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晴れのち平安

源氏物語を中心に平安な日々♪
※文章や写真の無断転載は禁止!

【サイトからブログへ移動しました】 花橘亭~なぎの旅行記~ PICK UP

2019年01月28日 | 「PICK UP」から移動




ブログ「晴れのち平安」へようこそ!

当ブログのカテゴリー「PICK UP」から移動 は私がかつて運営していたwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内のコンテンツ「PICK UP」で紹介していた内容をブログ記事へ移動させたものです。
(webサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』と「PICK UP」はともにホームページサービス終了により閲覧不可能となりました。)


私が今まで訪れた地の歴史や伝承のうち特に興味のある場所をおおまかな時代順にご紹介しています。
以下、ブログ「晴れのち平安」での各ページへのリンクです。


★ 「金印」出土の志賀島と志賀海神社 <福岡市東区>

★ 斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿 <福岡県朝倉市>

★ 水城と大宰府 <福岡県太宰府市>

★ 古代の迎賓館 鴻臚館 <福岡市中央区>

★ 河原左大臣 源融を祀る 融神社 <滋賀県大津市>

★ 藤原高藤と宮道列子のロマンスの地 山科 <京都市山科区>

★ 『東風吹かば…』飛梅伝説を追え! <京都市・福岡県太宰府市>

★ 熊本に平安時代の歌人・清原元輔をたずねる <熊本市西区・熊本市中央区>

★ 『源氏物語』光源氏の邸宅「六条院」を歩く <京都市下京区>

★ 『源氏物語』ちはやぶる金の岬 織幡神社 <福岡県宗像市>

 


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【PICK UP】 『源氏物語』ちはやぶる金の岬 織幡神社 <福岡県宗像市>

2019年01月28日 | 「PICK UP」から移動

※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2013年)
ホームページサービス終了により当ブログへ移動しました。


 『源氏物語』ちはやぶる金の岬
 織幡神社

●所在地 :福岡県宗像市鐘崎224




『源氏物語』<玉鬘>に、玉鬘と乳母(めのと)たちが船旅で都から大宰府へ下る場面において、次のような一文があります。

 金の岬過ぎて、「われは忘れず」など、世とともの言種になりて、かしこに到り着きては、まいて遥かなるほどを思ひやりて、恋ひ泣きて、この君をかしづきものにて、明かし暮らす。


【現代語訳】
 金の岬を過ぎても、「我は忘れず」などと、明けても暮れても口ぐせになって、あちらに到着してからは、まして遠くに来てしまったことを思いやって、恋い慕い泣いては、この姫君を大切にお世話申して、明かし暮らしている。


【本文と訳はwebサイト『源氏物語の世界』より引用】


この君(この姫君)とは、夕顔の娘である玉鬘のことです。
乳母たちは夕顔亡きあと、形見である玉鬘を大切な主人としてお世話したのでした。



金の岬(かねのみさき)=鐘の岬

  福岡県宗像市鐘崎(かねざき)にある岬。
  筑前国の歌枕。
  鐘の岬の沖に地島や大島があります。
  潮流が激しく船旅の難所でした。


「我は忘れず」
  夕顔のことをいつまでも忘れまい、という意。
  万葉集に詠まれた以下の歌を踏まえています。


 ちはやぶる 金の岬を 過ぎぬとも
  我は忘れじ 志賀の皇神(すめがみ)


   万葉集 巻七


“荒海を無事通過したとて海神を忘れまい”という内容です。




 これからご紹介する織幡神社(おりはたじんじゃ)は、金の岬(=鐘の岬)にある佐屋形山の山頂に鎮座しており、歌に詠まれている志賀大神(しかおおかみ)も祀られています。

※万葉集に詠まれている「志賀の皇神」は志賀島にある志賀海神社の祭神という説もあります。
※「ちはやぶる 金の御崎を 過ぎぬとも~」の歌碑は志賀海神社と宗像大社の境内にそれぞれあります。



 創作(フィクション)とはいえ、『源氏物語』において玉鬘と乳母たちが手漕ぎの船に乗って、鐘の岬を見ながら船旅の安全を神に祈り、海路を進んだことを思い描くと胸が熱くなります。




 織幡神社は、宗像大社の境外摂社で「織幡宮(おりはたぐう)」ともいわれます。
 平安時代に編纂された『延喜式』では、宗像大社に次ぐ神社として記録されている格式高い神社です。



潮騒が聞こえる中、参道の階段をすすみます。



拝殿



横から見た拝殿と本殿


<御祭神>
 武内大臣  (たけしうちのおおおみ)
 住吉大神  (すみよしおおかみ)
 志賀大神  (しかおおかみ)
 天照大神  (あまてらすおおかみ)
 宗像大神  (むなかたおおかみ)
 八幡大神  (はちまんおおかみ)
 壱岐真根子臣(いきのまねこのおみ)


主祭神の武内大臣は、武内宿禰のこと。

 織幡宮は武人、武内宿禰を鎮護国家の備えとして、交通要衝 鐘崎に祀ったといわれています。
(境内の由緒書より)





