ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

「混ぜるということ」

2008-03-08 20:47:23 | ときのまにまに
今朝の朝日新聞に青山学院大学の福岡伸一教授が「混ぜる」ということについて、興味深い文章を書いておられた。ご専門は分子生物学ということであるが、それとはあまり関係ない。京都嵐山吉兆の徳岡邦夫総料理長の「練り物は料理としては本来ごまかしなのです」という言葉を紹介しておられた。前後関係を抜きにして、いきなりこの言葉を紹介することは失礼なので、すこし前後関係を添えると、まず「蓮根で作られたつくね汁の精妙な味に感心してそれを言うと、徳岡氏ははばかるようにこう返したという言葉である。福岡教授はこの言葉に刺激されて、その後いろいろなことに,この言葉が引っかかる。たとえば、狂牛病禍、食品偽装、毒ギョーザ、再生紙偽装、サブプライム問題等々である。非常に面白い指摘である。福岡教授の言うとおり、「何か混ぜ合わせることは、まず第1にプロセスを見えないもの、触れられないものに変えてしまう」。この指摘は正しい。確かに、混ぜられてしまったものは、元々の形や分量の比率は、記録がなければ確認できない。「第2に、ひとたび混合すれば、無秩序=エントロピーが飛躍的に増大する」。これもその通りである。しかし、確かに「しかし」である。現実にわたしたちの生活を維持するために必要なもので「混ぜ合わせていないもの」はどれだけあるのだろうか。むしろ、人間の技術文化は混ぜ合わせることによって新しい物質を産み出してきたのである。それは、果たして徳岡さんの言う「ごまかし」なのだろうか。
これをきっかけにして、わたし自身は、なぜ徳岡氏は「練り物はごまかし」と言ったのだろうかということを考えた。料理におけるごまかしとは、どういうことなのか。たとえば、蒲鉾はごまかしなのだろうか。そうではないだろう。むしろ、リンゴでも、ミカンでも、イチゴでも、別種のものを混ぜ合わせる(掛け合わせる)ことによって、野生のものと比べることができないほど美味しいものに変えて、わたしたちを楽しませているのではなかろうか。日本料理の達人徳岡さんの言葉は、自然界が与えてくれる「美味しいもの」には、人間の料理技術は太刀打ちできない、という謙遜な態度が感じられる。

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