2017年5月24日(水)
私は、桓武天皇という素晴らしい天皇がこの世に居られたことに深く感謝いたします。
そして桓武天皇を支えた素晴らしい仲間達。 和気清麻呂、行基、最澄、・・そして空海さま。 なんと素晴らしい人達が居られたのでしょう。
私は、日本人としてこの国に生まれ、そして今、この国に生かされていることに誇りと感動を覚えます。
桓武天皇は、自分の亡骸を秘密裏に人里離れた山の中に安置するように、生前、遺言していたのですね。
「私の遺体は、高雄山の山頂に埋めてくれ」・・と。
桓武天皇は生前、交野山(こうのやま)(大阪府交野市)から2度も北に向かって祈ったと言われています。
交野山には、立派で見事な磐座がありますが、ここからコンパスグラスで、磁北(0°)に位置するところが、高雄山です。
もう桓武天皇はこの場所から、自分が眠りにつく場所とその時を思い浮かべていたことでしょう。
そしてその場所には、大きな丸い石に立派な字体で梵字の「阿」が刻まれていました。
これらのことも空海さまも全てご存じでしたね。
空海さまは高野山を開いた後、毎月月に一度、奈良県吉野郡野迫川村池津川荒神岳347にある、荒神社(立里荒神)に行ったと言われています。
この不思議な物語の最初の頃、もう5,6年も前のことですが、荒神社に行ってこのことを聞かされた時、不思議に思っていました。
高野山からかなり時間もかかる山の中にどうして・・、と思っていましたが、やっと謎が解けました。
この荒神社から真北に位置するところが、神護寺がある京都の高雄山です。
ここには、和気清麻呂の墓もあります。
空海さまが、遣唐使船で長安に渡り、留学僧は20年間帰国できないにも関わらす、2年数か月で戻ってきました。
そして、彼は京の都に上がるまで、九州の太宰府庁に隣接した観世音寺に身を寄せていたということになっていますが、これもそうではありません。(このことは何れ機会にかきます)
でも、公けに京に上がって最初に住まったのが、高雄山寺でした。
高雄山には、和気清麻呂と桓武天皇の墓があるわけですから、当然のことです。
空海さまは、公けに高雄山に入るまでも、内々に何度もお墓参りに来ていたことでしょう。
そして空海さまが高野山を開かれたことも、それから月に一度は、高雄山の真南に位置する荒神社の山に登って、真北に向かってお祈りをされたのでしょう。
なんと、高雄山(428,4m)から荒神社(1242m)までは丁度100㎞で、この南北ラインに対して、高雄山から直角に西へ92㎞行ったところに、あのイエス・キリストの最期の場所と、イエスの遺体を入れた陵墓を教える十字架の山の交点の三点で直角三角形を描きます。
ここまでくれば、偶然という言葉は一切使えません。
もうこれは高度で緻密な計画の上での所作のなにものでもありません。
ですから・・、「かごめかごめ」の唄と、「とうりゃんせ」を世に残し、いつの日か必ずこの国の本当の歴史が表にでるように仕組んだ、桓武天皇、和気清麻呂、最澄、空海さま達の凄さと素晴らしさが心に響き渡ります。
桓武天皇陵がある伏見桃山城は、京都市伏見区桃山町にありますが、この丘から、桓武天皇の墓である428,4mの高雄山を見通すことができます。遮る山はありません。
・・そのことから、伏見桃山城は、桓武天皇を遥拝する場所であることが分かります。 そしてその城は、神河町にあるイエス・キリストの墓に向けて造られていました。
これらのことを心して、27日は応神天皇の故郷と、神護寺への巡礼ツアーに出かけます。