沓塚(くつづか)
 武内宿禰公が両沓を残して昇天されたといいます。その沓が織幡多神社境内に祀られています。





参道沿いにある巨石。鐘崎には海の向こうから来た釣鐘が海中に沈んでいるという「沈鐘」伝説があります。
大正8年に引き揚げたところ、釣鐘ではなく巨大な石だったのだとか。





参道沿いにある「筑前鐘崎海女の像」。鐘崎は西日本の海女発祥の地として知られています。





【参考にさせていただいた本・パンフレット】
・『源氏物語の鑑賞と基礎知識』12玉鬘    監修:鈴木一雄 編集:平田喜雄 発行:至文堂
・『続・源氏物語紀行』            著 :鈴木幸子 発行:創英社 発売:三省堂書店
・『新編日本古典文学全集』22 源氏物語 3 校注・訳:阿部秋生 秋山虔 今井源衛 鈴木日出男 発行:小学館
・『人物で読む「源氏物語」第13巻 玉鬘』  監修:室伏信助 編集:上原作和 発行:勉誠出版
・「神郡宗像 摂末社めぐり」1 織幡神社   発行:宗像大社



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【PICK UP】 熊本に平安時代の歌人・清原元輔をたずねる 藤崎宮の清原元輔歌碑

2018年12月23日 | 「PICK UP」から移動

※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
ホームページサービス終了により当ブログへ移動しました。





 熊本に平安時代の歌人・清原元輔をたずねる

 藤崎八旛宮
 清原元輔 歌碑


●所在地:熊本市中央区井川渕3-1
●交通 :市営バス「藤崎宮前」下車 徒歩5分/市電「水道町」下車 徒歩15分




藤崎八旛宮(ふじさきはちまんぐう) 楼門
藤崎宮(ふじさきぐう)とも呼ばれます。


藤崎宮の回廊の外、北側に清原元輔の歌碑があります。



<案内より>

清原元輔歌碑

 元輔は、寛和二年(986)京都から肥後守として着任し、永祚二年(990)まで肥後の国府(現在の二本木町)で政務を執った
 ある年の正月、今の藤崎台球場の地にあった藤崎宮で「子の日の松」の行事を催し、この歌を詠んだので、それにちなんでこの歌碑が建てられた
 書は藤崎宮 宮司 吉永千秋である。元輔は枕草子の作者、清少納言の父で、元輔を祀った清原神社は、横手町北岡にある。

  藤崎の軒の巌に生ふる松
     いま幾千代の子の日過ぐさむ



≪熊本市≫



※かつて藤崎宮があった「藤崎台球場」は現在の熊本城公園内にあります。



 「子(ね)の日の松」の行事とは・・・

 正月初めの子(ね)の日に、人々が野外に出て若菜を摘んだり、小松を引いたりして宴を催し、邪気を払い長寿を祝う行事。この日に丘や山に登って四方を望むと陰陽の精気を得て煩悩を除くという思想に基づく。松は延寿・若菜は邪気を払う意味がある。(源氏物語必携事典・角川書店より)


風俗博物館の過去の展示で「子(ね)の日の小松引き」があったのでその時の写真を以下に掲載します。


小松引きをする女童たち


小松を手にしています




【参考】
・『平安時代史事典』  角田文衞 監修/角川書店 発行
・『日本史大事典』   平凡社 発行
・新編日本古典文学全集50『宇治拾遺物語』 小林保治・増古和子 校注・訳者/小学館 発行
・『カラー小倉百人一首』島津忠夫・櫟原聰 編著/京都書房 発行
・『源氏物語必携事典』 秋山虔・室伏信助 編集/角川書店 発行
・『最新詳解古語辞典』 佐藤定義 編者/明治書院 発行



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【PICK UP】 熊本に平安時代の歌人・清原元輔をたずねる 清原神社

2018年12月22日 | 「PICK UP」から移動

※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
ホームページサービス終了により当ブログへ移動しました。





 熊本に平安時代の歌人・清原元輔をたずねる

 清少納言の父・清原元輔は平安時代の歌人です。
熊本県熊本市に元輔を祀る神社や元輔の歌碑があると知り、2004年に訪ねました。
その時の簡単なレポです。



 熊本で亡くなった清原元輔を祀る
 清原神社

●所在地:熊本市西区春日1丁目6-33(北岡神社の北)
●交通 :JR「熊本」駅下車 徒歩15分/市電「祇園橋」下車 徒歩5分






<案内より>

清原神社

 清原元輔は、肥後の国司として寛和二年(986)から正暦元年(990)までの間肥後を治めていました。清少納言の父でもあり、三十六歌仙に数えられるほどの歌人でまた当時の肥後の歌人桧垣とも交流があったと伝えられており、鼓ケ滝や藤崎宮の歌等が家集に残っています。正暦元年に亡くなったときは八十三才でした。

≪平成十年九月 熊本市≫




清原神社 遠景

住宅地の中にある小さな神社です。
入口には「清原神社」と書かれた看板が塀に掲げてありました。
(写真右側に鳥居が見えます。)




清原神社の鳥居・扁額




お社

中に数体の神像が鎮座していました。
男性の神像はご祭神の清原元輔?

