2020年1月2日(木)
竜石山は伊奢能麻和迦王の陵墓であり、お墓は兵庫県神崎郡市川町にある。
第15代 応神天皇の没年は、ウィキペディアでは西暦310年で,、第16代 仁徳天皇の没年は西暦399年となっています。
どう考えても計算があいませんね。 無理があります。
応神天皇と仁徳天皇の間にもう一人、天皇がいてたようです。
滋賀県近江八幡市安土町に「竜石山」がありますが、地理院地図のコンターラインからみてこの山は、墳長380~400mほどの前方後円墳です。
以前私は、応神天皇と仁徳天皇の間には一人の人物が存在していて、その謎の人物の父が応神天皇で子供が仁徳天皇だと教えられ、その三人のお墓に行かされました。
その三人のお墓の位置は、綺麗な二等辺三角形を描くように配置されていました。
応神天皇陵は堺ですが、本当の応神天皇の墓は神河町にありました。
応神天皇には沢山の妻と子供たちがいてたのですが、その中で王権を譲り受けた子供の墓が、兵庫県神崎郡市川町に 在りました。
そして仁徳天皇の墓は、兵庫県神崎郡福崎町に在りました。
応神天皇の子供で去來眞稚皇子(イザサノマワカノミコ)・・日本書記
応神天皇の子供で伊奢能麻和迦王(イザノマワカノミコ)・・古事記
葛城の野伊呂売(ノノイロメ)を娶して生みましし御子、伊奢能麻和迦王(イザノマワカノミコ)。一柱。この天皇の御子等、并せて廿六王。男王十一、女王十五。この中に大雀命(オホサザキノミコト)は、天の下治らしめしき。
下の図の応神天皇の子供の墓は、伊奢能麻和迦王の墓である。
そこから応神天皇の墓までと仁徳天皇の墓までは、共に4.4㎞と同距離です。
このことは、応神天皇、伊奢能麻和迦王、仁徳天皇が親子三代を意味しています。
仁徳天皇陵から伊奢能麻和迦王の陵墓(竜石山)までの距離と仁徳天皇の墓までは、共に86.88㎞とピッタリと同距離です。
このことは、仁徳天皇の父親であることを意味しています。
又、履中天皇陵から、伊奢能麻和迦王の陵墓(竜石山)までの距離と伊奢能麻和迦王の墓までは、共に88.13㎞と同距離です。
これはどう考えるのでしょう。近くにもう一つお墓がありそうですが・・。
そして堺市にある仁徳天皇陵と土塔は、仁徳天皇の故郷を信太の森にある聖神社だと教えていましたが、履中天皇陵も同じ聖神社に向けて造られています。
何か大いにいろいろ事情がありそうですねぇこれは・・。