2019年9月13日(木)
「明日、広渡廃寺跡へ行ってきます」と7日(土)のセミナーの時に皆さんに私は伝えました。
それは、「絶対に先延ばしにしません、明日行きます!」という神様へのコミットメントでした。
先日のセミナーは、完全に話す、話している・・その内容は、今までとは話しながら自分で気付くほど違っていました。
誰かが私の口を使って喋っているような感覚でした。
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それで・・、「市川さん、一緒に行きませんか」と古代史研究家の市川慎さんを誘って行くことにしました。
カーナビに電話番号を入力して広渡廃寺跡へと行きました。
だんだん近づくと、「あれ~~!? よく来ていた記憶にある風景だな~~!???」と思いきや、よく来ていた生乳検査所の真ん前なのでビックリもビックリした私でした。
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それにしても、猛暑でしたぁ。
あまりにもの暑さなので、市川先生には冷房の効いた展示館に残っていただいて、ジリジリと焼きつけるような暑さの中を一人で歩いて廻りました。
建物は無くても、残された礎石から確実に読み取れるものがあります。
私が知りたかったのは、建物の角度でした。
わくわくしてコンパスグラスを覗く私でした。
建物は朽ちて消えても、礎石があれば先人の思いはそこにキッチリと残されているものなのです。
歴史の真実を解き明かすには、現地現場に残された証拠の数々を自分の目で確かめ、その点と点を繋いでいく地道な作業を欠かすことはできません。
んん~~ん、不思議です。
この不思議な歴史探索の前までは、岐阜から熊本までの広範囲で、酪農家の数にして40軒ほどで牛の数にして2000頭ほどを使っての10日に一回の乳質検査のデータの収集に明け暮れていました。
「なんで私が酪農の現場廻りをしているのだろう??」と。
私は建築を30年ほどやっていて、「シックハウス症候群(化学物質過敏症)」の探求から、気が付けば私のフィールドは酪農の現場にありました。
牛さんと共にありました。 それは、「水と生態」の探求でした。
私から求めたのでなく、目に見えない何者かに操られていたとしか思いません。
古代史の探求も私から求めたものでもありませんでした。
私の人生を振り返ると、どうも最初から何者かに操られているようです。
その節目を思わせる、思い出させる広渡廃寺跡でした。
いよいよまた、次のステージへの転換点に来たような予感です。
西塔の礎石には穴が掘られていましたが、東塔の礎石には穴は在りませんでした。
このことが教えることは、おそらく・・、三重塔が東西にあるのは、デザイン的なものであって、他の場所との基点となるのは西塔の位置だと聞こえてきます。
〇田さん、昨日の勉強会は楽しかったですねぇ。又、教えてくださいね!