※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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熊本に平安時代の歌人・清原元輔をたずねる>
清原元輔とは?>歌人・桧垣について
桧垣(檜垣)ヒガキについて
平安時代の筑前の遊女(あそびめ)で歌人。生没年不詳。承平・天慶(931~938)ごろ活躍か?その生涯は謎。
『大和物語』百二十六には、檜垣の御という人は大変様々なことに経験を積み、長い年月ずっとうらやましいほどの風流な生活をして世を過ごしていたが、藤原純友の乱の騒ぎに遭い、家も焼けほろび、いろいろな道具もみなとられてしまってみじめな様子になってしまった、と描かれている。
『後撰和歌集』雑三では 911年(延喜11年)に大宰大弐となった藤原興範(ただのり)と関わり、『大和物語』では 大宰大弐・小野好古と関わり、後人によって編纂された家集『檜垣嫗集』では
肥後守・清原元輔と関わっていることになっている。
しかし時代的には
『後撰和歌集』が自然であると考えられる。
年ふればわが黒髪も白河の
みづくはくむまで老いにけるかな
(後撰和歌集より)
(
年が経って私の黒かった髪は白くなり、白川の水を汲むまでに老いて落ちぶれてしまいました。)
『大和物語』での檜垣(なぎ のぶっとび訳)
百二十六 水汲む女
風流な生活をして世を過ごしていたにもかかわらず、藤原純友の乱に遭いみじめな暮らしぶりをしている檜垣を、大宰大弐・小野好古が討手の使いとして筑紫にお下りになった折に「檜垣の御といった人にどうにかして会いたいものだ。今はどこに住んでいるのだろう。」とおっしゃった。
「ああ、このような純友の乱の騒ぎでどうなってしまったのだろう。檜垣の御をぜひ訪ねてみたいものだ。」とおっしゃった時に、頭髪の白い老婆が水を汲んでいた…老婆は小野好古の前を通り過ぎてみすぼらしい家に入っていった。
ある人が「これが檜垣の御です。」と言った。
小野好古はたいそう気の毒にお思いになって、人を遣って呼ばせたが、檜垣の御は恥ずかしがって出て来ないで、このように言っていた。
むばたまのわが黒髪は白川の
みづはくむまでなりにけるかな
(
私の黒かった髪は白くなり、白川の水を汲むまでに落ちぶれてしまいました)
と詠んだので、しみじみと気の毒におもって、小野好古は自分が着ていた衵(あこめ)を一かさね脱いで檜垣にあげたのだった。
百二十七 くれなゐの声
また、檜垣の御に、大宰大弐の館で、秋の紅葉を詠ませたら
鹿の音はいくらばかりのくれなゐぞ
ふりいづるからに山のそむらむ
(
鹿の鳴き声には、どれほどの紅(くれない)がふくまれているのでしょう。鹿が声高くして鳴くにつれて、山が紅に染まるようです)
百二十八 さを鹿
この檜垣の御、歌を詠むというので、風流な人たちが集まって、読みにくそうな下の句をつけさせようとして、このように言った。
わたづみのなかにぞ立てるさを鹿は
(
海の中に立っている鹿は・・・)
といって、下の句を付けさせると
秋の山べやそこに見ゆらむ
(
秋の山がその海に映って見えるのでしょうか)
と付けたのだった。
百二十七段・百二十八段は、檜垣が活躍していた頃のお話です。
檜垣は、機知に富んだ歌を詠む女性として描かれていますね♪
『大和物語』は、平安中期頃に成立した歌語り説話集です。成立年・作者ともにはっきりしていません。
『後撰和歌集』までの歌人の歌を中心とした歌物語や民間に伝わる歌語り説話が集められており、約300首の和歌を収録。百七十三段からなっています。
【参考と和歌引用】
「新編日本古典文学全集12
竹取物語 伊勢物語 大和物語 平中物語」 大和物語…高橋正治 校注・訳者/小学館 発行
【参考】
「[要点の学習] 日本文学史 修訂版」 橋本吉弘・岩倉邦雄 著者/中央図書 発行
「日本史大事典」 平凡社 発行