあれ、現在までたくさんの方々がお参りして親しまれた様子がうかがえますね。合掌。

 

 

 

【参考】

一般社団法人 紫式部顕彰会 ホームページ

倉本一宏 著『紫式部と京都』 吉川弘文館 2014年

桜風舎 /らくたび 編・制作『源氏物語散策帖~ゆかりの地をめぐる~』 コトコト 2008年

文:坂井輝久/写真:井上匠『京都 紫式部のまち その生涯と『源氏物語』』 淡交社  2008年

今井源衛 著『人物叢書 紫式部』  吉川弘文館 1985年(新装版)

 

 

 

 

 

 

 

 


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【平安あれこれ】この世をば…藤原道長の邸宅「土御門第」跡

2022年06月12日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

2022年 5月のこと。

 

京都市上京区、廬山寺の南西にある清和院御門から京都御苑に入りました。

 

清和院御門を入ったあたり(京都迎賓館の南)から仙洞御所の北池を含む北半分あたりまでが藤原道長が所有した邸宅のひとつである「土御門第(つちみかどてい)」跡に相応するのだとか。

 

 

土御門第

土御門大路(上東門大路)の南、

近衛大路の北、

東京極大路の西

に位置していました。

 

道長の三女・威子が後一条天皇の中宮となった時にこの邸宅で行われた祝宴において道長は

「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることも無しと思へば」

という和歌を詠んでいます。

 

少し場所がわかりにくいですが、現在、京都迎賓館南側の道沿いに「土御門第跡」を示す駒札が設置されています。

 

駒札は設置後、過去に1~2度(?)新しくなったと思うのですが風雨に晒されてまた文字が見えづらくなりました💦

↓ 駒札より

 


  土御門第跡

平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、

拡充され南北二町に及び、上東門第、京極第などとも

呼ばれました。道長の長女彰子が一条天皇のお后となり、

里内裏である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる

皇子達も、誕生しました。「この世をば わが世とぞ思ふ

望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌は、この邸で

催された宴席で詠まれたといいます。


 

 

土御門第は

元々は、右大臣源重信の邸宅であったのを重信の姪である源倫子が伝領し、倫子の夫である道長の所有となったのだそうです。

※源重信ではなく、重信の兄で倫子の父である雅信の邸宅だったという説も。

 

 

道長と倫子の長女・彰子が土御門第で敦成親王(のちの後一条天皇)や敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産した時のことは『紫式部日記』に記されています。

 

 

ちなみに

藤原道長が晩年に東京極大路の東に建立した「法成寺(ほうじょうじ)」は「土御門第」の隣りでした。

 

 

 

【参考】

紫式部顕彰会 編纂『京都源氏物語地図』思文閣出版 2007年

大津通・池田尚隆 編『藤原道長事典』思文閣出版 2017年

倉本一宏 著『紫式部と京都』 吉川弘文館 2014年

 

 

 

 

 

  


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