女性の神像のひとつは肥後で交流があったという桧垣なのでしょうか?




次の記事では、熊本市の藤崎宮にある清原元輔の歌碑をご紹介します。


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【PICK UP】 清少納言とは?

2018年12月22日 | 「PICK UP」から移動

※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
ホームページサービス終了により当ブログへ移動しました。




清少納言(せいしょうなごん)
966年(康保3年)頃~?

 平安時代中期の女流歌人。

清原元輔の娘。清原深養父(ふかやぶ)<曾祖父。祖父とも>、元輔と二代続いた名高いの歌人の家に生まれる。
 橘則光と結婚、則長を天元5年(982年)に産み、則光とは離別。

 正暦4年(993年)頃、中関白藤原道隆の娘・定子<一条天皇中宮・のちに皇后>に出仕。常に上臈女房とともに中宮定子の側近として仕えた。
 定子が亡くなった長保二年(1000年)以降の動向については、いつ宮仕えを辞したか、その後何人と結婚したかなど、問題が多く謎である。
 その中で、摂津守藤原棟世と結婚し、上東門院彰子に出仕した小馬命婦を儲けたことが確かである。
 
 性格は、打てば響くような才気があり明朗快活。美しいものに敏感で感性豊かであった。宮中出仕時代を中心に著した『枕草子』が有名。
 歌人としては、『清少納言集』の遺す。


『百人一首』に収められている歌は、以下の歌。

   夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも
    よに逢坂の 関はゆるさじ


まだ夜深いうちに、ニワトリの鳴き声を真似てだまそうとしても「逢坂(おうさか)の関」はそう簡単に開きませんよ!私は決して貴方に逢いませんからっ!

 中国の『史記』をふまえた歌。昔、孟嘗君(もうしょうくん)という人が捕らえられた時、同行の人に鶏の鳴きまねをさせると、門番がだまされて夜中にもかかわらず関所の門が開けられたので逃亡した、という故事がある。それを踏まえて詠んだ歌。





 清原元輔の娘
 清少納言から見た父像


 『枕草子』第九十五段の一部より

 一条天皇の中宮 定子様から清少納言に和歌を詠むよううながされて・・・

 「~<略>~ いといかがかは、文字の数知らず、春は冬の歌、秋は梅、花の歌などをよむやうははべらむ。なれど、歌よむと言はれし末々は、すこし人よりまさりて、『そのをりの歌は、これこそありけれ。さは言へど、それが子なれば』など言はればこそ、かひある心地もしはべらめ。つゆとりわきたる方もなくて、さすがに歌がましう、われはと思へるさまに、最初に詠み出ではべらむ、亡き人のためにも、いとほしうはべる」と、まめやかに敬す~(略)~」


「わたくしは、歌は三十一字で詠むものと知っておりますし、春に冬の歌を詠んだり、秋に梅の花の歌を詠んだりはいたしませんわ。けれども、私の先祖は歌人の家系と言われた者ですから、少しは人より優れた歌を詠んで『その時の歌は、これこそ見事な出来だった!さすがは清原の家の子だけのことはある!』などと言われればこそ、歌を詠む甲斐もある心地がいたします。
それが少しも優れたところがないのに、それでもいかにも歌のつもりでわたくしこそはと思い最初に歌を詠むのは、亡き父・清原元輔のためにも大変申し訳ないことです」とまじめに申し上げる




この後、中宮様はお笑いになって「それなら好きなようにになさい。もう無理に歌を詠めとは言わないわ。」とおっしゃた。







 『枕草子』には、上記のようなエピソードがあります。
 清少納言にとって、清原の家が歌人の家であること、清原元輔の子であることは、少なからずプレッシャーでもあったようです。
 このエピソードには、こんな続きがあります。




 『枕草子』第九十五段つづきのエピソード一部

中宮様はちょっとしたお手紙を書いて、清少納言に投げてお下げ渡しになった。
見るとそこには一首の歌が書かれてあった・・・。

   元輔が 後といはるる君しもや 
    今宵の歌に はづれてはをる


歌詠みの元輔の子と言われる清少納言が、今宵の歌に加わらないでかしこまって控えているの?


清少納言は、中宮様にこう申し上げるのだった。

  その人の 後といはれぬ 身なりせば
       今宵の歌を まづぞよままし

 つつむ事さぶらはずは、千の歌なりと、これよりなむ出でまうで来まし」
と啓しつ。


「もしも私がだれそれの子と言われない身でしたら、今宵の歌を真っ先に詠むことでございましょうに!!
 父・元輔に遠慮する事がございませんなら、千首の歌でも、こちらから進んで出て詠むことでございましょう♪」と申し上げた。





 定子とのやりとりが微笑ましいです。





【原文引用・訳 参考】
「新編日本古典文学全集18 枕草子」  松尾聰・永井和子 校注・訳者/小学館 発行

【参考】
「ビキナーズ・クラッシックス 枕草子」 角川書店 発行
「平安時代史事典」  角田文衞 監修/角川書店 発行


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